【挿絵表示】
大根は三五○も種類があるそうだ。美濃大根、桜島大根、聖護院大根、大蔵大根、山田大根、赤筋大根、山葵大根、貝割れ大根など数え上げたらきりがない。中国の大根に、外が赤くて中が白いものや、白い大根なのに中身が赤いものがある。
その晩、帰宅がいつもより遅くなった。仕事のあと、付き合い酒が長引いたためだ。改札口を出た時は十二時を過ぎていた。家まで十分ほどの道のりだが、酔い心地の千鳥足だからいやに遠かった。西武新宿線沿線の比較的にぎやかな町とはいえ、それでもこの時間だ、商店街を抜けると人影はまばらになり、自分の足音だけが耳に響いた。
(なんだか別世界にいるようだなあ)
そう思った。両側の家々は沈黙し、真っすぐな一本道が浮かびあがって輝いていた。月明かりの道を描いたジョルジュ・ルオーの絵「郊外のキリスト」を思い出した。街灯が、星のかけらに見えた。
月光を踏みしめながら歩いて行った。なんだか誇らしくまた面映ゆかった。舞台の上の役者の心持ちもきっとこんな風だろう。
行く手の道の上に、白いものが落ちていた。
目を凝らして見ると何と足じゃないか、思わずぞっとして、その拍子に酔いも覚めた。
……膝から下の純白な裸の足……
路上に放置された、切り取られた足。
(事件だろうか?)
恐る恐る近寄ってよく見ると、色合いや質感が生身の足じゃない。人工的な作り物らしいが、マネキンのものとも違う。珍しい落とし物だ。
自分がダダイストかシュールレアリストだったら、好ましい素材だと喜んだに違いないが、あいにくそんな趣味は持ち合わせていない。
思い切って触れてみると、ひんやりと冷たく湿り気がある。……なんとそれは、大根でこしらえた足だった。
大根足というのはよく聞く。そっちは、れっきとした人間の少々肥満した足の呼び名だから、別段日常生活をおびやかすほどの力はない。だが、「大根の足」となると、話は別だ。
なぜか犯罪者の気持ちになった。思わずあたりを見回すと、足を拾って夢中で走り出し、息せききって家へ駆け込んだ。
テーブルの上に置いてあらためてつくづくと眺めた。実に精巧なものであった。削って作った細工物ではなさそうだ。表面はすべて大根そのものの表皮に覆われている。何やら人間じみた窪みや皺があり、こまかいひげ根が、うぶ毛のように生えている。ふくらはぎのカーブは実に見事だし、特にかかとや足指、爪の出来具合は抜群で、こしらえたのは野菜栽培家か工芸家か知るよしもないが、よほどの技術を持っているな……と感心した。切り口は、今切ったばかりのようにみずみずしい。痛々しくて見つめるのが気の毒なほどだった。
誰が何のためにこしらえたんだろう?
