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秋に北へ旅立った五千の漢軍は、11月に入って、ボロクソの様相で400足らずの敗兵になって拠点にたどり着いた。
その敗北の知らせは直ちに駅伝システムで都に通知された。
武帝もイラつきはしたがブチ切れなかった。本軍の李広利ですら惨敗したのだ。一部隊の李陵の兵数では大して期待なんぞできなかったからである。
それに武帝はあのイキり立った李陵は戦死してるに違いないともおもったのである。
ただ先ごろ李陵の使いとして来た陳歩楽(注・ちんぽらくじゃなくてちんほらく)だけは成り行き上自殺しなければならなかった。
もちろん「ぽ」ではなく「ほ」なので決してパイプカットなどではないのである。
哀れであったがやむを得ないのだ。ほんと名前も含めてなんかかわいそう。
翌年の春、李陵は戦死したのではなく捉えられて捕虜となっているのだという知らせが届いた。武帝はここでブチ切れた。
即位して40年余り。既に60に近かったが若い時以上に気性が荒れ狂っているのだ。キレる老人である。
神仙に傾倒しオカルト好みの彼はそれまで自信たっぷりの胡散臭い連中に何度も騙されている。
漢の絶頂期に50年余君臨するこの大皇帝は中年以降に霊魂の世界の関心に囚われているのだ。
中年過ぎてから宗教にハマる典型的なパターンであろう。
それだけにその方面での失敗には落ち込んだ。
段々と年とともに周囲の臣下にすら疑心暗鬼となり疑りクソ爺へとなりかけていたのである。
大臣ポジションは相次いで死罪。現状の大臣も任命されたらどうせ殺されると泣き出したくらいであったのだ。
まともな臣下はほぼ引退、残ったのはおべっかマンと外道だけだった。
さて武帝は取り巻きを集めて李陵をどうするか話し合う。李陵は都にはいないがその罪次第で妻子、眷属、家財の処分が決まるのだ。
例えば参加者の一人外道くん1号(仮名)は帝の顔色を伺って法を運用するのがうまい外道である。ある人が法の権威を説くと外道くん1号は小賢しい理論を並べて今の君主の決めたことが一番に決まっておるやろがい!と。
取り巻きの臣下はだいたいこんな感じである。なんかなあ……。
話し合いでは誰一人として帝の機嫌を損ねてまで李陵をかばってやろうなどというものはいない。
口を開けば売国行為を罵るだけなのである。
李陵のようなオラつきド変人の一時でも同僚であったの恥ずかしい……などという意見すらも飛び交うほどである。
思い返してみればいつも李陵は変なやつだし一挙一動怪しかったよなという結論に達してしまうガバガバ具合。
李陵の従兄弟も李陵の影響なのかクッソうざいしこんなのが身内の李陵は糞だなという始末である。
この場で口を開かなかったものこそが李陵への最大の好意をもつものだったがそれすら数えるほどしかいなかったのだ。
地獄かな?
ただ一人苦しい顔をしてこれを見守っている男がいた。
こいつら李陵をボロクソに入ってるけど数ヶ月前の出兵のときに宴会開いてべた褒めしてたんですけど……なんなのこいつら……。
ちんほらくの報告に大喜びして名将の祖父を持つ家柄サイコー李陵すげーしたのもこいつらなんですけど……。なんなの……。
都合の悪いことを忘れる臣下たちや、へつらいを見抜けるはずなのに現実を見てみぬする武帝がこの男には不思議に思われた。
いや不思議ではない。人間とはそういうものだと嫌になるほど知っているのだ。
だが不快なものは不快なのである。
役人として努めていたためこの男もまた帝に問われることとなった。
その時この男ははっきりと李陵を褒め称えた。男の中の男である。
曰く、家族を大事にし、部下に尊敬され国の危機に活躍しようとするまさに英雄だ。
今回は失敗したが自己防衛のために言いたい放題誇張するおべっかマンたちが帝の判断を捻じ曲げるのは遺憾この上ない。
李陵はたった5000で敵地深くに入り込み数万の匈奴JKを翻弄し、転戦に次ぐ転戦、矢がなくなろうと戦い抜き白兵戦すら全力でこなしている。
ここまで部下の心をつかみ奮戦するなど古代の名将でもこれほどでもあるまい。
確かに軍は負けてしまったがその善戦ぶりは天下に轟くものである。
多分死なないで捕虜になったのもスパイ工作活動じみたなにかをやらかす気ではないのかと……。
