化物語短編集『着物語』   作:しんかい(神海心一)

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するがショーツ

 

  001

 

 僕と僕の彼女である戦場ヶ原ひたぎの後輩にして元バスケ部のエース、神原駿河という人物を形容する単語は片手どころか両手の指でも数え切れないほど存在するのだが、その中に含まれている真実は意外と少ない。結局のところ噂は噂の域を出ないという話でもあり、そもそも噂の大半は神原本人が故意に流したのだから信憑性がないのも当然だろう。かつて運動部内に於けるスター選手として名を馳せた神原も、左手の怪我を原因に一線を退き、表舞台に立つことはなくなった。そのため全校生徒のほとんどは、神原の名前を知りながら、当人がいったいどんな人間かまでは理解していないと思われる。

 つまり、僕は神原駿河の本質を少なからず理解している、稀有な一人ということになる。バスケ部時代、あるいはもっと昔、戦場ヶ原と共にヴァルハラコンビとしてそれなりに有名だった頃から得てきたファンにとっては垂涎物の立場なのかもしれないが、幻想は幻想、夢は夢のままにしておくのが賢明で、結局のところ僕だけがこの愛らしくも底知れない後輩の世話を焼くしかないのが現状である。

 甘言褒舌、レズでエロくて年下の女の子なら十秒以内に口説けると豪語する、ある意味新機軸な褒め殺し系キャラ。

 戦場ヶ原と神原の、怪異絡みの一件により、僕は学校のスターに割と洒落にならないレベルで懐かれてしまったわけだが、まあそれ自体は問題じゃない。何だかんだで(一部扱い難い部分に目を瞑れば)楽しい奴だし、千石や羽川の一件ではかなり助けられもした。戦場ヶ原のお墨付きということも含め、つい可愛がってやりたくなる相手だ。

 ――だからこそ、正直これは見過ごしちゃいけないんじゃなかろうか。

 

 時期は未だ夏、戦場ヶ原と神原の提案及び計らいで海に行こうという話が出た後。

 寝ている間に拉致→強制デートで買い物に付き合わされ、紆余曲折を経て戦場ヶ原の家に泊まることとなった、僕にとっても戦場ヶ原にとっても一つの節目だった日からしばらく経った、夏季休暇も中盤に差し掛かった時のことである。

 僕は何となくいつもより早く起床し、居間で母が朝食を作る様子をぼんやりと眺め、間抜け顔で欠伸を噛み殺していた。

 生憎と言うべきか、頼れる二人のコーチは共に一日何やら予定があるらしく、つまりやる気を振り絞り単独で参考書その他諸々に挑むしかない。情けない話なのだが、コーチがあまりにも優秀なので些か心細く、始める前から僕の気力は萎み気味だった。それでも怠れば合格率は当然下がるわけで、羽川に選んでもらった総計ぴったり一万円の参考書、そのどれに取り掛かるべきか悩んでいると、とりあえず部屋から持ってきていた携帯がテーブルの上で振動した。

 誰かと思い開いてみれば、ディスプレイに表示されている名前は、神原駿河。

 

「……随分早い時間の電話だな」

 

 少し疑問に感じながらも、廊下に避難し通話ボタンを押す。

 

「はい」

「………………」

「神原?」

 

 何故か受話器越しに荒い息が聞こえてきた。

 訝しみ、向こうにいるはずの神原を呼んでみるが、反応はなし。

 ……ちょっと心配になってくる。

 

「おい、どうした? 神原、何かあったのか?」

「……はあ、はあ、阿良々木先輩」

「まさかお前、誘拐されて閉じ込められてるのか!?」

「すまない……」

「今どこに……いや、どんなところかわかるか? 些細なことでもいい、手掛かりがあるなら教えろ!」

「酷く、散らかっている……本や服が、山積みになって……今にも雪崩れ込んできそうだ……」

「……ん?」

 

 待て、それはどんな場所だ。

 

「……もう一度訊くぞ。今、どこにいる?」

「私の部屋だ」

「息が荒いのはどうしてだ」

「右手が、寂しくなったのでな……自慰を、している」

「……謝ったのは?」

「勝手ながら、阿良々木先輩をオカズに選んでしまったことに、対してだ……んっ!」

「ちょっとでも心配した僕の優しさを返せ!」

「阿良々木先輩は優しいからつい甘えてしまうのだ、ふぁっ!」

「そんな恋人みたいな台詞言っても騙されねえよ! ていうか今すぐ手を止めろ!」

「……仕方ない。他ならぬ阿良々木先輩の頼みだ、涙を飲んでストップしよう」

 

 すぐにでも通話を切ってしまいたい衝動に駆られたが、どうにか自制する。

 落ち着け、落ち着くんだ僕。こいつがおかしいのは今に始まったことじゃないだろう……。

 一旦受話器を耳から離し、深呼吸をしてから再び会話に臨んだ。

 

「しかし聡明な阿良々木先輩ともあろうお方が勘違いとは珍しいな。どこか調子でも悪いのか?」

「折角こっちが話を切り替えようとしたのに蒸し返すなよ……。まあ、今日は頼りになるコーチが二人とも暇じゃなくてな」

「そういえば受験勉強でお忙しいのだったな。うむ、さすが阿良々木先輩、夏休みの真っ只中でも勉学を怠らないとは学生の鏡と言える人格者だ。受験生であるということを差し置いても、その勤勉さには平伏せざるを得ない。私如き卑小な人間には一生掛かっても辿り着けない境地にいる。携帯電話越しですら、阿良々木先輩の威光をひしひしと感じるぞ」

 

 毎回思うんだが、こいつはどこまで僕を持ち上げれば気が済むのか。

 未だにバリエーション豊富でネタが尽きる様子もないし、一度限界を試してみたくもある。

 ……その場合は先に僕がギブアップしそうだけど。

 

