自主合宿の時以来、まともに顔を見る事もできなくなって。
まともに声を掛けられなくなって、掛けられても応えられなくて。
なんて情けない一人相撲――いつまでも避け続けるわけにはいかない。そんなことは分かってる。
だから、割り切らなくちゃならない。密かに蓋をして、押し殺し続けたものを振り切って、切り捨てて前に進まなくちゃならなかった。
けど脳裏に満ちるものがある。それは――
『あおいちゃん』
――ボクを呼ぶ、声。
『あおいちゃん』
ボクを見る、目。
『あおいちゃん』
ボクを引っ張っていく、力。
『あおいちゃん』
ボクを惑わせる、心。
次第に頭の中を占めていく。気がつけばその姿を思い描いている。ボク以外の女の子と話してる姿を見ると胸が苦しくて、なんでもないように接されると切なくて、こんな衝動なんて忘れてしまおうと思っても忘れられない。
ボクはおかしくなってしまった。周りの話に合わせるために、少女漫画を何度か読んだ事はあるけれど、まさか自分が普通の女の子みたいな気持ちに囚われるだなんて思いもしなかった。
夢があるんだ。サブマリン投法で鳴らした、球界きっての軟投派投手みたいに、ボクもプロ野球選手として活躍したいっていう、夢が。
けど簡単に叶えられる夢じゃない。それこそ野球以外の全てを切り捨てて、毎日の時間を切り詰められるだけ切り詰めて、人生を野球に捧げてはじめて到れる領域なんだ。だから――普通の女の子みたいに、恋なんかにうつつを抜かしてる暇なんか、ない。ましてやとっくに恋人がいる相手を想うだなんて、間違っている。
なのに。
そんな事は分かっているのに。
こびり付いてしまっているんだ。拭い切れなくて叫び出したくなる。
この、抗い難い心の熱。熱い呼気に全部を乗せて、吐き出したくて走った、走り込んだ。不純なままじゃいられない。不純だと何もかもが半端になる。そんなのは嫌だ。後輩の彼氏に横恋慕だなんてみっともないにも程がある。
なんでと思う。熱を吐き出す度、なかなか吐き出しきれない熱を自覚していく度、思ってしまう。なんで、と。なんでなんでなんで――よりにもよって、ボクは
――最初にあったのは、世代の顔と言われる男の子への興味。それと対抗心だった。
ボクだって負けない。女の子だからって、男の子のトップ・プレイヤーに敵わないなんて道理はない。現役のプロの中には第一線で活躍してる女の人もいるんだ。性差から生じる身体能力の差は覆せるって、現実で証明されてる。
ならボクだって――そんな意識から一方的に、彼をライバル視していた。
だから先輩のボクを名前で、それもちゃん付けで呼んできた時は、生意気な後輩くんだと思ったけど。どうしてだろう……不思議と不快じゃなかった。
理由を探してみると答えは簡単に見つかった。その男の子はボクを女の子だからって見下さず、差別も区別もせず対等の目線で見てくれて、負の感情は少しも懐かずに正の感情だけを向けてくれていたからだ。同年代の男子達の女の子を見る目が、ゾッとするほど気持ち悪いものだったから、それが全く感じられなかった事も好印象だった。
たぶん、その男の子は野球バカだったからだろう。野球以外に興味がなかったから、ああも純粋だったんだと思う。そういうところで広巳ちゃんとも意気投合していて――可笑しくなるぐらい、ボクの周りにいる女の子達は、みんなその男の子に好意を抱いていった。
真摯だった。
野球の練習をしている時も、皆に惜しみなく自分の技術を伝える時も。その男の子は下心なく、本心から皆に上手くなってもらいたいと思っていた。
自分の
日々上達していくのが分かる。それが楽しくて楽しくて――ボクはいつしか次は何を教わろう? 次は何を教えてくれるんだろう? 次はボクの変化球を進化させる方法を聞いてみようと思うようになって。気づけばいつも彼との練習のことを考えるようになって。そして、そこからおかしくなった。
今あの男の子は何をしてるのかな? ボクのことを考えてくれてたら嬉しいな。えっ……ボクの『マリンボール』の理論を考えてくれてたんだ! 凄いよこれなら『マリンボール』がもっと進化する! 完成したら勝負しようよ、ボクのマリンボールが君に打てるかな? あーっ!? なんで打てるの!?
