「ピノッキオ! 起きるんだピノッキオ!」
いつか遠い日に聞いたような、忘れかけていたその声。ピノキオはそっと、瞼を開く。
「オイ、ナンダコイツハ」
ピノキオの杖が不機嫌に顔を歪めるその鼻先で、いや鼻の上で、一匹のコオロギが二組の腕を組んでいた。
「あなたは……」
「忘れたのかい? まぁいいさ。それより今の状況だピノッキオ」
言われて、ピノキオは辺りを見渡した。どうにも牢獄のような場所に囚われているらしい。それも、トイレ以外全く何もない、独房に。
「どうして僕、牢屋なんかに?」
ピノキオはコオロギに、あるいは杖に、尋ねかけた。
「全ク理由ガワカラナイゼ。心当タリガ多過ギテナ!」
「ピノッキオ、きみはまた人形小屋で騒ぎを起こしたんだ。放火未遂だよ。全くなんてことを」
ため息をつくコオロギ。しかしそれは、ピノキオには全く身に覚えのない話だった。
「嘘……僕、そんなことしてないよ」
「私もそうなら良かったと思うよ。けれどね……ただ、ここは刑務所ではないのさ。きみがそんなだからね。精神病院だよ。社会に適合できると判断されたら出してもらえる。一緒に頑張ろう」
「……コオロギさんが、そう言うなら」
ピノキオは困惑しつつも、状況を受け入れることにした。前に進むため、などではない。ピノキオの場合は。状況に反発するのが怖くて、ただそうしただけだった。
ピノキオは改めて、鉄格子の外を見てみることにした。近くにガラス張りの部屋が見える。あの部屋が何か、わからない。ただ中に、青い服を着たキツネとネコが座っているのが見えた。
「オイ見エルカ? キツネノ腰ノトコダ。鍵ノ束ガアル。アイツガ近ヅイテ来タラ格子ノ間カラ殴ッテ奪イ取ッテヤロウ」
「ダメだピノッキオ。きみは必要だからここにいる。鍵を奪うなんてことはせずに、社会に適合する努力をするんだ。いいね?」
「そうだね。そうするよ」
そのとき、ガラス張りの部屋の中でキツネとネコが立ち上がる。誰かが来たらしい。ガラス張りの部屋の二つの扉の内、外側へと繋がっている方が開き、現れたのはピノキオがよく知る老人だった。
「ゼペットさん!」
ゼペット老人はピノキオの親と言ってもいい。正確には違うが。つまりピノキオは元々、ただの喋る木だったのだ。それを人形の形に掘り、組み立てたのがゼペット老人で、ピノキオを実の息子のように育てもしてくれた。そのゼペット老人の姿を久方ぶりに見たものだから、ピノキオは当然心躍る気分にもなったが、その申し訳なさそうな表情を見るとすぐにピノキオ自身も申し訳ない気分になってしまった。
声は聞こえない。キツネがゼペット老人に対し、手の平を突き出している。ゼペット老人はズボンの両ポケットをひっくり返し、肩を竦めた。ネコがゼペット老人に近づき、その上着をはぎ取ってしまう。そして扉を開け、蹴り出すようにゼペット老人を追い払った。
「ゼペットさん……」
「今の上着だけじゃ、またすぐに入院料を払いに来なくちゃいけないな」
「ゼペットさんにそんなお金はないよ」
「けど仕方ない。まずは社会に適合するんだ。それから働いてお金を稼いで、ゼペットさんに恩返ししてあげよう。わかったね?」
「うん……」
ピノキオは仕方なしと、辛い現実を受け入れる。
「ソレマデ生キテリャイイケドナ」
そうして、ピノキオの社会適合者となる為の牢獄生活が始まった。
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一日目。ピノキオがじっと待っていると、ネコがやってきて鉄格子の外側に立ち止まった。ピノキオを見下ろすようにして、冷たく言い放つ。
「あんたは病気なんだ」
「ち、違います」
「いーや病気だよ。さっきまた一人で話してたろ」
「違うんです。僕が話してたのは、コオロギと杖で」
「コオロギや杖が喋るわけないだろう!」
「す、すみませんっ!」
「まぁいい。質問に答えな。上手に答えられたら退院だ」
「本当に!?」