「で、お前はこんな時間に電話してきて、いったい何の用なんだ?」

「いや、阿良々木先輩の手が空いていれば頼み事をしたかったのだが、今日はお忙しいようだからな。どうにか一人でやってみようと思う」

「別に構わないよ。コーチ不在で正直やる気が半減してたし、家に引き篭もってるよりは断然いい、困ってるのなら手伝ってやるさ」

「……そうか。有り難いお心遣い、痛み入る」

 

 受話器の向こうで、神原が動く気配を感じた。

 律儀にお辞儀でもしたんだろうか、相変わらずな神原の様子に僕は苦笑し、そこで突然凄まじい音が響き渡る。

 この部屋からではない。耳に当てた携帯のスピーカー、つまり神原の部屋からだ。

 同時、呻き声のようなものも聞こえ、僕は危うく携帯を落としそうになった。

 

「ちょっと待て、何が起きた!?」

「う……」

「神原っ……くそ、今行くからな!」

 

 ボタン一つで通話を終え、一階に下りようとしたところでまだ着替えもしていないことに気付く。

 柄になく動揺している自分がいるのに微かな驚愕を感じつつも、適当に引っ張り出した服を身に着け、一段飛ばしで階段を駆け下りた。

 そのまま玄関まで真っ直ぐ、途中居間の母と妹達に出かけてくる旨を告げ、靴を履くのに要する時間すらも勿体なく、踵を潰したまま飛び出して自転車のサドルに跨る。神原の『左腕』に壊されたマウンテンバイクを買う前はツーリングでも使っていた、通学用のママチャリ。助走を付けて乗り、ペダルを全力で踏み込んで、あっという間に最高速度を叩き出す。忍に血をやったのはもうだいぶ前だが、それでも五感は普通の人間より鋭い。曲がり角に差し掛かる際、耳を澄ましてエンジン音がないことを確認し、ブレーキを使う状況は最低限に減らして、本来の半分近い所要時間で神原の家に辿り着く。

 いつ見ても立派な日本家屋。最初に来た時にはその一種人を寄せつけまいとする空気に入ることを躊躇したものだが、既に何度も訪れているので、呼び鈴を押す手にも迷いはない。

 ……和で統一されたこの家に電子音を鳴らす呼び鈴は些かそぐわないような気もするが、やはりないと不便なのだろう。

 

「………………」

 

 十秒待ってみるも、返事はなかった。

 つまりそれは、誰も出られる状況にないということ。先ほど受話器越しに轟音を響かせた神原が動けないのだとすると、他の人間、つまり神原の祖父母は外出中なのかもしれない。二人揃ってどこへ行ったのか、あるいは別々の用事があったのか、いつ頃戻ってくるか――その辺は部外者たる僕が知るはずもないが、ここで重要なのは、立ち往生していても状況は決して好転しないということである。

 念のため周囲に人がいないのを確認し、僕は正門の扉に手を掛けた。案の定、施錠されてはいない。誰もいないわけじゃないのだから、当然と言えば当然だ。孫を心配して鍵を閉めてから出かけた可能性も皆無ではなかったけれど、毎朝10キロダッシュを2セット敢行する神原なら、彼らが外出しようとするような頃にはほぼ確実に起きている。

 まあ、もし表から入れなかった場合、塀を乗り越えてでも侵入する気だった。その時は通報されないことを祈るしかない。

 玄関には向かわず、迂回して庭に行く。そこから靴を脱いで廊下に踏み入り、先に見える神原の部屋へ。

 中に入る前に、僕はまず声を掛ける。

 

「神原、大丈夫か!?」

「あ、阿良々木先輩か……」

 

 弱々しくもちゃんと返事があったので一安心。とりあえず、何が起きたのかを確かめるために障子を引き、

 

「……うわ」

 

 僕は絶句した。

 文化祭が滞りなく終了してすぐ、我が家に保管されていた清掃用具一式を持ち運び、整理整頓に関しては全く頼りにならない神原をゴミ捨て要員に任命し、本当に泊まりがけで片付け(ちなみにそれが二度目に神原の家を訪れた理由)、塵一つない――というのはさすがに大袈裟だが、きっちり綺麗にして以来。月二回のペースで定期的に手を入れ、ついこないだも掃除したはずの部屋が前回以上の惨状を呈している。服と下着とゴミがぐちゃぐちゃに入り混じり、おそらく床に敷かれているだろう布団はどこにあるのかもわからず、そもそも床が存在するのかと言いたくなるような感じで、部屋の端に積まれた段ボールはさながら斜塔の如く聳え立ち、しかも奥の方で本の山が放射状に散らばってしまっている。正しく雪崩れ込んできた、という形容がぴったりの状態。明らかにそこだけが盛り上がっていて、神原はうず高く積み重ねられていた本の崩落に巻き込まれて生き埋めになったようだ。迂闊に動いて二次災害を引き起こしたくないからか、無闇にゴミや本を吹き飛ばして這い出てくる気はないらしいが、どちらにしろ、これは救助するしかない。

 

「なあ、もしかして、お前の頼み事ってのは」

「申し訳ないがまた部屋の清掃をお願いできないか、と言おうと思ってたのだが……」

 

 何もかも、僕の早とちりだった。

 一瞬で気が抜け、膝がかくんと落ちる。

 は、はは……そうだよな、この超人めいた後輩がピンチになるところなんて、想像できないもんな……。

 誘拐云々にしても、八九寺や千石の方がまだ全然説得力あるよ……。

 早くもどっと疲れた僕は、しかしここで挫けるわけにもいかない。

 

「いいか神原、もうしばらくそうしてろ。今から家に帰って、清掃用具一式、持ってくるから」

「了解した。ここで私が動いても状況を悪化させるだけだろうからな。阿良々木先輩に一任させてもらう」

 

 実に馬鹿馬鹿しい話なのだが。

 来て早々、僕は自宅に舞い戻る必要に迫られたのだった。

 

 

 

  002

 

