私は大変に貧乏なので、忙しくすることが苦手だった。
貧乏暇なしとはよく言ったもので、金のない奴に限ってあくせく動き回る。そんなことには断じてなるものか。心は常に豊かに、悠々として生きるべきだ。
入り用である。人生の内に何度か発生するどうにも金が必要になる瞬間に巡り会ってしまった。如何にせん、と目の前が真っ暗になりかけたが、そうだ働こう、と決心がついた。
「それで学生課に?」
「ここなら学生向けの労働の斡旋がある」
ぺらぺらファイルの中身をめくっていく。
「あ、これは? 工場でパンの検品」
「いやだ」
「あっそう。こっちは? 電波測定」
「とおい」
「注文多いね。あーこれはやめときな」
「ん? 家庭教師?」
「オススメしない」
「いやいや近いし、収入が多いじゃないか」
「そうだけどさ……まあがんばれば?」
二駅先、徒歩15分とまあちょうどいい距離だ。科目は理科、数学、英語。時給1500円、相手は高校生。これは好条件ではないか!
私は相手先に電話をかけ、早速働くことにした。
聡明なる読者諸君等は家庭教師のアルバイトというものをご存知だろうか。学徒が教師の真似事をしてお宅へ出向き、そちらのお子さんの宿題を見るという、うまくすれば食料にもありつける美味しいバイトである。一方で教え子と懇ろになってしまい行方をくらます羽目になる可能性も秘めている。
私は未成年に欲情する趣味はないのでこんなバイトは余裕余裕とスキップしながらお宅に訪れたが、そこで衝撃的なことを告げられた。
「実はうちの娘なんですけど、今学校に行ってなくて」
「え」
「なので全教科見ていただきたく」
「え」
「勉強は得意な子なのでお手間はかけさせませんから」
「え……」
もっと早く気付くべきだった。この塾と予備校の充実したご時世に、素人の学生を、たかだか時給1500円ぽっちで雇うのにはそれなりにそれなりの理由があるのだ、と……しかしもう出されたケーキに手を着けてしまった。これでは帰してもらえまい。
「そういうわけでよろしくお願いしますね」
「うぐぐぅ……承りました」
ずるずる足を引きずりながら二階へ上がり、生徒の部屋を訪れた。不登校……一体どんな女子高生が……時給に釣られず学友の意見を聞くべきであったか……深呼吸をしてドアを叩いた。
「あっきたきた。はーい」
想像してなかった元気な声に面食らった。しまった、いじめられて不登校ではなく不良生徒だったか。いかん、そっちに耐性はない。
背を向けて逃げ出そうと思った瞬間ドアが開いた。
「よろしくねーせーんせ!」
「お、おぉ……」
目の前にいたのは明るい茶髪をかわいらしくツインテールにした女の子であった。彼女、UMP9が不登校の女子高生である。
とりあえず何を教えるべきか成績を見させてもらった。
「5が並んでる」
「ね! 勉強は得意なんだ~」
「強いて言うと何が苦手なんだ?」
「うーん、恋愛かな!」
つまり苦手な科目はないということだ。やることがない。あえて5でない科目を挙げるとしたら、音楽、保健体育、美術。私が教えられる科目ではない。
「あ、ちょっと待ってね。友達からメッセージ来たから返信しないと」
友達とも連絡を取り合っている。なんで学校に行ってないんだ?
