本当は残酷すぎるシノアリス童話   作:司薫

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罪なき者を罰せ

 暖かな日差し。心地良いそよ風。ゆったりと靡く白いカーテン……時折、鳥のさえずりも聞こえてくる。穏やかな時間だった。私にとって、唯一の。目の前では小さな眠り姫がすやすやと息を立てている。私はそのベッド脇の丸椅子に腰かけ、絵本を広げていた。絵本のタイトルは……どうでもいい。

「クマさん二匹、笑ってる」

 声に、顔を上げる。驚いた。彼女が瞼を開き、私の方へ顔を向けている。やはり眠そうではあるが……微笑みを、私に向けている。

「すまない。起こしてしまった、かな」

「すまない? ふふ。ナースさんも眠った方がいいよ」

「そうだな。しかし……久しぶりに、長いこと眠った後、そんな気もする……そしてやはり、私は眠るのが嫌いだ」

「クマさんはすっかりお友達?」

「……ああ」

 微笑む。微笑んでいる。いつぶりだろう、こんな自然な、笑みは。

「林檎、食べるか?」

「わぁい」

 微笑んでいる。わたしは、まだ微笑んでいる。果物ナイフを取り……林檎の皮を、剥いていく。赤い林檎の皮を剥ぐと、内側は白い……人間と逆だ。

「剥けたぞ」

 切り分けた林檎を、フォークに刺す。

「あぁん」

 いばら姫が口を開けて待つ。雛鳥みたいだ。

「喉に詰まらせるなよ」

 林檎をいばら姫の口元へ。いばら姫は林檎を小さく齧ると、満足そうに微笑んだ。

「べりーでりしゃす」

「良かったな」

 微笑んでいる。

 それからの時間が数分だったか、数十分だったか、わからない。やがていばら姫はあくびをしだした。全てを眠りへと誘う小さなあくび。そう、全てだ。世界ごと、眠りへと誘う。私も、瞼が重くなってきた。

「ふぁ~。あったかくて気持ちいい。眠たくなってきちゃった」

 いばら姫が眠りにつく。世界が眠りにつく。目覚めたとき、もうこれまでの世界はない。世界は、ない。

「バランスなのだろうな」

 私は服の内側からヂアミトールの小瓶を取り出し、手に、握り込んだ。

「残酷な世界だ。この世界は善悪なく、その天秤の均衡を保ち続ける」

 窓の外に目を移す。天では不可触性シルトが波打ち、地は人間の溶解物で満たされていた。地獄だ。しかしこの内の誰一人、死してすらいない。

「この記憶が、私のものか、そうでないのか、現状ではそれすらも定かではない。しかし……私はかつて、これからするのと同じ方法で、悪人を裁いた」

 部屋の時計の針が回転している。長針は狂ったように先へ進み、短針はゆっくりと、逆戻りをしていく。気付けば真夏のアスファルトに埋め込まれたような暑さの中、呼吸さえ苦しくなっていた。空間がその暑さで歪んでいる。同時に酷い眠気が、押し寄せてきている。この眠りに落ちたら、もう次に目を覚ました時、私は人の形をとどめてはいないだろう。

「バランスなんだ。だから仕方ない。今度は無垢で善良な、私が救うべき、あなたに、同じことをしなくてはいけない。私を許さなくていい。私もこの世界を、決して許しはしない」

 椅子から腰を、上げようとした……上げなくては……重い。重力が何十倍にもなり、私の肩にのしかかってきている。割れるような頭痛が眼球にまで響き、まともに目蓋を開くことはおろか、一点を見定めることすらかなわない。

「あ、くぁ、嘘だろ」

 吐き気が込み上げてくる。しかし、食道を直接締め潰されたように、何も吐くこともできない。口からただ、体液が漏れ出していく。全てが理解できていた。この異様な体不調は、私の脳が作り出した幻覚だ。いばら姫の無意識の抵抗であり、世界の防衛機構だ。世界は完全な融合へと進んでいる。私達にとって、生命と物質にとってそれは紛れもない終焉。しかし世界にとって、全ての消滅こそが終焉ならば、それ以外の全ては恒常的な変化の一つでしかない。私は服の内側からヂアミトールの小瓶を取り出し、手に握り込んだ。

「残酷な世界だ。この世界は善悪なく、その天秤の均衡を保ち続ける」

 窓の外に目を移す。空は波打つ不可触性シルトで覆われ、地上では人間の溶解物が隙間なく蠢いている。地獄のようだ。多くの人間が自我の一部は失うことなく、膨大な溶液に取り込まれ、死ぬことさえ許されない。

