高価ではあるが豪華ではない、落ち着いた雰囲気の応接室。室内の調度品には安物は何一つないだろうが、華美な物もない。
その部屋の硬すぎず柔らかすぎない、座り心地の良い椅子に腰かけて魔法剣士は一心不乱に一冊の手帳を手にとって眺めていた。
ぺらり、ぺらりと。古びてはいるが、頑丈な装丁の手帳のページを捲って行く。
一面にびっしりと書かれているのは意味を成さない文字の羅列。単語すら存在しない。
だが、魔法剣士はその正確な内容を読み取れる。頭の中に存在する符丁と照らし合わせれば、どんな事が書かれているか理解できる。
「読めるかね?
「はい、大丈夫です」
伯爵の言葉に、手帳から目を上げずに答える。非礼なのは承知しているが、どうしても目が離せない。
見間違えるはずがない。この字はよく知っている。誰よりも知っている。これは、この筆跡は―――――父の字だ。
父の字で書かれた、父の使っていた
「……この辺りは雪中での行動、特に雪山での注意点ですね。食べ物は油紙に包んで空気に触れさせないようにせよ。その上で懐に入れて、己の体温で凍らないようにせよ……」
「あいつは貴族からの依頼で、雪中行軍についての研究などもしていたからなあ。その時学んだのだろう」
そうだった。冬になると父はしばしば長い間帰ってこなかった。魔法剣士はそれを寂しいと思った事は無い。いや、思おうとしなかった。
素直に聞き入れ、大人しく待っている。それが父の望みだと思ったから。父の子とはそう振る舞うべきだと思ったから。
「すまんな。本当は君が冒険者になる時渡すべきものだったのだが、内容に関しての話は聞いていたのでな。下手に知識を与え過ぎるのもよくないと思ってな……」
「分かります」
確かに手帳の内容は非常に有益なものだ。槍使いから聞いた事や、自分が経験から学んだ事。それらと同じ内容も記されている。
仮に最初からこれを渡されていたら、読んでいたら。ずっと効率的に動けていただろう。もっと楽が出来ていただろう。
だが同時に、この内容が重荷になっていた可能性も大いにある。知識は邪魔にならない。だが常識は時に邪魔になる。
常識とは自分の知識と偏見で構成されるものだ。そして、知識が豊富であればあるほどあらゆる物事を常識の―――――自分の常識の中で解決しようとする。
悪い事ではない。むしろ何とか理解しようとするその姿勢は正しい。しかし、「そういうもの」として受け入れる事が出来なくなる。
ゴブリンは最弱の魔物、という知識のみで小鬼に対する常識を構成してしまっている―――――してしまっていた、かつての自分や仲間達。そしてあの剣士のように。
弱いから、愚かだから。奇襲などない、負ける事などないと。自分達の中の常識に当て嵌めてしまった。それが全てだとしてしまった。
自分があそこで《
それがなかったら、使わずに先に進もうとして完全な形で奇襲を受け、挟み討ちを受け、
この手帳の内容を知っていたら、あの結末は避ける事が出来たか?魔法剣士は「違う」と考える。逆だ。きっと全滅していた。
この手帳には小鬼の事はごく僅かしか書いていない。簡単な罠を使う。体格の大きい小鬼や呪文を使う小鬼もいる。その程度だ。
当然だ。書く事、書きたい事は山ほどあるだろうに、小鬼の事にそこまで
もしそんな小鬼について事細かに記した書物を書く者がいるとすれば、それこそ
(この手帳を読んで、知識があるから。自分は物を知っているから。そう考えていただろうな)
ゴブリンの事はよく知らない。だが冒険者としての知識は豊富にある。だから受付嬢の話をそこまで真剣に聞かず、小鬼を侮っていただろう。
自分の知識量は多いのだから、自分の常識は間違っていない。そう錯覚してしまっていただろう。下手をすれば外なる神の託宣にすら従っていたかどうか。
それに、変な先入観のせいで女魔術師が受けた毒の事を見落としていたかもしれない。あれはドブさらいで得た経験があり、知識がないからこそ毒かもしれないと思えたのだ。
知識より先に、経験を積む。時はそれも必要なのだ。経験によって耕された状態でないと、知識という作物は実を結ばない事もあるのだ。
だから、この手帳をすぐに自分へと渡さなかった伯爵の判断は正しい。魔法剣士はそう思う。
「しかし、頂いてしまってよろしいのですか?父から貴方に贈られたものだとお聞きしましたが」
「構わんさ。写しは取ってあるし、君に使われる方があいつにとっても本望だろう。それに、今必要としているのは君のはずだ」
「……はい。それでは、有難く頂戴します」