「君」
「きみ、なんて呼ばないで気楽にナインちゃんって呼んでくれていいよ」
「……9さんはどうして学校に行ってないんだい?」
楽しそうに話していた顔が一瞬真顔になった。が、
「別にそんなことどうでもいいじゃん! ねえねえ大学のこと教えてよ」
すぐに元のにこにこ笑顔に戻った。私は違和感を覚えたが、今つつくことではない、と適度に大学の話を交えつつ勉強を教えた。もちろん、教えることなどほとんどない。彼女は実によく問題を解き、間違えることもなかったのだ。
「もういっそ保健体育教えたら? 実技で」
「馬鹿者、何を言うか。手が後ろに回る」
「だって美術と音楽は無理じゃん。他のも教えることないわけだし」
「そうなのだがな……」
ただただ問題を出して解かせて、何一つ間違いのない答案に丸をつけて、これが教え子のためになっているのは甚だ疑問である。何も成せぬまま給金を受け取るのも気が咎める。如何にせん。
「あんたも気をつけなよー。駅の反対側の大学の話聞いた?」
「何かあったのか?」
「カテキョのバイトしてて相手方の奥さんと夜逃げしたんだってさ」
「余程美人だったのか」
「他人事みたいに言って」
「私のストライクゾーンは上下五つだ」
「それ教え子は入るんですけど」
私はふと学友の顔を見た。そのままじっと見つめる。よくよく考えればこの学友は女性であった。教え子と同じ女性である。
「……この話の流れで見つめられるの滅茶苦茶嫌」
「貴君は高校が嫌になったことはあるか?」
「あーなるほどね。うーんそうだなぁ……」
学友は軽く空を見上げて半ば空になったマッ缶を弾きながら思案した。彼女にも女子高生時代があったことが妙に不思議である。
「私の高校生活は普通だったよ。面白いこともつまんないこともあって、普通に勉強して普通に部活して普通に友達いて普通に彼氏も」
「いたのか?」
「あー……いやこの話はやめやめ。とにかくさ、普通に嫌になったこともあったけど、今振り返るとどうでもいい理由なんだよ。でもそのどうでもいい理由って私がそこを通り過ぎたからそう思うだけであって、直面してる本人にとっては一大事なわけじゃん」
「その通りだ。なるほど、そうだな」
私は納得してうんうんと頷き、手にしていたマッ缶をくずかごに放った。くるくる弧を描いて収まるべき場所に収まった缶に達成感を覚える。
「やるじゃん。私のも」
「ん」
彼女から受け取ったマッ缶を同じように放った。しかしそれはくずかごの角にぶつかり、明後日の方向に跳ねた。
「おぉっと」
「気をつけなよー。何もかもうまくいくとは限らないんだからさ」
私はすごすご缶を拾いに行った。
家庭教師を始めて1ヶ月が過ぎた。私は給金を受け取り、いつもと同じように教え子の部屋を訪れた。
「はろはろせんせ。お給料もらえた?」
「うむ。正しく受け取った」
「私を教えるのって楽?」
私は大きく頷いた。
「楽だ。申し訳なくなる程に楽だ。事実私は君に何も教えていない」
「だからナインちゃんって呼んでってば」
「9は高校の何が嫌になってしまったんだ?」
笑顔だった彼女は表情を変えた。以前見た真顔である。
「だからそれはさ」
「どうでもよくない。私は9の家庭教師だ。教師たるもの教え子の助けにならなければ」
「大げさだよ、たかだかアルバイトでしょ?」
「給金を受け取った。クビにはされなかった。私には9を引き続き教え導く責務がある」
「ううーっ」
9は困ったように唇を噛んだ。もう一押ししてもいいだろうか、それとも少し引くべきか。
「別に今すぐ理由を教えてくれなくてもいい。ただ私は必ず9に向き合う。困っているなら助けになる」
「うぅーん」
彼女は椅子を右に左にくるりくるり回した。回転に合わせてツインテールがふわりふわり舞う。
「あのね、自慢じゃないんだけどね、私勉強できるの」
「うむ」
「だからつまらなくて。授業が何も楽しくない」
私は彼女の通知表を思い返した。すばらしい成績が並ぶ中、時折書かれている評価は『積極性に欠ける』であった。
「わかってしまうからつまらない、か」
「そう。知ってること、わかってること聞いても何も楽しくない」
「学友はどうだ?」
「なんかみんな子供っぽく見えてさ。あんな授業一生懸命受けてて」
つまりは、彼女は自分一人が仙人になったような心地なのか。ただ一人雲の上から人を見下ろすような。
「それを人に話すわけにいかないから離れた、と」
「そうそう。よくわかったねせんせ! まあ虚無感もあるんだけどねー」
しかし当の本人は仙人になるには優しすぎたのだ。
「YouTubeとかTik Tokとか見ればみんなと話は合わせられるよ。でもそうやったからって仲間になってるわけじゃない感じがして」
