どこまでもどこまでも、暗い道を走り続ける。どうして走っているのかも覚えていないまま藻掻くように走る。ただひたすらに焦燥だけが胸を焦がす。
泥の中にいるかのように、ゆっくりとしか動かない体はここが現実ではないことを教えてくれる。しかし、これは何なのかという明確な答えを提示しているわけでもない。ぼんやりとした思考を打ち切って走ることだけに集中した。
意識がゆらゆらと覚束なくなる。視界が揺れて、パっと場面が切り替わる。
午後のゆったりとした日差しが、目の前の少女を照らしている。縁側に腰かけた少女は伽藍洞の瞳で虚空を見つめる。後頭部の蝶の髪飾りだけが嫌に鮮やかに映った。
「しのぶ?」
勝手に自分の口から零れだそうとした言葉は、何かに阻害されたのか音に成れずに消えた。
またまた視界が揺れだして、やはり場面が切り替わる。
街だ。清廉な空気の朝、誰も居ない街の一角。とある通りのど真ん中。ぼんやりと靄のかかった頭が既視感を訴えてくる。くるりと後ろを振り返ると少女が立っていた。一日たりとも忘れたことのないその顔は怖ろしいほどに無機質で、やはり瞳は伽藍洞。
「しのぶ・・・」
またしても声が出ない。喉の奥から空気が勢いよく吐き出されるだけである。
「しのぶ・・」
それでも何かを言いたくて口を開くけれど、目の前のしのぶに届かない。しかし突然、無機質だったしのぶの表情にどんどん熱が加わりだした。綺麗な紫の目から涙があふれ、目尻は吊り上がる。ギッと噛みしめられた口元から目が離せない。これから何か決定的なことを言われる気がしてならない。
ゆっくりとしのぶの口が動いた。
「——たの、あなたのせいよ・・・・」
声は聞こえなかった。けれどそう言っているのだと確信・・・したところで千晴の意識が音を立てて弾けた。
「———ゆめ、まただ」
ぼんやりと薄暗い天井を目にしながらの呟きは、今度こそ音となって千晴の耳に届いた。
「またか」
寝起きで濁音混じりの声をこぼすものの、実は「またか」どころで済む話ではないのだ。千晴がこの二年ほど、毎夜繰り返して見る夢であった。
「夢で見なくたって・・・忘れないのに」
「・・・それに」
———しのぶはきっとあんなことを言わない。
全て私が無意識に作り上げた幻だ。
自身を正面から責めるその夢が、己の恐怖を体現するその姿が、しのぶを貶めているようで千晴は嫌いだった。
幻の残滓を追い出すようにきつく目を瞑る。こういう時、決まって瞼の裏に映し出されるのは亡き花柱の姿でもしのぶの姿でもなかった。
しのぶに背を向けた後、ひたすらに駆け続けた道のりだった。涙でぼやけていても朝日が照らす静謐な街並みが美しかったのをよく覚えている。
あの日全てに背を向けて逃げ出した千晴は、いつの間にか見知らぬ街にたどり着いていた。そのまま安い宿に泊まって数日間薄暗い部屋の隅で蹲り続けた。古い畳のかび臭いにおいも、鳴り続ける腹の虫も、すべて無視して自分の殻に閉じこもったのだ。
あえて金のかからない藤の家紋の家に行かなかったのは、きっと少しでも現実から目をそらしたかったからだろう。
締め切った部屋で蹲り続けるうちに、花柱の葬儀が終わったことを鎹烏から聞いた。恩人・・・と言うべき人の葬儀にも出ない自分が本当に救いようのないものに思えた。
それと同時に、しのぶには、蝶屋敷の人たちにはもう会えないと思った。合わせる顔なんてどこにもなかった。
それから今日まで千晴は蝶屋敷に顔を出していない。
多かったしのぶとの合同任務も御屋形様に手紙を出して組まないようにしてもらった。主要な任地も変更してもらって、蝶屋敷から離れた場所で活動してきた。
本当にすべて投げ出したのだ。
だから今でも千晴の中のしのぶはあの日のままの姿をしている。決して柔らかくない目元に純粋さを残した大きな目、ややきつく結ばれた口元。しっかり者でも幼さを残した———決して忘れえぬ少女の姿だ。
閉じていた瞼を解放してもしのぶの姿は脳裏に焼き付いたままだった。影法師のようにしのぶの姿を幻視しながら、ふすまから漏れる外の光を眺めた。
「ふうっ」
息を一つ吐き出して、むくりと起き上がる。
布団に散らばっていた髪が、さらりと千晴の背中を浴衣越しに覆った。それにしても、ずいぶんとまあ伸びたものだ。艶の足りない髪をなぜてひとり呟く。
肩口までしかなかった髪が背中の中ほどまで伸びる時間があったのだ、当然変化は髪の長さだけにとどまらない。体つきは女のものへ、その瑞々しい躰には無数の傷跡が・・・・。変わらないのはただ、千晴の記憶だけというのが寂しかった。
布団を畳んで身支度を整えた千晴が部屋を出ると、見計らったかのようにこの屋敷の主人が朝食を準備してくれていた。