確かにこの内容は貴重だ。長期間の旅で気を付ける点や、喉から手が出るほど欲しかった迷宮探索についての情報も書いてある。
これがあるから
(それに、これは―――――)
自分にとって、特別なものだ。自分にだけ、特別なものだ。
何も書かれていなかったのだとしても、特別なものだ。
これは、父の形見なのだ。
――――――
真剣な表情で、懐かしむような眼で手帳を読み進める魔法剣士。その姿を見て、伯爵は彼の父の面影を感じ取っていた。
(あいつも集中して書物を読む時は、こんな表情だったな)
視線はもっと冷たく、無機質なものだったが。しかし違いが生まれるのは当然だろう。
あの男が読んでいたのはただの書物で、彼が今読んでいるのは父親の形見なのだ。視線に込められる感情はまるで別物になってしかるべきだ。
(そういえば、彼は何も残してもらえなかったのだったな)
財産は残さない。代わりに借金も残さない。遺産と借金が完璧に相殺するようにし、何も継がせず、何も背負わせない。
そうする事で親に関わりなく、好きな道を歩かせてやる。
あの男は生前よくそう言っていたものだ。だが、本当に何一つ残していかないとは流石に思わなかった。
思い出の品の一つや二つは残るようにしてやるべきだったろうに。
(あいつなりの父親としての愛情だというのは分かるがな)
好きに生きろと、自由気ままにしていいと言いたかったのだろう。「息子」としてあるべき姿であろうとした自分の息子を、解き放ってやりたかったのだろう。
だがやり方が拙いと言わざるを得ない。確かにあの男らしいと言うか、あの性格ではこれぐらいしかやり方が分からなかったのだろうが……
その結果として、目の前の少年は親との繋がりを断たれてしまったのだ。
母親を早くに失い、父を失い、親類縁者もおらず天涯孤独となってしまった少年。形見の一つすら持たず、ただ一人この四方世界に残された少年。
哀れではないか。もっと哀れな存在がいるだとか、もっと早くに親を亡くした者もいるだとかは関係ない。目の前の少年が哀れだという話だ。
幾度となく救われた恩もあるし、我が身を犠牲にして助ける事を厭わぬほど強い友情もあった。だがこの点に関してだけは、伯爵はあの男を殴ってやりたい気分だった。
もうそれは永遠に叶わないのだけれど。
「少し外す。ゆっくり読みたまえ」
「はい」
生返事を返してくる彼の姿を優しげな瞳で見つめながら、伯爵はそっと応接室の外へと出る。暫く一人にしてやろう。
今は、父と息子だけにしてやりたかった。親子だけの時間を過ごさせてやりたかった。
――――――
「申し訳ありません。すっかり夢中になってしまいました」
「いや、構わんよ」
慌てて頭を下げた魔法剣士に、伯爵は鷹揚に頷いた。手帳を見せられた時はまだ昼すぎだったのが、もう日が傾き始めている。
こちらが招かれた側ではあるが、一冒険者と伯爵という身分の差がある。そして相手は自分よりずっと年上で、幼い頃から並々ならぬ恩を受けてきた人物だ。
何より、いずれは義父と呼ぶ事になる相手なのだ。礼を尽くしてしかるべきだろう。
「それで、ご用は二つあると伺いましたが。一つはこの事でしょうが、もう一つは?」
「うむ……」
何か言い難そうにしている伯爵を見て、魔法剣士はその理由と内容を考える。
伯爵は無神経ではないが、貴族らしい勿体ぶった言い回しではなく直球を好む人だ。こちらに不利益だとか、不愉快な内容だとしても躊躇わず伝えてくる。
このように言い淀む時はどんな時だったか。考えるまでもなくすぐに思い出す。この人が言葉に窮するのは、大概令嬢に関する話をする時だ。
決して嫌ってはいないが、この人は自分の娘の逸脱した所についていけていない。
そして、その異常性を受け入れている自分の事も理解し難いと思っている。だから令嬢に関わる話の時は、それらが合わさって大体歯切れが悪くなる。
(それが普通、当然というものなのだろうな)
魔法剣士としては「そういう人間」で終わる話だが、令嬢の愛情が異常である事ぐらいは理解している。
異常者を恐れ、弾くのは差別ではなく当然の事だ。異常者は何をするか解らない。何かしでかして、自分や親しいものに災難が関わるかもしれないと思うのは当たり前だ。
そしてその異常を当然のものとして許容する人間もまた、一種の異常者だ。弾かれる側に置かれても文句は無い。
むしろ、理解し難いとか少し苦手程度で済ませてくれているこの人には感謝すべきだ。
さて、令嬢に関わる話とは何だろうか。何処かの家と断りきれない縁談でも持ち上がったか?
