純和風の重厚感ある佇まいの屋敷の前に立った僕は、緊張をほぐすために深呼吸をした。
慊人は変化を好まないから、僕の転校をそう簡単に認めるとは思えないんだよな。
「
兄さんが心配そうに声をかけてきた。
正直に言うと、大丈夫じゃない。でも弱音を吐いたら慊人に頼む役目を兄さんが引き受けてしまうので、僕は笑みを作って「大丈夫だよ」と答える。
慊人の世話役の1人であるお手伝いさんに案内されながら、廊下を歩いて慊人がいる部屋へと向かう。
「慊人さん、はとりさんと建視さんをお連れして参りました」
お手伝いさんは声をかけてから、襖を開ける。和室の障子窓の近くに、慊人とぐれ兄が寄り添うように座っていた。
慊人は大問題を起こしたぐれ兄に追放を言い渡すほど激怒したのに、そんな悶着はなかったかのように見える。
……この2人は仲が良いんだか悪いんだか、よく解らないな。
昔は疑う余地がないほど親密だったけど。泣いた慊人を慰める役目を務めるのは、兄さんよりぐれ兄の方が多かった。
だけど、いつの間にか慊人とぐれ兄の間に距離感が生じていた。
2人の間に溝ができたのは、
「こんにちは、慊人」
「……やぁ、建視。僕に頼み事があると聞いたから1人で来ると思っていたけど、はとりに付き添ってもらったの? いい加減、兄離れをしたらどう?」
毒舌家の慊人にとって、この程度は挨拶代わりの軽いジャブだ。僕は脳をフル回転させて、適切な返事を探し出す。
「兄離れはまだできそうにない。僕は兄さんに隠蔽術を施してもらわないと、任務をこなせないから……」
「自分の弱さと未熟さを恥ずかしげもなく告白できるなんて、建視の図太さには驚くよ。その図太さを任務でも発揮できればいいのに。ねぇ、はとり。情けない弟を持つと苦労するね?」
「……そうだな」
慊人の言葉を否定したら説得が難航すると、兄さんは考えたのだろう。兄さんの内心は理解しているつもりだけど、僕は心に若干のダメージを負った。
「建視がいつまでもはとりに頼りきりじゃいけないから、1対1で話をしよう。はとりと
「帰りませんとも。……はーさん、行こう」
兄さんは立ち去るのを躊躇っていたけど、ぐれ兄に促されて退室した。
慊人が兄離れを話題に出した時点で、こうなる事は予想していたので動揺はしない。緊張は増したけど。
「それで? 僕に頼み事って何?」
「……海原高校への転校を許可してほしい」
慊人は僕の頼みに答えず、無言で立ち上がった。
畳の上を素足で歩いた慊人は僕の目の前で両膝をつき、開いた両足の間に尻を落として女の子座りをする。
男でも股関節周辺の柔軟性が高ければ女の子座りができるらしいけど、慊人は女性だから問題なくできるようだ。
普段は男の格好をしている慊人の本当の性別は、秘密が多い草摩家の中でも最たるトップシークレットになっている。
物の怪憑きでそれを知っている者は、兄さんとぐれ兄と綾兄と紅野兄と僕しかいない。
兄さん達は慊人より先に生まれたから、慊人の本当の性別を知っていたらしい。
僕は5歳になった時、父さんから慊人は女性だと教えられた。残留思念を読む力を持つ僕は、何かの拍子に草摩のトップシークレットを知る可能性があったので、誰にも言うなと釘を刺すために教えられたのだろう。
そんな事を考えながら、女の子座りする慊人を不躾に眺めてしまったのが間違いだった。
「人の下半身をじろじろ見るなんて、いやらしい奴だな」
「いやっ、僕は、その……慊人は裸足だから寒くないのかなと思っただけで……」
「暖房がきいているから平気だけど、建視がそんな事言うから肌寒くなってきた」
座り方を変えた慊人は「温めろ」と命じながら、正座する僕の膝の上に左足を乗せる。
足袋を履くか、湯たんぽを作ってもらった方が手っ取り早いと思うけど、頼み事の最中に口答えするのは賢くない。
「慊人、触るよ」
僕は断りを入れてから、黒い絹の手袋をはめた両手で慊人の細い足首をそっと包んだ。
「ねぇ……建視はどうして転校しようと思ったの?」
幼子をあやすような口調で慊人は問いかけてきた。
慊人がこういう喋り方をする時は、機嫌が悪いか、あるいは怒っている時だ。僕は慎重に答える。
「……
「ふぅん。十二支の頂点に座す
下から覗き込むように首を傾げた慊人は嘲笑を浮かべながら、「それにね」と言葉を続ける。
「建視も知っていると思うけど、夾は高校を卒業したら猫憑きの離れに死ぬまで幽閉する。絶望と憎悪と怨念を撒き散らす化け物と一緒にいても、何の得にもならないだろう? ああ……それとも、アレよりはマシだと確認したくて同じ学校に行くのか?」
