開け放たれた窓から雪が吹き込んでくる。雪は女王の部屋の床に落ちると、すぐさま白から赤へと変わっていった。私は真っ赤に焼けた鉄の剣を手離す。剣は床に落ち、音を響かせ、しかしその音は外の吹雪の中へと吸い込まれていった。
「母上……どうか安らかに。今のあなたは、元の、美しい母上です」
そう……私は母の内の、悪を斬ったのだ。もう誰にも、母を魔女とは呼ばせない。きちんと埋葬も、執り行わせよう。
「……あとは、おまえだ……鏡」
部屋の、大きな鏡を見やると、それは黒く輝き、じっと息を潜めているように見えた。
「まだ、私が一番美しいなどと、ほざくか」
鏡に歩み寄る。
「私の身体は毒の締め紐で、もうこれ以上育たない。私の黒髪は御覧の通り、毒の櫛で、すっかり色が抜けてしまった。そしてもう、歌を唄うこともできない。毒の林檎がそれをした」
鏡にこぶしをぶつけ、私は、その先の邪悪を見据えるように睨みつけた。
「全ておまえが母にやらせたことだ。言ってみろ。誰が一番美しい」
「……スノウホワイト、この世で最も正しいのは、そなただ」
「ふざけるな!」
鏡を床に叩きつける。鏡は散り散りに割れ砕けると同時に、無数の叫びと悲鳴を上げた。
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瞼を開く。立ったまま一瞬、眠っていたらしい。足元のオークの死骸の山から剣を引き抜き、廃墟となった城、その天井の穴から差し込む明かりに顔を向け、重い瞼を閉じる……また隈が出来ているな。
オークの死骸の山から、降りていく。こいつらの親は、紛うことなき悪だった。街を襲い、人々をいたぶり、殺し、食い、城を奪った……このオークの山は、その子供達だ。子供達は……人間をいたぶることはしていなかった。親を殺された復讐に、私を襲っただけだ。しかし……復讐は悪だ。正義の名の元に、切り伏せられる。どんなに……親想いの、子供達だとしても。
「……最悪だ」
「イエスッイエスッ、最悪最悪♪」
「イエスッイエスッ、最悪最悪♪」
どこからともなくギシンとアンキが躍り出てきた。二人、いや二体が、私の足元で立ち止まる。不気味な顔で、私を見上げる。
「何の用だ」
「おや?」
「おやおやオヤおや?」
「ご機嫌ななめデスネ?」
「デスね?」
「うるさい」
「スノウ」
二体の耳障りの悪い声とは違う、もう一つの声が聞こえた。柱の影からアリスが姿を現す。
「アリス」
私は無意識にアリスを睨みつけていた。いやきっと、誰が出てきても私は相手を睨みつけていただろう。それだけ私は、疲弊していたのかもしれない。
「……ええ、あなたが言ったように、わたしは相変わらず自分の為だけに他の命を奪ってる。けど、今回はあなたの助けが必要みたいなの」
「……すまない。気にしないでくれ。この目は……私は酷い目をしてるだろう?」
「え? まぁ……いいえ、あなたの目は綺麗だわ」
「よせ……よしてくれ」
アリスに近づき……ああ、私は嫌な目つきをしている。悪は見逃さないというような。相手の心の内に、悪を探すような。
「スノウ、今から一緒に、ドロシーのところへ行って欲しい。何か起こってるみたいで。そこの、人形達にも予測不能な何かが」
「予測不能な何か?」
「ディレクトリ構造に致命的ナ損傷を与エル何かデス」
「可能性ニも満たナイ空の霞ヲ上位概念そのモノとすげ替エル何かでス」
「……なるほどわからん」
アリスを見ると、私に肩を竦めて見せた。
「アリスも私と同じか。それでドロシーのところへ……ドロシーの話も人形達と似たり寄ったりなんじゃないか?」
「言えてるかも。でもこいつらよりはまだマシ」
「それもそうだな」
「キヒヒ」
「イヒヒ」
「詳しくは向かいながら」
「わかった」
私は了承し、アリスと共にドロシーの元へと向かった。