ホカホカのご飯に出汁のきいた味噌汁、焼き魚は絶妙な塩加減で箸が進む。昨夜泊まったのは千晴だけのようで、食事に通された部屋で一人黙々と食べ進めた。
「お茶のおかわりでございます」
「ん、ありがとうございます」
屋敷の主人である小柄な老女———ひささんはいつも部屋の隅でちょこんと座っていて、千晴がお茶やご飯のおかわりが欲しいと思うと同時に、こうして持ってきてくれるのだ。その気遣いは絶妙で人の心が読めるのではないかと疑っているほどだ。
ひさがこうやって世話を焼いてくれるところや、小さな体一つでこの屋敷を切り盛りしている姿は千晴に蝶屋敷の娘たちを思い起こさせる。彼女たちも小さな体で毎日働いていたし、千晴に良くしてくれていた。
———そういえば、あの頃はこんな風にお礼もしっかり言えていなかった・・・。
自分に良くしてくれる理由がわからず戸惑っていたのだが、今にして思えば理由などなかったのだろう。きっと彼女たちは誰に対しても温かく接することができる心の優しい人だったのだと思う。
人への礼の仕方も、厚意の気付きも、自分を含めたヒトの心の在りようも、今頃になってわかるのだから心底ままならないものだと思う。
遣る瀬無い感傷を暖かな味噌汁と共に流し込む。それがするすると胃に流れていくのを感じながら手に持った椀を置いて、千晴はそっと手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
向かいの隅に座るひさにも届いたのだろう、老女はゆるゆるとこちらを向いた。
「お口に合いましたでしょうか」
「はい、とても」
「それはようございました」
この屋敷に泊まるときの、決まり切ったやり取りだ。もっと気の利いたことでも言えればいいのだけれど・・・、それでも大層嬉しそうに笑うひさを見て、これでいいのだと思えるのだ。交わす言葉は少ないのにこう思えるのが不思議だ。
借りている自室に戻って刀の手入れや荷物の整理をしていれば、あっという間に時間が過ぎた。昼前には出立する旨を伝えてあったので、千晴が玄関に行くと火打ち道具を持ったひさが既に居た。屋敷を発つ際には玄関から門前まで見送るのが彼女なりの願掛けでもあるらしい。
「いつもありがとうございます」
ひんやりとした玄関で草鞋を結びながらそう伝えると、ひさは小さく首を振った。
「私にできるのはこれくらいでございます」
「・・・それでも、です」
会話が途切れてすぐに草鞋が結び終わり、二人は玄関から庭に出た。
冷たい玄関から日向へと一歩足を踏み出すと、初夏の湿った熱気と庭の草木の青臭さがむわりと千晴を包み込んだ。
急な温度変化と眩しい日差しに顔を顰めたものの、すぐに慣れて庭を見渡してみる。さすがに隅々まで手が行き届いているわけではないが調和がとれた美しい庭だった。ゆっくりその景色を眺めながら進んでいると、一つの花に目が留まった。白い花弁に薄く桃色が乗っている可憐な花だ。
「すみません、ひささん。あそこの花を一輪いただいても・・・?」
「ええ、構いませんよ。撫子の花ですね」
「撫子。ですか」
「ええ、もともとは植えておりませんでしたが、いつからか生えてくるようになったのでございます。可愛らしいですから、そのままにしているのです」
言われてみればその生え方は些か無造作だった。いくつかの花の一群が庭のあちこちに咲いている。
「では、一輪いただきますね」
「一輪と言わず、もう少し持っていかれてはいかがですか」
「・・・そう、ですね。では少しだけ」
結局五輪ほど摘み取って、優しく布にくるんでから懐にそっとしまう。
藤の花の家紋が描かれた門前に着くと、ひさは手に持った火打道具で切り火を切ってくれた。弾ける火の粉はやはりいつ見てもきれいだった。
「どのような時でも誇り高く生きて下さいませ。ご武運を・・・」
「・・・・・・はい。それではまた」
少しの沈黙と一礼を残して千晴は歩きだした。
ひさはいつもこう言って千晴を送り出すけれど、千晴はいつもあの言葉に素直に頷くことができない。だってそれは自分に当てはまる言葉じゃない。それでも願ってくれている人がいる、それだけを心に留めて歩いた。
屋敷を出てから歩き通して今は昼過ぎ、千晴は田園地帯のあぜ道を歩いている。じっとりとした空気と輝きを増した日差しの下では黒い隊服が煩わしい。青い稲穂を時折揺らしていく風がいつにも増して爽やかに感じられた。
昼時で人の少ないあぜ道を見知った気配がないことを確かめながら歩いていくと、前方にやっと目的地が見えてきた。
寺の黒い瓦屋根と灰色の園、花柱の眠る墓だ。
