「は……はぁは……は……はぁは……は……はぁは……は」
心臓が鼓動する度、辛うじて私の肺は収縮し、開いたままの口から空気が出入りを繰り返す。柔らかなベッドのような蜘蛛の巣に絡め取られ、四肢は鉛のように重く、腹部には内臓が抜け落ちたかのような虚無感が漂っていた。寒い。私は……まだ生きているのだろうか。
「雪下さん! 雪下さーん!」
部屋の外から声がする。私の手は自然と動き、天井から伸びる肉腫を掴んだ。まだ、動くらしい。
廊下へ出ると、患者達で溢れ返る中に、顔の曲がった同僚の看護師の姿があった。私に気付き、歩み寄ってくる。
「雪下さん、人手が足りないの。手伝って」
「もちろんだ」
同僚について廊下を進む。最早簡易ベッドもストレッチャーも足りず、患者達は床に敷いたシーツの上で横になっていた。皆身体のあちらこちらに黒い終末痕を負っている。白い壁の中では今し方孵化したばかりの蟲達が蠢き、天井の蛍光灯は脈打っていた。血と病の匂いに混じり、枯れたミントの匂いがする。
「また町が一つ、不可触性シルトに呑まれたみたい」
「それで患者が一気に押し寄せたんだな」
「ええ」
病院の入り口ロビーへやってくると、やはり避難をしてきたのであろう患者達で溢れ返り、足の踏み場もない状況になっていた。皆汚れた床の上に座り、あるいは倒れ込み、汚物を嫌悪する余裕すらなく、疲弊しきっている。疲弊しつつも、痙攣した低い悲鳴を上げていた。
「ナースさん」
掠れた声に足元を見ると、一人の少年が私の靴に震える指を引っ掛けていた。指は、黒く染まっている。いや指だけでなく、体も、胸より下はほぼ黒く染まってしまっていた。
「よく、ここまで来れたな」
しゃがみ、少年の腕を取る。そうして彼を支えるフリをして、人差し指で手首の脈を測った……ない。
「わかってます。僕はもうあっち側へ逝ってしまってる、んですよね」
「それはまだ」
「いいんです。でも」
少年が身体を逸らし、するとそこにはもう一人子供が、まだ幼い少女の姿があった。脚は完全に黒く染まっている。しかし……腰までは来ていないか。
「診よう」
少女の腕を取り、脈を測る。虚な目が私を見上げる。虚な、けれどその奥に、生存の光が見えた気がした。
「まだ、間に合うかもしれない」
「本当に?」
「ああ。すぐに処置を行えば」
「あのさぁ」
声と共に私の肩が引かれる。そこには血に染まった腹を抑える、中年の男の姿があった。
「なんだ」
「なんだ、じゃないだろ。見ろこの怪我。大至急どうにかしろ。やっとの思いでここまで来たんだ」
「わかった。順番に対応するからもう少し」
「順番にじゃない大至急だと言ってるだろ! いってぇ。大至急だ。早くなんとかしろ。なんでもいいから包帯でも薬でも持って来い。大至急な」
「ナース、さん」
少女の消え入りそうな声が聞こえる。
「大丈夫。あなたはきっと私が」
「そのおじさん、血が出ているから、先に助けてあげて。わたしはいいから」
「しかし」
「おい何をぐずぐずしてるんだ! ってぇなあ! そんな死に損ない放っておいて大至急俺の治療を」
「黙れ!」
「はぁ? 黙れ? 患者様になんだその口の利き方は! 充分な治療を出来ずに申し訳ないとは思わないのか! こっちは包帯か薬さえ持ってきてくれりゃいいって譲歩してやってんだろ! そっちも誠意を見せろよ! 謝罪しろ! わざわざ病院まで来てやったってのに! 本来ならそっちから助けに来るもんだろうが! 上の人間呼んでこいよ! 患者様がいるからおまえらは生きていけるんだろうが! 早くベッドも用意しろ! 誠心誠意上等な奴をだ! もしできないなら弁護士を呼ぶからな! ともかく大至急包帯と薬! それからベッドを」
「騒ぐな。命に関わるぞ」
私は言いつつ、男に麻酔注射を打ち込んだ。
「あ、てめぇ。殺すぞ」
男の目が上を向き、後方へ倒れ込む。今この男と二人きりでなくて良かった。私の場合、本当に殺してしまうからな。少女を見ると、口を開け、僅かな、驚きの表情を浮かべていた。私は少女に、微笑む。
「大丈夫。少し眠ってもらっただけだ。さぁ、治療室へ行こう」
少女を抱え上げ、最後に少年の方へ、顔を向けさせる。
「お兄ちゃん」
「あとできみも迎えに来る。それまで少し、眠っているといい」
「はい、ナースさん……妹を、お願いします」
