化物語短編集『着物語』   作:しんかい(神海心一)

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ひたぎエプロン

 

  001

 

 戦場ヶ原ひたぎと僕、阿良々木暦が世間一般で言うところの恋人関係になってからそれなりの時間が経ち、専属コーチの尽力(と一応ながら僕の努力)によってどうにかこうにか前半期の期末試験を乗り越え、夏期休暇を目前に控えた七月のことである。

 去年までならば、山と積まれる課題はともかく長い夏休みに心踊るところだけれど、生憎今年の僕は受験生だ。お世辞にも成績優秀とは言えない、どころか毎回のように数学以外赤点スレスレだった僕にとって、現在の志望先は雲上の目標に近い。

 とはいえ、諦めるわけにはいかない理由が僕にはあった。約束してしまったからだ。戦場ヶ原と、一緒の大学に通うと。

 勿論それは簡単なことじゃない。何しろ、進路調査で「頭は大丈夫か」とかなり真剣な表情で担任に問われたくらいで、要するにお前なら合格するという信頼を全く得ていないのだった。……まあ、今までの成績が成績だから仕方ないけど、大人なんだからもう少し生徒を信頼して欲しいと思うのは僕だけだろうか。

 

 そんなわけで夏休みだからと言って遊び呆けるような余裕はほとんどなく、例え学年一位と七位が付いていても僕自身これっぽっちも楽な勝負だとは考えていないので、できる範囲で勉強は欠かさないようにしている。同じ受験生である戦場ヶ原(と全く受験には関係ない羽川)の手を煩わせるのは本末転倒と言えなくもないが(以前に羽川から本気で勉強を教わるのは色々な意味で怖い)、意地張った結果一浪なんてことになればそれこそ本末転倒だ。というか、戦場ヶ原を先輩と呼ぶような事態だけは何が何でも避けたい。

 昨日も夜遅くまでノートを開いていたんだが、いつの間にか眠っていたらしい。記憶がふっと途切れているのはその所為だろう。

 しかし何故か机の硬い肌触りも、頭の下に敷いた腕の痺れも、節々の痛みも感じなかった。代わりに身体を包んでいるのはふかふかな――ふわふわとした、布団の感触だった。

 訳がわからない。わからないまま、くぁ、と欠伸を噛み殺して僕は起き上がり、そこでぴしりと硬直することになる。

 

「あら、おはよう、阿良々木くん」

 

 自室ではない、自宅ですらない場所に僕はいて、振り返った戦場ヶ原は、エプロンを着ていた。

 ――否。エプロンしか、着ていなかった。

 

「…………ええと」

「朝食の用意はもうすぐ終わるから、それまでまだ横になっててもいいわよ」

「え? あ、ああ」

 

 状況を全く飲み込めず、けれどとりあえず頷くだけ頷いた僕を一瞥して、戦場ヶ原は再び調理に戻る。

 そうすると必然、僕に背を向ける形になり、無意識か意図的か(おそらくわざとだ)、ぴんと背筋を伸ばしこの一ヶ月ほどの間に随分上達した包丁捌きで手早く味噌汁の具材らしきものを四角に切り分ける戦場ヶ原の姿は、洒落にならないくらい扇情的だった。

 扇情的、なんだが……少しも惹かれないのはどうしてだろう。むしろ、どう反応していいのかわからなくて困る。

 

「できたわ」

 

 どこから突っ込むべきか、いやそれ以前にこの状況はいったいどういうことかと頭を悩ませている間に戦場ヶ原は慣れた手つきで次々と皿を卓袱台に並べていく。炊き立ての白米にふわりといい匂いを漂わせる豆腐の味噌汁、おかずに焼鮭、そして大根のお新香という絵に描いたような日本の朝食。僕の腹から物欲しそうな音が鳴り、意外に自分が空腹であることに気付いた。

 何故か貞淑な新妻を彷彿とさせる、普段の姿からは考えられないほど穏やかな表情と仕草で僕の目の前に箸を置き、向かいに腰を下ろした戦場ヶ原が微笑む。

 

「阿良々木くんの口に合うといいのだけど」

「………………」

「いただきます」

「い、いただきます」

 

 あの戦場ヶ原から出たと思えない信じられない言葉に再度硬直した僕は、流されるまま食事の挨拶を発し、味噌汁を一口。

 

「――美味い」

「そう? よかった」

「普段お前が作るのってもっと簡略化した、例えば焼きそばとかスパゲッティとか炒飯とかばっかだからこういうのはどうかとちょっと思ってたけど、うん、全然いける。二杯目を飲んでもいいくらいだ」

「ご飯もまだあるから、足りなかったら言ってね」

 

 妙に和んだ空気が部屋の中に満ちる。

 焼鮭も丁度良く火が通ってて、塩加減も見事という他ない。白米はふっくら、水が多過ぎず少な過ぎずで絶妙。お新香もいい音がするくらいの歯応えで、唯一の懸念だろう漬物独特の風味は個人的に好きなので問題なかった。

 総合的に見れば、理想的な手料理だろう。ご飯と味噌汁、共に二杯を平らげ、腹が膨れ満足した僕は空になった皿達に手を合わせる。

 

「ご馳走様」

「お粗末様でした。片付けるわね。阿良々木くんは座ってて」

 

 洗い物を台所に持っていこうとする僕を制し、戦場ヶ原は立ち上がる。

 あまりにも大人しく優しい恋人に感動するようなどこか物足りないような感覚を抱きつつ戦場ヶ原を目で追って、そこで僕は正気に戻った。

 

「ってちょっと待て!」

「いきなり大声を出して何かしら。皿を落とすところだったわ」

「お前に限ってそんなドジは有り得ないからな。……そうじゃなくて、その服装だ服装!」

「……この格好に何か問題でもある?」

「問題しかねえよ!」

 

 エプロン、だけならいい。それは調理などの作業中衣服が汚れないよう着用するもので、朝食を作っていた戦場ヶ原が身に着けていてもおかしなところはない。しかし、エプロンはあくまで補助着であり、断じて直接素肌に纏うものではないのだ。

 

「家の中で裸エプロンでいることのどこがおかしいの?」

「その発言に対して突っ込むところはかなり多いが、人前でそんな堂々と半裸姿を晒すな! バックは丸見えだろうが!」

「そうね。阿良々木くん、寝起きの胡乱な目で私のお尻をしっかりと視姦してたものね」

「馬鹿な、戦場ヶ原ひたぎは後頭部に第三の目があるのか!?」

「百八つはあるわよ」

「いくら何でも多過ぎる!」

 

 朝っぱらから頭の悪い遣り取りだった。

 ちなみに百八つとは煩悩の数と言われていて、除夜の鐘が百八回鳴らされるのは煩悩を払うためなのだが詳しくは割愛。

 何はともあれ、裸エプロンの話である。

 

「とりあえず服を着てくれ……」

「嫌よ、面倒臭い」

「そこで面倒臭がるな! すんなり頷くところだ!」

「阿良々木くんは……こういう格好、嫌なのかしら?」

「え……い、嫌かどうかと聞かれてもかなり困るんだが……」

「私の恋人はエロい、と」

「お前の方がよっぽどエロいわ!」

「そうかしら」

 

 呟くと、戦場ヶ原はおもむろに胸の辺りの布を指で摘まんで引っ張った。

 

「ぶっ!」

「七月にもなると暑いわね……。湿度は高いし、風も生温くて汗が不快だわ」

「僕は別の意味で不快な汗を掻いてるよ!」

「ちらり」

「擬音をわざわざ口にするな! いいから仕舞え!」

 

 ビジュアル的にこの状況は不味過ぎる。本人曰くわがままなボディに興奮するような余裕はこれっぽっちもない。

 胸どころかもっとデンジャラスな箇所を何の躊躇いもなく見せる戦場ヶ原から全力で目を逸らし、俯いた。

 あからさまな舌打ちが聞こえたような気がするが、幻聴だと自己完結しておく。でないと精神的に保たない。

 