あれこれと想像しながら眠りについた。
*
次の日は休日だった。十畳の奥座敷で、拾った足を床の間の巴御前の掛軸の前に置いてみた。いくらためつすがめつして眺めても、何がどうということは、露ほども分からない。
そのまま持ち帰ったのは軽率だった。取り返しのつかぬ恥ずかしい行為をしてしまったようで落ち着かなかった。やはり警察に届けるべきだろうか? いっそ拾わなければ良かったなと、後悔の念さえ湧いた。
遅い朝食を終え、しばらく寝転んでいた。十一時を過ぎた頃だった。不思議なことが起こった。大根の足がスーツと立ち上がると、畳の上をひょいひょいと踏み飛んで、リビングルームのフローリングのフロアに降りた。そして、くるくると回転を始めたじゃあないか。
あっけに取られて見ていると、弦の調べが聞こえてきて、バレリーナが現われたのには驚いた。色の白い透き通るような少女で、とてもこの世のものとは思えない。人を魅了せずにはおかない愛らしさで、誰だって一瞬のうちに恋に陥ってしまうだろう。胸が思わず高鳴った。トーシューズも履いてないのに、爪先立ってトーダンスを踊っている。音楽に合わせて実に優雅にターンを繰り返す。ゆったりとしたワルツ、かと思うと、急速に息もつかせぬチャルダッシュ、……にわかにそこが劇場になって、しばし芸術世界に没入し、陶然となった。
この世の雑念を忘れた。会社の仕事がうまくいかず数日間悩んでいたが、それも吹き飛んだ。スケッチブックを取り出してペンを走らせた。今はサラリーマンだが、かつては絵描きになろうとしたこともあったのだ。自分がドガやロートレックのように思えた。
(もしや、隠され抑圧された能力を刺激し霊感を与える奇跡の足ではないのか)
そんな言葉を何度もつぶやいた。仕上がったスケッチは、自分でもほれぼれする出来栄えだった。
*
突然呼び鈴が鳴った。飛び上がるほど驚いた。とたんにバレリーナも劇場も消え失せた。大根の足だけが、ごろんと横たわっている。しらじらとした現実に直面し、胸が痛かった。時計の針は、三時を過ぎていた。床に長い影が落ちている。昼食を取ることも忘れ、ひたすら踊りに魅了されていたのだ。
(誰なんだ。無粋な訪問者だなあ)
腹が立った。と、またベルが鳴った。はっと我に返り、あわててフロアに駆け降り、つまずきかけてたたらを踏みながら、拾得物を棚に置き、タオルをかぶせた。もしや警察が調べに来たのではなかろうか? 心臓が早鐘を打った。
扉を開けると、薄い色つき眼鏡をかけ、トウモロコシのようなもしゃもしゃ頭の、青年の晩年といった印象の人物が立っていた。名刺を渡されたが、ちょっと名の知れた辞典出版社の営業担当だ。警察ではなかったのでほっとしたが、腹の虫はおさまらない。
「なんですか、今時」
と、つっけんどんに言った。せっかくの楽しみを妨害した罪は重いぞ、と、にらみつけた。青年は一向動ぜず、
「いやあ、いいお住まいですね。いかにも文化的だ。御主人様は、お見受けしたところ知的興味をたっぷりお持ちのようですね。やはりご本などよくお読みになるんでしょう?」
たいそう愛想のよい言葉を並べ立てる。たいていこの種のセールスマン氏とは、玄関口でさっさと話を切り上げることにしているのだ。第一、こんな場合、まともに話をする気になれない。
「まあね、本は好きなほうだがね、……でも、それほど入れ込んではいませんよ」
と、そっけない応対をした。大根バレー劇場の続きを見たいし、とっとと早く帰してしまおうと思った。しかし、相手はドアを押さえたまま一向にひるまない。
「でもご主人、何と言っても世の中出会いですよね。そう思いませんか? 平凡な日常生活の中で思いもかけぬことに出会う。SF映画じゃあありませんが、『未知なるものとの遭遇』……これぞ人生の醍醐味ですからね。そんな幸運なご経験のひとつやふたつ、あるんじゃないですか?」
と畳みかけてきた。口元に意味あり気な笑いを浮かべているのが妙に気がかりだ。未知なるものとの遭遇という言葉が心に引っかかった。大根の足との出会いが頭にあったからか、
「そりゃあまあ、ないこともないが……」
と、つい釣りこまれた。すると、
「どんなご経験かお聞かせ願いたいですね。……実は折りいってお見せしたいものがありますし、ちょっとお話を……」
とアタッシュケースの横腹をぽんぽんと叩くと、靴を脱ぎにかかった。虚を突かれて、魔力にでもかかったように抵抗力を失った。断る口実をまさぐっているうちに、とっくに上がり込まれていた。
ふと棚の方を見ると、カモフラージュのタオルが少々ずり落ち、大根の白いふくらはぎが眩しくのぞいている。まずい。冷汗がにじんだが、幸い彼は無頓着で、大根の足を背にして食卓テーブルに座った。話を上の空で聞きながら名刺をもう一度見た。
「根本大助」と、名前が印刷されている。
眺めているうちに、「根」と「大」の字が妙に気になり出した。つまりそれが、「大根」という普通名詞を連想させたのだ。……どうやら大根ノイローゼにかかってしまったようだ。
(まさかとは思うが、ひょっとして拾った足に関係した人物ではなかろうか?)
