「いやだぁああぁ」
「やめてくれ、助けてくれ」
「苦しい。終わらせてくれ。終わりでいい」
陰鬱とした森に、苦痛の声が響いている。しかしながら……一見したところでは、そこに生命と見て取れるものは、ほとんど存在しない。幹に穴の開いた木々も、今にも葉の全てを散らしてしまいそうなほどに、白い。そして湿った土壌の上には、枯れ葉のように、無数の球体人形が転がり、遺棄されていた。その内完全な形を止めているものは、一体としてない。
「あア……我々ハ失敗した……コレ、では……解除鍵モ無意味」
グシャリ。言葉を発した人形の顔が、分厚いタイヤに押し潰される。停止した銀のバイクから、ドロシーとアリスは二人、最後のターニングタイムへ降り立った。
「……ギシンとアンキがたくさん転がってる」
「二体しかいない、とは思っていませんでしたが、これは少々異常ですね。これまで何体かバラしたことはありますが、同じ機種がそれを回収に来たことはありませんでした。大抵、アンキをバラした際にはギシンが、ギシンをバラした際にはアンキが回収に来ましたし、そうでなくとも気が付くとなくなっていましたからね。まさかこの森が人形達の本拠地、とも思えませんし。とすれば……いえ、この先はまだ語るべき時ではありませんね。推測に過ぎませんから。それよりもこの声も興味を引かれます」
「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ」
「息がつまる。こんなことなら、俺は」
「重い。鎖だ。身体中に鎖が」
「穴から聞こえてきてる」
アリスが一本の木へ歩み寄る。その幹の穴へ、顔を近づける。
「止めといた方がいいと思うけどにゃ~ん」
猫撫で声が頭上から。アリスが穴から顔を離し見上げると、木の枝の上に妙な猫が横たわり、尾を垂らし揺らしていた。猫は胴が幾等分にも分割されているように見え、その間からは、内臓の断片が見えている。しかし明らかに生きていて、一つの個体としての統制を有していた。
「チシャ猫?」
「ここは痛みの森。今、世界中の痛みがこの森へ集まってきてるにゃ~ん。ヨクボウなんていう自己中心的な想いを力にしているキミ達が、他人の痛みなんてものに直接触れたら、下手すりゃその場で消滅にゃ~ん」
「はーい! チシャ猫さん! はーい! 質問です! この森で何がありました?」
「オイラの身体、元に戻ると思うかにゃ?」
「痛いんですかそれ?」
「ぜ~んぜん。あんた気が付いてるかもしれないけど、あんた気が狂ってるよ」
「なるほど? 信じるつもりのない相手の言葉をどうして求めるのか? ですね」
「半分消えかけにゃ。オイラは早いとこ有るのか無いのかはっきりしたいね」
「ならどうしてアリスさんに忠告を?」
チシャ猫が身体を起こし、器用に尻尾で立ち上がる。そして前足と後足で森の四方を指差した。
「あっちか、あっちかあっちかあっち、川に沿って下っていくにゃ」
「どっち」
「どっちでも。森中の木に涙が溜まって、それが至るところに涙の川を作ってるにゃ」
「川を下った先に何があるっていうの?」
「キミはもう一生分の質問をしたんじゃないかにゃ? ならオイラは質問されてないことだけ教えてあげるよん」
「相変わらず意味がわからない」
「偉さ~が~違う~♪」
チシャ猫が尻尾からすぅーっと消え、最後には頭だけを残し、その頭も最終的にパッと消えた。
「最後にギリギリのネタ入れてきましたね」
アリスは溜め息をつく。そうして、どうして自分の周りには溜め息をつかせるようなキャラクターばかり集まるのだろうと、考え、やめた。
二人は再び銀のバイクに跨る。そして涙の川を、その下流を、目指した。
.
