あの人が目を覚まさなくなってから一ヶ月が過ぎようとしている。
契約者だけじゃない。かつて開拓者と呼ばれた人たちが誰一人の例外なく眠りから覚めなくなり、恒星間航行級アーコロジーシップ3番艦「ベヒーモス」から新たな開拓者が現れることもなくなった。
開拓者たちがこの長い眠りにつく直前、「サービス終了」なる噂をしていた。ここでいうサービスが何のサービスを指すのかは全くわからなかったが、きっとこの現象と無関係ではないのだろうと推察される。
「……疑問提起:どうして当機はこんなところに?」
目の前にそびえ立つのは巨大な崖。そしてその崖を彩る水晶。
そう。水晶層崖である。
基本は格納鍵インベントリアの中を拠点にしている当機だったが、今までも契約者の眠る間に世界を適当に闊歩する事はよくあった。そして、契約者の目覚めなくなった今でも、その習慣が残ってしまっている。
今日も適当に散歩するだけのつもりだった。だが、ここは散歩コースに入れるにはあまりに危険すぎる。
「妥協:せっかくなので」
とはいえ、めったに来ない場所。契約者がいた頃はインベントリア内から契約者が殺される様を何千何万と見せられたので、当機も地形を既に覚えてしまった。
……契約者、気軽に殺され過ぎでは?
やれやれ、困った契約者でしたね。だが、そんなしょうもない契約者のおかげで、比較的安全にここを散歩する術を身に着けた訳ではあるのだが。
「解説:ここは契約者が3体の水晶群蠍に挟み撃ちにされて超速球バッティングキャッチボールの球にされて死んだ場所ですね」
誰に向けたかは当機にもわからない解説を繰り広げながら散歩を続けていく。
「付随解説:ここは契約者が珍しく単独行動している水晶群蠍を見つけて勝負を仕掛けようとしたら死角になって見えていなかっただけでちゃんと周囲にいた群れの水晶群蠍に返り討ちにあって圧死した場所です」
あぁ、懐かしい。当機の記憶領域に刻まれた契約者の死の一つ一つがとても愉快で、とても可笑しく、とても馬鹿らしく、とても当機を昂ぶらせる。
「追加付随解説:ここは…………」
あぁ……忘れるわけがない。今でも鮮明に思い出せる。
背後には初めて当機が自己判断で庇った開拓者たち、迫りくる死の恐怖、そして、当機を救った契約者と彼の言葉。
『偉大なる先人曰く! 道具は死を恐れず、生に安堵しない!!』
『しゃらくせぇ! 今後何万体のエルマ型がロールアウトしようが317号機はこの世にただ一つしか存在しないだろうが!!』
ここで、当機は当機でいいのだと契約者に教えてもらった。
だからこそ、今の当機がある。
今の当機はリミッターに縛られないめいいっぱいの感情を思う存分味わうことができる。
「契約者……」
…………………
「……ッ!!!!」
唐突な殺気に思わず回避行動をとる。
爆音のした背後を振り返れば、さっきまで当機の居た場所には大きな衝突の跡、そして、自分たちで激しく体をぶつけて散っていった水晶群蠍の残骸達。そしてその奥から当機を補足する水晶群蠍の大群。
「不覚:囲まれていたのに気づけなかった……!!」
この当機が感傷に浸っていてこれだけの数の水晶群蠍の接近に気づかなかった?まぁ、なんにせようかうかしてはいられない。何せ、一度目標を視界に入れた水晶群蠍の行動はただ一つ。
「緊急:離脱を試みます!!!」
大きく回避して水晶群蠍の突進をよける。すぐに伏せて尻尾攻撃をかわし、群れとは反対方向に走り出す。直線に走ってはいけない。背後からは水晶群蠍の巨体が弾丸のように突っ込んでくる。
走る。
よける。
走る。
飛ぶ。
走る。
よける。
走る。
走る。
任せてほしい。契約者との呆れるような周回の果てにここの地図は既に記憶済みだ。
ついに、群れから離れて安全な場所まで逃げ切ることに成功したーーー
「安堵:これでひとまずは安……」
ーーーはずだった。
「ッ!!!!!!」
たった一匹、されど一匹。私が撒ききれなかったその一匹の水晶群蠍の巨大な鋏が当機に向かって振りかざされる。
回避は間に合わない。完全な不意打ちだ。
「否……定……」
恐怖……恐怖恐怖恐怖恐怖!!!!!
襲いかかる死の恐怖。あの時、感情にリミッターのかかっていた状態の当機でさえ冷静さを失った死の恐怖。それが、Nパッチによりより素直に、無防備になった当機の心に降りかかる。
その当機の命を刈り取らんとする鋏が、かつて当機を殺しかけた鋏と重なって。もう、足は動かなかった。
……こんな時、あの人がいれば。
……きっと、あの時の様に。
当機の心の内など全く知らず、鋏は無慈悲に振り下ろされた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「被害状況確認:まず大きな損傷として、右腕が欠損。左腕も欠損は免れたものの深刻なダメージ。全身強打による一部機能不全及び装甲の大破」
結局、あの水晶群蠍の攻撃をもろに喰らった当機は、大きな被害を受けながらも九死に一生を得た。
今になって思えば、回避をするための数瞬は十分にあったし、攻撃を受けたとしても、もっと軽いダメージで済ませる術などいくらでもあった。
だが、あれだけの恐怖の前に当機は冷静な思考を保てなかった。
当機としたことが、インテリジェンスの欠片もない浅はかな行動だった。
……でも。
これが、契約者のくれた感情だから。
あの脅威を前にあれだけ恐怖して冷静な判断のできないほどに取り乱してしまえた事にどこか満足していた。
千切れた右腕に視線を落とす。
そこはあまりにも痛々しくて、あの咄嗟の願いが届かなかった事を物語っている。
「契約者…………」
涙が、溢れる。
「契約者、今度は助けに来てくれなかったのですね……」
あの時、当機は間違いなく願った。前にも当機を救ってくれた主が再び当機助けに現れるのを。
紛れもない当機の感情が、契約者なら助けに来てくれることを、もうしばらく会っていない当機のために今だけ目を覚ましてくれることを、願っていたのだ。
だが、叶わなかった。
涙が止まらない。
あれだけの恐怖に晒されても全く流れなかった涙が、契約者へ願いが届かなかった事を認識するだけで、止まらなくなってしまう。
「嗚呼:そういえばこの涙も、貴方のくれたものでしたね。契約者」
当機は、契約者の帰りを願いながら涙を流します。
契約者の置き土産を肌で感じながら。
この溢れ出る想いは貴方に届くのだろうか。これも、契約者からいただいたものなんですよ?