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道すがら聞いた話によれば、発端はアリスが遭遇した兎と帽子屋だったらしい。いや、あくまでそれは事態が可視化された瞬間だ。ライブラリである限り、本来はギシンとアンキはそこに踏み込むことが出来、それによって私達はある種の確かさを保っていると……これ自体要領を得ない話だが、人形達がそれ以上話そうとしない為そうとしかわからない。ただアリスが呑み込まれたそのモノガタリでは、人形達が通常の在り方を保つことすらできなかったと……まさに「何かが起こっている」としか表現しようのない事態ということはわかった。
「ドロシーは他にも誰か招集をかけたのか?」
ライブラリからモノガタリへと入る。
「いいえ。今回の異常は、常識人だけで対処した方がいいって」
「懸命だな」
本棚に囲まれた空間がぼやけ、私達は緑の丘に出た。少し先にぽつりと木が生えている。その木陰にドロシーの姿があった。レジャーシートの上に座り込み、本をバラバラとめくりながらハンバーガーを頬張っている。
「まるで緊迫感がない」
「ドロシーだし」
私達はドロシーの方へ足早に進み、彼女を見下ろした。私はこの女が苦手だ。苦手というより、それこそ、排除すべき対象。しかし彼女の発明はしばしば、人の世を救いもする。それ故に……慎重に監視を続ける。そう言った段階に留めていた。
「ドロシー、来たぞ」
「んぉ? んおウノウあん、オイウさん、おあいいえあいた」
「食べてから話せ」
ドロシーが口の中のハンバーガーを呑み込み、ニッコリと笑う。
「いやぁ、大変なことになってますよ」
「何が起こってるの?」
アリスが本のタイトルを目で追いかけながら問う。本はどれも、哲学的な内容のもののように見えた。
「百聞は一見です」
ドロシーが立ち上がり。
「こっちらへどうぞ~ん」
手で導くように歩き出す。少し行くと、丘の上に白い空間が見えた。空間が見えたなんて妙な言い方だが、そこだけ空間を切り抜かれたように白くなっていたんだ。空間は半球形。しかし丘の向こう側は見えず、ただ回り込めば確かに、丘の向こう側は存在していた。そして、白い空間の中にはベッドに横たわる、いばら姫の姿がある。
「いばら姫」
私が更に空間に近づこうとすると、ドロシーが腕を引き、それを止めた。
「なんだ」
「いえ、それ以上行くとまずいので」
「まずいって?」
「見ててください」
ドロシーがポケットから紙切れを出し、それを丸めて白い空間へと投げ込む。紙玉は空間へ突入したかと思うと、赤い長靴に代わり、内側から紐上の肉々しいものを噴出しながら溶けてなくなった。
「なんだあれは」
「めちゃくちゃなんです。あの内側へは入れません。そもそもこの丘とあのアウトディメンションを連続的な空間と捉えて良いかも怪しいですし」
「意味不明だけど、いばら姫が暴走してるってこと?」
「いいえ、そうではありません。いばら姫さんは意識的にも潜在的にもただ眠っているだけです。ただいばら姫さんの夢のせいかと言えば、それはイエスです。いばら姫さんの夢が現実と空想の境界を破壊しているといいますか。凄く簡潔に言いますとね。ただこれは現象として捉えた方が良い。原因はいばら姫さんとは無関係な場所にあると推測します」
「アリス、やはり人形達と似たり寄ったりの説明だ」
「……ドロシー、その原因については何か予想できてるの?」
「そうですね~。例えば宇宙の原則の一部を司る何かが崩壊しようとしているといったところでしょうか」
「何かって?」
「さあ」
「さあって」
「どうでも良いことです。探知さえできればよいのですから。つまり何かわかったところで探知する手段がなければ無意味。そしてむしろこれが問題で、どう考えてもこの宇宙的原則Xを探知する手段を現段階で人類は持ち得ていません。な・の・で、人類の科学を私のそれよりも更に一段上まで引き上げる必要があります。早急に。それか、いばら姫さんを殺害するか」
「なに?」
「それが一番手っ取り早いんですけどね。私の武器ではいばら姫さんにダメージを到達させることが出来ませんでした。お二人でも無理でしょう。ただですね、あの空間に含まれる波長の内の一部と、スノウさんの持つ波長の一部が大変酷似しているんですよ。この共通点を利用して、夢を通して、あの空間への本当の入口を見つけ出し、侵入することが出来るかもしれません。何処から何処かへ移動するのに夢を通っていくなんて、オズも呆れそうなお話ですけど。まぁこんな状況だからです。ただしそれが叶ったとしても、あの内側で、スノウさんがスノウさんとしての記憶や同一性を留められるかは怪しいところです。でも可能性はゼロではありませんので、試してみる価値は十分にありますねー」