バイクから降りるドロシーとアリス。涙の川を下った先には、お菓子で出来た、お菓子の家があった。
「アリスさんでも流石に、誰のターニングタイムかわかったのでは?」
ドロシーが懐中時計を覗くと、ひび割れたガラスの内側で無数の針は激しく回転し、また懐中時計自体もブルブルと振動していた。
「疑いようなくね」
「ええ。行きましょう」
お菓子の家の玄関へ、二人は歩み寄る。ドロシーはそして、ビスケットで出来た扉をノックした。
「どなたさーん?」
声と共に現れたのは、二人も見知った顔だった。虚妄を漂うグレーテル。しかし、いつもとどこか、雰囲気が違う。普段シャギーボブカットのグレーテルは、今、完全なロングヘアーで、妙な話、生気があった。
「グレーテル?」
アリスは確認するように問い掛ける。グレーテルはアリスを見……退屈そうに欠伸をした。
「なんだ、あいつの友達か」
「兄様、ミルクの配達ですか?」
グレーテルの隣から、もう一つ同じ顔が覗く。そちらは虚な目で、間違いなく普段通りのグレーテルだった。
「グレーテルが二人いる」
アリスの言葉に、ロングヘアーのグレーテルはふっと笑みを漏らす。
「ないない。グレーテルはこいつ。僕はヘンゼル」
「頭から生えてきたわけ?」
「は? 意味不」
「興味深いですね~」
ドロシーがヘンゼルの目を覗き込む。ヘンゼルは少し顔を赤らめ、目を逸らした。
「何のようですか」
グレーテルがヘンゼルを押しやり、ドロシーに眼をつける。
「森に大量のギシンさんとアンキさんの残骸が転がっていたのですが、何か知ってます?」
「兄様、最近鳥を食べていませんね。今日の夕食は鳥鍋にしましょうか」
「チシャ猫以上に会話が成立しない」
「まぁまぁ、立ち話もなんだし、入りなよ。グレーテル、テーブルの上片づけて」
「はい、兄様」
命令を与えられたグレーテルはまるで一瞬にしてドロシーのことを忘れてしまったかのように、家の中へ戻っていく。招かれるまま、ドロシーとアリスもお菓子の家の内部へと進んだ。
「まぁ適当にかけてよ」
ヘンゼルに言われ、ドロシーとアリスはクッキーのテーブル席、ビスケットの椅子に腰掛ける。ドロシーの視線がグレーテルの持つ皿、その上の残骸に向かう。しかし、よく見えない。
「茶菓子ならいくらでもあるけどさ、茶はグレーテルの淹れるうっすいやつしかないよ。それでいい?」
「え、兄様」
グレーテルが首をぐらっと傾け、ヘンゼルを凝視する。
「私のお茶、そんなに薄いですか?」
「あ、ええと、まぁ、甘いものしかないし、お茶は薄い方が助かるっていうか」
ヘンゼルの言葉に、グレーテルは安堵の笑みを浮かべる。
「はぁ、良かったです。兄様のお口に合っていて。本当に」
「あぁ、うん」
ヘンゼルが二人に、苦笑いを向ける。
やがてテーブルにはケーキとチョコレート、飴細工、湯に葉を浮かべただけのような薄い茶が並べられ、グレーテルはヘンゼルの隣の席に座ると、ぴとっとグレーテルに寄り掛かった。
「お二人はいつからここに?」
「最近」
「具体的には?」
「それが、難しいんだよね。どうにもここ最近は時間ってのが狂っててさ。十数分で一日が過ぎてしまう日もあれば、一日が過ぎるのに数週間かかる日もある。だから正確にはわからない。いや、実際わからないことだらけだわ。元々、この家には魔女が住んでたらしい。それで、しばらく前にグレーテルは人形達に連れられてここに来たらしいんだ。そうして魔女を殺したらしい。で、僕はというと……気付いたらここにいた」
「気付いたら?」
「そ。たぶん異世界転生ってやつ。自分が誰かもわからないんだけどね。けどこことは違う世界にいた気がする。で、気付いたらグレーテルがいて、僕のことをヘンゼルって呼んでた。だから僕はヘンゼル。グレーテルと顔が似てる理由もわからない」
「似てるっていうか、同じだけど」
「それってやっぱあれ? 並行世界のもう一人の自分ってやつ?」
「興味深いですね……とても興味深いです。今ある問題を忘れてしまいそうになるほどに」
眼鏡の奥で、ドロシーの眼光が光る。
「森に遺棄された大量のギシンさんとアンキさん、心当たりは?」
「あー……何? 僕なんか疑われてる感じ? ギシンとアンキって、グレーテルを連れてきたっていう人形達のことでしょ? え? 大量って二体じゃないわけ?」
「……」
ドロシーの視線が、ヘンゼルの表情を探る。ヘンゼルは心地悪そうに苦笑いを浮かべ……アリスはそんな二人の様子を眺めつつ、ティーカップを掴み上げた。
「アリスさんステイ!」
「え、犬扱い?」
「そのお茶を飲んではいけません。多分そのお茶には毒」
ドロシーの言葉が途切れた。そしてその饒舌から、赤い血が滴り落ちる。ドロシーの頭には巨大な鎌が、深く突き刺さっていた。
「ドロシー……」
「兄様、私達の家に知らない人がいます。誰ですか」
「はははっ、そう、ここは僕等だけの家だね。他に人がいるのはおかしいよね」
「はい、兄様。おっしゃる通りです」
新たな大鎌がグレーテルの背から、伸びるようにアリスを襲う。アリスは跳び退がり、すると手に持っていたティーカップがバターのように、スルッと斬れ落ちた。グレーテルがテーブルに飛び乗り、大鎌をぐるぐると回す。アリスはライブラリから赤い宝玉の埋め込まれた短銃を取り出すと同時、引き金を引き、グレーテルの額に風穴を開けた。ヘンゼルが身を屈めつつ老婆の顔を模した杖を取り出し、高速詠唱を口ずさみつつキッチンの奥へと這っていく。アリスがヘンゼルを追おうとしたその時、再びグレーテルの大鎌が空を斬り、アリスは半ば強制的に突っ伏した。振り下ろされる追撃を転がり避け、跳ね上がり、アリスは家の扉に背を当てた。
「この土壇場で溶解の魔銃ぶっ放すとか、なに? 前々からグレーテルのことそれで始末するつもりでいた感じ?」
キッチンの奥からヘンゼルの声だけが聞こえる。アリスはドアノブに手をかけ、ドロシーに視線を向けた。ぴくりとも、動かない。
「病を治す銃。もとい、問題部位そのものを溶かす銃。対グレーテル武器には最適解かもね。けど残念。僕の回復杖は全てを元に戻すことに特化してるんだ。狂った頭も狂ったままに、ああ、綺麗に元に戻すとも」
「兄様、そうです、人の家で銃を撃つなんて、狂っています。始末しましょう」
「そうだね。たぶんそのアリスが最後の刺客だ。僕等の平穏を取り戻そう」
「最後の刺客?」
「邪魔者ぁああ!」
グレーテルが大鎌を振り上げ跳びかかる。アリスは扉を開け、お菓子の家の外へ飛び出した。
.