「……そもそも、僕は何でこんなところにいるんだ? ここ、戦場ヶ原の家だろ?」

「さあ。歩いてきたんじゃないの?」

「その発言を信じるとすると、僕には夢遊病の気か激しい記憶障害があるとしか思えないんだが」

「私は阿良々木くんの記憶力がない、に全財産賭けるわ」

「偉い自信だなこの野郎!」

「野郎とは失礼ね。私はれっきとした女よ」

「ならせめてもう少し羞恥心とかを持ってくれ……」

「私の美しい肢体では不満とでも言うの?」

「身体じゃなくて精神面に不満だらけだ!」

 

 あと自分で美しいとか言うな。

 

「仕方ないわね。無知で無策で無残な阿良々木くんに正解を教えましょう」

「理由もなくボロクソに貶されてる理由をまず教えてほしいんだが」

「昨日、神原がそっちに来たでしょう?」

「やっぱり無視か……え、ああ。僕に相談したいことがある、なんて電話が掛かってきたからな」

 

 阿良々木先輩の部屋がいい、と携帯越しに平伏(額で床を擦る音がした。神原ならマジでやる)されたので断るにも断り切れず、自室まで招いてしまった。昨日は土曜、妹達も運悪く家にいて、絶対こいつとは会わすまいと決意したのをよく覚えている。

 おかげで夕食時に「兄ちゃんが女を連れ込んで二人きりでいかがわしいことをしてた」と勘繰られ、家族ぐるみで責められることになった。勿論、そんな事実は全くない。あったのは、色気もへったくれもない相談内容だけだ。

 ……まさか三時間もブルマーの素晴らしさについて語られ共感を求められるとは思わなかった。

 

「その間、神原を何度か一人にしなかった?」

「まあ、そりゃあ僕だって人間だし、トイレにも行くさ。でもそれといったい何の関係、が……」

「恐らく阿良々木くんの想像通りよ」

「神原の奴、僕が席を外してる間に何か仕掛けを……!」

「おかげで助かったわ。今度神原にはご褒美をあげなくちゃね」

 

 無表情のままで。

 戦場ヶ原は、僕に向かって告げた。

 

「つまり、阿良々木くんの部屋に隠してあるエロ本の位置はこれで丸解りということよ」

「全然想像通りじゃねえー!」

 

 色々な意味でどうしようもないオチだった。

 いや、これはこれでかなり洒落にならない。前に神原のストーキングによって僕の購入履歴が丸裸になっていることが判明したが、その上隠し場所まで知られてしまってはもう八方塞がりだろう。ていうかヴァルハラコンビ妙なところで結束し過ぎだ。僕にプライバシーというものはないのか。

 

「ないわね」

「勝手に人の心を読むな!」

「そんなエスパーめいたことはしてないわ。顔に出てたのよ」

「え、僕はそこまで考えが表情に出やすい人間だったのか……?」

「今も書いてあるわね。でもそれはそれでいいかもしれない、って」

「明らかな虚偽だろう!?」

 

 僕は虐げられて喜ぶようなマゾじゃない。確かに最近こういう言葉責めにも慣れてきて一日の終わりに戦場ヶ原の罵倒を受けていないと少し物足りない気持ちにもなるんだが、いやちょっと待て前より症状が進行してないか僕。

 踏み入れてはいけない領域に歩を進めてしまっている気分。それこそ本気で洒落にならない。

 

「マゾで奴隷気質な阿良々木くんのことは置いといて」

「今僕は聞き捨てならない台詞を耳にしたぞ!?」

「気付かなかったかしら。窓のロック部分の微かな違和感に」

「まるで見てきたかのような言い方だな……」

「だって実際見てきたもの。神原と一緒に」

「……は?」

「鍵開けというのは、何もドアだけに限るものじゃないのよ」

 

 そこまで提示されてようやく繋がった。不本意ながら鈍い僕でも、充分なヒントがあればさすがにわかる。

 要するに戦場ヶ原は、こう言いたいのか。

 

「窓を外から開けて、それで僕を連れ出したんだな」

「え? 違うわよ? 何格好付けてるの、気色悪い」

「謎解きが台無しだ! しかも気色悪いって言われた!」

「私はちゃんと玄関から訪問して、家族の方に許可を得たわよ。彼を一日借りていきます、って」

 

 衝撃の事実。僕は親に身売りされていたらしい。

 すんなり本人の意思と関係ないところで許可を出す親も親だが、堂々と正面から拉致宣言をする戦場ヶ原も戦場ヶ原である。

 

「……あれ? じゃあ神原はどうしたんだ」

「普通に窓から侵入したわよ」

「僕はお前に普通とは何なのかをじっくりと問い質したい」

「あの子になら、阿良々木くんを起こすことなく連れ去ることも可能だと思ってたけど、それは間違いじゃなかったわ」

「是非とも間違いであって欲しかった……」

 

 つまり、こういうことらしかった。

 戦場ヶ原が玄関で親と応対する。その間に神原は二階の僕の部屋の窓に接近し、予め鍵に括り付け外へ出しておいた糸を引っ張り、開錠。窓の鍵はクレセント、半月型の一般的なものなので、外側に力を掛ければ簡単に開くだろう。位置関係を考えれば一見難しいように思えるが、少しの工夫でそれはどうにでもなる。もっとも、神原がその仕掛けをしてから今日の朝に至るまで、僕がどこかで窓を開けてしまえばその計画は崩れたのかもしれないが、昨日の夜は蒸し暑く、冷房をかなり効かせていた。空気の入れ換えは時々ドアを開けることで済ませていたし、わざわざ不快な外の風をよく冷えた室内に呼び込もうとは思わない。

 結果的に神原の――いや、恐らくは戦場ヶ原の発案だろう――思惑は叶い、どんな風に支え、抱えられたのかはわからないが、僕は見事に攫われた、というわけだ。戦場ヶ原のことだから、僕が窓を開けないのも予想済みだったのかもしれなかった。

 

「想像以上に、可愛らしかったわね。阿良々木くんの寝顔」

「う…………」

「神原が息を荒くしながら『これで四日はいける』と言ってたわ」

 

 何が、とは訊かなかった。

 最早僕の中で、女性に対する幻想は原子レベルまで粉々になってしまっている。

 

「……で、それとお前が裸エプロン姿なことと何の関連性があるんだ」

「前に言わなかったかしら」

「ん? 何をだ?」

「夏休みには実行しようと思ってるのだけど、って」

 

 淡々と告げる戦場ヶ原のその言葉に、僕はふと思い出した。

 つい先日、八九寺とのブルマーを巡る一騒動があった時のことだ。そう、確か、そんな話をしたような、しなかったような……。

 自分の記憶に自信が持てず首を傾げる僕に向かって、戦場ヶ原はこれみよがしに溜め息を吐いた。

 

「阿良々木くんの記憶力はサナダムシ以下ね」

「サナダムシに記憶力なんてないだろう!?」

「どうしてそう断言できるのかしら。考える頭を持っているのが人間だけと思うのは、傲慢と言うものよ」

「あ、いや、そうかもしれないけど……」

「知ってる? サナダムシは扁形動物の一種で、プラナリアなどもその仲間に含まれるの。分裂増殖できる阿良々木くんにぴったりね」

「できねえよ! お前は僕を何だと思ってるんだ!」

「え? できないの?」

「素で訊き返された!?」

「私は阿良々木くんのことを考えてここに連れてきたのよ」

「相変わらず勝手に話を戻す奴だよなお前……。僕のことを考えたんなら最初からやろうと思わないで欲しかったんだが」

「家庭崩壊はせずに済んだでしょう?」

「代わりにとても大事なものを凄い勢いで失ってる気がする……」

「感謝なさい」

「今の会話のどこに感謝できる要素があった!?」

 