「なるほど」
私にも覚えはある。クラスメイトと違う自分を見つけてしまうととてつもない孤独を味わう。その心のより所なさと目の前が真っ暗になったような不安たるや、思い出して身震いした。
「でもせんせから聞く大学の話は好き。早く大学生になりたいなー」
「ふぅむ」
勝手な話であることは重々承知だが、健全な高校生活が充実した大学生活の礎となると私は考えているため、可能な限り彼女には高校生の高校生にしかできないことを満喫させたいのだ。しかしそれを言ったところではいそうですかと受け入れるほど馬鹿な小娘でもあるまい。
「それでは一度体験してみるか」
「え?」
私はなるべく学生の顔を覚えず、大学生っぽい講義をする教授に目星をつけた。
私は視力が低いためなるべく前の方の席に座るようにしているが、今日に限っては後方の席に陣取った。
「ねえせんせ、黒板見えないよ?」
「大丈夫だ。この科目の教授は字が大きい」
なんせ特別ゲストがいるのだ。目立つわけにはいかない。
「ねえせんせ、私にも筆記用具貸して」
「うむ」
9をこっそり講義棟に招待した私は、彼女を人工知能概論の講義に潜り込ませた。
「ねえせんせ」
「どうしたんださっきから」
「この講義の先生って女の人なんだね」
「あーうん、ペルシカさんな」
ペルシカ教授は年齢も来歴もよく分からぬが恐ろしく研究のできる教授だ。私生活を投げ打って研究に没頭するせいでペルシカ研は通称漆黒の闇ブラック研究室である。
「女の人でも大学の先生やるんだ」
「まあな。あの人は特別っちゃ特別だけど」
聞くところによるとロボット開発に関わる研究に人生を捧げているそうだ。ぱっと見他の教授達より若く見えるため間違いなく天才の類なのだと思うが、若かったとしたらなぜそこまで研究に打ち込むのかがわからぬ。何かあったのだろうが誰も何も知らない。
さて9はというと、最初は講義をじっと聞き、しかしすぐ退屈そうにだらだらし始めた。私が与えたルーズリーフの隅にちまちまとした落書きが増えていく。絵に描いたような手持ち無沙汰だ。
「それじゃあ今日の講義は以上。質問があるなら各自聞きにくるように」
「せんせ、いこっ」
9は私の袖を引いて立ち上がった。おいおい聞きに行くのか? 私は面食らったがこれも連れてきた責任だと腹をくくってずるずる引きずられていった。
「すみませーん、ここ聞きたいんですけど」
ペルシカさんは9と、それから引きずられる私を交互に見た。しかしこの人が学生の顔を覚えているわけがあるまい。事務員の名前さえ覚えていないともっぱらの噂だ。
「どうぞ」
「ここの話って」
私は少し後ろで9の様子をうかがった。これで多少は彼女に何か得る物があればいいのだが……
「勉強不足ね」
9の質問を切って捨てたペルシカさんに私はあんぐり口を開けた。な、なんて、なんてことをっ
「このあたりの話は高校で教わる範囲よ」
「えぇっそうなんですか?」
「高校の範囲だからといって疎かにせずきちんと復習すること」
「高校で習うことが大学でも使えるってこと?」
ペルシカさんはちらりと私を見た。なんとなく居心地の悪さを感じる。
「あなた、学籍番号25番ね」
「え、えぇっどうして覚えて」
「人の顔と番号を一致させるのは得意なのよ。まったく、高校生を紛れ込ませるなんてどういうつもり?」
「バレてましたか……のっぴきならない事情があるのです。ご容赦ください」
教授は肩をすくめた。
「まあいいでしょう。そこの、高校生」
「はいっ!」
「小学校で習うことだろうが中学校で習うことだろうが高校で習うことだろうが何もかもが関係のあることよ。関係ないことにしてしまうのは自分自身」
「全部つながってるんですか?」
「学問は全て地続き。ただ今まで糧にしたことは道具のように理解して使いこなせないと。それが勉強よ」
「へー、そうだったんだ……」
なんだろう、私がやるべきだったことを全部教授がやってくれた気がする。申し訳ないが助かった。
「それから学籍番号25番、後で研究室に来るように」
「ひえ」
ほっとしたのも束の間。よもや呼び出しを食らうとは……
学食で9にホットココアを奢った。彼女は見慣れぬ学食の風景をきょろきょろ見渡しながら両手で紙コップを包み込むように持っている。
「すまんな。教授が突然質問を切り捨てて」
「うぅん! 人生で初めて楽しかった!」
「お、おぉ、そうか」
「私ね、高校でやったことって全部そこで終わっちゃうんだって思ってたの。でも続いてくんだね」
9はココアを一口飲み、幸せなため息をついた。
「そういえばせんせは今花の女子高生とデートだね。わーいってなる?」
何を言い出すかと思えば生意気な。私はかぶりを振った。