悲鳴が聞こえる。嗚咽が聞こえる。嘲笑が聞こえる。咆哮が聞こえる……いつしかアリスは痛みの森を彷徨っていた。どの方向へ歩いても、森から脱することはできない。形勢逆転のための足掛かりすら見つからない。そして気づき始める。この森はヘンゼルとグレーテルの領域。誰も逃げ出すことのできない、狩場だと。二人は追ってこない。しかしいつ追ってきても不思議ではない。あるいは、追う必要すらないから追ってこないのかもしれない。いつ襲われるかわからない緊張感は、アリスの精神をじわじわと摩耗させていく。
「ドロシーがやられるなんて。ただの不意打ちなんかでやられるはずないのに……ちがう、ただの不意打ち過ぎたんだ。グレーテルが毒のことを話されたから攻撃してきてたなら、ドロシーはきっと避けてた。でもあの時グレーテルは……毒とか関係ない。ドロシーがそのことに気付いても気付かなくても、お茶の話をしようとしまいと、攻撃してきてた。しかもあの瞬間急に思い立って。わたしが毒を飲んでからの方が効率よく邪魔者を排除できたはずなのに。論理的じゃない。感情的でもない。ヘンゼルの指示でもなく。だからドロシーのセンサーに触れなかった。グレーテルはドロシーの、天敵だった」
「冴えてるね。それでこそ私の生徒だ」
振り返る。それはアリスにとって、何よりも心地の良い声だった。しかし同時に、酷く心を掻き乱される。
「先生……」
枯れた木の間、ぽつりと据えられたベンチの上に、黒いスーツを着た一人の男が座っていた。手にした本を傾け、アリスに微笑みを向けている。アリスは男に歩み寄り、ただ、立ち尽くした。
「座れば?」
「先生……わたし」
「わかってる。よく、ここまで来たね。頑張ったね」
「……」
アリスの瞳に涙が溢れる。その理由は、本人すらも正確には理解できていなかった。ただただ、ずっと会いたかったから。会うためにこれまで戦い、殺してきたから。会いたいという想い以外から、目を背けてきたから。会ってしまったなら……その先へ進まなければならない。
「ほら、隣に」
「うん」
アリスはベンチに、男の隣に腰を下ろす。気付けば痛みの声々は消え、薄ら寒い森は温かな白い光に包まれていた。
「世界が終わる夢を見た。何もかもが崩れ去って、でも決定的な終わりは訪れなくて、誰もが呆然と立ち尽くしているの」
「きみも?」
「うん……ううん、わたしは、先生を探してた」
「どうして私を?」
「わたしのことを全て知ってるのは、先生しかいないから」
「……そうか」
時間が流れる。二人、しかし、決して触れ合うことはない。あるいはそうした可能性があったとして、けれどこの時間では、それは起きなかった。
「会いたかった。メールに答えてくれなくなってからは、昼の教室の先生は、わたしが知る先生じゃなかったから」
「答えたさ」
「答えになってない答えだった。あれじゃ、帽子屋と何も変わらない」
「……私には家族がある」
「受け入れて欲しいなんて願ってない。わたしはただ、会いたかった。会えなくなってしまった、あなたに」
「……すまない……きみの憎しみは、当然だ」
「…………だから、先生はバカなんだ……初めて愛した人を、憎めるわけなんてないじゃない……どんな扱いを受けたって……だからこそわたしは、ただ、会いたかった。ただ会いたかっただけなの……先生」
アリスの手が、指が、男の腕へ伸びる。そうして指が触れたかと、思われた瞬間、男は煙のように消え、あたりは燃え盛る森へと、変化していた。
「……最悪。本当に、最悪な世界」
空までもが赤く燃えている。その空には複数の飛行船が浮かび、この世界から逃げ出そうとするかのように、上へ上へと向かっていた。
「パンケーキ食べたい、パンケーキ食べたい」
木々が焼ける音に混じり抑揚のない声が聞こえる。アリスは溜め息をつき、しかしその溜め息はいつもと違い、小さく、長く続いた。焼け倒れる木々の間から、虚な目のグレーテルが現れる。大鎌は痛みの森の声を魔力に変換するように、その刃に緑光を宿らせていた。ある程度アリスと距離を開けたところで、グレーテルはぴたと、立ち止まる。
「兄様、いました。まるで窯の中のように熱いです。殺したら消える? ふふ、逆なんですね。地上が天井になったら、兄様、受け止めてあげますね」
グレーテルが大鎌を構え、すた、すた、とアリスに近づく。
「グレーテル、兄様に会えて良かったね」
「兄様とは始めからずっと一緒ですよ」
大鎌が、振り下ろされた。
「んぎぃあががが!!」
アリスは後退る。誰かがアリスを庇い、大鎌の一撃を受けていた。
「ドロシー!」
「だから、それは万能の呪文ではないですって」
痛みを堪え振り返るドロシーは、ひび割れたその顔、その身体から、銀河のような光を漏らしていた。
「兄様の不死薬? あぁ、でももう終わりですよ。三度目はありません。そういう鎌です」