 丁々発止。

 話せば話すほど本題から遠ざかるのは何故だろうか。

 

「とにかく、何度も言うようだけどまずは服を着てくれ……」

「仕方ないわね」

 

 おもむろに戦場ヶ原がエプロンを脱いだ。

 わかっていたけど下着も何も着けちゃいなかった。

 

「ぐあああっ!」

「そこをどいて頂戴。服が取り出せないわ」

「嘘をつけ! 僕の後ろに衣装箪笥はない!」

「あなたが座っている床の下に仕舞ってあるのよ」

「ここは忍者屋敷か何かか!?」

「いちいち騒がしいわね。盛るわよ」

「主語をはっきりしろ! 何を僕に盛るつもりなんだ!?」

 

 すっぽんぽんのまま、わざわざ僕の上を大股開きで跨ぎ、何故か部屋を無意味に一周してから衣装箪笥に辿り着く戦場ヶ原。

 あけっぴろげどころか、ほとんど露出狂だ。服を取り出す動きも妙に遅く、しかも下着より先に上着とスカートを選んでいる辺りはもう完全に確信犯としか思えない。万が一この状況を写真にでも撮られようものなら、性犯罪者として警察の世話になるのは間違いなかった。

 たっぷり五分を掛け箪笥の中の衣服を探り終え、必死に本棚の方へと目を逸らす僕を尻目に、衣擦れと不規則な足踏みの音を響かせて戦場ヶ原は着替え始めた。余計に気まずくなり、前は混乱してそれどころじゃなかったけど耳も塞ぐべきなのかと思ったところで、丁度背後に当たる位置から戦場ヶ原の声が聞こえる。

 

「もういいわよ、こっちを向いても」

「……実はまだ下着姿だったりはしないよな」

「阿良々木くんは疑い深いわね。人を信じられないなんて悲しいことよ」

「直接の要因がそれを言うか」

「いいからこっちを向きなさい」

「……はあ、わかったよ」

 

 嘆息と共に、僕は戦場ヶ原の方に向き直る。

 どうやら今回はしっかり着てくれていたようだ。何度か見たことのある、シックな色合いの上下。スカートは戦場ヶ原が所持しているものの中では比較的短いが、それでも膝が軽く隠れる程度で、ついでに言うと夏なのもあり生足である。

 正直安心した。前みたいに変なサービスをされても反応に困るだけだしな……。

 そんな思考が表に出てたのか、戦場ヶ原は一瞬思案するような仕草を見せる。

 

「その顔は、いやらしいことを考えている表情ね」

「違う。むしろ真逆だ」

「ちょっとは考えなさいよ!」

「何故そこで逆切れする!?」

「もしや阿良々木くんは裸エプロンには欲情しないタイプなの?」

「するしない以前にできるような状況だったと思うのか!?」

「なら全裸は?」

「僕にどう答えろって言うんだ……」

「チラリズムって、大事だと思うのよ」

 

 唐突に全然関係ない話題を持ってこられた。

 

「ふわりと浮き上がる服の下から覗く臍。風に靡く髪に隠れたうなじ。そして、階段の下から眺める見えそうで見えない下着」

「最後のにはちょっと同意しかねるな……」

「どうかしら、阿良々木くんはそういうのにぐっと来ない?」

「うーん……まあ、わからないでもないかもな。おおっぴろげにされてると逆に引くことだってあるだろうし」

「そうね」

 

 僕としては精一杯の皮肉を込めた発言だったんだが、あっさりとスルー。

 しかし今更だけど、こいつに突っ込みを期待する方が間違ってるんだよな、多分。

 

「さて問題です。上は大火事下は洪水、なーんだ」

「あれ、逆なのか……。じゃあ風呂釜、じゃなくてえっと……駄目だ、お手上げ」

「諦めたらそこでゲームセットよ、阿良々木くん」

「格好良く言ったつもりなんだろうけど別にそんな切羽詰まってもないからな……」

「仕方ないわね。答は」

 

 平坦な声で、普段通りの自然な仕草で。

 戦場ヶ原はスカートの裾を指で摘まんだ。

 そうすれば当然、その中身が露になる。

 

「……私の身体よ」

「お、おま、お前っ!」

「どうしたのかしら阿良々木くん。ついに脳機能が麻痺して舌が回らなくなったのかしら」

 

 遠回しに言えば、一面肌色だった。

 身も蓋もない、ストレートな言い方をすれば、はいてなかった。

 

「何も見てない何も見てない何も見てない……」

「現実逃避をし始めたら末期ね。集団自殺に走っても私は止めないから好きにしなさい」

「止めろよ! ていうか穿けよ!」

「それで私に何の得があるというの?」

「僕が社会的に危うい立場にならなくて済む!」

「ちらり」

「だからわざわざ擬音を口にして胸元を無意味に見せるな! それは二度ネタだ!」

 

 戦場ヶ原ひたぎ。僕を困らせ凹ませ慌てさせ貶めるためなら全裸で土下座することも辞さない女。

 ……前にも思ったけど、本当にこいつは気位が高いんだか低いんだかわからないよな。プライドという言葉の意味を忘れそうになる。

 僕は我ながら情けない、小動物めいた動作でうずくまり、目を閉じ耳も塞ぎ全身で戦場ヶ原から意識を外す。向こうも心得たもので、さすがに三度ネタをするつもりはないらしく、塞いだ耳越しに微かな衣擦れの音が再度聞こえた。

 頭に、さっきの光景が焼きついて離れない。急いで視線を逸らしたので一瞬だったが、裸エプロンの時よりも見えた。見えてしまった。

 厳密に言えば初めてではない、のだが――人生初の銭湯デビューで家の風呂とは比べ物にならない広さにはしゃいでいるところに、湯船から立ち上がりのっしのっしと歩いて真横を通り過ぎた見知らぬ大人のアレを思いっきり目にした、くらいのショックだ。比較対象は性別的に正反対だが、気分は似たようなもの。油性のマジックペンで直接書き込んだのかと思うほど、はっきりと瞼の裏に残っている。

 強固な貞操観念を持つ戦場ヶ原が、僕に対してだけはこういうことをする、というのはある意味凄い、彼氏冥利に尽きることだと思うべきなのかもしれないけれど――明らかに僕をからかおうとしているのがわかる以上、喜ぶ気持ちには少しもなれないのだった。

 

 どれだけの時間が経ったのか。

 弱い力で、肩を叩かれる。

 まだ怯えを抜けず、恐る恐るといった感じで耳を塞ぐ手を離し、頑なに閉じた瞼を上げて振り返ると、そこにはいつも通り、今度こそ完全に下着も含めて身に纏った戦場ヶ原が立っていた。

 衣服の乱れが一切ない、この姿だけを見れば十人のうち十人全員が優等生と認めるだろう、凛とした姿。

 やっと――これでやっと、まともに向き合える。

 僕は常識人を自負しているので、裸エプロン姿の女や下着を着けない女とは正常な会話をしたくないのだ。

 

「失礼な男ね。まるで私が非常識な女みたいじゃないの」

「さも当然のように思考を読まれてることはさておき、気付いてなかったのか……」

「なら阿良々木くん、常識とはいったいどこにあるのかしら?」

「は? そりゃあ世間一般に正しいと判断されることだろ?」

「目に見えるものだけが真実じゃない……」

「唐突に格好いいことを言っても全然決まってないからな」

「常識度チェック。アルゼンチンのサンタ・クルス州、リオ・ピントゥラス渓谷に位置する、1999年にユネスコの世界遺産に登録された洞窟は?」

「え……?」

「はあ……。この程度の問題も解けないようでは常識人とは到底言えないわ」

「じゃあお前はわかるのか!?」

「クエバ・デ・ラス・マノス。『手の洞窟』という名の通り、無数の手形が壁面に描かれていることで有名ね。もっと長々と説明できるけど、聞きたいかしら?」

「……いや、いい」

「こんなこともわからないから阿良々木くんの偏差値はゼロなのよ」

「ゼロじゃねえよ! ってまさかお前、またしても十の位を四捨五入したのか!」

「以前と変わらず百の差ね」

 