「ここにレールとその上を走る列車があるとする。先の方で二つに分かれ、一方には五人の老人、一方には一人の子供だ。レールをどちらかに切り替えることはできるが、列車を止めることはできない。五人の老人と一人の子供、どちらを犠牲にする?」
「……どうしよう?」
杖に腰かけるコオロギに尋ねた。
「良心に従うんだピノッキオ」
「さぁ早く答えて」
「そんなぁ」
「早く!」
ネコが毛を逆立たせる。見開かれた二つの黄色い目が怖くて、ピノキオは必死に考えた。
「あの、始めはどっちに、レールは繋がってるんですか?」
「さあね」
「……じゃあ、見ません。レールがどちらに繋がってるか」
「見ない?」
「はい……だから、どっちが犠牲になるのか知れない。運命なんです。悲しいけれど」
「なるほど……退院はまだ先だね」
「ええ!?」
「せいぜい努力しな。これでも読んで」
ネコが完全社会適合マニュアルという本を牢屋へ投げ入れ、去っていく。ピノキオは失敗した。
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二日目。ピノキオがネコに言われた通り完全社会適合マニュアルを読んでいると、キツネがステッキをついてやってきた。ピノキオを卑下するように目を細め、淡々と言い放つ。
「おまえは病気だ」
「違います……たぶん」
「間違いなく病気だ。私達がキツネやネコに見えているんじゃないかい?」
「……そ、んなことありません」
「本当に?」
「はい……誓ってもいいです。本当の本当です」
「まぁいい。質問に答えるんだ。正しく答えられたら退院させてやろう」
「正しく答えます」
「宜しい。ある種の思考実験だ。きみは世界一の名探偵。今街には凶悪な殺人犯が隠れている。この殺人犯は自分を追い詰めようとした者の家族を必ず殺す。街から逃げようとした者も必ず殺す。きみがこの殺人犯を捕まえようとすれば、直ちに逮捕することが出来るが、きみの家族は殺されてしまう。放置しておいた場合、いつ逮捕されるかわからないし、被害者はますます増え、いずれはきみの家族も殺されてしまうだろう。どうするね?」
「……どうって、どうしたらいいんです?」
「それが質問だ」
「……すぐ捕まる可能性は?」
「すぐには捕まらないだろう。賢い犯人だ」
「……どのくらいで捕まりそうですか?」
「いいだろう、質問を変える。何人殺されたらきみ自身、動いていいと思うかね?」
ピノキオは答えがわからない。答えとはつまり、自分の考えの結論が。家族は殺されたくないし、街の善良な人々も殺されて良いわけがなかった。だから答えを出せず、杖に寄りかかるコオロギに、視線を向けるしかなかった。
「……コオロギさん、ぼくはいったいなんて答えたら?」
「良心に従うんだ」
良心って? ピノキオは考えたが、それについてもさっぱり分からなかった。
「……分からないよ」
「分からない? その答えじゃダメだな。もう一度よく考えろ」
「……祈ります。すぐ捕まるように」
「そうか……まだ退院は無理だな」
「そんな!」
「当たり前だろう。きみは昨日、運命に委ねると答えた。そして今日は神に祈るだ。それでは退院はできない。僕が何とかする、そう声に出しながら、このノートだ。このノートに書けるだけ、同じ言葉を書き続けなさい。わかったね?」
「はい!」
「よろしい」
キツネが踵を返し、去っていく。ピノキオは失敗した。
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三日目。ピノキオがキツネに言われた通り「僕が何とかする」と声に出しながら同じ言葉をノートに書き続けていると、キツネとネコがやってきた。牢屋内には十数冊のノートが散らばっている。
「病的だな」
「異常者め」
二匹が蔑み、キツネの方がノートを拾い上げた。ノートには「僕が何とかする」の文字がびっしりと書き込まれている。鉛筆を握っていたピノキオの手は赤く腫れ、ピノキオの声は渇きしゃがれていた。
「僕はまともです。本当です」
「反論はやめたまえ。それを決めるのは我々だ」
キツネはそう言ってノートを閉じ、ステッキに体重を乗せた。