「ええ、理解していますとも。初撃で私の中の不死が斬られたのを感じましたので。もうほとんど古典的ゾンビ、よく喋る以外は。だから喋るために来ました。アリスさん!」
「っなに?」
「武器出しなさい武器! 戦意喪失してる場合じゃありません! なに諦めてるんですか! 偉業は最後までなさなければ無意味! もしくは他人の功績! もう他人もいない世界であれば、なんとしてでも勝ってください! さあ武器を出して! そして逃げて!」
「言ってることが無茶苦」
アリスは言いかけ、ドロシーの手に何かスイッチのようなものが握られているのを見た。
「っ!」
後方に飛び避けつつ、幅の広い大剣を取り出す。そして前方にかざした。次の瞬間、ドロシーの身体から眩い光が溢れ出す。光は一瞬にして森の全土に広がり、彼女がいた場所に大きな爆発をもたらした。
「くっ、そ」
ジリジリと、熱が地を焼く音がする。煙が、嫌な匂いの煙が、風に流されていく。地に立つ、一つのシルエット。アリスは理解した。何処かに潜むヘンゼルを、ヘンゼルを始末しなければ、グレーテルは倒せない。
「兄様。またです。誰ですか。目の前が暗くなったとき、最後に見える、あのひ、ひ、ひ……っうぐぉえっ」
グレーテルが嘔吐し、大口を開く。するとその口から、ぐねぐねと肉塊が吐き出された。肉塊が地に落ち、のたうつ。やがてそれは人型に、シンデレラの姿へと変容した。
「兄様、すみません、吐いてしまいました」
「大丈夫だよ、シンデレラの一人くらい」
ヘンゼルの、声だけが聞こえる。
「グレーテルにはまだ、これまで勝利し取り込んだ無数のキャラクターズのライフと、僕が与えた不死の力、そして僕の回復杖がある。僕達の勝利は揺るがない。人形供の思い通りになんて、させない」
「はい、兄様。敵を始末して、お祝いにパンケーキを焼きましょう」
「一緒に焼こうね」
「はい。兄様と一緒に」
飛び交う火の粉の中、幸せな微笑みを浮かべる、グレーテル。アリスは大剣を構え、あたりに目を配った。
「姿を現せヘンゼル!」
「ははは! お断り! 行け! グレーテル!」
「はい、兄様」
アリスはグレーテルの攻撃に備える。備えようとした。しかしその瞬間、目と鼻の先にグレーテルの虚な瞳があった。こんなに近くにある瞳、にも関わらず、虚妄の瞳は何も見ていない。まるで近づいてはいけないあの世の瞳の眼前へ、自ら進み出てしまったような、ゾッとする感覚。
「死んでくださいね」
大鎌が斬り上げられる。アリスは先刻のかぐや姫の動きを思い出し、大剣を軸に、身体全体を宙に投げ出した。大剣を大鎌の刃が打ち、アリスは天へ跳ね飛ばされる。グレーテルが見上げている。アリスは大剣を捨て、獣の頭蓋を模したボウガンを取り出した。眼下のグレーテルへ、狙いを定める。
「……当てて、意味あるの?」
アリスは自問し、ボウガンを構えるのをやめると落下に身を任せた。いつの日かも味わった、落下の感覚。無力感と、虚無感と、そうしたものさえ塵となって、落下と共に消えていく感覚。束縛のアリスは、束縛されていなければならなかった。でなければ、後には虚無しか残らない。虚無と虚妄では、まだ虚妄の方がマシ。そんなことを考え……ただふと、ドロシーの最後の言葉が頭をよぎった。偉業は最後までなさなければ無意味。偉業なんて、どうでもいいのに。けれど良く考えると、ドロシーの言葉からそんな言葉が出たことは意外だった。あの自己中ドロシーが、本当に世界の為を想っていたかどうかはともかく、他人からの評価を気にしていたなんて……。
「ふっ」
逆さのアリスの口元に、笑みが漏れた。
「全然、説得力ないし……っ」
ボウガンをさっと構え、グレーテルへ放つ。アリスが着地するその瞬間を狙っていたグレーテルの腕へ、矢が突き刺さった。
「うぐっ」
グレーテルが顔を歪め、大鎌を落とす。アリスは着地し、すかさず矢をセットしつつグレーテルへ飛びかかるとその身体を押し倒し、超近距離で顔面に矢を放った。
「もう一発……っ!」
更にもう一矢、次いで二矢、三矢、四矢。無慈悲な猛攻がグレーテルの顔面を襲う。
「終われ! 終われ! 終わ」
アリスの腕を、グレーテルの手が掴む。矢がセット出来ない。そして凄まじい力が加わり、アリスの身体は焼ける地の上へ投げ転がされた。炎の奥から回復杖の光が飛び、グレーテルの頭部を元に戻す。
「埒が明かない」
アリスは起き上がり、すると腕に痛みが走った。痛む手を堪え、ボウガンに矢を込める。が気付けばグレーテルはすでに立ち上がり、ライブラリより緑と紫の光を宿す、狩猟弓を取り出していた。
「流石です、兄様」
「せめてもうちょっとゆっくり回復して欲しい」
「兄様? 兄様? 兄様? 兄様?」
「そのまま同じ言葉繰り返してて」