参加している臣下たちは驚いた。こいつこのタイミングでそんなことをいうなんて正気か……?と。
彼らはブチ切れこめかみバイブレーションの武帝を恐る恐る見上げた。プルプルしてるよぉ……。
それから我々を罵倒したこの苦言を呈した男が何者であるかを考えてニヤリとするのである。
向こう見ずなその男、司馬遷が帝の前から下がるとすぐにおべっかマンのひとりが司馬遷と李陵の親しい関係について皇帝にチクリをいれた。
司馬遷は遠回しにボロクソな敗北をしてきた本軍の李広利を遠回しに批判してる陰湿野郎なのでは……?というものすら出てくる始末である。
ともかく、占いや天文観察なんぞが専門の役職の人間のくせに言いたい放題あまりに不遜だよなというのが一同の意見である。
まあそうだよなとは思わなくはない。
おかしなことに李陵の家族よりも先に司馬遷が罰せられることになってしまった。
本当にメチャクチャである。
翌日彼は降格を申し渡され「宮」という刑を行われることになった。
中国で昔から行われてきた刑の主なものとして、入れ墨、鼻そぎ、足切り、宮の4つがある。
武帝の祖父のときにはこの4つのうちの3つはなくなった。唯一残っているものが宮である。
宮刑とはもちろん男を男でなくする奇怪な刑罰である。
これは腐刑とも呼ばれ、なぜなら傷が腐った匂いを放つが故とも、腐ったような男に成り果てるからだともいう。
この刑を受けたものは宮廷の宦官として働くものも多い。
こともあろうにこの司馬遷がこの刑にあったのである。
今でこそメジャーな史記の作者司馬遷は大きな名前だが当時は微妙な立場の一役人に過ぎない。
確かに賢かったが、自分の頭脳に自信を持ちすぎて、人付き合い☓、議論◎、人間性△ぐらいの変なやつぐらいとしか知られていなかった。
彼が宮刑を食らっても、いつか食らうやつだと思ってたよぐらいにしか周囲に思われてはいないのだ。
司馬一族は歴史をまとめることが専門である。漢の時代の5代目が司馬遷である。司馬遷の父は法律、暦、占いの他に様々な教えに通じており、それに分析を加え自己のものとしていた。
その頭脳や精神力についての強さをそっくりそのまま息子の司馬遷に受け継がせていたのである。
父の施した最大の教育は一通り教えた後に留学をさせたことである。
当時としては変わった教育法であったがこれが後年の歴史家司馬遷に与えた影響は非常に大きい。
その司馬遷の父は武帝が祭祀を執り行うとき病床にあり、その惨めさにブチ切れて死んだ。歴史あるあるの憤死というやつである。
古代から今を一貫して見渡せる歴史の記録は彼の一生の祈願であったが、材料の収集だけで終わってしまったのである。
その臨終の光景は司馬遷によって史記の最後の章に書かれている。
それによると父親は起き上がれないことを知ると息子の手を取って一貫した歴史書の必要性をとき、出世したにも関わらす作り始めることもしないで過去の功績を埋もれさせたことを嘆いて泣いた。
「お前が跡継ぎだ。お前が私の役職についたならば私の求めていたものを忘れないでくれ」といい、これこそが親孝行と言われたとき司馬遷は涙ダバダバでそれに従いますと誓ったのである。
父の死後二年して司馬遷は父の役職を継いだ。父の残した資料と宮廷の極秘資料を用いてすぐに転職に取り掛かりたかったのだが、最初に行った仕事はカレンダーの改正であった。
この仕事に没頭すること4年ようやくこれを仕上げると史記の編纂にとりかかった。このとき司馬遷42才。
腹案は既に固まっていた。その腹案は従来と違う斬新なものだったのである。
道義的な批判に使える古典などはあっても事実を伝えるにしてはちょっと……といった古典も多かったのである。
事実が第一である。教訓は別になくてもいいだろう。
他の古典では事実をたしかに語っている。だが事実を作り上げたはずの一人ひとりについての探求がない。
活躍こそ記録されてても、その活躍に至るまでの一人ひとりの来歴が欠けているのは司馬遷には不服だった。
従来の歴史書は過去を教えることがメインテーマになっていて未来人が読んだときに今を伝えるには不十分なのではないか。
要するに司馬遷の欲するものは今まで求めても得られなかった。
本当にどこが不足しているのかは書き始めて初めてしっかりと分かるだろうと司馬遷には思われた。