「ああ。任せろ」
病院の奥へ、向かおうとした。その時だった。
「笛吹院長の、総回診です」
ナースセンターからのアナウンス。彼が来る。廊下の先から、行進の足音が聞こえる。顔を上げる患者達。白い防護服を纏った一団が、やってくる。汚れ一つない、純白の一団。この穢れに浸食された世界で、その穢れまでもが最後の生命の証と成り果てたこの場所で、あまりにも白い、一団が。一団は私の前まで来ると、立ち止まり、左右に分かれた。そしてその中心より、白衣を着た男が姿を現す。男は眼鏡の奥の鋭い眼差しで私の姿を捉え、私が抱える少女に、視線を落とした。
「雪下さん、私はあなたを医療従事者として、ある程度正確な状況判断ができる人材として、評価をしています」
「ありがとうございます。では」
施術室へ向かおうとする私の行く手を、白い防護服の彼らが塞ぐ。防護メットの中で、巨大なヒルが蠢いていた。
「その少女を降ろしなさい。あなたが連れていくべきは、あちらの腹部から出血をしている男性の方です」
「申し訳ありません。あちらの男性は、私の手には負えませんので、先生、お願いします」
「なるほど。いいでしょう。ですがだとしても、あなたが連れていくべき患者は、その少女ではない」
「……おっしゃっている意味がわかりません」
「表面上だけでも終末痕が大腿部まで来ています。最後まで言った方が良いですか? その子の前で、私はそれを言いたくはない」
「……私が診ます。私のことはお気になさらず、先生はそちらの患者を」
「人手が足りていないのです。勝手なことは慎んでいただきましょう。改めて指示を送ります。その少女を降ろし、あちらの男性を連れて行きなさい」
「……しかし、その男は」
「わかっています。彼は従業員十人余りを自殺に追い込んだ、反社会的側面も持つ企業の元社長。今ではその企業も倒産し、彼は一文無しです。が、あの怪我は不可触性シルトによるものではない。充分助かります。私達は一心不乱に助かる命を間違いなく救う。医者でなくとも医療従事者にとって、それは変わりません」
「この子も助かります」
「確率は低い。その子を治療する間に、他にどれだけの命を救えるか考えなさい。今、悔しながら、私達は全ての人々を救うことはできない。少しでも生存確率の高い人間を優先しなさい。人類の未来がかかっている」
「……」
防護服の男達が私を囲う。防護メットの中で、男達の顔は幾カ所もヒルに抉り取られ、火星の表面のように表情なく、何処を見、何を思っているのかすらわからない。おそらく、彼等に意思はない。彼等は皆、笛吹に操られているだけだ。
「触るな!」
防護服の男達の手を振り払い、後退る。後退ったその先で、患者達の無数の手が私に縋り付いた。私に助けを求めるようでも、私の逃げ場を塞ぐようでもある。ただ誰も、この少女を助けることは考えていない。
「雪下さん、いい加減にしてください。その子を降ろして彼を手術室へ」
「断る! その男は悪人だ! 優先すべきはこの子であるべきだ!」
人々の手を振り払う。笛吹が眼鏡を指で抑え、首を左右へ振っている。柱時計が舌を出し、四時十一分ちょうどを知らせる叫びを上げる。防護服の男達が迫ってくる。
「自分が何を言っているのか、わかっていますか? 善人であろうと、悪人であろうと、命は平等です。あなたが言っていることは、人の命を天秤にかけることだ。神様にでもなったつもりですか?」
「違う! そうではない! 悪人はいずれ人を殺す! 間接的にでも。悪人を生かすことは多くの命を殺すことに繋がるんだ。だから生かしてはいけない。善良な者を救い、悪人は始末しなければ。人類を平和へ導く為、その為に正義はある」
「なるほど、悪人が多くの命を奪うのを防ぐために、あなたは悪人は始末すべきだと」
「そうだ」
「では問います。あなたはいったい、これまでにどれだけの命を奪ってきましたか?」
「……」
「少女を取り上げなさい」
防護服の男達の手が伸びてくる。足が、患者達に抑えられ、もう逃げられない。
「ナースさん!」
少女が取り上げられていく。私は、あの子を救わねばならないのに。少年と約束をしたのに。