 出かけてくると宣言しておいて一時間もせず戻ってきた僕を怪訝で見た母と妹達は、帰宅するや否や物置を引っ繰り返し清掃用具を探し始めるという奇行(事情を知らない側からすればそれ以外の何物でもない)を始めたところで、口を揃えて頭は大丈夫かと訊いてきた。対する僕は苦笑いを浮かべつつも正直に、かつある程度は濁して説明するしかなく、以前も状況こそ全く違えど同じように清掃用具を抱えていったのが幸いし、結果的に無事疑いを晴らした上で再度神原の家に向かうことができた。

 言うまでもないが、本来する予定のなかった苦労だ。そこまで急ぐ理由も見当たらないので、二度目の往路は周囲の景色を眺める余裕すらあった。眺めるような景色なのかという疑問はさておき、そろそろ正午も近い時刻、現在僕が戦っているのは、受験勉強用の参考書などではなく、目にしただけで投げ出したくなるようなゴミやら洗濯物やらである。

 奥で埋もれた神原を救出するには、とにかくまずそこまでの足場を確保しなければならない。足場を確保するには床に散乱する物を片付けねばならず、そのためには、くぐもった神原の声に教えられた場所からゴミ袋を束ごと持ってきて、部屋の入口を起点とし、着実に一つ一つを整理するしかなかった。

 ……前にも思ったが、よくもまあ数日の間にここまで汚せたものだ。神原の祖父母は何故今まで放置していたのかと突っ込みたくもなる。その辺りには色々と複雑な、錯綜した事情があるのだろうけど、それでもこれは見過ごしていいものじゃない。いずれ悪臭騒ぎが起きて近所に通報されかねないレベルの酷さだった。

 お前、これ、苦手とかそういう問題じゃないだろ……。

 

「……相変わらずゴミ箱はないしな」

 

 せっせとポリ袋に大小様々な物を放り入れながら、僕はあからさまに嘆息した。

 一応燃えるゴミと燃えないゴミに分別しようと頑張ってはいるが、この調子だと焼け石に水、さして意味を為さない気がする。

 最早服なのかただの布なのかもわからない、おそらくは使用済みの服を縁側の方に山と積み上げ、軍手を持ってきておいてよかったと安心する自分が虚しくなってきた頃、ようやく部屋の半分ほどまで進んだことに気付く。とはいえ片付け方はかなり乱雑、部屋を俯瞰して見れば入口から真っ直ぐそこだけ掘り返したような感じだろうか。およそ十二畳もの広い室内に於いては、まだ半分どころか六分の一の工程も済んでないわけで、軽く眩暈を覚えた。

 

「まだ掛かりそうだけど、大丈夫か?」

「うむ。尿意もないし、この調子ならあと一時間はじっとしていられそうだ」

「トイレに行きたくなったら言えよ。どうしようもない時は……まあ、諦めて全部ふっとばせ」

「阿良々木先輩がお望みならここでおもらしするのも吝かではないが」

「絶対するなよ!?」

 

 それと、年頃の女がおもらしなんて幼児言葉使うな。

 

「ふふふ、しかしこうしていると、まるで自分が助けを待つ姫のように思えてくるぞ」

「ゴミの山に埋もれて身動き取れない姫ってのはどうなんだろうな……」

「幽閉され、もう二度と陽の目を見ることはできないと諦めかけていたその時、闇の中に射し込む一筋の光と共に伸ばされる手……。そうして無事に檻の中から解放された私は、王子が求めるまま身を委ね、ロマンティックな行為に及ぶ」

「待て、今の話のどこにロマンティックな要素があった!?」

「勿論王子は阿良々木先輩だ」

「んなことは訊いてねえよ!」

「では言い直そうか。私は阿良々木先輩とエロティックな行為に及ぶ」

「断言するな、例え天地が引っ繰り返ってもそれだけは絶対に有り得ない!」

「何、及ばないのか? 私としてはいつでも十八禁シーンに突入してもいいように心構えをしているのだが」

 

 こっちにそんな心構えがない。

 ていうか、どうしてお前は毎度毎度猿みたいに盛ってるんだ……。

 

「今回は特別編だからな、対象年齢が普段より上なのだ」

「……もう訳がわからないから作業再開するぞ」

「と言いつつ、阿良々木先輩は密かに期待をしてしまっているのだった。どう取り繕っても私に欲情しているという事実は変わらない。一皮剥けば、阿良々木先輩もれっきとした男、一匹の雄なのである」

「勝手にモノローグを捏造するな!」

 

 駄目だ、こいつを語り部なんかにしたら未成年に優しくない何かが出来上がってしまう。

 さっさと引っ張り出すために、僕は手の動きを速めた。ここで分別が面倒になってくるが、回収業者の苦労を想像するに怠るのも忍びなく、使用済みの割り箸やらインスタントラーメンの空容器やら綺麗さっぱり中身を食べ尽くされたスナック菓子の袋やらをぽいぽいとゴミ袋に放り込み、どうにかこうにか雑多に崩れた書籍群まで辿り着く。

 ここまでで背後に死屍累々といった感じで積み重ねられた衣類は小山を形成し、ゴミの量は可燃不燃どちらも既に45リットルの袋を一つずつ満杯にしていた。投げ出したい気持ちを必死に抑えつけながら、慎重に取り掛かる。危ういバランスで巨大な隆起を作り上げた本達は、無計画に触れてしまえばすぐにでも再び雪崩を引き起こしそうだった。当然ながら二次災害に巻き込まれるのは嫌なので、一冊一冊、着実に目の前の物から崩していく。相変わらず節操ない、各種教科書参考書に少女漫画に文庫サイズの小説とバリエーション様々で、男の僕からすれば一生縁のなさそうなジャンルから、どうしてこんなのがあるんだ的な意外性の塊めいたものまで、本当に混沌という表現がよく嵌るが、片付けには何の関係もない。ただ黙って端に除けるだけである。

 指折り冊数を数えるのも馬鹿らしくなってきた頃、ようやく終わりが見えた。地道に頑張った甲斐あり、埃とゴミと食べかすと、まあとにかく色々な汚れに塗れた姿の神原が視界に入る。急に注いだ光が眩しいのか、しばし目を細め明度に瞳孔を慣らしていた神原は、王子ではないが差し出した僕の手を、創作に登場するような姫とは似ても似つかない仕草で取り、緩やかに起き上がり立ち上がった。