ボウガンの矢が放たれる。矢はグレーテルの口から入り、後頭部に内側から突き刺さった。そのまま後方へばたりと倒れる。
「油断してんなよ、メンヘラ女」
振り返る。すると燃える木々の間から、ヘンゼルが現れた。頭に拳銃を突き付けられている。ヘンゼルの背後で拳銃を手にしているのは、シンデレラだ。
「こっち見んな。すぐ起き上がってくるよ。回復杖なくても基本不死身だ。こいつもそうだし。あー面倒だねぇ~」
「面倒なら離したらいいと思うよ」
ヘンゼルが不敵にニヤつく。
「離すかバァカ。あたしを誰だと思ってんのさ? シンデレラだよ。復讐はしっかりとさせてもらう。おいブラコン、こっち見な」
シンデレラの言葉に、グレーテルが身体を起こす。
「兄様」
「よしそれでいい。あたしの話をよぉく聞け、こいつは」
「兄様ああああ!!」
グレーテルがシンデレラに飛びかかる。文字通り、信じられない跳躍力で。
「くっそ」
シンデレラがヘンゼルの頭部を撃つ。そして間一髪グレーテルの掴みかかりを避け、火の中へ姿を隠した。グレーテルはヘンゼルを支え、兄様兄様と呟きながらその回復を待つ。
「頭逝かれ過ぎて人質も意味なさないね」
シンデレラの声だけが聞こえる。
「メンヘラ女、今のあたしじゃ到底無理だ。だからあんたに託す。あの兄さん、ヘンゼルは、偽物だ」
「偽物?」
「そう。正体はお菓子の家の魔女だよ。グレーテルが殺したはずの魔女。でも生きてた。それでヘンゼルになりすましてグレーテルを操ることを考えたんだ。だから何とかしてこのことをグレーテルの耳に入れられれば」
「真実を暴いたところで、真実を見る者がいなければ無意味だ。僕の妹は虚妄しか見ない」
ヘンゼルが頭を起こし、ニヤニヤと笑う。
「兄様、良かった。でも危険です。私の後ろに。私が守ってあげますからね」
「うん、頼むよ、グレーテル」
「あぁ、兄様……頼まれます」
グレーテルがうっとりとした表情を浮かべ、白眼を剥き、かと思うと圧の籠った視線をアリスへ向けた。
「来るよ」
グレーテルが飛び上がる。木の上へ、枝に足を絡ませ、逆さになり矢を放ち、アリスは避け、ボウガンを構えた。が、いない。
「下だメンヘラ!」
視線を下ろすと、グレーテルがまるで獣のように姿勢を低くし、猛進しながら今まさに二の矢を放とうとしていた。放たれる矢に、アリスは反応しきれない。左肩に矢が刺さる。そしてグレーテルは止まらない。更に距離を縮め、三の矢を引こうとしている。アリスは牽制にボウガンの矢を放ち、ライブラリより燃える刀を取り出し持ち替えた。その瞬間グレーテルが突進し、鈍器のように打ち付けられた弓を、アリスは刀で受ける。グレーテルが首を伸ばし、アリスの首に食らいつこうと歯を鳴らす。噛み付かれれば、間違いなく肉を深く抉られる。
「メンヘラ! 何ボケっとしてんだ!」
「さっきからメンヘラメンヘラうるさい! わたしはメンヘラじゃ、ない!!」
炎の刀がグレーテルを押し飛ばす。しかしグレーテルは地に足先が着くと同時、再度突進を繰り返した。が、アリスも早い。既に剣を捨て槍の矛先をグレーテルへ向けていた。とはいえ、グレーテルには意味をなさない。グレーテルだから意味をなさない。グレーテルの胸に槍が突き刺さる。突き抜ける。それがグレーテルには、動きを止める理由にならない。
「いぐぁあああ!」
グレーテルの歯がアリスの右肩を喰いちぎる。アリスの左肩の矢が抜かれ、アリスの左眼へ、突き立てられる。
「っが、あああああああ!!」
再び、グレーテルの大口は開かれた。アリスは激痛の中、赤く歪んだ視界の中にそれを見る。グレーテルの喉奥には、全てを虚妄へと呑み込む、果ての絶望があった。
「っと、そこまでです」
グレーテルの頭を何者かの手が掴んだ。次の瞬間、青白い炎がグレーテルの頭部を消し飛ばす。グレーテルの身体は槍と共に崩れ落ち、そこには死んだはずのドロシーが立っていた。
「ドロ、っく」
「ドロックではありません、ドロシーです」
「ちが。痛みが。どうして、生きて」
「死にましたよ。ですがここは最も先まで進むことができた時間。ええ、放棄してしまうにはあまりにも惜しいです。なので来ました。というか私の死亡時自動プログラムが呼んだんですね、私を。そしておおよその状況は把握しました。つまり」
ドロシーが突き刺さすような蹴りを放つ。アリスは突き飛ばされ、木に打ち付けられてへたりこんだ。
「ドロシー、なんで」
ドロシーがニコッと笑う。そして縦に真っ二つ、両断された。両断されたドロシーの間に、紅い剣を赤い天へ向ける、グレーテルが立っている。更に剣を横に振り、追い打つように、ドロシーの首を跳ね飛ばした。
「兄様、お祭りでしょうか」
「……勝てない」
赤い天より、燃え盛る飛行船が墜落してくる。一機、二機、三機。燃え盛る飛行船が、燃え盛る森へ。全て炎に包まれていく。最後の炎が世界を焼却する。