ちらほらと綿雲の泳ぐ青空の下、手入れの行き届いた花柱の墓にはいつも新しい花が生けられている。いつ来てもそうなので、きっと誰かしら毎日来る人がいるのだろう。それはしのぶや蝶屋敷の娘たちで間違いないのだろうけど。
潰さぬようにと懐から取り出した撫子の花は、生けるには小さかったので墓前にそのまま置くことにした。しゃがみこんで地面にそっと置いた淡い色の撫子は灰色の墓石に良く映えた。
風に飛ばされぬことを確認してから立ち上がり、一度周囲の気配を探る。人がいないことが確認できると、千晴は墓石に向き直る。
「ひと月ぶりになります。やっと雨が降らなくなって、でも今日は暑くて・・・少し煩わしい気がします。
ここの周りの田んぼもよく実がついていた、今年は順当にいけば豊作でしょう」
普通ならば手を合わせて死者の冥福を祈るところだろうか、きっとそうだ、それが正しい姿なのだろう。しかし千晴にはそれができなかった。花柱の死を認められないとか、そういうことではなくて自分なんかに手を合わせる資格があると思えないのだ。
故にこうして報告じみた会話をするしかない。
「今日持ってきた花は、ひささんにいただきました。撫子と言うそうです。私はこういった、愛でるための花には疎くて・・・。結局この前の花の名前も分からずじまいでした。
そういえば話は変わるのですが、誇りとはなんでしょう。いつも・・・いえ、ひささんの屋敷を出るたびに思うんですけど、私にはわからなくて。
人と、たぶん普通に話せるようになったのに、やはり私はわからないことだらけです」
当然のことながら目の前の石は千晴に何も返さない。ちょうど太陽に雲がかかったのか、急に日差しが途絶えてあたりが少し暗くなった。それに合わせて、墓石に刻まれた花柱の名前も妙にくっきりと見えた気がした。
「わからないといえば、自分のことも時々わからなくなるんです。今日もここに来るまでに何度もやめようと思いました・・・・あなたの葬式に顔も出さなかった私が、逃げ出した私が、いまさらあなたに会いに行くだなんて都合がよすぎるから・・・まあ、いつもそう思っては結局来てしまうんですけれど・・・・・・・・・・・・・。」
沈黙が落ちる。長い沈黙が落ちる。
次に続く言葉は喉元にあるのに、音にできないでいる。そのまま帰ろうかとも思うが、やはりいつも通りかすれ声で捻りだすのだ。
「ねえ、花柱様、どうして逃がしてくれたんですか」
風が吹けばかき消されてしまいそうなその声は、石の園には良く響く。
「どうして、赦してくれたんですか」
その問いの答えを千晴は知らない。
けれど、自分を変えるために人と関わるようになって、一つだけ気付いたことがあった。いつか千晴がむず痒いと感じた花柱の視線、あの暖かなまなざしは、遠い昔に母や兄から注がれていた視線と同種のものだった。慈しみ、親愛のまなざしだ。
これが思い上がりであれと心の隅で千晴は願う。だって、もしもそれが本当ならば、なんて・・・なんて遣る瀬無いことか。
ぐるぐると巡る思考はどうしたって千晴のもので、本当の答えなぞ解らない。わからないのだ。
それが少し苦しくてたまらず天を仰げば、いつのまにか太陽を覆っていた雲が晴れていて眩い光が目を焼いた。思わずにじむ涙を隊服の袖口で拭って、再び墓石に向き直った。
小鳥のさえずる音に虫の羽音、時折風が草木を揺らす音、千晴に聞こえるのはそれだけだ。ここには答えを与えてくれる者はいない。けれど・・・。
「また来ます。たぶん」
諦めたように脱力して千晴は言った。
姿勢を正して長い一礼ををして、一人もと来た道を歩き出した。
きっとまた千晴は散々迷った挙句に来るのだろう。あの問いをするために・・・自分の愚かさを確認するために、来るのだろう。
———結局私の自己満足でしかないのかもしれない。
そうであったとしても、きっと千晴は来ることをやめられない。
———だからせめて、あなたに似合う花をもってきます。名前がわからなくても、生けるには小さくとも、それしかできませんから・・・・。
寺の敷地を出てから一度振り返った石の園は、暑さを増した日差しに揺らめいていた。こめかみを伝う汗をぬぐって歩き出す。
どれくらいの滞在したのか定かではないが、今日は合同任務だ。急がねば。そう思ってもと来たあぜ道を足早に歩いていると、背後からざあっと風が通り過ぎた。背中をなぜたその風は稲穂を揺らして遠ざかってゆく。青い田んぼに白い波。気まぐれに波打つそれを、千晴は見えなくなるまで目で追い続けた。
久々の!更!新ッ!ちょっと初号機に囚われていました。
今回は千晴さんうじうじの回。元気出して!頼むよ、書きずらいんだよ。