「この記憶が、私のものか、そうでないのか、現状ではそれすらも定かではない。しかし……私はかつて、これからするのと同じ方法で、悪人を裁いた」

 時計に視線をやる。長針と短針は異なる向きへ回転し、もはやいずれの時間も示してはいない。あるいは時間という概念自体が、不可触性シルトの一部として溶けてしまったのかもしれない。時計が歪む。いや、そうではない。病室全体が、凄まじい暑さで歪んでいた。眠い。いばら姫の慢性的な眠気が、きっと私だけではないだろう、全ての生命を飲み込もうとしている。精神の融解が、いばら姫を中心に拡散していく。

「バランスなんだ。だから仕方ない。今度は無垢で善良な、私が救うべき、あなたに、同じことをしなくてはいけない。私を許さなくていい。私もこの世界を、決して許しはしない」

 いばら姫へ繋がる点滴チューブへ、手を伸ばす。違う、先に椅子から立たなくては。明らかに届かない距離だ。なぜ先に、点滴チューブへ手を伸ばそうとした? これは……身体が、凄まじく重い。何かによって肩を押さえつけられているような……実際何か、何かが私の肩を掴み、抑え込んでいる。背後に気配を感じる。黒い、大きな手が私を押さえつけている。眼球にも圧を感じる。眼球が潰れる。視界が滲み、ああ、頭痛がする。脳に何か埋め込まれたような。暗くなってくる。

「あ、くぁ、嘘だろ」

 吐きそうだ。内臓をすべて吐き出してしまいそうだ。しかし、そうはならない。通常の嘔吐物さえ。喉を何かが塞いでいる。呼吸もできない。もしかすると私の身体はもう……いや、違う。わかった。全て幻覚だ。何もおかしなことは起こってなどいない。私が見ている幻覚だ。幻覚がしかし、境界を失った幻覚は現実と変わらない。そしてこの幻覚を見せているのは、無垢ないばら姫の無意識。それは世界の慣性といってもいい。果てしない質量を持つ世界というものの、自動的な反射現象。逆説的に、私がこれから行おうとすることは、世界に影響を与えるということの証明だ。それならばやはり、何としてもやり遂げなければならない。私は服の内側からヂアミトールの小瓶を取り出し、手に握り込んだ。

「残酷な世界だ。この世界は善悪なく、その天秤の均衡を保ち続ける」

 私は眠るいばら姫に呟き、窓の外の波音に耳を澄ました。波音といっても、外に海があるわけではない。その音は上空からの音だった。今この惑星の空は血のような色をした不可触性シルトに覆われている。その不可触性シルトが海のように波立っているのだった。頭上に海がある。それも血の色をした海が。こんなに不気味なことはなかった……いや、今ではそうでもないか。地上は地上で、生物・無生物が溶け合った融解液がどこまでも広がっている。融解液は時折うめき声を上げ、その声色は無数に存在した。

「この記憶が、私のものか、そうでないのか、現状ではそれすらも定かではない。しかし……私はかつて、これからするのと同じ方法で、悪人を裁いた」

 時計の音がうるさい。長針が自棄になったように秒針を超えて猛回転し、短針は時の波に怯えるかのように後退っている。そして振動している。窓ガラスもだ。いつしか部屋は凄まじい暑さの中にあり、その熱が音を生み、音が物体を振動させていた。音は子を失った親の嘆きのようであり、夜闇を駆ける獣の遠吠えのようでもある。この音は、眠気を誘うな。子守歌のような安堵感故ではない。人の意識を無理矢理眠りの底へと突き落とすような、意識が落ちた瞬間耳にしているような、逆説的なものだ。この音を耳にするとき、人は目覚めては、いない。故に、夢の御手が引きずり込む。存在の裏側へ。

「くそ……バランスなんだ。だから仕方ないんだ。今度は無垢で善良な、私が救うべき、あなたに、同じことをしなくてはいけない。私を、許さなくていい。私もこの世界を、決して許しは、しない」

 眠気が重力となり、身体に重くのしかかってくる。金縛りのような、しかし、見えないが、体中に鎖が巻き付いているのを感じる。その鎖が私を地に縛り付けている。椅子から立つことができない。脳の内側から、重い痛みが沸き上がってくる。私の頭の中でシルトが発生しているのか? 視界が、押し潰されていく。

「あ、くぁ、嘘だろ」

 視界が薄闇に包まれる。体内で、何か蠢いていた。それが私の身体の中を、上へ、上へ、押し上がってくる。出口の存在を知られないよう、私は口を固く閉じた。しかし口の隙間から、ワーム状の蟲が溢れ出す。こんなことが、いや、こんなことは、あり得ない。口からこぼれ落ちた蟲が、床を這う……あり得ない。そうだ、私は……繰り返しているぞ!