 

「すまない、阿良々木先輩。おかげで無事陽の目を見ることができた。お礼に私を罵ってもいいぞ」

「それはお前以外に誰が得をするんだ!?」

「こうなってしまったのも私の至らなさが原因だからな。なので阿良々木先輩は存分に私を罵倒する権利があると思うが」

「罵倒して現状が改善されるんならいくらでもしてやるけどな……」

 

 だってこいつ喜ぶし。

 無駄に労力を費やす余裕はない。

 

「とりあえず、風呂入ってこい。お前今すごいことになってるぞ?」

「わかった。……そうだ、阿良々木先輩、一緒に入らないか?」

「入らない」

 

 ナチュラルに混浴へ誘うんじゃねえよ。

 実はあんまりにも自然だったから危うく頷きかけたのだが、そんなことを言ったら神原が調子に乗るのは目に見えている。

 その辺の葛藤を決して表情に出さないよう引き締め、ついでに発掘した衣服や下着を洗濯機に突っ込んで回すよう伝え一人で行かせた。

 

「どうせ一回じゃ洗い切れないだろうしな……」

 

 休憩の一つでも入れたいところだけど、時間は少しでも惜しい。

 せめて泊まりがけにはならないよう、黙々と片付けを続けることにした。

 

 ――本当、僕は何してるんだろう。

 

 

 

  003

 

 十五分ほどで神原が風呂から上がり(女性としてそれが早いのか遅いのかは未だにわからない)、こっちが床の畳二枚を目視できる段階までを終えると、壁に立て掛けられていた時計が十二時半を指した。丁度いいってことで昼食を摂ると決めたが、人様の家の冷蔵庫を勝手に物色するわけにも行かず、以前に僕は料理ができない。部屋の惨状を振り返ってみる限り神原も料理なんて上等な技術を取得しているとは到底思えず、仕方なく発掘したインスタントのうどんを二人揃って啜ることになる。鍋は上手く扱えなくても湯を薬缶で沸かすくらいなら簡単で、片付けるべきゴミを自ら増やすのには些か抵抗もあったが、とにかく食事後神原を加えて再開の運びとなった。

 とはいえやることが変化するはずもなく、淡々と僕が整理し、発生したゴミやら何やらを神原に纏めさせる、その繰り返し。

 賽の河原の石積みにも似た苦行に僕の精神だけがじわじわと削られ、一方の神原は始終申し訳なさそうな顔をしながらも、結局整理自体には全く手を貸さないままだった。たかだか数日でここまで散らかしたその手腕を考えれば、手伝わないという選択肢の方がもしかしたら賢明なのかもしれないが、やるせない気持ちを感じるのだけはどうしても避けられそうにない。

 

「……一応訊いとくぞ。何をやったらこうも早いペースで荒れるんだ」

「そうだな、話せば長くなるのだが……先日BL本を大人買いして」

「もういいわかったからそれ以上は語るな」

 

 いくら夏休みだからって時間を忘れるにも程があるだろ。

 最低限人間らしい生活を営めよ。

 

「ていうか神原、お前よくこんな部屋で生活できたな」 

「住めば都というやつだ。慣れてしまえばどうということはない」

「慣れる前にどうにかしろよ」

「まあ、時々身に着ける下着が見当たらなくて困ったりもしたな」

「何でこの部屋には箪笥がないのか、僕は常々疑問に思ってたんだが」

「む? 服とはどこかに仕舞うものなのか?」

「箪笥の存在すら知らないのか!?」

「冗談だ。それくらいは知識として持っているぞ」

「ならもうちょい有効に使えよ……」

「まあ聞いてくれ。昔はこの部屋にも箪笥があったのだ」

「え、そうなのか?」

「部屋を宛がわれた時には置かれていた。祖父母に洗濯物の管理をされていた頃はちゃんと仕舞われていたのだが……」

「……何か読めてきたぞ。どうせ自分じゃ仕舞わなくなって不要になったんだろ?」

「いや、私が衣服以外にも買ってきた本などを片っ端から入れていたらいつの間にか捨てられていた」

「………………」

「どうして捨てられたんだろうか、阿良々木先輩はわかるか?」

 

 こいつ、自分で整理整頓は苦手とか言ってたけど、まさかそこまでだったとは……。

 致命的というか、壊滅的だ。むしろ破壊的と言ってもいい。僕も自室の箪笥をさほど有用していないという自覚はあるが、まさか洋服箪笥を洋服箪笥以外の意図で使うような人間がいるなんて製作者はこれっぽっちも思ってないだろう。

 そりゃあ要らないよな。あってもなくても変わりないんだから。

 

「でも、それなら普段はどこに入れてるんだ? ハンガーも相変わらずないし、制服とか皺になるだろ」

「着ない服は前に阿良々木先輩がやってくれたように、端に畳んで置いているが」

「……どこの端だ?」

「確かあの辺りだった」

「ゴミの山しか見えねえよ」

「ふむ、そういえば最近着替えが見当たらないと思っていたが、そうか、埋もれているのか」

「今気付きましたみたいな顔で納得するな! どう考えたってそれも洗濯決定だ!」

 

 楽しいんだか虚しいんだかいまいち判別できない会話をしつつ、目に見える畳と腐海の面積がおおよそ等量になってきたところで、僕はある物を発掘した。床に伏せられるようにして開かれた表と裏の表紙に描かれている、嫌に肌色の多い本。

 

「ってこれエロ本じゃねえか!」

「うむ、エロ本だ」

「何でお前はそこで嬉しそうに頷くんだ!?」

 

 爽やかに微笑まれても、どう反応したものか困る。

 だいたい、百合とはいえ女子高生の部屋に、明らかに男性向けの成人雑誌があるのはいいのか。色々な意味で。

 

「ちなみに巨乳物だ」

「内容なんて訊いてねえよ!」

「阿良々木先輩と同じ物を読んでいやらしい妄想に耽りたかったのだ」

「同じ物!? ちょっと待った、どうして僕がこれを持っていることを知っている!?」

「連日敢行していたストーキングの成果だ、阿良々木先輩の好みは最早手に取るようにわかるぞ」

「まだ付け回してたのか!?」

 

 うわ……。前回のストーキング発言があってから余計人目を憚るようにしてたのに。

 ということはまさか、アレやアレ、さらにはアレを買ったこともバレてるのか……?