「ないない。本当に素敵な大人ってものは子供相手にわーいとはならないものだ」
「ふーんそうなんだ。せんせは大人なんだね」
彼女は珍しく神妙な面持ちをした。
「ねえせんせはどんな高校生だった?」
「私? 私かぁ……うぅむ」
少し考えてみた。考えてみて、どこかで聞いたような答え方をした。
「普通だった。友達がいて、部活もやって、勉強して、恋人は、まあいなかったが」
「いなかったかー」
「いなかったなぁ。普通に楽しいことも嫌なこともあった。学校に行きたくなくなることもあった」
「その時、どうしたの?」
思い返す高校生の頃。なんてことないことで学校が嫌になってしまった日。
「学校をサボって乗った電車の終点まで行った。ずいぶんと何もないとこでな。帰ったら学校から家に連絡がいったらしくえらく心配されたよ」
「次の日普通に学校行ったの?」
「行ったとも。サボり続けられるほど勇気がなかった。だから9、行かないという意志を貫いた君は大変勇気があり、見所もある」
「えぇ? そうかなぁ? えへへ……」
突然誉められて照れた9はくしゃっと顔を崩して笑った。こうして笑うと年相応の少女なのだ。
「私は勇気と見所のある9に楽しく高校生活を過ごし、悔いなく大学生になってもらいたい。こう伝えることは負担になるか?」
「高校生活ってそんなに大事?」
「最も大切と言っても過言ではない。高校生活に悔いを残した奴は一生その悔いを抱えて生きる」
彼女は目をまんまろに見開いた。
「そっそんなに!?」
「そうだとも」
「こらこら子供に嘘教えない」
おっとここで学友殿の登場だ。
「あれ? だれだれ? せんせの彼女?」
「んなわけあるか。ただの学友だ」
「どーも。この子が例の子? かわいいじゃん」
「えー? えへへ……」
また9はくしゃくしゃ笑った。その顔がかわいい。
「まあでもあながち嘘でもないか。後悔はしない方がいいかもね。過ぎ去ると戻れないし」
「そういうわけだ。我々は9に強制はできん。だからこれで学校に行くも行かないも最終的には9自身が決めることだが、高校に行って今しかできない楽しいことや失敗をやってから大学生になっても遅くはないぞ」
「うっわ偉そう」
「やかましい」
私と学友があーだこーだ言い合っているのを見ながら、9はまた神妙な面持ちをするのであった。
さて、私のアルバイトがその後どうなったのか話そう。
9は部屋を訪れた私を初めて見る制服姿で出迎えた。
「じゃじゃーん!」
「おぉ、似合うではないか」
「つまらないつまらない言わないで学校行くことにしました」
「偉い。意志を貫くことも勇気なら変える決断をするのも勇気だ」
「えへへ、ありがとせんせ。せんせとあの教授さんとせんせのお友達さんのおかげだよ」
「それは鼻が高い」
あの後9と学友は連絡先を交換したらしく、仲良くやり取りしているそうだ。
「それでね、せんせにお知らせなんだけど」
「うむ」
「明日から来なくていいよ!」
「は」
「私学校行けるようになったし!」
「は」
「だからこれからはお友達でいてね!」
「というわけだ」
「いや、クビにされてんじゃん」
「お役御免だ……」
私の手には月の中頃で終わったにも関わらず満額の給与が握られていた。ありがたい限りだが、だが。
「まあいいじゃん。入り用だったのはなんとかなったんでしょ?」
「まあな」
「ていうか入り用って何?」
「極秘だ」
「あっそ。まあいいけどさー。ところでペルシカさんに出された部外者連れ込みの罰課題は終わったの?」
あの日、ペルシカ研を訪れた私を待っていたのは追加課題だった。ついでにいくつか雑用も押し付けられ、足げく研究室に通う羽目になった。
来年は私も三年生。研究室を決める年になるのだが、このままいけばおそらくペルシカ研の住民になるだろう……
「それがだな」
「終わってないの?」
「終わりはしたんだ。ただ9に間違いを指摘されて、修正している」
「まあよくできた高校生ですこと」
「あの子は貴君に憧れているそうだぞ」
「それは光栄だね」
学友は自販機から出てきた温かいマッ缶を投げて寄越した。
「クビにされてかわいそうだから奢り」
「ありがたい」
温かく甘ったるいマッ缶は今日も私を癒してくれるだろう。プルタブを立ててふと思いついたように呟く。
「まあ、教師と生徒でなくなったなら、対等な関係には近づいたか」
次の瞬間私のマッ缶は奪われた。
「なんか腹立つ」
学友は私を睨むと、ぐいとマッ缶を飲んだ。おかしい、こんなはずでは。
「どうしてだ。思い通りにならん」
「そういう星の巡りなんだよ」
「うぐぐおのれ」
彼女が放った空き缶は、きれいにくずかごに収まった。