心臓がどきどきした。
根本なる人物は、アタッシュケースを開いて百科辞典のサンプル本を取り出すと、説明を始めた。物腰を見るかぎりは普通のセールスマンだ。なにもかも思い過ごしのようだ。
(安手の犯罪者みたいにびくびくするな。落ち着け落ち着け。枯れ尾花を見て幽霊と間違えるようなものだぞ。馬鹿馬鹿しい)
そう自分に言い聞かせながら、
「百科辞典はかさばるしねえ。ただでさえご覧の通りのせまい部屋だから。……必要とあらば、図書館へ行けば見られるし」
と、対セールスの防御網を張り巡らせ始めた。本を購入する気はさらさらなかったが、何気なくサンプル本を取り上げて、ぱらぱらとめくってみた。すると、どういう運命の悪戯か、大根のカラー写真を広げてしまった。……ページいっぱいの赤いバックに、二股足の生々しい白い大根が、まるで人形のように身をくねらせている。
「大根ですね……」
根本氏は、奇妙に声をはずませながら本をのぞき込むと、やおら上目づかいに、こっちをじっと見た。この時ほどぞっとしたことは、かつて経験したことがない。
それから起こったことときたら……ああ、一体どう説明したら真実を伝えられるだろうか?……
根本大助は、急に立ち上がると、素早くうしろを振り返った。棚に手を伸ばし、大根の足をいきなり鷲づかみにして奥座敷に駆け込んだ。
自分の恥ずかしい部分を白日にさらされたようだった。おまけに忘れられない幻想劇の源バレリーナの足だ。恋人の分身のようなものだ。そして今や、久々に復活したわが芸術活動のインスピレーションの源泉でもある。持っていかれたら一大事。必死で取り戻そうと、こっちも座敷に飛び込んで相手の腕をつかんでいた。
その時、根本大助の眼鏡が落ちた。いや、眼鏡ばかりではない、顏がそっくりずり落ちた。現われたのは、何とのっぺらぼうの大根の顏じゃないか。
根本なる人物は、……いや、人間に変装した大根は、件の足をしっかりと抱いたまま、「きっ」とこっちをにらんだ。飛び出した豆粒のような二つの白い目は、小さいけれどぞっとするほど威圧感があった。並の大根役者では、とうてい太刀打ちできないだろう。
思わず立ちすくんだ。
大根は、リビングルームに駆け降りると、いきなり体ごと窓にぶつかり、ガラスを破って外へ跳び出した。
靴も履かずに逃げて行く大根の姿は、実に奇態なものだった。背広姿の後頭部がのっぺりして、頭のてっぺんには、短く刈り込んだ葉っぱが揺れている。その必死の姿は、哀れだった。
残念なことをした。もう一度大根バレーの幻想に浸って我を忘れたいと思ったが、後の祭。残されたバレリーナのスケッチを眺めて感傷に浸るしかなかった。
昔話に、渡辺綱のもとに、切られた腕を取り戻しに来た鬼がいたのを思い出した。相手が恐ろしい鬼でなかったことを良しとすべしだ……多分あの足は、根本大助青年の恋人かもしくは妹のものでもあろうか?……大根の国で発生した何らかの事件で切り取られ、人間界に落下したのだろう。残念無念の気持ちはいっぱいだが、根本青年のけなげな勇気に免じてあきらめることにした。
心の痛手は別にして、ガラス数枚の損害ぐらいで実害は少なかったとはいえ、拾得物にはよほど気を付けないといけないなあと、つくづく悟った。