そんな事はしない、と否定する言葉は出なかった。
盃の付喪神憑きは先代が残留思念を読む力を乱用したせいで、猫憑きとは違った意味合いで忌避される。それでも、草摩の最底辺にいるのは僕じゃないと知っている。
――ねっ、ちょっとだけっ。ちょっとだけその数珠、私にもつけさせてよ。
――だ……だめだよ。これはぜったい外しちゃいけないって、お母さんが。
――きょーのお母さんにはいわないよ。
物の怪憑きの中で最も醜くて劣悪な化け物として、差別される事が当然の存在である猫憑きを見下して、心の安寧を得ていた事は否定できない。
「建視、ちゃんと温めて」
注文を付ける慊人の声で我に返り、手袋をはめた両手を擦り合わせる。慊人が足首に香水をつけていたのか、フローラル系の香りが立ち上った。
熱を得た両手で慊人の足首を覆いながら、僕は口許に自嘲を刻んで答える。
「……そうだよ。残り少ない期間を一緒に過ごすというお綺麗な名目を掲げながら、僕は夾より恵まれた立場にいると再確認したいんだ」
「そっか……転校の動機がまともで安心したよ。僕はてっきり、建視は
暗闇から切り込むような慊人の発言を受け、僕は内心でドキリとしたけど動揺を表に出さないように努める。
「それはないよ」
「本当か?」
「僕は慊人に嘘は吐かないし、吐けないよ」
「嘘は吐けなくても隠し事はするだろ。はとりに下種女がまとわりついた時、僕に報告しなかったじゃないか……っ」
兄さんが
「……兄さんの問題だから、僕が口出しする事じゃないと思っていたんだよ」
「十二支の男を誑かす女が現れた時点で排除は決定なんだから、これからは報告を怠るな」
十二支の女の子を誑かす男が現れた場合も、排除するのだろうか。余計な事を聞いたら掴まれている髪の毛を毟られそうな予感がしたので、僕は「解った」とだけ答えた。
「建視が転校して他の女に心を移すような真似をしたら、その女の目の前で建視の左目を潰してやるからな」
脅し文句を囁いた慊人は、人差し指で僕の左目の縁をなぞった。慊人の爪は先端を尖らせた形に整えてあるから、正直に言うと怖い。
怖いからといって、逃げようとするのはNGだ。僕は冷や汗を流しながらも、慊人の嗜虐的な戯れを受け入れた。
つまらなさそうな顔をした慊人は僕の顔から手を離すと、鋭利な刃のような笑みを口の端に乗せる。
「転校を認めてやってもいいけど、条件がある。由希が次の宴会に出席するように仕向けろ」
とんでもない条件を突きつけられるのでは、と身構えていたから拍子抜けした。でも、よく考えたら難しい任務かもしれない。
兄さんから聞いた話では、由希と夾が正月に実家に帰らなかったのは、ぐれ兄の家の留守を預かる本田さんを1人ぼっちにしないためだったらしい。
僕が土下座して頼んだとしても由希は宴会に出席しないだろうから、年末年始に本田さんが1人きりにならないように手を回す必要がありそうだ。年末まで時間があるからじっくり考えようと思いつつ、僕は返事をする。
「慊人の仰せのままに」
▼△
Side:紫呉
慊人と建視が話し合っている間、僕とはとりは別室で待機する事になった。
溺愛する弟が無事に戻ってくるかどうか不安なのか、はとりは落ち着かない様子で煙草を吸っている。
「はーさん、そんなに心配しなくても大丈夫だって。僕が慊人をちゃんと説得しておいたから」
「……おまえが説得したから心配なんだ」
心外だなぁ。建視の転校を認めたがらない慊人を説得する際、僕は少なくない犠牲を払ったのに。
慊人が「不特定多数の女が建視に近づくなんて許せない」とか言うのを、苛立ちを抑えて聞く羽目になったんだよ?
建視に転校を提案したのは僕だけど、愛しい女が他の男を気に掛けるのはどんな理由であろうと面白くないんだ。
「嫌だねぇ。20年以上の付き合いがある親友に疑われるなんて、世知辛いにも程があるよ」
「誰が親友だ」
とか言いつつ、僕の薄暗い思惑を知りながらも縁を切らないはとりは本当に寛大だよね。慊人に関する事だと、心が猫の額より狭くなる僕とは大違いだよ。
余裕のある大人の振りをするために時々ガス抜きをしなきゃいけないから、愚痴を零せるはとりの存在は貴重だ。
貴重である反面、僕にとってはとりは厄介極まりない存在でもあるけど。小学生の頃から建視の保護者代わりを務めてきたはとりは、慊人が心の底から求める父性の持ち主だ。
面倒見のいいはとりはおかん属性もあるから、慊人は得られなかった母親の愛情もはとりに求めているんじゃないかと邪推しちゃうよ。父親役も母親役もできるって最強でしょ!