それならばむしろ伯爵は率直に事実を告げ、意見を求めてくるだろう。そういった困難だとか問題に関して、逃げたり迷ったりする人ではない。
自分が諦めると言えばそれで良しとし、彼女を連れて逃げると言えばそれも良しとしてくれるだろう。そういう人だ。
それに、もしそんな問題が持ち上がっているならば。そんな話をするならば。当事者である令嬢を同席させる。
今日は用事があって留守にしているという話だが、留守の間にこそこそ話を進めるなどという事をする性質の人ではない。
ではどんな問題だろうか。いや、そもそも問題なのか?着眼点そのものが間違っているのではないだろうか。
令嬢絡みで何か伯爵を悩ませる事はなんだろうか。それに関して何か質問や相談があるのだろうか。
いや、それも違う。自分に対して何かを言いかねているというのは、こちらに対して何かしらの要求があるのだ。
恐らく、手帳の件よりもこちらがメインなのだろう。手帳だけならば手紙を添えて寄越すなり、収穫祭の時令嬢に持たせるなりすれば済む話だ。
それだけで呼び出すには弱いが、別件と重なれば直接話したい内容。
(それこそ収穫祭絡みか?)
先日、彼女に送った手紙の内容を思い出す。あの内容を見たら彼女はどんな反応をするだろうか。
上機嫌になるのは間違いない。本当に心を込めて贈るなら、自分が考え抜いた末の答えならば。道端の石を拾って贈っても
いや、あの内容なら上機嫌に留まらないかもしれない。全ての神々の神殿を回って礼拝するぐらいはやりかねない。むしろそれで済めば大人しい方か。
そう考えると、彼女が何かやらかしたと考えるのが一番正しい気がする。それに関して言いたい事があるが、手紙を送っただけの人間に言うのは筋違いと思っているのだろう。
普通はそうだが、相手は普通ではない。そして自分はそれを承知していたはずだ。であるならやはり責任は自分にある。咎められて然るべきだろう。
「俺の手紙が、何かよくない事を引き起こしてしまったのでしょうか」
伯爵が一瞬驚いた顔を見せる。だがすぐにその表情を消すと、首を横に振って否定した。
「いや、君のせいではない。あれが勝手に失神しただけの事だ」
「申し訳ありません。配慮が足りませんでした」
成程、失神して騒ぎになったのか。魔法剣士はそう合点した。ありうる話だ。
自分は冒険が楽しいと、何が好きかに気付いたと。そう知らせたのだ。彼女がそうなる事ぐらい予測して然るべきだった。
前置きで「驚かせるかもしれない」ぐらいは書いておけばまだよかったろうに。魔法剣士は胸中で自分の浅慮を罵った。
「まあ、用事というのはそれに関わる事でな……」
そう言うと伯爵は革袋を取り出した。テーブルに置かれたそれが発した音から、中身は銀貨、あるいは金貨であると察せられる。
「共に祭に行くというのなら、それは
「そうですね」
「であるならば、着飾れとまでは言わんがそれなりの服装をしてやって欲しい。そう思ってな……」
照れ臭そうに発せられた伯爵の言葉に、魔法剣士は眼を瞬かせる。服装。すっかり頭から抜け落ちていた言葉だ。
だが、道理だ。婚約者と出掛ける。それも相手は卑しからぬ身分の姫君だ。服装にも気を使うべきだろう。普段着というのは考えものだ。
まして普段着ている物は、下水に潜ったり小鬼の居る洞窟に潜ったりしているのだ。洗濯はしているし臭いには気を付けているが、とても相応しいとは言えない。
しかし、その為に金を貰う謂われは無い。自分が冒険者になった理由を考えれば、服の一着も自力で買えないようでは話にならないだろう。
「お話は分かりましたが、それをお受け取りする訳には……」
「いや、これはそれだけの事で渡すのではない。本来もっと早く渡すつもりだったものだ」
そう言われ、魔法剣士は首を傾げる。さて、金を渡される理由が思い当たらない。
そんな彼に対し、伯爵は苦笑を浮かべながら告げる。