あ、どんなふうに曲がるか分かってるんだから狙い打てばいいだけ? これを活かすにはマリンボールのキレを持ったサークルチェンジを覚えたら更に威力が増す? ふ、ふーん……え? サークルチェンジの握りはこうだ、ってそれも教えてくれるんだ……。もう、まるで君がボクの先生みたいだね。
カーブはこう、かな。それよりスロースライダーとスローカーブ? む、難しいね……多彩な変化球を操れば、サブマリンの浮き上がるストレートがもっとえげつなくなる……なるほど、流石ボクのセンセーだ。あ、あはは――
あはは。
――なんだ。
「とっくの昔に、ボクの真ん中にいたんだね……パワプロくんは……」
走りながら、涙を流してしまう。心の軋みを呟いてしまう。
思い返す思い出の全てに、パワプロくんがいた。上達する喜び、勝負しての一喜一憂、無自覚なセクハラに対する怒り、勘違いしていた自分への羞恥。
全てにパワプロくんが絡んでる。そして、パワプロくんのいなかった思い出が、比較して全部が色褪せて見えてしまっていた。
一個違いでしかないけど、年下の男の子を心の底から尊敬した。対抗心はもう欠片もないのに、勝ちたいという思いはさらに純粋になった。それなのに、好きになってしまったんだ。
傲慢にも見える自信家っぷりが好ましく、純粋に夢を追い掛ける才能の輝きが眩しく、真摯に対してくれる姿勢が嬉しかった。こんなに素敵な男の子は他にはいない、もっとボクを見て欲しい、もっとボクの事だけを考えて欲しいしボクと同じ道を歩んで欲しい。ずっと――ずっと一緒にいて欲しい。そう思うようになってしまった。
だからそんなボクの願望を叶えている、叶え続けられる事が約束されている聖ちゃんと、霧崎さんに嫉妬した。公言はされていないけど、明らかに恋人同士になった氷上さんを激しく妬んだ。そしてそんな自分が嫌で蓋をした。
芽生えていた恋から、目を逸らし続けて。そして、もう無視できないほど、想いが膨れ上がり続けてしまったんだ。
全部、パワプロくんが悪い。
気づかないままで、目を逸らしたままでいたかったのに。
やれ下半身の安定感が凄いだの、お尻がデカイのが羨ましいだの――そんなセクハラ紛いな事を、よくも下心もなしに吐き出せたもので。しかもベタベタ触ってくるし、こんなの意識するなっていう方が無理だ。
ボクは悪くない。意識させるパワプロくんが悪い。
「なんで……っ、なんで……氷上さんなんだよぉ……!」
日々募るもどかしさ、切なさ、悔しさ。聖ちゃんや霧崎さんだったらまだ分かる。幼馴染だし、いつも一緒にいるし、とても仲良しだったから。
なのにそんな二人じゃなく、パワプロくんは氷上さんと付き合うようになってしまった。何があったのかなんて知らないけど、それでも思ってしまうじゃないか。
「氷上さんならチャンスがまだあるかもって、思っちゃうじゃないか……!」
そんなふうに思ってしまった自分が醜くて嫌いだ。
割り込む隙間のない幼馴染の二人じゃない、氷上さんになら勝ち目があるかもなんて思ってしまう自分に吐き気がする。
こんなのは、違う。こんなのはボクじゃない。切り捨ててしまおう、押し殺してしまおう、忘れてしまおう。そう思って、とにかく一人の時間だと走って走って走り続けた。
だって、一人でいると――思い出してしまう。腰に触れてくるパワプロくんの手の感触を。触れられた時の熱を。もどかしくって、自分を慰めてしまおうとする無意識の働きにハッとさせられてしまう。
ストイックになる。邪念、雑念、懊悩、煩悩、その全てを潰し、夢だけを見て邁進する。ボクが目指すのはプロのマウンドなんだ、って言い聞かせる。
――そのマウンドに、パワプロくんと二人で立ってる幻を見た。
可笑しな幻だった。マウンドに立つのは一人のピッチャーだけなのに、なんで二人で立ってるのかまるで見当もつかない。バカみたいだった。
「痛っ……」
「あ、悪い……ってあおいちゃん?」
「え……パワプロくん……?」
脇目も振らずに走っていたせいで、人にぶつかってしまう。
それはパワプロくんだった。彼がシニアの練習がない平日、いつも走ってると言ってたコースに入ってしまってたらしい。――いや、無意識にそこを目指してしまっていたのかもしれない。
ともかく、無意識に。無意識に顔を輝かせてしまいそうになって――氷上さんが隣にいるのに気づいて、ボクはぎくりと身体を強張らせた。
「ご、ごめんっ! ボクちょっと急いでるから――!」
「お、おう……ん?」
走り去る。微かに過ぎった昏い怒りが、後ろから手を伸ばしてくるのを感じて、それから逃れるために駆けていく。
戸惑ったようなパワプロくんの返事も、耳に入らない。
全部――忘れてしまいたい。そう思って走り、走って、走り続けて――