「さて、皆様、ここで改めまして、当病院の方針をお伝え致します。不可触性シルトに浸かってしまわれた皆様、申し訳ございません。あれはこの世ならざる場所よりの脅威、対処方法は切断しかないものです。あちら側と繋がった箇所は、もうこの世へ戻りはしない。対処方法のないものを、我々は優先するわけにはいきません。不可能触性シルト以外による怪我・病気でご来院の方のみ処置を行います。年齢・性別・職業・前科に関わりなく、我々は全身全霊にて、処置を行うものです。不可触性シルトによる様態でご来院の方はどうかお引き取りを。脚部の終末痕によりそちらも困難である方々におかれましては、我々お引き取りのお手伝いもさせていただきます」
不可触性シルトに侵された患者達から抗議の声が上がる。そうだ、当然だ。笛吹は狂ったことを言っている。狂っているのは私じゃない。私はまともだ。身体の一部が黒く染まった患者達が、白い防護服の男達に掴みかかっていく。脚に終末痕を負った患者達が、別の防護服の男達に寒空の元へ、追い出されていく。ダメだ。こんなのは、ダメだ。弱者が虐げられている。悪人の命が優先されている。ダメだ。私は見ているだけか? 私には何もできないのか? いや……そんなことはない。
「皆様、静粛に。ここは病院です。他の患者様にご迷惑が掛かります。どうかご静粛に」
数の減った患者達の手を振り払う。私の足は、笛吹へと向かう。手にはいつの間にか、ナイフを握り締めていた。
「きみ、あの女性を抑えていただけますか。背負っている幼児はもう駄目です。もろともお引き取り願ってください」
笛吹が防護服の男に指示を送っている。指示を送るな。おまえがいては子供達が見殺しになる。善良な人々が、見殺しに。悪人ばかりが命を拾う。
「ん? なんですか、雪下さん。さぁ、あなたも早く先ほどの男性を」
「黙れ!」
笛吹が目を見開き、私を見つめる。手に、生暖かい感覚が、滴っていく。
「何を……」
笛吹は私の首元を掴み、しかし、崩れ倒れた。
ゴオオオオオオオオオオオオオオ、と、音がする。その音は外からの音だった。入口のガラス越しに、どす黒い血のような液体が、津波となって押し寄せてくるのが見える。
「は……ハハハ」
不可触性シルトがガラスをすり抜け、病棟内へなだれ込む。全てがシルトに呑まれ、この世ではない、何処かへ、連れ去られていく。どうなのだろう。あちら側の方が、あるいはまともなのではないだろうか。悲鳴が聞こえる。泣き叫ぶ声が聞こえる。私もそして、シルトに呑まれた。
七人の小人:ドック(先生)。笛吹院長に罰を与える。人の命を救うこと、それ自体は素晴らしいことだ。しかし生き永らえさせることによって多くの命を奪うだろう人間まで生かすことは、無差別に人を殺すことと変わらない。命の重さは平等ではないんだ。悪行により自らの価値を下落させた者は、悔い改めぬ限り救うべき命には値しない。そうだろう?
世界の崩壊、ありとあらゆる境界の崩壊は、いよいよ最終段階へと突入しています。現実と夢の境界は崩壊し、生物と非生物の境界も崩壊し、固体と気体の境界も崩壊し、現在と過去の境界も崩壊し、現実存在とライブラリ存在の境界も崩壊しています。スノウホワイトはいつしか現実世界に精神的連続性を持つ雪下美姫として、看護師として事態に対処していますし、あるいは実際そうなのかもしれません。もう誰にもわからないです。境界が分からなくなるということは、境界を意識しなくなるということなのです。
そうして、世界は最後の厄災、不可触性シルトに呑み込まれつつあります。名前の通り、それは触れることの出来ない泥です。封じ込めるという概念の通用しない、壁も陸の起伏もあらゆるものを透過し、地の底から溢れ出す、漆黒の泥。泥の内側は全ての境界が溶け合った、星のない宇宙よりも虚ろで不確かな空間です。一旦入ってみれば、その中は重力もなく自由に泳ぎ回れますし、好きなところへ一瞬で行くこともできます。ただし泥の外へ戻ることはできません。その前に自身がカラスなのか書き物机なのかも分からなくなってしまうでしょう。呑み込まれずただ触れただけでも、触れた箇所から次第に、あちら側、泥の内側と同じものへと変化していってしまいます。泥の内側という現象へ持っていかれてしまうのです。対処方法は不可触性シルトに触れた場所の早期切除しかありません。とはいえそれは、いずれ世界そのものを包み込む終焉、可視化されたカウントダウンなのです。