 今の僕が偏差値を算出できる模試を受ければ、どうにかこうにか境界線である四十台は突破可能だろうが、まあどちらにしろ焼け石に水、その程度の付け焼刃では戦場ヶ原の領域には届くはずもない。四十六と七十四の差は、それくらい圧倒的なのだ。

 

「ところで、今日は休日だけれど」

「そういえば、そうだったな……」

 

 すっかり忘れてた。いや、考える余裕がなかったと言うべきか。

 試験が明け、答案も無事に返却された、あとは終業式含め片手で数えられる日数を登校すればもう夏休み、という週の日曜。

 普段なら土曜のうちに約束を取りつけて、僕がだいたい昼頃戦場ヶ原の家に勉強を教わりに行くのだが。

 

「デートをします」

「………………」

「違うわね。こうじゃないわ。デートを……して、いただけませんか? デートをし……したらどうな……です……」

 

 まだ頼み方を掴めてなかったのか。

 

「デートに付き合わなかったら八つ裂きにするわよ」

「前より酷くなってる!?」

「私と外出できるなんて、本来阿良々木くんみたいな下賎の者には到底無理なことなのよ?」

「その言葉を聞いて僕は行く気が物凄く萎えたよ……」

「デート……してくれないの?」

 

 最近は搦め手がお好みなようだった。

 間違いなく演技だとわかっていたが、いつもの戦場ヶ原なら絶対に浮かべない、子犬のような表情を見ては断れるものも断れそうにない。

 結局、僕は雰囲気に流される形で頷いてしまった。騙されてる……。

 

「でも戦場ヶ原、このままじゃ僕は出かけられないと思うぞ」

「そうね。私も今の阿良々木くんと並んで歩きたくはないわ」

 

 着の身着のまま連れてこられた僕の服装は、言うまでもなく昨日の夜布団に入った時と同じだ。

 ついでに髪は跳ね、寝汗も掻いているので並んで歩きたくないという気持ちもわかる。

 男と女の清潔感の違いについてここで論じるつもりはないけれど――少なくとも、入浴時間は十分以内、自室の掃除は週に一回程度しかしない僕よりも、塵一つないように見えるこの六畳一間を維持し続けている戦場ヶ原の方が綺麗好きであることは間違いないだろう。

 

「だから、こんなこともあろうかと」

 

 そう言って、正面に座っていた戦場ヶ原はふっと立ち上がる。

 部屋の隅でしゃがみ込んだかと思うと、こっちからは陰になって見えない場所から何かを取り出し、抱えて持ってきた。

 それを僕の前で放るように落とし、

 

「神原には阿良々木くんの着替えも調達するよう頼んでおいたわ」

「………………」

「どうしたのかしら、もしかして感動して声も出ないとか? それならここまで気を配った甲斐があったわね」

「逆だ! 不法侵入どころか服を漁られた!」

「随分色気のない下着ね」

「あいつはそこまで見やがったのか!?」

「阿良々木くんはトランクス派……と。良かったわ、ブリーフ派だったらどうしようかと思ってたのよ」

「僕は今お前との付き合い方を考え直してるところだよ!」

 

 よりにもよって神原に箪笥の中身を見られたというのがまずい。

 これは帰ったらチェックしないといけないよな……。

 下着の一枚や二枚は無くなってそうだ。

 

「お風呂も貸してあげるから、入ってきて。あ、あまり水を使われると困るんだけど」

「その辺は大丈夫だ。自分で言うのも何だけど、僕は烏の行水だって妹達に言われてるくらいだから」

「本当に烏並みの時間で出てくるのは止めてね」

「わかってる」

 

 さすがに水にくぐるだけ、なんてつもりはない。髪と身体くらいは洗っておく気でいた。

 小さな、両手を横に伸ばせばそれだけで両端に触れられてしまうほどの広さしかない、浴室と呼んでいいのかどうかも悩むような空間。バスタオルとバスマットを戦場ヶ原に用意してもらい、僕は汗の臭いが軽く染みついた服を脱いでそこに足を踏み入れる。蛇口を捻り、シャワーから流れる水が熱を持つまでしばし待つ。

 さっさと済ませよう、そう思い首元を隠す目的で伸ばした髪を濡らしシャンプーに手を伸ばしたところでふと気付く。置いてあるのは一種類、それも普段僕が使うようなものじゃなく、どちらかと言うと母親や二人の妹が使う、リンスインとか何とかそんな肩書きがくっついたものだ。要するに、戦場ヶ原が使用しているであろうシャンプーだった。

 これは……使っていいのか? いやでも、他にはないしな……。

 というか、よく考えたら僕は恋人の家で、恋人が入る風呂を使ってるんだよな。

 ――特に嬉しく感じないのは何故だろう。

 

「言い忘れてたけど」

「うわあっ!」

「そこまで驚くことはないでしょう?」

 

 脱衣所の方から扉越しに、戦場ヶ原の声が聞こえてきた。

 

「ボディシャンプーはないから、身体は石鹸で洗って。顔も洗う気なら石鹸で」

「あの、戦場ヶ原……髪はどれで洗えばいいんだ? シャンプーは、一つしかないみたいだけど……」

「それを使えばいいわ。私のよ、光栄に思いなさい」

「……有り難く使わせていただきます」

「あら、もっと慌ててくれるかと思ったのに。可愛い女の子の痕跡が見え見えなお風呂なんて阿良々木くんには縁遠いものでしょう?」

「まあそうだけどな……。僕の家はほら、妹達がいるし、女物のシャンプーとかもよく目にするんだよ」

「そういえばそうだったわね。あなた、シスコンだったものね」

 

 違う。あと、自分で可愛い女の子って言うな。

 うっすらと扉向こうに見える長身の影が離れたのを確認し、僕は髪、身体の順に洗い始める。わしゃわしゃと、がしがしと――良く言えば豪快な、悪く言えば乱雑な手の動きで、いつも通りに。泡だらけになるのに二分、それをシャワーで流すのに一分弱。

 ふんわりと漂う香りはきっとシャンプーのものだろう。戦場ヶ原の艶やかな髪はこうして保たれてるのかと感慨に浸りつつ背中を流していると、何故か不意に後ろの扉が開いた。

 

「結構筋肉付いてるのね」

「ぶっ!」

「お構いなく続けて頂戴」

「続けられるか! 一刻も早く閉めろ!」

「背中でも流してあげるわよ?」

「唐突なサービスはいらない!」

「御免なさい、開けるドアを間違えたわ」

「そんな誤魔化し方が有り得るか! いいからすぐに閉めてくれー!」

 

 思いっきり視姦された。

 恥じらいも何もあったものじゃない。どうして僕は恋人の家で風呂入っておまけに裸見られてるんだ……。

 

「着替えたわね」

「物凄く大切なものをいくつも失った気がする……」

「代わりにもっと素敵なものを得たでしょう?」

「……何だよそれは」

「私のあられもない姿。明日にでも自慰のネタに使えるわよ」

「お前の歴代の発言の中でも今回のは断トツで最低だ!」

 

 記録更新。タイミングも完璧だった。

 まさか、一週間無駄毛を処理する様子を観察させて欲しいという台詞よりも下が出てくるとは思わなかった。というか、思いたくなかった。

 戦場ヶ原……お前は本当に、いい意味でも悪い意味でも悉く期待を裏切る奴だよな……。

 