「つまり、あれか? 私に、危険を顧みずあの中へ突入し、いばら姫を殺せと」
「そうです」
「意味が分からん……放っておけばいい。いばら姫は眠るのが好きなんだ」
「ノーノー、違いますよ。言ったではありませんか。今いばら姫さんとその夢を含む現象が結果として現実と空想の境界を破壊しているんです。このままだと世界が崩壊するんですよ。現実と呼ばれる側の世界も、モノガタリも、ライブラリも、全て崩壊します。作者だって復活させられなくなりますし。世界の危機なんです。世界は今、救いの手を、大きな正義を必要としているんですよ」
「……そんな言葉で私を焚きつけられると?」
「いえいえいえ、そんなつもりは……ありますけど」
「はぁ……具体的にはどうすればいいんだ?」
「それでこそスノウさんです!」
「違う。いばら姫を起こしに行くんだ」
「できますそれ~?」
「やってみなくてはわからない」
「まぁ、いいですけど。後ほど詳しくお話します。でですね、アリスさんと私は別作戦で行きます。タイムスリップして過去に行き、人類の進歩を加速させる。あ行くのは私だけです。アリスさんにはタイムマシンを起動する為のトリガーになってもらうだけですので」
「タイムスリップ? そんなことできるわけ」
「まぁまぁまぁ、そこらへんは私の専門なのでご心配なく。さーでは、時間がありません。一瞬先の未来を変えるためには途方もない時間がかかります。早速取り掛かりましょう。まずは」
そうして、その突拍子もない世界の危機を救うための、私の悪夢は始まったんだ。
白雪姫。黒い瞳に赤い唇、白い肌。王女白雪姫は美しく育ち、実母である王妃はその美貌に嫉妬した。王妃は狩人に、白雪姫を殺しその肺と肝臓を持ち帰るように命じる。狩人は森の獣が白雪姫を殺すだろうと考え、白雪姫を森に置き去り、代わりに猪の肺と心臓を持ち帰った。王妃は喜び肺と肝臓を茹で食らう。しかし魔法の鏡が白雪姫はまだ生きていると告げ、王妃は自ら白雪姫を殺すことを決める。森に置き去られた白雪姫は家事をすることを条件に七人の小人達と暮らしていた。王妃は小物売りに変装し、紐を売ると言って白雪姫の胸を締め上げ、殺害を試みる。白雪姫は意識を失い、しかし小人達が紐を切ったことで意識を取り戻した。そうして次にはまた別の小物売りに変装し、毒を塗った櫛で白雪姫を殺しかけるも、これも失敗に終わる。最後に毒を仕込んだ林檎を白雪姫に食べさせ、ようやく白雪姫の殺害に成功する。小人達は悲しみに暮れ、白雪姫の遺体をガラスの棺に入れた。そこへある国の王子がやってきて、白雪姫の遺体を譲り受ける。王子は常に召使達に白雪姫の遺体を運ばせ、そのうちに召使の一人は怒り、白雪姫の遺体の背を殴りつけた。すると毒の林檎の欠片が白雪姫の口から飛び出し、白雪姫は息を吹き返す。王子と白雪姫は結ばれ、王子の国で結婚式を挙げる。そこへやってきた王妃、白雪姫の母は真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされ、死ぬまで踊り続けた。
現実と非現実、ライブラリ、夢、あらゆる境界が崩壊をしていく中で、不眠症のはずのスノウホワイトは立ったまま、気付かぬうち眠り夢を見ていました。ついに空間の連続性すら綻びだす世界。いばら姫の空間はもはや全ての境界が崩壊し、その内には全ての時間さえ同時に存在しています。いばら姫の空間、小さな病室に含まれるその波長は、スノウホワイトと精神的連続性を持つ現実世界の雪下美姫が存在した痕跡です。雪下美姫は看護師として、いばら姫と接触をしたことがありました。もしかすると会話を交わしたことも。さすがのドロシーもそこまでは分かっていませんが、ともかくその波長、縁を通じてスノウホワイトならいばら姫に近づけるのではないかと考えたのです。かくして、世界を救うためのドロシーの作戦は始まりました。