「いつからだ」

 顔を上げた。眠るいばら姫の口から、黒い影が伸び上がっている。影は糸のようで、棘を持つ蔦のようでもあった。私は繰り返している。いつからか、何度も繰り返している。この瞬間を。この断片を。いつから私はここにいる? ヂアミトールの小瓶を手に握り込んだその先へ、進むことが出来ない。記憶ごと事象を巻き戻され、戻される直前、この一瞬にだけ蓄積された記憶が蘇る。この瞬間だけ時間が戻されていないからだ。ある意味静止したこの一瞬に、私の幾度の思考の結果が座礁している。来る。心臓が、身体が跳ねるほど大きく収縮を繰り返す。戻される、また。ダメなのか。いや、別の方法なら。

「くそっ」

 私は果物ナイフを手に取った。逆手に持ち替え、いばら姫の心臓へ、ナイフを突き落とす。そして、私は服の内側からヂアミトールの小瓶を取り出し、手に、握り込んだ。

「残酷な世界だ。この世界は善悪なく、その天秤が均衡を保ち続ける」

 その時、外から歪んだ笑い声が聞こえてきた。私のことを笑っているようだ。地上に広がる生物と無生物の溶解液の中に、私を知る誰かがいるのかもしれない。天を覆う不可触性シルトより、血管のような柱が地に降りていく。あれはウリエルの梯子と呼ばれるものだ。地を覆う溶解液は最早何であるかが分からなくなってしまったものだが、まだ存在はしている。ウリエルの梯子はしかし、存在しているという最後の確かささえ奪い去ってしまうものだった。世界の概念は境界の霧散による融解とウリエルの梯子による回帰を繰り返し、この星は肉を削がれ続け、やがて宇宙の暗闇の一部として無限に引き伸ばされてしまうだろう。だからやはり……私はいばら姫を、殺さなければならない。

「この記憶が、私のものか、そうでないのか、現状ではそれすらも定かではない。しかし……私はかつて、これからするのと同じ方法で、悪人を裁いた」

 回転音が聞こえる。時計の長針が、見えなくなるほど高速回転している。短針は途中で折れ、折れた先端が狭いガラス版の中で長針に嬲られている。そして部屋は、まるでレンジの中のように、熱い。全てが歪み、生命の痕跡が蒸発していく。壁という壁、いや、鉄の器具や精密機械まで、全てにヒビが入り、そこに赤い熱の色が浮かび上がっていく。呼吸をするだけで、熱気に喉が焼かれてしまう。意識までも、焼かれてしまうような、熱さが。意識を刈り取る、強制的な眠気が、瞼を襲う。赤い鎌を持った死神が、私の背後に立っている。

「眠るものか。私は……バランスなん、だ。仕方ない。無垢で善良な、私が救うべき、あなたに、同じことをしなくてはいけない。私を、許すな。私もこの世界を、許さない」

 赤い鎌が私の肩に乗る。熱い。焼き付けられている。肉が、焼き千切れていく。いずれ腕が落とされてしまう。なのに、身体が動かない。眼球の裏で熱の痛みがバチバチと炸裂する。眼球がぐるぐるとのたうち、一点を見ていられない。

「くぁ、あ、があぁがが」

 視界が暗く狭まっていく。何かが、身体の中で爆発した気がした。

「うっ」

 口から黒い物体が溢れ出す。ぼとぼとと、零れ落ちていく。これはなんだ。私の内臓か?

「うぐぅっ」

 また溢れ出す。私の、私が、全て零れ出してしまう。内側から存在、私の存在証明が、零に。零になる。消える。身体から、魂の質量が抜け、空白の白に……世界が白く……待て、これは、存在、防衛機構、内在の、逆説的反発を、空間は非存在の外殻、亀裂に必要な角度が、なんだ、脳に流れ込む、しかし分かる。そうか、分かった!