 

「ふふふ、阿良々木先輩にあんな趣味があったとはな……。当然戦場ヶ原先輩には言ってないのだろうなあ……」

「くっ……神原、それで脅してるつもりか……!」

「いやいや、私如き卑小な存在が阿良々木先輩に楯突こうなどと、そんな考えを持っているはずがないだろう? だが、こんなにも尊敬している相手に疑いを掛けられてしまっては、私の固い口とていつ開くかわからないぞ。さあ、阿良々木先輩には今の台詞を撤回して私に言うべきことはないのかな?」

 

 おかしい、おかしいぞ……。

 本来は僕が被害者のはずなのに、何故劣勢に立っているんだ……。

 この後輩、ますます戦場ヶ原の悪影響を受けている。

 

「はあ、喋ったら喉が渇いてしまった。誰か私に唾を飲ませてくれる人はいないだろうか」

「どれだけ変態じみた要求をすれば気が済むんだお前は!?」

「八割の冗談はさておき」

「二割は本気なのな……」

 

 以前の焼き増しなようで、微妙に差異の見られるコントだった。

 

「捨てずに置いておいてくれると嬉しい」

「了解。じゃあこっちに重ねとくぞ」

 

 縁側の入口から離れるに従い、徐々に着替えの出現が少なくなった代わりと言うべきか、ぽつぽつと掘り出され始めるエロ本。

 いったい何冊持ってるんだよと突っ込みたくもあるが、何より気力が勿体無いので、喉元まで来た声をどうにか抑える。

 

「阿良々木先輩、ちょっと見てくれ」

「ん?」

「この左側の女性……髪の長さや面立ちがどことなく戦場ヶ原先輩に似ていると思わないか」

「ぶっ!」

 

 つい振り返った視界に映る、神原がばっと両手で広げた一冊の左側の女性は、確かに言われてみれば戦場ヶ原に似てないこともなかった。

 腰の辺りまで伸びる黒髪とキツめの瞳、微妙な輪郭も――何となく僕の恋人を連想させる。

 

「……どうだろう、そろそろ阿良々木先輩も収まりが付かなくなってきたと思うが」

「っ、そんなことないぞ!?」

「私はもうだいぶ濡れてきた」

「言わなくていい! それは明らかに余計なひとことだ!」

「興奮した者同士、共に慰め合えばいい」

「さも名案だというような顔で手を叩くな! わきわきさせるな!」

 

 丁々発止。どうでもいいやりとりで無駄に時間を使ってしまった。

 欲求不満の神原を庭の方に蹴り飛ばし、黙々とゴミ山の消化に集中する。酷い箇所は堆積した諸々の高さが脛の辺りまで達し、削り取るように片付けて露出させた地面を小規模の崩落で再び埋め尽くす。大量過ぎてどれほどあったのかは覚えていないが、インスタント食品の空容器だけでもその個数は十を軽々超えていたはずだ。前回の定期清掃後、ほぼ毎食をインスタントで済ませたのだろう神原のスポーツ少女らしからぬ不健康ぶりに呆れるべきか、これほどの量を購入した懐の温かさに感心するべきか、あるいはその間ゴミをゴミ箱に捨てるという現代人として当然の行為を全くしなかったことについて責めるべきか、今となっては判別も付かない。いちいち口煩く指導するのも面倒臭い。

 と、またもや見慣れない物体が出てきた。雑多に乗っかっていた各種不要物を遠慮なくゴミ袋に放り入れ、あからさまに積もった埃を軍手でぱっぱと掃う。ええと、なになに……?

 

「阿良々木先輩、こっちの袋はもう口を縛った方がいいのか?」

「まだ入るから駄目……っておい神原、これは何だ」

「AVだな」

「僕が訊いてるのはそういうことじゃねえ!」

「ちなみにAVとはアダルトビデオの略だぞ。阿良々木先輩には言うまでもないだろうが」

「名称を知りたいわけでもねえよ! というか言うまでもないってどういう意味だ!?」

 

 目算八本の塔が四つ。

 計三十二本のいやらしいビデオだった。

 

「うむ。参考資料として借りてきたのだ」

「何の資料だよ! いや、それはまだいい、よくないけどいい、だがジャンルに異様な偏りがあるのはさすがに見逃せないぞ!?」

「緊縛系が好きなのだ。この段は全てレズ物だな。あと、これに出てくる男優が阿良々木先輩にそっくりで、」

「今すぐその減らず口を塞げ! そして僕はお前が指差してるそのビデオを全力で叩き割る!」

 

 誰が好き好んで自分に似てる奴が登場するエロビデオを見たがるか。

 

「だいたいこの部屋にはビデオデッキもないだろ……。どこでこんなものを見るんだよ」

「祖父母が外出している時に居間のを使わせてもらっている」

「お前は拾ってきたエロ本を夜中にこっそり眺める中学生か」

「いや、それは間違っているぞ。私は昼から堂々と読んでいた」

「尚悪いわ!」

 

 ゴロゴロと寝転がりながら足の踏みどころもない部屋で言葉にするのも憚る絵を眺め読み耽る様子が、いとも容易く想像できた。

 まるで違和感がないのも問題だが、それ以上にこいつの神経を疑う。真っ昼間に他人の視線を気にすることなくエロ本が見られるなんて、いったいどれだけ図太いというか、恥じらいの欠片もない神経をしてるんだ……。

 

「……って、よく考えたら前はこういうの一個もなかったぞ」

「そうか? 阿良々木先輩が気付いていないだけで、以前からこれ以上の量はあったのだが」

「どこにだよ」

 