心の中のもやもやを書き表す要求のほうが従来の歴史書ヘイトよりも先走った。
彼の批判は自ら新しいものを作り上げて初めて現れるのである。
自分の考えてきたコンセプトが果たして歴史としてどうなの?とはまぁ思っていた。
しかし歴史書といえても言えなくてもそういうものが最も書かれなくてはならないものだ(みんなにとって、未来にとって、自分にとって)という自信はあった。
彼も孔子リスペクトの方針をとったがそれでも違うところはある。事件の列挙は記述としてよいものではないし、道義的に決めつけたらもはや歴史ではなく創作なのだ。
漢が天下を取って既に五代・100年。始皇帝のやらかしのせいで手に入りにくかった書物はようやく世に出始めて、学門とか頑張ろうという雰囲気が段々と出てきた。
漢の朝廷ばかりではなく時代が歴史を欲しているのである。
司馬遷個人としては父の依頼のモチベーションが年を経て得た技術や知識をもってようやく生み出せる気がしてきた。
彼の仕事は順調だった。
むしろ順調すぎて困るほどだった。
というのははるか古代の歴史に関しては厳密に調べるだけの技術者だったのだが始皇帝や項羽といったわりかし最近の人ともなると冷静さが怪しくなってきた。
油断すればトランスして項羽が司馬遷にイタコモードを起動しかねないのである。
そうして項羽の記述を完成させる
項王さまは深夜に大宴会♡美人だってそばに連れちゃう!彼女の名前は虞♡いつもラブラブ付き従っちゃう!
お馬さんはとっても早い。名前は騅でいっつもライドオンしてたんだって!そこで項王さまは悲しく歌ってプンプンしながらポエムをつくった。
力持ちだぞぉ!山だって抜けるぞぉ!エネルギーはこの世を覆っちゃうぞぉ!
でも運が悪くて負けちゃうし、とっても早い騅だって疲れてる
騅が走らないよどうしよう
虞ちゃん虞ちゃんこの子はどうすればいいんだろう
項王さまは繰り返して歌い、今度は虞と一緒にデュエット♡。項王さま泣いちゃった!
周りのみんなも大号泣!誰も顔をあげられないよぉ……
本当にこれでいいのか?正気か?司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされた書きっぷりでいいものだろうか?
彼は作ることを極端に警戒した。自分の仕事は述べることなのだ。事実これくらいなら述べる扱いだと判断した。
でも見返すとめっちゃいい感じにかけているのか……?異常な妄想力がないとできない記述であった。
彼はときに創作を恐れて書いた部分を読み返し、それっぽく解釈される余地を削る。
すると今度は味気ない。これなら創作ではない。
しかし今度は項羽は項羽っぽくなくなってしまう!
項羽も始皇帝も皆同じ人間になってしまう。味が出てこない!
違った人間を同じ人間として記述したら述べることすら満足にできていない。
削った部分は生かさないわけには行かない。そう考えるともとに直して一読してようやく一息つく。
そうしてみると歴史上の人物もようやく安心して落ち着いたように思える。
ご機嫌モードの時代の武帝は文化の保護者で役人たちのめんどくさい柵からも逃れることができた。
数年の間司馬遷は毎日が楽しかった。(現代人と違うけどいい感じ。)妥協性はなかったが毎日ニッコニコで議論で連戦連勝でマインドクラッシュが大の得意だったのだ。
さて、そうした数年ののち、突然、この禍が降ったのである。
すごいぞ!漢の将軍たち
・衛青
バグ将軍その1。
バグ将軍その2の霍去病のおじさん。
匈奴のほど近い場所出身で幼少期奴隷みたいな扱いを受けていた。
そんなある日姉が武帝に見初められあれよあれよとセットで朝廷に召し抱えられる。
コネ就職コネ出世である。
武帝の初めての子供を生んだのもこの姉とされていて、最初の妻の一門から嫉妬を受けて拉致・監禁されたりもした。
シンデレラストーリーだもんね。既得権益層にはまぁ目の敵。
匈奴討伐を始めてからは連戦連勝。
土地の切り取りにも成功して大活躍。
出世しても気安い人物だったらしい。
セルフ首切りおじいさんの李広の子供には抗議の意味で切りつけられたりもした。
血の気が多い世界観だ……。
なお衛青は切りつけられても怒らなかった。
負い目があったからとも言われてるが……。