「馬鹿なことをやってないで行きましょう」

「自覚はあったんだな……」

「馬鹿とコントをやってないで行きましょう」

「今のは明らかに僕に対する挑戦だな!」

「ほら、靴を履きなさい」

 

 話によると僕は神原に抱えられて(いわゆるお姫様抱っこだったらしい。近所の人に見られてないことを信じたい)連れてこられたらしいので靴は持ってきてないんじゃないかと危惧していたけれど、そんなことはなかった。玄関から堂々と、戦場ヶ原は僕の靴をビニール袋に入れて運んできたとのことだ。背を押され、理不尽なものを感じながら足を通す。篭もった熱が少し不快だが、これくらいは許容範囲。

 外の陽射しは強く、眩しい。今も僕の影に入ったままの忍は大丈夫かと心配になったが、それはおそらく無用だろう。彼女は基本的に僕から血を吸う時にしか出てこない。中にいれば太陽も怖くないはずだ。早くもじわりと額に浮かぶ汗を拭い振り返ると、靴を履き終え鍵を閉めた戦場ヶ原が早く降りろと言うような目で僕を見ていた。

 視線に押されるようにアパートの階段を降りると、戦場ヶ原は隣に並ぶ。

 そして前を向いたまま僕の手を掴んだ。

 

「え……?」

「そんな驚くことかしら?」

「いや、その、悪い。……ちょっとびっくりしただけ」

「ふうん。まあいいわ」

 

 手を繋ぐこと自体は初めてじゃない。初めてじゃないんだが――どうしたんだ今日の戦場ヶ原は。妙に積極的でドキドキするぞ。

 触れるだけの、軽く摘まむだけのものではなく、しっかりと指まで絡める繋ぎ方。手のひらが重なって、そこから人肌の温かさが直に伝わってくる。当然と言うべきか戦場ヶ原は平然とした表情で歩いていて、逆に僕が、僕だけが変に緊張していた。

 ……ど、どうすればいいんだ? ここは握り返したりした方がいいのか?

 

「阿良々木くん」

「お、おう」

「両生類と爬虫類ならどっちが好き?」

「――は?」

 

 意味不明な質問だった。

 

「いいから答えなさい」

「えっと……そうだな、どっちかと言えば、両生類だな」

 

 爬虫類にはいい思い出がない。

 特に蛇に関しては、噛まれたり巻きつかれたりと散々な目に遭わされてるから余計に。

 

「じゃあ色なら青と緑、どっちが好きかしら」

「うーん、正直どっちでもいい」

「高いところと低いところは?」

「別に高所恐怖症じゃないけど、まあ低いところの方が安全だよな」

「そう」

「おい、いったい何の目的があっての質問だったんだ? そもそも、デートっつってもどこに向かって――」

「黙れ、と言ってるのよ」

「………………」

 

 今初めて聞いたよ。

 しかしこういう時の戦場ヶ原は梃子でも口を開かないことはわかっているので、僕としては溜め息を吐いて話してくれるのを待つしかない。

 いつの間にか前に出てきた戦場ヶ原はぐいぐいと手を引っ張り始め、転びそうになりながら僕はその背に付いていく。

 繋いだままの手は汗で湿り、もう離した方がいいのかもしれないと思うんだが、戦場ヶ原にそんな気はないようだった。

 最寄りのバス停まで二十分、そこからは徒歩ではなくバスでの移動だ(運賃は戦場ヶ原が出した)。炎天下の中を歩いていた分、車内の涼しさが身に染みる。二人並んで一番前の空いていた席に座り、無表情で何故か妙に肩を寄せてくる戦場ヶ原にいくつかの意味でドキドキすることしばらく。バスを降りた僕は車内と外の温度差に再び辟易しながら、戦場ヶ原に連れられる。

 やがて、先を行く足が止まった。勢い余って僕は正面の華奢な背中に衝突する。

 

「着いたわ」

「……もしかして、デートってデパートでのショッピングか?」

「ご名答」

「ちょっと待て、お金なんて僕は持ってきてないぞ? 大丈夫なのか?」

「最初から期待はしてないわよ。だって阿良々木くん、一文無しでしょう?」

「まあそうだけど……」

「エロ本の買い過ぎで」

「お前は僕をそんなにエロい男にしたいのか!? 違えよ! 財布が手元にないんだよ!」

「つまり、阿良々木くんは財布も持てないほど金欠、と」

「生で金を持ち歩く趣味はねえ!」

「なら調理すればいいのかしら」

「揚げ足を取るな!」

「揚げてしまえばいいのね」

「こんがり揚がる前に大変なことになるわ!」

 

 まるで八九寺とのやりとりである。

 戦場ヶ原、お前この調子で他のキャラクターを喰ってくつもりじゃないだろうな……。

 

「お金のことなら心配しないで。ちゃんと私が持ってきてるから」

「何を買うのか僕は全然知らないんだが……」

「阿良々木くんは何も言わずに付いてくればいいのよ」

「はいはい」

「はいは百八回よ」

「言えるか! ていうか今更その数を引っ張ってくるのかよ!」

「中なら少しは涼しいかもね。行きましょう」

「とことん人の話は無視する奴だな……」

 

 駅前にある、この町では唯一の、それなりに大きなデパートが戦場ヶ原の目的地のようだった。

 僕にはあまり――いや、ほとんど縁のない場所だ。服装とかには頓着しないからなあ。

 

「で、何を買う気なんだ?」

「な・い・しょ」

「………………」

 

 可愛く言われても反応に困る。

 

「阿良々木くんは大人しく私に付いてくればいいわ」

「そうっすか……」

「例えるならそう、鎖に繋がれて引かれる飼い犬のように」

「それは明らかに余計な台詞だ!」

「ああ、ごめんなさいね。阿良々木くんって凄く犬みたいだから、つい可愛がりたくなっちゃうのよ」

「褒め言葉にしても微妙だな……」

「間違えたわ。阿良々木くんって物凄く駄犬みたいだから、ついからかいたくなっちゃうのよ」

「ニュアンスが全然違えよ!」

 

 六文字変えるだけでここまで人を貶められるのは、ある意味才能なのかもしれない。

 まあ、最初から褒める気なんてなかったんだろうが。

 そんな会話を交わしているうちに降りてきたエレベーターを使い、上を目指す。何階に何があるか、というところまで僕はしっかり見なかったけれど、僕をここまで連れてきた張本人たる戦場ヶ原は目的の場所がどこかをしっかりと理解しているらしく、迷いのない動きで四階を示すボタンを押した。他に客がいない中、エレベーターは微かな唸りと共に僕達を運んでいく。

 間抜けな音が響き、正面の扉が横開きすると戦場ヶ原が先行し、眩暈がしそうなほどにずらりと売り物が並んだフロアを淡々と歩いていった。後ろからその様子を見ていた僕は、冷静な表情をした戦場ヶ原とは逆に、次第に不安を募らせていくことになる。

 不安は悪寒に、そして最後には確信へと変わった。

 

「………………」

「どうしたの」

「あの……戦場ヶ原さん?」

「何かしら。ここで下らない質問をしたら昔阿良々木くんが給食のスプーンでウルトラマンごっこをしてたことを公表するわよ」

「してねえよ! だいたいそれは僕よりもっと前の世代の話だろう!?」

「いいから早く言いなさい。でないと全世界に実名付きで過去の汚点がばら撒かれると思いなさい」

「さらに酷くなってやがる!」

 

 社会的な尊厳が掛かってしまった。

 公表されるのがウルトラマンごっこならともかく(事の正否は置いといて)、戦場ヶ原ならもっと恐ろしいスキャンダルを捏造していないとも限らない。やると言ったらマジにやるのだこの女は。全世界でなくとも、クラス中にそれとなく言いふらすくらいは平気でするだろう。

 

「……どうして僕達は、水着売り場に来ているのでしょう」

「馬鹿じゃないの?」

 