 僕が憮然とした声で言うと、神原はおもむろにしゃがみ込み、何故か畳の縁に右手を掛けた。

 

「むんっ!」

「え、お前いきなり何してるんだよ!?」

「ちゃんと見てくれ」

「見てくれっつっても、畳を捲ったら床しかないだろ……ん?」

 

 神原の持ち上げた畳の下に、妙なスペースがある。補強された四角型の場所、そこで蓋の役割を果たしている大きめの木板をどかしてみると、遠ざけるように重ねさせたのにもかかわらずどこか浮いた、一種異様な空気を周囲に撒き散らしている十八歳未満閲覧禁止の本の束よりもさらに多い、圧倒的としか言う他ない量のアダルトな本やビデオが溜め込まれていた。

 ここまで来ると、突っ込むべきかもわからない。詮索すると蛇どころかもっと恐ろしいものが出てきそうだった。

 

「………………」

「おや、もしかして目を付けている物があるのか? 手放すのは少々惜しくもあるが、阿良々木先輩の頼みなら喜んで差し出そう。さあ、どれをご所望か私に教えてくれ」

「誰が欲しいだなんて言った!?」

「さすが阿良々木先輩だ、自らの欲望を軽々と抑え、その上で本心を見事に隠し謙虚な態度を見せるとは。例え釈迦の説法とて阿良々木先輩には必要ないだろうな。遠慮は美徳だというが、正に阿良々木先輩はそれを体現している。美徳の塊のような阿良々木先輩を前にすると、私は劣等感すら覚えてしまうぞ」

「本心から言ってるんだけどな……」

 

 この頃思うんだが、実はかなり適当に喋ってないかこいつ。

 嫌味に感じないのはそれこそ美徳なのかもしれないけれど、いい加減大丈夫かと口出ししたくなる。

 ……いや、馬鹿な会話してる場合じゃないだろう僕。早く掃除を進めないと。

 

「もう無駄な茶々を入れるなよ。さっさと終わらせて帰りたい」

「だが阿良々木先輩の心中では、私に対する嗜虐の念が膨れ上がっているのだった」

「要らんモノローグを挿入するな! それは三度ネタだ!」

「なるほど、つまり素直になれない阿良々木先輩は今風に言うツンデレなのだな。戦場ヶ原先輩とぴったりだ」

「勝手に属性を付与するな、僕は断じてそんなキャラじゃない!」

 

 自分視点一人称の地の文に相槌を打つ高等テクを披露する神原。

 そこにどうしても突っ込まずにはいられない僕の性分は、まあ、ツンデレでないことだけは確かだと思う。

 ――閑話休題。目前とまでは言えないものの終わりは間近だ、萎えかけた気力を振り絞り、ラストスパートを掛ける。

 控えめに評価しても役立たずだった神原も、主に積み上がったゴミや荷物を運ぶ係として面目躍如、八面六臂の大活躍とは行かないが程々に助手を務めてくれたと褒めてやってもいいか、なんて考え始めたところで、最後の畳二枚、話によれば未使用の着替えが埋もれているらしい部分を切り崩して早五分。

 またもや用途不明の何かが出現した。

 ごろん、と足下に落ちてきたそれを拾い上げ、僕は首を傾げる。不思議な形状だ。ベルトのようなバンドと、その中間点に付けられた黒い突起。この見た目、何となくこう、彷彿とさせられる物がある気がするんだが……。

 

「これはお目が高い。数ある物の中からその道具を選び取った阿良々木先輩の慧眼には尊敬の念を禁じ得ないぞ」

「僕にはさっぱり何なんだかわからないんだが……」

「む、阿良々木先輩ともあろうお方が知らないのか。ふむ、では僭越ながらこの神原駿河、一生に一度あるかないかの希少な機会を噛み締めつつ教授することにしよう。それはディルドーというものでな、主に男性器を持たない女性が相手の女性に挿入する目的で使う」

「ちょっと待て」

「別名はペニスバンドと言うのだ」

「待てっつってんだろ! 聞けよ!」

 

 こいつ、無造作に何て物を転がしといてるんだ……!

 

「アナルに挿入するためのディルドーはもう少し細身で、阿良々木先輩にはこちらの方が身近かもしれない」

「身近どころか聞いたこともねえ!」

「他にも男性器を模したバイブレータ、アナルビーズ、真空吸入具、自慰用にローションも完備している」

「お前はどこまで爆弾を抱えれば気が済むんだ!?」

「よければこちらも阿良々木先輩に貸そう、御入用の時はいつでも言ってほしい」

「誤解を招かないように断言しておくぞ、その機会は未来永劫ないからな! 絶対だ!」

 

 その後も出るわ出るわ、神原がご丁寧にも説明しやがったアダルトグッズ、大人のおもちゃが山の中から次々と僕の前に姿を見せる。下手に用途を知ってしまった所為で触れるのにも抵抗があり、だいたいあそこまで事細かに使用方法をすらすら言えるってことは、もう既に何度か自分の身体で試してるんじゃないのかと想像したのが間違いだった。普段からエロキャラで通している分、神原の痴態は脳裏にすっと浮かんでくるものだから、僕はそれを振り払うのに必死で作業が再び手に付かなくなり、初めてこの部屋に来た時は倫理的もしくは道義的に触れられないと思っていたはずの使用済み生理用品をおかげでスルーできたのはいいことなのか、その程度の判断も怪しくなってきた。まずい、どう考えても染まっちゃいけない色に染まってる……。まだせめて心だけは真人間でいたいんだ……。

 

「阿良々木先輩からエロスを感知したぞ」

「何、まさか表情に出てたのか!?」

「いや、地の文に書いてあった」

「メタな話は止めろ! 地の文なんてものは僕達の間に存在しない!」

「しかし阿良々木先輩、私の経血で赤く染まったナプキンを後生大事に握り締めているということは……そうか、やはり阿良々木先輩は偉大だな。たかだが一後輩である私の生理について気遣うと共に、自らの劣情をひた隠しにすることなく堂々と立って見せるとは、自己の欲望と他者への心配を両立させる、乾坤一擲の行動だ。過去に生きたあらゆる賢人と比べても阿良々木先輩は引けを取らない。否、この地上の誰よりも優れているとすら言えよう」