「あ」
漏れたのは単音。
歩道と車道を繋げる横断歩道の信号は、赤。
走馬灯が流れそうなぐらい、ゆっくりとしたスローモーションだ。
運転席のおじさんが、目を限界まで見開いているのが見える。驚き過ぎて固まって、ハンドルを切ろうともしていない。ブレーキを踏んでもいない。それが不思議なほど遅い視界の中で視認できた。
死。死ぬ。これは死んだ。よしんば助かったとしても、ボクの身体はグチャグチャになるだろう。そうなったら、夢は潰える。
それは、死んだも同然だ。
終わった、何もかも。こんな不意打ちみたいに終わるぐらいだったら、当たって砕けてもいいから――伝えたかったかも。
何を、とは思わない。思う暇はない。唐突な展開に、心がまるで追いつかない。
けど身体は。身体は、追いついた――叩きつけられてきた声に、弾かれて。
「何してるッ――! 跳べェ――!」
カチン、とスイッチが入った感覚がした。
現実の時間が加速する。いや、通常の速度に回帰した。それと同時に空っぽの頭を置き去りに、身体が脊髄反射のように動いた。
体勢は、トラックを視認した瞬間に竦み、走っていた勢いが止まって、たじろいでいる。前に跳ぶより後ろに跳んだ方が早い。身体が勝手に判断して後ろに跳んだ。いつもより遥かに機敏に、力強く。
跳んだ瞬間、鼻先をトラックが走り抜けた。遅れて急ブレーキの音。それから、ボクは受け身も取れないまま転んだ。ごろごろとアスファルトの上を転んで、騒然とする周囲の喧騒も耳に入らないまま呻く。
い、今のは――?
「あおいちゃん、無事かッ!?」
「ぁ……パワプロ、くん……?」
倒れていた身体が抱き起こされる。それはパワプロくんだった。鬼気迫る形相でボクを見ていた。
「何やってんだこのバカ……! どこか痛まないか? どうもしてないな?」
「う、うん……ツゥ。ぁ、ごめん……肘、痛いや……」
「肘ッ? 肘か……!」
パワプロの分厚い手が、痛みの走ったボクの右腕を掴む。更に走った痛みに顔をしかめていると、パワプロが顔面を蒼白にさせる。
その表情で悟った。受け身を取る余裕もなかったから、思いっきり肘を打ってしまっていて、そのせいでボクの右腕は折れてしまっていた。
普通、転んだだけでこんなふうになったりはしないはず。だけど現実に折れている。それはあの瞬間、
それにぶつけていないはずの身体の節々も痛む。
「これは……いや、病院だ。すぐ救急車を呼ぶッ。それからトラックは――って、クソッ、野郎そのまま行きやがった!」
「パワプロくん……ボクの、腕は……?」
「大丈夫だ、心配すんな、俺がついてんだなら何もかも上手くいくに決まってんだろうが!」
まるで自分に言い聞かせているような声に、ボクは薄く微笑んだ。
あ、ダメな奴だ、これ。
そう思う。
果たして駆けつけてくれた救急車に乗せられて、病院に運ばれたボクは――
「――早川さん。落ち着いて聞いてください。貴方の右腕は、もう以前のようには――」
ボクはそれを、不思議なほど凪いだ気持ちで聞き届けた。そっか――と、呟いた声は乾ききっていたけれど。命があるだけ儲けたね、と強がった。
それに、付き添ってくれていたパワプロくんと、ボクのお父さんとお母さんは沈痛な顔をしていた。
それから――それから? それから、何をしたんだっけ。
処置してもらって腕に包帯をして、グルグルに固いものを巻かれて、車で家に連れて帰ってもらって、お父さん達が何か言ってたけど聞こえなくて。
自分の部屋に閉じこもっていた。
なんだろう。
これ、なんだろう。
いきなり過ぎて、誰だってついてこれてない。ボク自身、何がなんだかよく分かってなかった。
そういえば、パワプロくんの方がよっぽど思い詰めた顔をしてた。それが可笑しくて、くすりと微笑む。えーっと、そういえば、俺がなんとかしてやるってパワプロくんは言ってたっけ。
けど、お医者様でもないパワプロくんにできる事なんてない。もう終わったんだよ。終わったんだ、何もかも。
「――え?」
冷たい何かが頬を伝う。
視界が滲んでいて、ボクは慌ててそれを拭った。
何も感じない。何も感じてなんかいない。
そうだ、まだ左腕が残ってるじゃないか。終わってなんか、いない。
けど――元の力を取り戻すのに、どれだけ時間がかかるだろう。そんなハンデを抱えて、皆に追いつけるのか不安しかない。
心が虚無になっていく。パワプロくんに教わったこと、全部台無しにしちゃったな、なんて不意に思った。
「俺がなんとかしてやる。そう言っただろ」
パワプロくんの、声。幻聴だ。
縋りたくなってる。なんとかなんてできる訳ないのに。
「あおいちゃん。窓、開けてくれ」
「……? え……」
だけど、幻聴じゃなかった。