「う、ぅうぼぉえ」
グレーテルが肉塊を吐き出す。肉塊は蠢き、やがて人型に、ピノキオの形へと変容した。
「はぁ、はぁ、すみません、また、吐いてしまいました」
「大丈夫。最後のアリスはもう戦えない」
ヘンゼルがグレーテルへ歩み寄り、その頭を、優しく撫でる。
「兄様ぁ」
火の粉が降り注ぐ、アリスの視界。みしみしと焼け倒れる木々の音が響く中で、双子が仲睦まじく微笑んでいる。
「さぁ、トドメだよ。そしたらパンケーキを焼こう」
「はい、兄様」
グレーテルが幸せそうな表情を浮かべ、アリスの方へと近づいてくる。
「パンケーキを焼きましょう。パンケーキを焼きましょう」
「待って」
「兄様のパンケーキにはストロベリージャムをたっぷり、それからホイップクリームも」
「待って。ヘンゼル、妹止めて」
「待ってが通用したら殺し合いは起こらないよ」
「苺ものせてあげますね。一個? いいえ、三個のせてあげます」
「そうじゃない。そうだけど。なんで殺し合ってるのかわからない。わたしとドロシーは、あなたに招き入れられて、あなたの家に入っただけでしょ。攻撃される理由がわからない」
「チョコレートシロップはどうしましょう。兄様の今日の気分を考えないと。今日の兄様は」
アリスの眼前で、グレーテルが紅い剣を振り上げる。
「甘酸っぱい感じでしょうか、甘さで酸味も包み込みましょうか」
「グレーテル、ストップ」
「……兄様?」
「ちょっと、こっち戻っておいで」
「はい」
グレーテルが剣を下ろし、ちょこちょことヘンゼルの元へ戻っていく。
「ありがとう」
「いや、あんたのことは殺すよ。けどね、問答無用で殺したら、あんた達と、人形達と一緒だ。だから僕は、質問には答えよう」
「うん、それでいい。わたしも生きていたいわけじゃない。けど、わたし達何やってんだろって。どうしてこんなことしてるのか、知ってたら教えて」
「……はぁ。なるほどね。まぁ、そうか。僕もきみ等も、被害者ではある。全ての生命がそうさ。人形達がいなければ、こんなことにはなってない」
「人形達がどう関係してるわけ?」
「やつらには何かしら、目的がある。それに関しては依然として不明。けどその為の方法が、キャラクターズ同士の殺し合い、もしくはモノガタリ内での大量殺戮なんだよ。僕等ヴィランズはこれまでに、幾度となく、人形達の連れてきたキャラクターズに殺されてきた。まぁ悪人なんだし、ある程度は許容するさ。けど人形達はやり過ぎだ。僕等ヴィランは必要悪なんだ。僕等のような、悪人がいる。明らかに自分達とは異なる存在として。異質なものとして。童話ってのは子供達にそう言い聞かせるためにあるのさ。悪は自分達の外側にあると。その虚妄が、この世界に平穏をもたらしている。なのに、あの人形達ときたら手当たり次第にデリートだ。悪の受け皿がなくなったら、どうなると思う? 当然、悪意が世界に溢れ出す。外界のものとしてでなく、自身の体液のように、ね。だからここらで一旦、人形達には世界から退場してもらわないといけない。もちろん、人形達の操り人形である、キャラクターズ達にも」
「わたしはあいつらの操り人形なんかじゃない、って言いたいけど……確かにね。言いなりにはなってた。先生に会うには必要だったから。でも、さっき……この森が見せた幻影か、わたしが見た幻覚か、先生に会った、気がする……会えればそれでいい。そう思ってた。でも、思っていたのと違った。もしかすると思ってすらいなかったのかもしれない。充足感なんてなくて、ただ虚無感があっただけ。わたしの物語、不思議の国のアリスには、教訓もゴールもない。迷い込んで、迷い続けて、迷路の一番奥、行き詰まりで、パッと現実に戻る。虚無がガラクタを巻き込んで、かろうじて形を成した、そんな在り方」
「兄様、気分が沈みます。殺しましょう」
「グレーテル、ダメだ。そんな理由で人を殺しちゃいけない。アリス」
「わたしは構わない。殺してくれても、殺さないでくれても」
「きみの物語は人生そのものだ。他のキャラクターズの物語よりも、一番現実を映してる。現実の人生には、教訓もゴールもない。過程なんだ。狂った連中に会って、散々振り回される。それが人生ってもんだよ。きみも楽しかったりしたろ? マッドハッターや、チシャ猫や、ハンプティダンプティ、トゥイードル・ディーとトゥイードル・ダム、公爵夫人なんかとの出会いとかさ」
「……あんまり」
「……」
飛行船が墜落し、爆発する音が聞こえる。その爆風が、アリスと双子の間を過ぎ去っていく。
「あぁ、そうだよね。人形達が選んだ子等は、皆かわいそうだ。この子も、あんたも。他の子等も、目を見てわかってた。だから、悪いが身勝手な老婆心ってやつで、あんたの痛みも終わらしてやるよ。グレーテル、束縛のカイナを。それで方をつけよう」