 

 右手にあった生理用品を、僕は左手で掴んでいたゴミ袋に全力投球した。

 色々と、本当に色々と突っ込んで訂正したいが、これ以上構っても得することは一つもない。

 

「なるほど、放置プレイか。阿良々木先輩は実にサディスティックだな」

「うるせえよ。いい加減黙ってろこの馬鹿」

「ああ……いいな、もっと罵ってくれ」

 

 マゾヒズムな後輩は、放置も罵倒も望むところらしい。

 ていうかその性癖、もうちょっと何とかならないのかよ……。

 でも、ある意味バランス取れてるんだよな。戦場ヶ原と八九寺はサドで、羽川はわからないが、何となく千石はマゾっぽいイメージがあるから……あれ、ノーマルな僕と羽川ってもしかしていいコンビなのか?

 

「っていくら何でも話が逸れ過ぎだ。掃除続けるぞ」

「む、了解した」

 

 中断し放題だが、残りは僅か。夏なので外がまだ明るいとはいえ、時計の針は既に五時を回っている。

 アダルトグッズエリアも乗り切ったし、今目の前にあるこの一山を片付ければ晴れて終了。

 長かった。すげえ長かった。

 最後の障害物(悲しいことに表紙からしてハードとわかるボーイズラブ物の文庫本だった)を除け掃除機で細かいゴミを吸えば(日本家屋には些か合わないがさすがに箒と塵取りは古いと判断して買ったのかもしれない)、十二畳の床、その全容がようやく露わになる。もっとも、箪笥もハンガーも本棚すらないのでところどころ端っこに服やら本やらが塔を建立し、両手でも抱え切れない数のいわゆる性具は発掘された布団と共に押入れへ詰め込まれ、綺麗にしたはずなのに早くも崩れ落ちそうな様子を見る限り、今日の苦労は近いうち徒労へと変わりそうな予感がひしひしとしたがそれはそれ、とりあえず無事に腐海の駆逐が済んだことを喜ぶべきだろう。

 明日は筋肉痛になるかもしれない、と苦笑し、一種の感慨を以って部屋中をぐるりと眺めていると、一番奥にぽつねんと置かれた、他の何よりも遅く見つかった神原の着替えと思しき物体が目に入った。あれも洗濯機行きは決定だが、叶うなら一つだけ言わせてもらいたい。

 

「着替えってお前、全部下着じゃねえか」

「夏場は暑いからな。この頃はずっとパンツ一枚で生活しているのだ」

「スパッツどころか他に何も穿いてないのか!? ていうかせめてブラジャーくらいは着けろ!」

「ちなみにショーツという名称は、日本だとほとんど男性しか使わない。女性は通常パンツ、もしくはパンティーと呼ぶ」

「そんな豆知識は求めてねえよ!」

「個人的には、カタカナで表記するよりもひらがなでぱんつと書いた方がいやらしさが倍増すると思うのだが」

「お前の感想も求めてねえー!」

 

 滅茶苦茶どうでもいい。

 

「シャツとかズボンはどこに消えたんだ……」

「溶けたのかもしれない」

「どんな素材でできてるんだ!?」

「よくあるだろう。水に溶けて流せる新素材」

「それはポケットティッシュだ! 間違っても衣服に使うようなものじゃない!」

「では、体温で溶けるというのはどうだろう」

「着た瞬間それは服じゃなくなる! というかお前真面目に答える気がないだろ!?」

 

 まあ、終わってからもそんな感じで。

 結局僕はその日、一度も机に向かうことなく寝た。

 受験生の自覚がないんじゃないの、という放任主義であるはずの母の叱責が、おそらくは何よりも僕の怠慢っぷりを表していたように、思う。

 

 

 

  004

 

 後日談というか、今回のオチ。

 翌日、偶然が二度連続で起きるはずもなく、ぐっすりと惰眠を貪っていたところをいつものように二人の妹、火憐と月火に叩き起こされ(昨日は目覚まし役になれなかったからか激しさが普段の二割増しだった)、夏季休暇中に学校に行くような用事は本来ないのにもかかわらず制服に着替え、勉強道具一式を鞄に詰め込む。

 優秀なコーチの指導の甲斐あって、この大切な時期に補習を受けることにはならなかったが、それでも僕の偏差値が羽川は勿論戦場ヶ原にも遠く及ばないのは相変わらずで、休みだからといって遊び呆けることはできないのだった。正直、必死だ。

 残念ながら戦場ヶ原の予定が空くのは午後らしく、なら午前中は私が見てあげようか、と狙い澄ましたかのようなタイミングで羽川が申し出てきたものだから僕は迷わず頷き、静かに集中できる場所として選ばれたのが校舎内の図書室である。夏の間はある程度生徒に解放されていて(あの高校の蔵書数は何気に凄い)、確かに空調完備で快適な環境だとは思うが、しかしわざわざ学校まで足を運ぶより予備校や自分の部屋で勉強していた方が効率面でいいと大半の人間は考えるだろう。それを理解した上で羽川が学校の図書室を選んだのは、割と早い時間から異性の家に訪問することを良しとしなかったから、という線が濃厚か。実際のところどうなのかまではわからないが、礼儀の二文字が骨の髄まで染み付いてる羽川のことだ、それくらいは常識として考えているのかもしれない。

 ともかく僕が出かけて数分、夏の強い陽射しに早くも辟易していたところ、前方に見覚えのある背中を見つけた。

 ここで何も言わず距離を保つのも一つの手ではあるが、まあ、声を掛けた方がいいだろう。会うのは久しぶりだし。

 

「よう、千石」

「あ、暦お兄ちゃん……おはようございます」

 

 律儀にぺこりと頭を下げる千石に、僕は片手を上げておはようと返す。

 時折電話が来ることもあったけど、顔を合わせるのは七月二十九日、でっかい方の妹絡みの事件以来だ。

 ……大変だったよなあ。本当に、あらゆる意味で。

 