「繰り返していた! しかしもう!」

 果物ナイフを掴み取る。瞬間、いばら姫の口から黒い茨の蔦が溢れ出し、天井に張り付いた。ナイフを逆手に持つ。いばら姫が口から伸びた蔦に吊り上げられる。私はナイフを振り下ろし、自らの大腿部へ、突き刺した。

「うぐああああああ!」

 身体が前のめりに倒れる。床に倒れ、するとベッドの下に、私の死体が目を見開いているのが見えた。

「知るか!」

 ナイフを抜き起き上がり、注射器を取り出す。茨の蔦が跳び伸び、がなんとか反射で避けられた。注射器の針をヂアミトールの小瓶に突き刺し、液を抽出する。

「んぐぁ!」

 いばらの蔦が首に巻きつく。棘が刺さり、気管が膨れ上がる。小瓶を捨て、首に手を。

「いっあぁ、ぐっ」

 棘の刺さった指に肉を裂かれるような痛みが走る。しかし、しかし。

「意識はもつっ!」

 いばらの蔦を引き千切り、足を一歩先へ、点滴チューブを掴んだ!

「つがぁ!」

 顔に幾本もの茨の蔦が絡み付く。同時に、頭が弾け跳ぶほどの痛みが襲う。意識が飛ばされそうだ。手探りで点滴チューブの三方活栓を探す。さっき、棘の刺さった手がグローブのように膨れ上がっている。感覚がほとんどない。何処に、たぶん、この……いや、掴んでいる! 栓を開き、注射器をセットする。点滴チューブへ、流し込む!

「はぁあがあ!」

 茨の蔦が私の眼球を抉った。千本の槍に貫かれる。脳が飛び散る。大量の血を噴き出し、意識が消………………。 

.

「……きろ! おまえ! 起きろよ! おい!」

 怒声。そして鈍い痛みが、私の頬を打っていた。原始的な力が、私を殴りつけている。怒りが伝わってくる。しかし、ああ、これは人の感情だ。それに、この痛みも、この拳も。私は。

「あ……」

 目蓋を開き、すると、男の姿が見えた。歯を食い縛り、私に怒りに満ちた目を、向けている。私の上にのしかかるように、一方の手で私の襟首を掴み、もう一方の手は、頭上に振り上げられていた。そして……心電図のフラット音が、聞こえている。

「……ったか」

「ああ!?」

 私の襟首を掴む手が引かれ、私は頭突きをされるかのような距離で、男に睨みつけられた。

「どういうつもりでこんなこと!! 糸織は! まだ生きていたんだ!! 夢を見ていたはずなのに!! きっと幸せな夢を! それなのに!!」

 口の中に血の味が広がっている。男の後方に、女が立っているのが見えた。女もまた、私を怒りに満ちた目で、見下ろしている。ふと、床に転がる小瓶に手が触れ……あぁ、そうだ。そうなんだな。部屋の壁は白く、窓からは平凡な光が差し込んでいる。血の滲む喉の奥で、安堵の息が、小さく漏れた。

「おい! なんとか言え! なんでこんなこと!」

「……」

 言葉は、ない。今発するような言葉は。私はきっと世界を救ったのだろう。しかし毒殺看護師として、だ。それも無垢な少女をこの手で殺めて。ああ……私は、正義を成したはずだ。何よりも崇高な、正義を。けれど、私の在り方は……私の正義は、血に染まり過ぎている。

「おっはようございまーす!」

 病室の戸が勢いよく開き、白衣を着た眼鏡の女が現れた……ドロシー? 後ろには看護師の服を着た女もいる。あれは、アリスか?

「おや、お取込み中でした?」

「違う。あんた、あんたここの先生か? おい、この看護師が、糸織を殺したんだ! 部屋に来たら、点滴に何か混ぜてやがった。そして糸織の呼吸が、ないんだ! こいつが殺した! こいつが! こいつ! なんで!」

「なるほどですねー。ですがご安心を。糸織さんはまだ死んでいません」

 諭すように話すドロシーに、男は若干、その怒りの表情に困惑の色を浮かべた。

「……そう、なんですか? いやしかし、心電図が」

「そしてあなたが殴りつけているその人は、私の助手です。いいですか、そもそも、糸織さんの患うクライン・レビン症候群の原因ですが、私はこの原因に関して、患者の脳の認識において睡眠が生へ寄り過ぎていることだと考えています。睡眠という現象は生よりも死に近いものでしてね。そうです、人は毎日死を繰り返しているんですよ。ですがこの現象が死に近いものだと脳が理解しているからこそ、覚醒状態、生の側へ戻ってこれる。糸織さんの問題はこの認識にあるわけです。であるならば、この認識を正しく反転させればいい。睡眠は生ではなく死に近いものであると糸織さんの脳に認識していただくため、まずはっ、雪下看護師の手で糸織さんを仮死状態とさせていただきました。もう良い頃でしょうかね。現在ある体機能状態が死を示すものだと、糸織さんの脳が認識し始めた頃です。第二段階へ移行しましょう。糸織さんを蘇生します」