 思いっきり鼻で笑われた。

 何かすっごい理不尽な屈辱を味わった気がする。

 

「夏休みは阿良々木くんにとって勝負どころだけど、ひたすら勉強しているだけじゃ精神的虚弱体質の阿良々木くんは持たないと思うのよ」

「確かに勉強続きじゃ参るだろうけど、断じて精神的虚弱体質なんかじゃないからな」

 

 むしろ人より遙かに強いはずだ。日常的に毒舌を受けているからして。

 

「だから、どこかで息抜きも兼ねて海に行くのはどうかしら……というのを神原と先日話したのだけど」

「ふうん……いいんじゃないか? でも、お前って人ゴミとか嫌いだとばかり」

「嫌いよ。日本人の半分くらい原因不明の病で死ねばいいと思ってるわ」

「………………」

「心配しないで。神原の親戚の父親の弟の娘の友人がプライベートビーチを持ってて、そこを貸してくれるそうよ」

「他人じゃねえか!」

「話によると二つ返事で『構いませんわ駿河お姉様のためなら!』って言ったらしいけど。親切な子ね」

 

 嘘だ、とは言えなかった。年下の女の子ならば誰であれ十秒以内に口説ける自信がある、と豪語する神原なら、現実にやりかねない。

 ていうか、お姉様と呼んでる辺り口説いた時間は十秒どころじゃなさそうだな……。

 

「でも私、水着なんて持ってないのよね」

「え? どうして、ってああ、そうか……」

 

 蟹。蟹に遭った、重さのなかった戦場ヶ原は、他人との接触をしないようにずっと努めていた。

 おそらく――否、間違いなく、僕が彼女を知る、同じクラスになる前からそうだったのだろう。幸いと言うべきか、直江津高校に水泳の授業はないものの、それでも人前で水に入れないことには変わりない。同じ理由で市民プールなどにも行けなかったはずだ。今も行きそうにないと言えばないのだが、以前なら尚更。水着を必要としない生活を、戦場ヶ原は強要されてきた。

 しかし今は、その問題も解決して、ファッションを自由に選べるようになった――前にそう言っていたのを僕は覚えている。

 

「別にスクール水着じゃなくてもいいんだもんな……」

「阿良々木くんが着て欲しいって言うんなら、私も吝かではないわよ?」

「言わねえよ」

「そう。残念」

 

 ちっとも残念そうな顔をせずに戦場ヶ原は続けた。

 しれっと。

 

「じゃあ阿良々木くん、私に似合う水着を選んで頂戴」

「…………嘘、だよな」

「まさか。私は嘘が嫌いよ」

「それこそ嘘をつけ! お前大好きじゃねえか!」

「好きなものは平和とボランティア」

「今更高感度アップを狙っても逆効果だ!」

「ほら、男の子なら希望とかあるじゃない。こんな感じのがいい、とか」

「でもなあ……」

 

 女性用水着売り場なんて、ランジェリーショップ、生理用品売り場と並んで近寄りたくない場所だぞ。

 例え恋人同伴だとしても、ほぼ確実に白い目で見られるとわかってるところに好んで入る奴はいない。

 

「意気地無しね。私を盛った獣のように襲った夜は何だったの?」

「そんな出来事は一度もねえー!」

「天地神明に誓って?」

「誓ってだ!」

「では妄想の中でならどうかしら」

「それなら少しは……ねえよ! 妄想の中でも僕がお前を襲うようなことは絶対に有り得ない!」

「………………」

「……って、あ、あれ?」

 

 そこでふっと表情を暗くする戦場ヶ原。

 ……もしかして、僕はとてもまずいことを口走ってしまったりしたんだろうか。

 いや、嘘は言ってない。僕が戦場ヶ原を襲うことは、絶対に有り得ないのだから。でも――

 

「さあ、早く決めましょう。時間が勿体無いわ」

「え、あ、ああ……」

「……阿良々木くんに決めて欲しい、というのは本当よ。だから、素敵なセンス、期待してるわ」

 

 何事もなかったかのように。

 戦場ヶ原は唐突に、僕の腕を抱え込む形でホールドした。

 密着した部分、要するに胸が僕の二の腕辺りに当たって、柔らかな感触が直接肌に伝わってくる。

 そのまま、傍目にはいちゃつく恋人のように、僕からすれば連行される子牛のように、水着売り場へと引っ張られる。

 衆人環視の状況で振り払うわけにもいかず、勿論目を閉じて現実逃避するわけにもいかず、僕は中心点に立つことを余儀なくされた。

 ……今、考えるべきことはいくつかある。けれど、とりあえずは――

 

「諦めろ、か」

「何か言ったかしら?」

「いや……当たってるんだが」

「当ててるのよ」

「無表情で言われると逆に怖いよ……」

 

 水着、選んでやらないとな。

 

 

 

  002

 

「ヘタレね」

「別にいいだろ。そっちの方が似合うと思ったんだよ」

「阿良々木くんは馬鹿だわ」

「何の脈絡も理由もなく人を馬鹿呼ばわりするな!」

 

 結局、僕が見繕ったのは、スタンダードなセパレートタイプの水着だった。

 試着はせず、想像と色合いだけを参考にしてのセレクションだが、簡単に決まったわけじゃない。

 そもそも僕は戦場ヶ原が選んで持ってきた現物に対し、これは違うような、これはいまいちだな、と相槌を打つ役割で、手に取る恥ずかしさもあり「これがいい」と直接選んだのではなかったりする。

 もう一つ言えば、戦場ヶ原は途中で妙に際どい(最後の方は面積が極めて小さいビキニすら生易しい部類だと思った。何で売ってるんだ)物ばかりを持ってきて、その所為で僕は激しく居たたまれない気持ちになると共に、店員さんから何故か凄い目で睨まれることになった。

 それから来た道を戻り戦場ヶ原宅に程近いバス停で降りるまでの時間、掴まれた腕を解く代わりに再度繋いだ手の感触も気にならず、僕の意識と思考は錐でじわじわ穴を開けられるような胃痛と、ついでにほんのちょっとだけ想像してしまった、着ている姿を描写するだけで十八禁になりかねない、最早水着と呼んでいいのかどうかも怪しい、けれどカテゴリ上は一応水着に分類される布を脳内で身に纏った戦場ヶ原をどうにかして振り払うことに費やされた。

 デートなのか拷問なのか、今となっては判別できない。

 というか、個人的には3:7の割合で拷問に傾いてるような気がしてならなかった。

 ひょっとしなくても、失言をしてしまった(らしい)僕への意趣返しじゃなかろうか……。

 妙な想像をしてることを悟っている節もあるし――ここは迂闊なことを言わないようにしないと……。

 

「ねえ」

「はいっ!?」

「何をそんなに驚いてるの?」

「い、いや、何でもないから気にするな。暑さでちょっとおかしくなってるだけだ」

「そう。阿良々木くんにもようやく自覚が芽生えてきたのね。自分を客観的に見られるのはいいことだわ」

「………………」

「でも少し違うわね。暑くなくても阿良々木くんは充分におかしいわ」

「今度こそお前とは法廷で決着をつけたいと思ってたんだ!」

 

 阿良々木暦、我慢弱いにも程があった。

 

「楽しみにしてなさい」

「え?」

「水着」

 

 相も変わらずマイペースな、突然過ぎる話題の転換。

 思わず訊き返した僕に戦場ヶ原は単語一つで答えを提示し、続ける。

 

「阿良々木くんが私のために選んでくれたんだもの。試着まではしなかったし、当日まではお預け」

「……ああ、そうだな」

「だから、精々私の水着姿を想像して悶々とすればいいわ」

 