「……暦お兄ちゃん?」

「ん? ああ、悪い、ちょっと前の土曜のこと思い出してた」

「えっと……あの、おまじないのこと?」

「そんな感じだ。あー、そういえばあの後、お母さんとは大丈夫だったのか?」

「うん、何とか暦お兄ちゃんのことは誤魔化せたよ」

 

 それを聞いてほっとする。

 間男よろしく逃げた身としては、話が変な風に拗れてないかが心配だったのだ。

 彼女の家に彼氏がお邪魔する、というようなシチュエーションはよくあるものだが、僕と千石じゃ、彼氏彼女というよりちょっと歳の離れた兄妹が精々だろうし。

 むしろ少女偏愛嗜好の変質者扱いされてもおかしくない。

 

「しかし、これからまた千石の家に遊びに行く機会もあると思うと、毎回留守中に上がり込むってのも色々まずいよな。近いうち、親御さんにご挨拶した方がいいんじゃないか?」

「ご、ご挨拶って……な、撫子は、まだそういうの、はっ、早いと思うよ」

「駄目か。つっても他に案はないしなあ」

 

 何故顔を真っ赤にしてそんな慌ててるのかはわからないが、まあ無理なら諦めよう。

 考えてみれば、四つも年上の男を友達だと紹介するのは千石でなくても難易度が高い。

 仮に僕が千石の両親と同じ立場になったなら――火憐ちゃんや月火ちゃんがそんな奴を連れてきた時、相手の男を惨殺しないでいられるかどうかは微妙なところだ。

 

「ご、ごめんなさい」

「謝る必要はないけどな……。で、お前はどうしてこんなところにいるんだ? 家からはちょっと遠いだろ」

「本を借りようと思って、図書館に向かってたの」

「なるほど。じゃあ途中までは一緒か」

「暦お兄ちゃんは?」

「僕は学校の図書室に用事。心強いコーチが待ってるんだよ」

「そういえば、暦お兄ちゃんは受験生だもんね」

「ああ。分不相応な目標を掲げちまったから大変だけど、できる限りは頑張るつもり」

「……うん、応援してるね。NSCに合格できるように」

「僕が受けようとしてるのは吉本総合芸能学院じゃねえよ!」

「え、でも、暦お兄ちゃんならいい突っ込み芸人になれると思うけど……」

「そんな気はこれっぽっちもない! 突っ込みが僕の人生そのものみたいな方向に話を持っていくな!」

 

 こちらの突っ込みに対し、いつかのように背を向けて、身体をがたがたと震わせ始める千石。

 笑い上戸なのは相変わらずで、ついでに言えば、僕を試そうとするボケの振り方も相変わらずだ。

 まあ、さすがに八九寺と比べるのは酷ってものだが、こいつも充分素質はあるよな……。

 千石が落ち着いたところで、再び並んで歩き出す。

 

「そういや、いったい何の本を借りるつもりなんだ?」

「調べ物をしようと思ってるんだけど、結構高い本だし、ゆっくり読みたいから」

「ふうん。なるほど、だから図書館か。調べ物ってことは自由研究か何かか? 僕なんかは昔、割り箸でログハウスっぽいのを作ったことがあったけど」

「すごいね……暦お兄ちゃん」

 

 輝いた瞳で見るのは止めてほしい。本当に、全く凄いものではなかったのだ。

 ちなみにそれは、学校での展示を終えて家に持ち帰った次の日、踏みつけて壊してしまった。

 文字通り倒壊した自由研究の成果を前に、膝を折って項垂れた記憶がある。

 

「でも、別に自由研究とかじゃないの。ちょっと興味があって」 「じゃあいったい何を調べるつもりなんだ?」

「中世の拷問具」

「お前は何つーもんに興味持ってるんだ!?」

「イタリアにある拷問博物館に、足を運べればいいんだけど……」

「もうそれちょっとどころじゃないだろ、滅茶苦茶本格的じゃねえか!」

「暦お兄ちゃんは本当に突っ込みが綺麗だよね……」

 

 道端で妹の元同級生に突っ込みの美しさを褒められる高校生。

 たぶん、人類でそんな肩書きを持っているのは僕だけだろう。

 

「……まあ、使える本が見つかるといいな」

「うん……面白い話があったら、暦お兄ちゃんにも教えてあげるね」

「その気遣いは不要だな……」

 

 あるとしても、それはブラックジョークの類だ。

 十中八九笑えない。

 

「しっかり調べ終えられたら、また撫子と一緒にお出かけしてくれると嬉しいな」

「それくらいならいつでも構わないぞ?」

「……本当に?」

「ここで嘘を言う理由はないって」

「……本当の本当に? 暦お兄ちゃん、撫子とデートしてくれるの?」

「――ちょっと待て、今どこからその単語が出てきた」

「その単語……お兄ちゃん、ってところ?」

「違えよ! それもちょっと背徳的というか変な疑いを掛けられそうな呼称で気になってないわけじゃなかったけど全く関係ない!」

「……じゃあ、デート?」

「そこだそこ。どうしてそんな言葉をチョイスしたんだ」

「男の人と一緒にお出かけすることを、デートって言うんじゃ……」

 

 ……おい、千石。

 その純朴さは美徳として大事に保ってもらいたいが、正直無防備過ぎて危ないぞ。

 僕は幸いロリコンでもないし戦場ヶ原がいるからいいものの、同年代の男子ならデートという単語で勘違いをしないとも限らない。

 どうやらこの中学生とは、どこかで一度教育的指導をしなければならなさそうである。

 

 そうして千石の小さな歩幅に速度を合わせながら、本日教授を受ける予定の二人の顔を脳裏に浮かべ、僕は苦笑した。

 結局のところ、昨日とはまた違う意味で疲れ果てる一日になるだろう。

 でも、それにもいつか慣れていく。夏の暑さに耐性が付くように、変化した日常にも。

 

 だから、たぶん。

 明日も僕は、疲れ果てるに違いない。

 

 

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