 医師の恰好をしたドロシーが、注射器を取り出す。

「さぁお父さん、私の助手からどいて、横にずれてくださいね。雪下さんもそこ邪魔なので、どいてどいて」

「ぁあ、はい」

 私の上から男がどき、立ち上がって横へずれる。ふと気が付くと、目の前に手が差し伸べられていた。アリスが、私に手を差し伸べている。

「お疲れ様」

「……アリス」

 手を取り、私は立ち上がった。ドロシーが点滴チューブへ歩み寄り、三方活栓に触れる。

「ちょっと待ってくれ! 私達は糸織の親だぞ。なぜその治療に関して、何も聞かされていないんだ?」

「そりゃ、私が勝手にやってるだけなので」

 ドロシーが三方活栓を開き、注射器を差し込んだ。

「なあ!?」

 液がチューブを伝い、いばら姫、いや、糸織か、その身体に流れ込んでいく。糸織の父親がドロシーに飛び掛かり、しかし、アリスが父親を抑え込む。私はただ、呆然とその様子を眺めていた。

「やめろ! 糸織を! くそっ放せっ!」

「ドクターDに任せて。失敗、はするけど、最終的に何とかする」

「失敗はダメだろ!」

「なんなのよ」

 糸織の母親もアリスに掴みかかり、私は、アリスに加勢するべきだろうか。糸織の顔を見ても、心電図も、何も変化がない。私はどうしたら。糸織、本当に生き返るのか? ドロシーだ、信用できない。しかし、生き返ってほしい。

「大丈夫ですよ」

 言葉に視線を向けると、ドロシーがニコッと微笑みかけてきていた。

「はああっ!!」

 糸織が跳び上がるように体を起こし、大口を開け、固まる。糸織の父親と母親も固まり、アリスが溜息をつくのが聞こえた。

「糸織?」

「……っは、あ、な、なにこれ、身体全身スースーする!」

 糸織はそう言って布団を脇へよけるとベッドの外へ脚を投げ出し、二回身震いした。

「し、糸織、大丈夫なのか?」

「え、なに、パパ、ママ、どうしたの? というかわたしどうしたの? 凄く、喉乾いてる。シャワーも浴びたい。それにこの感覚、何? 目の奥につっかえてたものが取れたみたいな、なんで……全然眠くない。ちょっと走ってくる!」

 糸織がベッドから立ち上がり、しかしすぐによろけ傾いた。糸織の父親がさっと受け止め、身体を支える。

「糸織、落ち着くんだ。脚の筋肉が衰えてるんだから、急に動いたりできない」

「じゃあ、じゃあパパ、支えて。とりあえず自販機まで。シュワシュワするやつ飲みたい。早く!」

「あ、ああ。ママ、手伝って」

「え、ええ」

 糸織の身体を、左右から父親と母親が支える。そして前へ進もうとする糸織に引っ張られるように、病室の外へ出ていった。

「ふぅ、無事ハッピーエンドを迎えることができました」

 ドロシーが手にしていた点滴チューブの先端をポイッと投げだす。いつの間にか、糸織の身体からチューブを抜き取っていたらしい。しかしそんなことよりも。

「どういうことなんだ。私がやったことは、無駄だったのか?」

「無駄!? とんでもない! スノウさん、よくやってくれました。私達もよくやりましたが。私達がこの病室へ入ってこれたのはスノウさんがいばら姫さんを殺してくれたからです。そしていばら姫さん、いえ、糸織さんですか。糸織さんを蘇生させたのは、アフターサービスといいますか。必要はなかったんですけどね」

「また繰り返してしまうんじゃないのか?」

「いいえ、それはもうありません。世界の綻びとパスを作ってしまった夢は、スノウさんによって強制終了させられました。世界の綻び自体も、私とアリスさんがターニングタイムを改変させたことで正常な世界における許容範囲の数値に収まりましたし。このあと全員揃っての最終決戦ですとか、そういうのもありませんので。本当に、お疲れ様でした」