 さっきまでそうしてたとはとてもじゃないが口にできない。

 俯き黙る僕を一瞥して、けれど戦場ヶ原は何も言及しなかった。

 いつもならあらん限りの毒舌でここぞとばかりに責めてくるところなんだが……。

 

「もうすぐ、家に着くわね」

「夏だから実感あんまりないけど、今こんな時間なんだな」

「既に夏至は過ぎたけどまだ陽は長いもの。六時を過ぎたくらいじゃ日暮れも先のことよ」

 

 昼に比べれば伸びた影が、陽射しから逃げるように伸びている。

 閑散とした道を灼き尽くす、太陽の光。重なれば耳障りな蝉の鳴き声も今は聞こえない。

 嘘みたいな、静けさだ。

 

「……なあ、戦場ヶ原」

「着いたわよ」

 

 僕は何かを言いかけて、その口を塞ぐ。

 目の前には古びた木造アパート、民倉荘がいつの間にかあって、つまりもう帰ってきてしまった、らしい。

 ……こうしてみると、早いもんだな。時間が過ぎるのって。

 

「阿良々木くん。何を言いかけたの?」

「いや、何でもないよ」

「……そう」

 

 二度目はどもらずに、誤魔化した。

 別に、わざわざ声に出して言おうとは思わない。珍しく――本当に珍しく、別れるのが惜しく感じた、なんてことは。

 その代わり、今日はここでお別れだな、と苦笑しながら呟く。

 

「それじゃあまたな、戦場ヶ原」

「帰り、明日の朝になるって言ってたわ」

「…………は?」

「わからないの? だから阿良々木くんは低俗で低脳だって揶揄されるのよ」

「そんなこと言われるのはお前にだけだよ!」

「しょうがないわね。頭の可哀想な阿良々木くんにも理解できるように教えてあげる。お父さん、仕事で帰りは明日の朝になるの」

「……えっと、それはどういう?」

「今日、家に泊まる?」

「………………」

 

 聞き間違いじゃないんだろうか。

 

「二度ボケをしたらサメの餌になると思いなさい」

「とと、泊まるってお前」

「この程度のことで動揺するなんて、童貞ここに極まれり、といった感じね」

「童貞は関係ねえだろ! いきなりそんな爆弾発言聞いたら普通動揺するわ!」

「いちいち自己保身の言い訳ばかりして、器の小さい男ね。ガタガタ言ってると開くわよ」

「どこをだ!?」

「いいからさっさと答えなさい。はいかイエスか」

「二択ですらねえー!」

「全く……そこまで嫌なの?」

 

 一瞬。

 戦場ヶ原の目に、感情が覗いた、気がする。

 

「あ、いや、嫌……というかだな、何だ。その……」

「その?」

「一応僕も男だ。お前と二人きりで泊まったりなんかしたら、正直、自制を保てるかどうかわからない」

「…………」

「だから、さ」

「阿良々木くん。帰るなら、忘れ物を持ってからにしなさい」

「え……忘れ物なんかしてたか?」

「服。脱いだ奴がまだうちに置いてあるわよ」

 

 そうだった。

 ごたごたですっかり忘れてたけど、僕は朝、拉致されてきたんだよな……。

 

「……悪い。じゃあ、頼む」

「わかったわ」

 

 施錠してある以上、鍵を持っている戦場ヶ原が先行する。

 階段を上ってすぐにある二〇一号室。そこが戦場ヶ原宅だ。

 無言の現状に気まずさを感じながら背中を追う。開錠した戦場ヶ原は扉を押さえ、僕に先に入れと目線で示した。

 忘れ物をさっさと取ってこいということなのだろう。躊躇わず僕は玄関で靴を脱ぎ、その時肩を軽く後ろから叩かれる。

 何かと思い、振り向いて――気付けば僕は、仰向けの状態で押し倒されていた。

 誰に? その質問は、あまりにも馬鹿馬鹿しい。戦場ヶ原以外に、ここにはいない。

 胸の上に乗られ、両腕を掴まれている。抵抗するが、全然動けなかった。踏ん張れないのだ。

 力を入れる際、基点になる場所を完璧に押さえつけられていた。腕も、上半身も、足さえも全身を使って器用に止められている。

 本当に、文字通り、身動き一つ取れない。

 こいつ――文房具なんてなくても充分とんでもないじゃないか……!

 

「阿良々木くん。あなた、私を誰だと思ってるの?」

「……っは」

 

 戦場ヶ原の、蟹に憑かれていない戦場ヶ原ひたぎの本来の体重で肺を圧迫されているが故、声が出ない。

 僕は怖いほどに無表情な戦場ヶ原を見上げることしか、できない。

 

「天文台近くの丘での話を、覚えているかしら」

「あ、あ」

「私、言ったわよね。いつか、絶対に何とかするから、少しだけ、それは待って欲しい、って」

「………………」

 

 辛うじて自由な首の動きで頷く。

 必死な僕の返事を見て、戦場ヶ原は胸に掛かる重さを少しだけ緩めた。

 

「怖くないと言えば嘘になる。それは今でも変わらないわ。だけど―― 一月もあれば、私にとっては充分よ」

「そう、か」

「折角阿良々木くんにリードさせてあげようという私の温情を、どうしてあなたは汲めなかったのかしら」

「……馬鹿だからです」

「そうね。救いようのない馬鹿ね」

「だな。救いようのない、馬鹿だ」

 

 戦場ヶ原が離れ、拘束は解かれた。

 僕はゆっくりと、起き上がる。

 

「それで、まだ答えを聞いてないのだけど」

 

 ああもう、本当に――陳腐な言い方を許してもらえるのなら。

 どうしようもなく、僕はこいつに、べた惚れらしい。

 

「有り難く泊まらせていただきます」

「よくできました」

 

 ご褒美は、人生で二度目の、恋人とのキスだった。

 僕は仰向けで床に倒れたままで、どうにも襲われてるようにしか見えないのが、まあ、不満と言えば不満だけど。

 そこにさえ目を瞑れば、決して悪くないシチュエーションかもしれなかった。

 

「……しかし、泊まるんなら僕は家に連絡しないといけないんだが」

「必要ないわ」

「は?」

「だって阿良々木くん、今日一日は私が借りることになってるから」

「ちょっ、お前いつそんなこと……って、そういや確かに言ってたよ! 僕をここに連れてきた方法を説明した時に!」

「鞄と制服も持ってきてあるから、明日はここから直接学校に行けるわね」

 

 そういうことか戦場ヶ原! 最初からお前、こうするつもりで……っ!

 

「あら、人聞きが悪いわね。策は十重二重に張り巡らせておくものよ」

「恋人との駆け引きにそんな策を使うな!」

「獅子は兎を狩る時にも全力を尽くす」

「狩りじゃねえだろが! 僕は捕食対象なのか!?」

「ある意味ではそうね」

「認めちゃった!」

 

 そんなこんなで――六畳一間、本棚と衣装箪笥、卓袱台以外には何もない場所で、僕は一晩を、戦場ヶ原と過ごすことになった。

 上は大火事、下は洪水。しょうもないことを承知で言わせてもらえるなら、確かに、言い得て妙だった。

 

 

 

  003

 

 後日談というか、今回のオチ。

 翌日は飛ばして翌々日、いつものように二人の妹、火憐と月火に叩き起こされ、早くも出された夏期休暇の課題に辟易しつつ終えた午前授業の後、僕は図書館へと足を運ぶつもりでいた。涼む目的ではなく、課題に使う資料探しのためだ。

 さすがに受験生だからと去年や一昨年と比べて控えめな量だが、楽観視できるほど少なくもない。これまで八月下旬、ギリギリになった頃に慌ててやっていた僕も、可及的速やかに終わらせなければいけないことくらいは理解している。

 いつになくやる気な僕は面倒なのはとっとと済ませてしまおう、と帰って早々家を飛び出し、そこで神原に鉢合わせした。

 