「はい、兄様」
グレーテルが紅い剣を捨て、青い、歪に増設されたような形状の大剣を取り出す。
「束縛から解放され、虚無へと落ちたアリス。きみをきみの名を持つ剣で、終わらせよう」
グレーテルが大剣を構え、跳躍の姿勢をとる。
「彼女のあるべき場所へ」
「はい、兄様」
グレーテルが跳ぶ。そして次の瞬間、アリスの眼前へ。アリスは、大剣を振りかざす、終わりの使者を見上げた。
「うん、終わりでいい」
金属音が響く……アリスとグレーテルの間に、大きな影が立ち塞がっていた。その身体は胴鉄で出来ている。森にはまるで似つかわしくない、無骨な潜水服を着た何者かが、立っていた。
「言ったはずです。おおよその状況は把握したと。その時点で、私の勝利は確定しています」
ドロシーが手にした機械杖で、グレーテルを弾き飛ばす。
「状況を把握したということは、私の場合、策は打たれた、ということなんですよ?」
潜水服の中で、ドロシーがニヤッと笑う。
「しつこいな」
「ええ、当然です。全ての試行は求める結果の為なのですから。途中失敗はあるでしょう。幾度となくあるはずです。しかし結果的に、私の探求は実を結びます。それは、その求めた結果が得られるまで、決して諦めることはしないからなので」
ドロシーはそう言って、アリスに手を指し伸ばす。アリスはため息をつき、ドロシーの手を掴み、立ち上がった。
「アリスさんは束縛されてこそなんです。振り回されてこそなんですよ。そういうキャラクターがいてもいいじゃありませんか。そのキャラクター性を憐れむなど、傲慢が過ぎます。アリスさんは振り回されてなんぼ。そして今回アリスさんを振り回すのは、あなたではなく、私です。アリスさん、合体技いきますよ!」
「え、そんなのあった?」
「ありませんね! であれば魔女さん、あなたを倒すのはやはり私のようです! これまでギシンとアンキが遣わした無数のキャラクターズを、そしてギシンとアンキ達も、あなた達は幾度となく打ち滅ぼしてきたことでしょう。二人、力を合わせて。その奮闘は称賛に価します。なので私がラスボスです。魔女殺しに慣れた私が、お菓子の家の魔女、あなたの最後の敵になりましょう。さあ! 決戦の時です! 私との、私達との!」
グレーテルとヘンゼル、二人を囲むように、無数の穴、空間の歪みが開いていく。
「ライオンの勇気を!」
「カカシの叡智を!」
「キコリの不屈を!」
声と共に、次から次へとドロシーが現れる。別の時間から、これまであった時間から。全ての時間が収束するように、無限のドロシーが集結する。
「冗談でしょ」
ヘンゼルは苦笑いを浮かべた。潜水服のドロシーはどこか寂し気な笑みを浮かべ、機械杖で地を鳴らす。
「さようなら、私達」
機械杖の魔力がアリスの傷を癒す。そして同時に、無限のドロシー達はヘンゼルとグレーテルに襲い掛かった。
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ドロシーとお菓子の家の魔女、そしてグレーテルの戦いは、一昼夜に渡り続いた。ただ暴力による痛みの声が、幾度となく世界にこだました。木々は全て倒れ、今はただ消えぬ炎の残骸と化している。炎に照らされ、高く積み上げられたドロシーの遺体の山、その頂上に、グレーテルもまた横たわっている。死んではいなかった。いずれまた起き上がれるだろう。しかしすぐに起き上がることは叶わない、ようやくそれだけのダメージが、グレーテルに蓄積された。
「さて」
傍観を決め込んでいた潜水服のドロシーが、数時間ぶりに動く。重い足音はやがて、血に濡れた土の上にへたり込むヘンゼル、お菓子の家の魔女の前で立ち止まった。
「は、もう終わり?」
ヘンゼルは苦しそうに言い放ち、口から血を吐き出した。
「ええ、もう他の私は必要ありません。これ以上は、あなたを倒したあと私同士で殺し合いをしなくてはならなくなってしまいますから」
「そう……ふ、いいことを、教えてやるよ。慢心は、命取りだ。グレーテルはまだ動ける。それに僕には」
「奥の手がある。そうですね? そしてもうすぐその奥の手を使うタイミング、違いますか?」
「……そこまでわかってるならどうして」
「そこまでわかってるから、ですよ。その奥の手は、使って欲しくないんです」
ドロシーが機械杖を縦に振る。すると空間が裂け、タイムホールの穴が開いた。
「ちょ、まさか」
「ええ、もちろんそのまさかで」
潜水服の中でドロシーは微笑みを浮かべる。そしてヘンゼルを掴み上げると、タイムホールの中へポイッと放り込んだ。
「ちくしょおお!」
ヘンゼルが、お菓子の家の魔女が時空の渦の中へ落ちていく。ドロシーはすかさず機械杖を振り、タイムホールの穴を閉じた。
「永遠にタイムホールの中を彷徨ってくださいね」