「……そうか」

 全身から力が抜ける。思わず膝をつきそうになった私を、ドロシーが支えてくれた。

「さぁ、ライブラリに帰りましょう。そしてちょっと、休暇でも貰いたいですね。河原でいつかの狸鍋でも。アリスさんまた作ってくれます?」

「まだわたしを働かせるわけ?」

「いばら姫さんも呼びましょう。あの狸鍋はいばら姫さんも絶賛していましたし」

「聞いてない」

 ドロシーの肩を借り、病室を後にする。

 ライブラリか……私は、スノウホワイトなのだろうか。それとも雪下美姫なのだろうか。ライブラリに戻った時、私の記憶はどうなるのだろう。願わくは、夢から覚めるように、全て忘れてしまっていたい。純白に、何も知らない純白に、私は戻りたかった。

 

 

 

 

 紅いステージカーテンの垂れ下がる舞台の上、二体の球体人形が吊り下げられている。一体はロリータ調の少女型マリオネット、ギシン。そしてもう一体はゴシック調の少年型マリオネット、アンキだった。

「…………」

「………………」

 カタッ、とギシンの首が傾く。そして口が縦にスライドするように開き、そこから音を発した。

「エー、今回ノ試みニ関して、総括ヲしようかト思いマス」

「ハイ」

 アンキが答え、首をカタカタと震わせる。

「まズ、我々ノ仮説に関してデスが」

「オオよそ見込み通リ証明されタト言って良いのデハ?」

「確かニ。デスが、結果としテ不可触領域タル上位概念ディレクトリへの介入ハ失敗をしマシた。ソノ原因は?」

「見込ミ以上の舞台ガ生み出サレてシまったノデ」

「そうデス。こレまでノ四十四回ノ施行、現実とライブラリの接続ニよる融合・淘汰デ解除鍵はしかシ、完成にハ至りまセンでしタ」

「効率化のたメに複数ノ現実と複数時空のライブラリを同時ニ接続シ、その中デ淘汰を試みル。こレ自体は名案デシたシ、実際グレーテルは解除鍵トシてかなリ良いところまデイったと思いマス」

「しかシコの画期的ナ同接ハ、上位概念ディレクトリにモ融解の影響ヲ与えテシまいましタ。こレデは解除鍵ガ完成したとコロで無意味。我々ノ目的はアクマで介入デアり、破壊でハないのデス」

「やハリ地道に進メナけれバナラないっテことデスよ、ギシン」

「……提案しタの、オマエだロー!」

 ギシンの腕がぐるぐると回り、アンキを殴り飛ばす。するとアンキの頭はぽーんと飛び、舞台の上に転がった。目を閉じ頭だけになったアンキが口を開閉し、ぴたった止まる……パッと瞼を開き、口を開けた。

「そレでは皆さン、、またドコかデ。さヨうなら。さようナラ。さよウナら。サヨうサささサササさよさササササ」




 七人の小人:スリーピー(ねぼすけ)。悪意の有無は問題ではない。いばら姫は天災そのものとなってしまった。彼女がどんなに善良な者であろうと、こうなっては罰を下さなければならない。その行為が彼女の意志でないとしても、数多の人間が死ぬ。85億の人命が、失われてしまう。だから、仕方ない。罰を下さねばならないんだ。そうだろう。
 世界の綻びと繋がったいばら姫の夢はスノウホワイトの手によって途絶し、夢を通した境界の崩壊・万物の融解は有り得ることのない現象として、非存在の側へ押し戻されました。世界の綻びに大きく影響をした事象もまたターニングタイムの改変により修正され、もう再びその現象が発生することはありません。ドロシーによる気の遠くなるような時間渡航の果て、スノウホワイトによる心の捩じ切れるような精神渡航の果て、世界はあるべき姿を取り戻したのです。めでたしめでたし。
.
 さて、それはそうとして、今回異変の元凶ももちろん、ギシンとアンキでした。そうです、ギシンとアンキは意図的に、世界に綻びを生じさせ、境界の崩壊を起こしたのです。お菓子の家の魔女とハーメルンを会わせることから始め、他にもあれやこれやと、おそらく。目的は現実とライブラリの接続によるキャラクターズ淘汰よりもより効率的な、複数現実と複数ライブラリの接続によるキャラクターズ淘汰でした。しかし意図的な境界の崩壊は複数現実と複数ライブラリだけでなく、ありとあらゆる概念境界の崩壊までもたらしてしまい、計画は失敗したのです。
 モノガタリはこれで終わりですが、キャラクターズ淘汰の目的に関しましては、公式さんでまだ語られないので、次のおまけの方で少し妄想を書くことにしましょう。それでは
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