「やあ、阿良々木先輩。奇遇だな」

「……奇遇と言うのなら、玄関で立ち止まってた訳を是非とも説明してもらいたいんだが」

「散歩の途中、暑さに中てられて少し休んでいたのだ。まさか阿良々木先輩の家の前だとは思わなかった」

「嘘をつけ! お前思いっきり表札に頬擦りしてただろう!」

「阿良々木先輩の匂いがしたのだ」

「だからってそんな奇行を人の家の前でするな!」

「私も匂いを擦りつけていた」

「何でだよ!」

「知ってるか? 猫は飼い主や家具、自分のいる場所に匂いを擦りつけることで、そこが安心できる場所だと示しているらしい」

「……だから?」

「私はネコなのでタチの阿良々木先輩は安心して私を襲ってもいいということだ」

「前後関係ないしそもそも襲わねえよ!」

「そうなのか……」

「何故残念そうな顔をする」

 

 どうせこいつのことだから、あの俊足ですぐ家に戻り私服に着替えて、僕の家の前で待ち伏せしてたんだろうな。

 ……そろそろストーカー容疑で訴えた方がいいんじゃないかと思えてきた。

 

「ところで、阿良々木先輩はどこへ行こうと?」

「ああ、ちょっと図書館にな」

「それは素晴らしい。書物によって知識を深めようとするとは、やはり阿良々木先輩は私が見込んだ通りの賢人だな。阿良々木先輩の上を求めて止まない知的好奇心は、私のような凡人には到底及びもつかないものなのだろう。畏れ多くて頭が上がらないとは正にこのことだ」

「……別に大袈裟な目的あってのことじゃない。ただ、夏休みの課題に必要な資料を探しに行くだけだよ」

「何と。まだ夏期休暇も始まっていないのに、阿良々木先輩はもうそこまで先を見据えているのか。優れた見識を持つ人に対し先見の明とよく言うが、それこそ阿良々木先輩のためだけに存在する言葉だと思うぞ」

「褒め殺しも行き過ぎると拷問になるって僕は改めて知ったよ……」

「敬意を表して、これからは阿良々木先輩を先読みのらぎ子ちゃんと呼ぶことにしよう」

「それは明らかに喧嘩売ってるなそうだろう!?」

 

 ていうか懐かしいよ。今更そのネタを持ち出されるとは露ほどにも思わなかった……。

 

「図書館には私も同行しよう」

「ん? 何かお前も用事があるのか?」

「いや。阿良々木先輩に付いて行きたくなったのだ」

 

 嬉しいこと言うじゃねえかこいつ。

 いい加減立ち往生してるのも何だからと歩き出した僕の隣に神原は並ぶ。

 夏らしい、薄手のノースリーブのスポーツウェアと通風性の良い半ズボン。すらりと伸びた手足が眩しく、こうしているとどこにでもいるような活発な陸上少女にしか見えない。もっとも、陸上少女ではないしこんな奴がどこにでもいたら僕は世を儚んで身投げしてしまうだろうが。

 

「おや、阿良々木先輩、悩み事か? 表情が暗いぞ」

「世界の神秘について考えててな……」

「では私が阿良々木先輩の悩み事を当ててみせよう。『うっへっへ、ノーブラで襲ってくれって言ってるような格好だなこの雌犬』」

「全くそんなことは考えてねえよ! 事実無根だ! ていうかお前は今マジでノーブラなのか!?」

「お望みなら触ってもいいのだが」

「触らない!」

「では揉んでくれるのか?」

「どうしてそうポジティブに解釈できるんだ!?」

 

 以前に、それはポジティブな解釈なのか。

 僕にはわからない。わかったら終わりな気がする。

 

「……そういや気になってたんだけど、その手提げは?」

「ああ、阿良々木先輩に見せようと思っていたものがあったのだ」

「お前やっぱり初めから僕のこと待ってたんだな……」

「うん。今だから告白するが、私は阿良々木先輩をストーキングしていた」

「胸を張って言うことか……」

「概算で三週間目になるだろうか」

「ちょっと待て、僕はそこまで長い期間付け回されてたのか!?」

「おかげでエロ本の購入履歴に留まらず、平日休日の行動パターンからパンツの染みの位置まで知っているぞ」

「最悪だなお前は!」

 

 プライバシーは無いに等しい。

 おちおち外も出歩けないのか僕は……。

 あと、弁解しておくとパンツに染みを作るような歳はとうの昔に過ぎた。

 

「阿良々木先輩はもうご存知のことだと思うが、先日戦場ヶ原先輩と海に行こうという話をしたのだ」

「それは聞いたよ。プライベートビーチがどうとかいうのはともかく、それと何の関係があるんだ?」

「この中には水着が入っている」

「………………」

 

 えっと、つまり神原、お前は人気が皆無とはいえ天下の往来で僕に女物の水着を見せようとしているのか。

 思わずきょろきょろと辺りを見回し、人が来ないかどうかチェックしてしまう。

 

「どうした阿良々木先輩。ストーカーの悩みなら私が聞いてもいいんだが」

「元凶が悩みを聞くとか言うな! そういう台詞はまず自分がやることをやってから吐くもんだ!」

「心配しなくてもいい。人払いは済ませておいた」

「え、もしかしてお前は結界とか張れたりするのか……?」

「近くの工事現場からちょっと『この先工事中』という看板を道の出入り口に」

「それは立派な犯罪だ!」

「大事の前の小事」

「小事のために大事を起こすな!」

「ええと、水着はどの辺に仕舞ったろうか……」

「人の話を聞けよ!」

 

 ごそごそと比較的大きな手提げに腕を突っ込み、水着を探す神原。

 

「お、見つけたぞ阿良々木先輩。これだ」

「……何も持っていないように見えるんだが」

「阿良々木先輩、これは馬鹿には見えない水着だ」

「お前今明らかに僕が馬鹿だって言っただろう!?」

「む、もしかして阿良々木先輩には見えないのか? それは残念だ」

「ならそんな嬉しそうな顔をするなよ!」

「当日は楽しみにしておいて欲しい。私は見事この水着を着こなしてみせよう」

「絶対に着るなよ!? もしお前がそれを着て僕の前に出てきたら縁を切るからな!」

 

 馬鹿には見えないなんてそれこそ馬鹿馬鹿しい理由で公然と全裸になられたらあらゆる意味で困る。

 ヌーディストビーチじゃあるまいし……。

 

「そうか、阿良々木先輩にはお気に召さなかったか」

「気に入る奴がいたら僕はそいつを迷わず警察に引き渡すな……」

「しかし今日はこれしか持ってきていないのだ。次までには考えておくから、許して欲しい」

「許すも何も、僕はお前に水着を披露しろとは求めてないはずなんだが」

「安心してくれ。家にはまだ百八着ほど似たようなのがあるから」

「そんなにあるのか!?」

 

 安心どころか、不安で仕方ないよ……。

 ていうか、ここでも出てくるのかその数。

 

「では、水着のことは忘れて阿良々木先輩の用事を済ませるとしよう」

「勝手に仕切るな。でもまあ、水着のことを忘れるというのには激しく同意する」

「こういうのを、図書館デートと言うのだろう?」

「いや、デートのつもりは……」

「お弁当も二人分用意してきたのだ」

「完全に計算しての行動じゃねえか!」

 

 流されるまま、僕は神原に腕を取られ、引っ張られていく。

 上は大火事下は洪水。夏の暑さと、流水のようなこの状況は、確かに、その言葉通りなのかもしれなかった。

 歩きながら考える。一ヶ月半の休みは長い。その間に、いったい何が待っているのだろうかと。

 色々と、頭を過ぎることはあったけれど――

 

 予定は未定。本当にどうなるかまでは、わからない。

 一つだけ確かなのは、遠くない先、僕は何年かぶりに、海に行くということだった。

 

 

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