九条奏音は逃げていた
後ろから迫ってくるのは、体格差のある男
持っているものはナイフだ。逃げるのも無理はない
(正直このままだと私の体力が先になくなるわね。すでにギリギリだし)
奏音は冷静に分析しつつ、男がつかず離れずの距離にいることを認識していた
(これ、楽しまれてるわね。おそらく私の速度に合わせてるんだわ)
奏音は自身の運動能力の無さを呪った
体育会系文化部などと呼ばれる吹奏楽部にて、そこまで運動をすることはない
それどころか以前にも増して体力が落ちたような気さえしていた
(…潮時、かしらね。捕まって殺されるならまだしも、女の尊厳を殺される気がするわ)
奏音はあえて袋小路に入り込み、足を止めた
「もう逃げられねぇぜ?」
「覚悟はできたわ。好きにすればいいじゃない」
男は自分のベルトに手をかけた。奏音の想定していた最悪の事態でもある
(終わったわね。さようなら日常、的な?)
自嘲気味に笑って、奏音は座り込んだ
体力が切れ、立っているのもやっとなのだ
「これからもっと疲れるんだぞ〜?」
ジリジリと近寄る男
そこに通りかかったのは、かつてのクラスメイトだった
「…奏音じゃねぇか。そんなとこに座り込んで何してんだ?」
冬風夜斗という名を持つ彼は、パックの牛乳を飲みながら訊ねた
「見ての通り、強姦されかけてるわ」
「ふーん。たすけてやろうか?」
「…できるなら、お願いするわ」
「対価は、まぁ後で話すけどそれでええ?」
「いいわ、契約成立ね」
奏音がそう言うと同時に、夜斗は男に向かって走り出した
男はまだ手を離していなかったナイフを夜斗に向けて威嚇するが、夜斗は意にも介さない
(…誰とも知らない人にやられるより、知ってる人なら多少心持ちもいいかしら。っていうか危ないんだけどなんで避けないのよ!)
夜斗は男の近くで立ち止まった
男はそんな夜斗の意図を読めず、ナイフを刺すために腕を伸ばした
その瞬間、男は宙を舞っていた
「!?」
「黒淵流体術、蓮華」
夜斗が呟くのと、男が地面に落ちるのは同時だった
カッとなった男が、夜斗をその手で捕らえるためにまた手を伸ばす
「いいもん拾ったな」
回避した夜斗は、男が落としたナイフを拾って投げた
クルクルと回転しながら落ちてくるナイフの柄が、夜斗の手の中に収まる
(…どうするのよ。ナイフで刺したらあなたが犯罪者になるわ)
夜斗はナイフを構え、向かってくる男の視界の隅で
男の視線がナイフを追いかけ、夜斗から意識が逸れる
その瞬間に夜斗は、ポケットからフィルムケースを取り出しつつ奏音の後ろに回った
「悪いな、奏音」
夜斗は奏音の手をとって耳を塞がせた
そして自分は首にかけてたヘッドホンをつけつつ、フィルムケースを投げすぐに奏音の目を手で隠す
「!?!?!?な、何をした!」
「フラッシュバン。わかりやすく言うなら閃光手榴弾だ。人間が視認すれば、2時間ほど視界が不安定になる」
夜斗はそう言いつつ、ヘッドホンと奏音の目を隠していた手を外した
男は立つこともままならず、その場に転倒した
「少しのたうち回ってろ、犯罪者」
(どっちが犯罪者だか、わからなくなってきたわ)
夜斗は取り出したビニールテープで、男の腕と足をがんじがらめに縛った