懐中時計を取り出し、覗く。文字盤上の無数の針は今、完全に停止し、微弱に振動していた。
「これでわたし達のミッションは完了?」
アリスが隣から懐中時計を覗き込む。
「ええ、おそらくこれで、全てのターニングタイムの、私達が変えるべき瞬間は変えることができたはずです。ターニングタイムにおける非存在の存在は十分に棄却できたかと。非存在の側へ行ってしまったいばら姫さんを、必要最低限存在側へと引き戻すこともできたでしょう。つまり、橋は成りました。あとはスノウさんがこの橋を渡って、無事にいばら姫さんの元へ辿り着くことを祈るだけです」
「あとはスノウホワイト次第、か」
「その通りです。まぁそういうわけで……お菓子の家でも食べに行きましょうか? というより焼き菓子の家ですかね?」
アリスは遠く、何処までも続く赤い空に目を向けた。森の彼方、町の上空に、あれは月人の宇宙船だろうか。それが地上を、町を焼き払っている。その下に地獄が広がっていることが容易に想像できた。
「ドロシー、全て終わった時、この世界はどうなるの? 全て元に戻るの? それともただ、あり得ないものが消え去るだけ?」
「さぁ、どうでしょうね。作戦が成功すれば、この世界に未来が訪れるのは確かですが、それ以外のことは不明です。全てが存在側の事象として記録されるのか、あるいは新しい未来に合わせ過去は改変されるのか、もしくはそもそもの過去から現在までが再構築され、そこから未来が形作られるのか。ですが、アリスさん、それらは大きな問題ではないのです。私達の世界はこれまでにも幾度となく、抗いようのない災害に見舞われ、多くの平和の意志に反して争い合ってきたのですから。それはこれから続く未来においても変わりないでしょう。だとしてもです。世界には存続させるだけの意味と価値があるのです。新たな発見と、新たな歩みがある限り」
「……わたしは時々、すべて終わりにしてしまった方がマシなんじゃないかと、思う時がある」
「ええ、わかります」
「いずれ、そのことであなたと殺し合うことになるかもね」
「……ふふ」
ドロシーは微笑む。侮る風ではなく、挑発する風でもなく、ただ、優しく。そして言った。
「アリスさんは、私が知る限り人間らしく、そして優し過ぎます。ですがもし本当に世界を終わらせたくなったのなら、人類代表として、私はあなたの前に立ちはだかりましょう。その時には想像でき得る限りの策略と武器の御準備を。私は他の誰よりも手強い、ラスボスです」
燃え盛る地。燃え盛る空。巨大な黄金の天使達がラッパを手に滑空している。頭部の上半分はなく、代わりに終焉の炎が咲き揺らいでいた。
お菓子の家の魔女はグレーテルに敗北した。首だけになった彼女は森の外へ逃げ延び、主食、力の源である子供の収集を始める。協力をしたのは美を求める死の表象、ハーメルンだった。ハーメルンの収集能力により、魔女はかつてない魔力を獲得する。ハーメルンには報酬として不死の薬が与えられ、魔女はお菓子の家へ戻った。
そのころ、グレーテルにもライブラリと現実の融解の影響は出始めており、グレーテルの虚妄の瞳に映る兄の姿は、現実世界にて精神的連続性を持つ少年の姿となっていた。魔術によりグレーテルの精神を覗き込みそのことを知った魔女は、少年の姿に変身する。お菓子の家へ戻った魔女の目的は始めからグレーテルを殺すことではなく、グレーテルをけしかけたギシンとアンキを始末するため、グレーテルを意のままに操ることだった。
少年の姿でグレーテルと暮らし始めた魔女にもその姿を通して、その姿故に、現実側のグレーテルの意識・知識が流れ込んでいく。しかしそのことはさしたる問題ではなく、むしろグレーテルの信頼を得るための材料として役立った。
魔女とグレーテルは協力し、ギシンとアンキ、そして二体がけしかける数々のキャラクターズを迎え撃つ。殺したキャラクターズは料理し、取り込み、自らの力の一部としていった。そうして全てのキャラクターズを倒したと思われたその時、時空の彼方から最後の刺客、ドロシーとアリスが現れる。
境界崩壊の影響は幻覚として、アリスの前にも現れます。それは現実でアリスと精神的連続性を持つ少女の、その記憶により造り出された幻覚でした。アリスの願い、「あの人に会いたい」という願いも、境界崩壊の影響を受け、そのあの人が不思議の国のアリスという物語の作者なのか、あるいは不倫相手の教師なのか、明確な境界は失われてしまっています。それ故に、アリスの願いは叶ってしまいました。叶った上で、そこに何もないことを知ってしまったのです。その先に何もないことを。これからアリスは新たな目的を見つけるのでしょうか。あるいは無気力に生きるのでしょうか。それとも、人類の敵となってしまうのでしょうか。それはまた別のお話です。