「元々君が冒険者になる時、援助はするつもりだったのだ。私はてっきり都で活動するものと思っていたので、初依頼を成功させた時に祝いとして贈ればいいと考えたのだが……」
「それは、申し訳ありませんでした」
成程。外なる神の託宣を受け、わざわざ西の辺境へ赴くなどそれこそ神以外には分かる由もないことだ。
「つまりは、だ。娘と逢引するからには、それなりの格好をして……喜ばせてやって欲しいと思うわけだ」
魔法剣士にはよく分からないが、きっと親心というやつだろう。自分を通じて間接的にだが、娘の為に何かしてやりたいのだろう。
「それに幼少の頃から見知った……甥のような相手には何かしら贈ってやりたい。そうも思うわけだよ。いずれは義理とはいえ、息子になるわけだしな」
「……そういう事でしたら、ありがたく頂きます」
深々と頭を下げる。そんな風に思ってくれていたとは、魔法剣士は考えてもいなかった。ありがたい話だ。
うやうやしく革袋を受け取ると、そっと懐にしまい込む。質感は柔らかいが頑丈な作りで、袋自体がちょっとした値になりそうな出来だ。
「ところで、今日は泊まって行かないのか?あれも夜には戻って来るはずだが」
「いえ……既に宿は取ってありますので」
それに、と魔法剣士は付け加える。
「俺が来る事を知っていてわざわざ別の用事を入れるという事は、今は会いたくないという事だと思うので」
恐らくは収穫祭に招いたのが原因だろう。再会するならば招いてもらった辺境の街で、と令嬢は考えているはずだ。
そうでなくば、外せない用事だったとしても直筆の置き手紙ぐらいは残していく。あれはそういう女だ。
「うむ……まあ、そうか。こちらには暫くいるのか?」
「いえ。明日父の墓参りをして、服を買ったら帰ろうと思っています。仲間が待っているので」
そう言ってから、魔法剣士は自分が口にした言葉に驚いた。自分は「帰る」と言った。
そうだ、帰るのだ。あの街に。仲間が待っている、待ってくれているあの街に。
自分が「帰る」のは、あそこだ。女魔術師と女武道家が待っていてくれる所だ。ここではない。少なくとも、今はまだ。
「帰ります。仲間が、待っているので」
もう一度、自分に念押しするように口にする。
「そうか。仲間が待っているならば、行かねばな」
伯爵が眼を細め、優しい声でそう言った。そういえばこの人も冒険者をしていた時期があったな、と魔法剣士は思い出す。
なら、今の自分の気持ちを分かってくれているのかもしれない。待ってくれている仲間がいる事の喜びを、きっと理解してくれているのだろう。
「大事にしたまえよ。大切に思える仲間は宝だ。金銀財宝や魔法の武具などよりずっとな」
「はい」
魔法剣士は心から頷いた。その通りだ。聖剣や魔剣、山積みの金貨などではあの仲間達と比較対象にならない。
逆に仲間達の為ならば、それらは何ら惜しくない。手元にないから、今の自分では到底手に入らないからそう思うのではない。それだけは断言できる。
「それにしても……」
「はい?」
「君はそんな風に笑うのだな。初めて見た気がするよ」
そう言われて、思わず頬に触れる。自分でも気付かないうちに、笑顔になっていたらしい。
だが、当然の事だと思う。こんなにも暖かい気持ちになったのだから、自然と笑顔になるのはいたって自然な事だ。
(早く帰りたいな)
ふと、そんな言葉が頭の中に浮かぶ。そうだ、早く帰りたい。何故かは上手く言えないが、魔法剣士は無性に女魔術師に、女武道家に会いたくなった。
今ならごく自然に、彼女達と笑って話せる気がした。
今は、笑顔で話したい気持ちでいっぱいだった。
友情と恋愛は一つの根から生えた二本の植物である。 ただ後者は花をすこしばかり多くもっているにすぎない。 ―――――ある詩人
活動報告であげた診断結果の中で、どれが一番読みたいですか?(書くとは限らない)
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