家の二階にあるボクの部屋の外。窓の外から声がして、慌てて開けて下を見た。
するとそこにはパワプロくんがいた。手に、木の板のようなものを持って。
「メールしても電話しても反応ないし、直接来た。出てきてくれ、今すぐ」
「な、なんで……?」
「何度も言わせんなよ。なんとかしてやりに来たんだ」
「なんとか……って。そんなの――」
「信じろよ。絶対になんとかする」
言われるがまま、ボクは部屋を出ていた。
何をしてるんだろう、ボクは。そう自分を笑って、父さん達の声も耳に入らないまま外に出た。すると、玄関前まで移動してきていたパワプロくんが、手を伸ばしてきてボクの腕を掴んだ。
「行くぞ」
「行くって……どこに……?」
「決まってんだろ? 俺が知る限り世界最高に最悪で、やっぱり最高の名医のいるとこだよ」
意味が分からなかった。
分からなかったけど、パワプロくんは全身汗まみれで、服が汗で濡れている。かなり臭ったけど不快じゃない。だってそれは――ボクのために、あちこちを走り回った証拠だったから。
スタミナお化けのパワプロくんが、息を乱して、疲労の滲んだ顔でいる。ボクのために必死になってくれていたんだ。それが、場違いに嬉しい。
そうして連れて行かれたのは、町外れの廃ビルだった。そして、そこにいたのは一人の老人だった。
† † † † † † † †
「――コノ怪我ヲ治セバイイノデスネ。コノグライナラオ安イ御用デース。チナミニ改造ハ――」
「すんな」
「オウ……恩知ラズニナル気ハ毛頭なっしんぐデスノデ仕方アリマセン。借リヲ返ス絶好ノ機会デスノデ、ぱーふぇくとニ治シテアゲマース」
「え?」
誰、この人。
これ麻酔の注射?
パワプロくん! この人ほんとに誰なの!? 説明! 説明してー!
あっ、目が重く……ね、む……い……。
「――フゥ。手術ハ完璧ニ成功シマシタ。タダ身体ノりみったーガ外レ易クナッテルヨウデスガ、コレハ別ニワタシガ何カシタワケデハナイノデ気ニシナイデクダサーイ」
† † † † † † † †
「うそ……」
目を覚ました時、ボクは自分の家の、自分の部屋にいた。
ともすると悪い夢でも見ていたかのようだったけど、夢じゃなかった証拠にベッドの前にパワプロくんが胡座を掻いて座ってて。
驚くボクに構わず、右腕動かしてみろと言われ、つい普段通りに動かしてしまった。あ、折れてるんだから、そんなふうにしたら痛い――そう思う。思ったのに――痛くなかった。
包帯も何もない。ただ――なんともない、今まで通りの右腕がそこにある。
「だから言ったじゃねえか」
パワプロくんは、ドヤ顔で言った。
「俺が、なんとかしてやるって」
「パワプロ、くん……」
「でもどうやったかとかは聞くなよ? それから無茶も厳禁だ。また治してやれるとは限らねえんだからな? ったく、世話の焼ける――」
「パワプロくん――!」
「どわっ! いきなり飛びついてくんなァ! 危ねえだろうが!」
ボクはワケが分からないまま、けどパワプロくんのお蔭で腕が治った事だけは悟って。
衝動的に沸き起こった歓喜に突き動かされるまま、ベッドの上からパワプロくんに抱きついてしまっていた。
涙が溢れる。こわかった、こわかったんだ。
体が今更のように震えてくる。その震えを感じ取ったのかパワプロくんは嘆息しながら背中を叩いてくれた。ちっちゃい子供をあやすみたいに、優しく。
ボクは恥も外聞もなく泣いた。泣いて、泣いて――そして心底から噴出する想いに、やっと向き合うことができた。
――ボク、やっぱり……パワプロくんのこと、好きなんだ……!
たとえ誰が恋人としていても、諦められそうに、ない。
(……ん? 超特ゲット……? なんで……って『
※礼里ちゃんの1件でダイジョーブの成功手形は入手してました。過去話参照。連絡先は手形に記されていた模様。
次回はパワプロくん視点です。細かいことはそこで。
面白い、続きが気になると思って頂けたなら感想評価よろしくお願いします。
ひじりん→「超集中」
レイリー→「同心術」
緑の悪魔→「超短気」
君の名は?
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「二遊間のポジションが空いていない…」
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「小浪一刀流……いざ参る!」
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「やんすやんすやんすやんす!」
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こんなに辛いのなら愛など要らぬゥ!