「かまいません。ですが聞いてください。真面目に言ってるんです。僕はまともです」
「きみの名前は?」
「ピノキオです」
「誰にそう名付けられた?」
「ゼペットさんに」
「それは誰だい?」
「え、一昨日僕の為に来てくれたおじいさんですよ」
「彼はそのような名前じゃあない」
「え?」
「今日の質問だ。物言えぬ老婆がいる。そして不治の病の内にあり、日々苦痛に苦しんでいる。生命維持装置を抜けば、一瞬のうちに彼女の苦痛と生涯を終わらすことが出来る。どうするね?」
困惑するピノキオ。しかし、質問をされたら答えなくてはいけない。
「お婆さんは、まだ生きていたいんですか?」
質問に質問を重ねるピノキオに、今度は猫が口を開く。
「さあね。そもそも意識があるのかもわからない。苦痛はあるけどね」
「……コオロギさん、そういう場合はいったい」
「良心に従うんだ」
コオロギはそれしか言わない。
「良心ナンザクソノ役ニモ立タネエ」
杖が苛立ちを浮かべ、ピノキオは気付くと、杖でコオロギを叩き潰していた。
「テメェラモダ。コノド低能ドモ。ツマンネェ質問バカリシヤガッテ。答エナンザアリャシネェ。フザケヤガッテ。人コケニシテ悦ニ浸ッテンジャネェヨ!」
キツネがステッキで鉄格子を叩き、口をへの字に曲げる。
「下品な口は慎み給え。それに我々は悦に浸ってなどいない」
「鼻伸びねぇ奴ぁ嘘こきほうだいだなおい!」
「きみ、まるで更生するつもりがないな?」
「うるせぇ!」
ピノキオがキツネのステッキを鉄格子越しに掴み、引き寄せられたキツネの顔をガツンッ! と杖で突き打つ。
「鍵ヲ奪エ!」
ピノキオは杖に言われるがまま、キツネの腰についていた鍵を奪い取り、ネコにステッキを投げつけた。跳び避けるネコ、顔を抑えるキツネを尻目に素早く鍵を開け、ピノキオは牢屋の外へと出る。
「ごめんなさい! 僕の杖が勝手に!」
「何言ってんだい!」
「殺シテヤル!」
ネコに殴りかかる、ピノキオと杖。ネコの頭ばかりを狙い、すぐにネコはぐったりと、倒れて動かなくなった。
「やだ、やだよ、もう」
ピノキオは鉄格子に寄りかかるキツネに、狙いを定める。
「殺スンダ! 俺達ガ逃ゲ出シタコトヲ、コイツガ爺サンニ話シタラ、爺サンハ悲シムダロ! ダカラ殺シチマウノガ一番イイ!」
杖のなすがまま、キツネに歩み寄る。
「やだよぉ……誰か、助けて」
怯え、悲痛に震えながら、ピノキオはキツネを殴り殺した。
ピノッキオの冒険。ある日ゼペット爺さんは喋る丸太を偶然見つけ、そこから人形ピノッキオを造り出す。ピノッキオはとても賢い人形とは言えず、また悪戯ばかりしていた。忠告に来た喋るコオロギは木槌で叩き殺してしまうし、ゼペット爺さんが唯一の上着を売ってまで手に入れた教科書も売り払って人形芝居小屋のチケットに変えてしまう。そして最後には狐と猫に騙され、木に吊るされ殺されてしまった。
一番初めの原作はここまでです。その後クレーム殺到で続編が作られ、嘘をつく度鼻が伸びましたり、遊園地でロバに変えられましたり、サーカスに売られましたり、サメに呑まれその体内でゼペット爺さんと再会しましたり、心を入れ替えて人間になったりするんですけど。
それでシノアリスのピノキオですが、場合によっては彼こそがシノアリス一の曲者ですよ。そもそも本当にピノキオなのか、そこから疑うべきなのかもしれません。単純に考えれば、ピノキオが善の心を得て鼻から零れ落ちた悪の部分、それがピノキオの喋る杖と考えるべきなのでしょう。ですがもし、ピノキオは杖の方だけだとしたら。ピノキオは元々ただの丸太ですからね。その丸太が宿主と決めた少年の精神に寄生し、依存し、理想のピノキオとしての肉体を造り上げようとしているとしたら。あるいは喋る杖など存在せず、人間となったピノキオの心の中に再び悪の心が芽生え、統合失調的感覚の中で喋る杖という存在を造り出し、悪の心を育てつつも、全ては杖の仕業として自分自身とは向き合おうとせず、悪の心、偽りの杖が真のピノキオとなる時を待っているのだとしたら。ピノキオの嘘はそういった類のものかもしれません。