僕の目論見通りに物の怪憑き達が慊人から離れていっても、はとりが残っていたら慊人は「はとりさえいればいい」とか言いそうだ。そんな事を言われた日には、長年蓄積されたマグマのような嫉妬心が爆発する自信がある。
はとりはできるだけ早く新しい女とくっついて、慊人から遠ざかってもらいたい。だけど困った事に、はとりは堅物な上に佳菜ちゃんと別れた心の傷が癒えてないから、女に興味を示してくれない。
親愛なる
はとりには「君の弟をどうこうしようなんて考えない」って言ったけど、あれは嘘。建視は可及的速やかに、慊人から遠ざかってもらいたいんだよね。
盃を用いて酒を酌み交わす杯事は、互いの信頼関係を確認して絆を深める意味合いを持つ。盃の付喪神憑きである建視は、長い年月が経って綻びかけている十二支の“絆”を再構築する役目を担っているかもしれない。
“絆”が綻びかけているとか、“絆”の再構築云々は根拠のない推論だから、誰にも言ってないけど。慊人が同じような事を考えたら面倒な事になる。
残留思念を読む力を持つ建視は、草摩家の権力争いの鍵となる存在でもあるからね。慊人は自分の体を利用してでも、建視を囲い込むかもしれない。そんな胸糞悪い事態は、是が非でも回避しなくちゃ。
それに前回の宴会で建視が慊人に助けを求めた時、慊人から建視を早く遠ざけないとまずいという思いが強くなったんだよね。
気安く助けを求められた経験がない慊人は、「建視が更に馬鹿になった」と愚痴りながらも、ちょっと嬉しそうにしていた。
お気に入りの由希が宴会をサボった事で、慊人にダメージを与えられたと思っていたのにとんだケチがついたよ。
その意趣返しも兼ねて慊人を説得する際、「転校を認めてやる代わりに、由希を宴会に出席させるように仕向けろと建視に要求を突きつけるのは如何です?」って吹き込んでおいたけど。
さてさて、建視はどう出るかな? 透君に頼んで由希を説得してもらうか。それとも、宴会に出席せざるを得ない状況に由希を追い込むか。
どちらを選んだ処で、由希と建視の関係は昔のように……いや、昔とは比べ物にならないほどに冷え込む。
再び冷戦状態になったお気に入りの2人を、慊人は愉悦に浸って眺めるだろうね。
他の男に現を抜かす君は、大事なコトに気付けない。由希と建視の関係が悪化した経緯を知った者達は、不和の種を蒔いた慊人に冷ややかな目を向けるはずだよ。
僕の手のひらの上で踊りながら慊人は無邪気に悪意を振り撒いて、物の怪憑きの仲間に遠巻きにされて孤立すればいい。
慊人が大切にしている紅野もその内排除して、君を心から想う者は僕しかいないのだと思い知らせてやる。
「兄さん、慊人が転校を認めてくれたよ!」
1時間半ほど経った頃、僕とはとりが待機している部屋に建視がやってきた。
満面の笑みを広げる建視が、精神的にも肉体的にも傷ついていない事を確認したはとりは、心から安堵した声で「よかったな」と労う。
僕は愛想笑いをキープしながら、内心で盛大に舌打ちをする。
建視が入ってきた瞬間、上品なフローラル系と官能的なムスクが溶け合ったオリエンタルな香りが漂ったからだ。
これは、慊人が愛用している赤椿の香水だな。僕が
慊人は足首に香水をつけるから、建視が慊人の足に触った可能性が高い。建視が自発的に慊人の足に触るとは思えないから、慊人が触れと命じたんだろう。
男が女の足にボディタッチする時は性的な関係を求めている、という心理学的な意味を知った上で命じたのかどうか知らないけど。
ああ、ホント目障りだなぁ。
「ぐれ兄、慊人が呼んでいるよ」
「はーいはい。ところで、慊人さんを説得した僕にお礼はないの?」
別に建視から感謝の言葉が欲しい訳じゃない。僕を待っている慊人を焦らしてやりたいから、時間を稼ぐために雑談をしようと思っただけだ。
「ディ・モールトグラッツェ」
「そのイタリア語、間違ってない?」
「ジョ○ョ語だから間違ってないよ」
得意げに答える建視を、はとりは困惑気味に見つめている。
「はーさん。早い内にけーくんを矯正しないと、大事な弟がオタクに染まっちゃうよ。もう手遅れな感じがするけど」
「オタクをダークサイドみたいに言うな!」
「そういや、スター○ォーズの新作が今年公開されるんだっけ」
「紫呉、慊人の所へ早く行ってやれ」
僕が時間稼ぎをしていると気付いたのか、はとりが呆れ顔で促してくる。
しょうがないな、行くとしますか。はとり達と別れた僕は廊下をのんびり歩いて、慊人がいる部屋へと向かう。
「紫呉さん、慊人さんがお待ちですよ。お急ぎ下さい」
慊人の世話役のお局が急かしてきた。
僕に会いたいと思っているなら、慊人の方から来ればいいのに。胸の奥にわだかまった苛立ちを紛らわすため、僕は足を止めて手入れが行き届いた庭を眺める。
「これ以上、慊人さんをお待たせしては……」
お局が何か言っているけど聞き流す。
前当主にも仕えたお局は
元はと言えば、このお局が慊人に下らない物を与えたせいで、慊人は実父の亡霊に今も囚われているんだ。
馬鹿げた対抗心に駆られたお局が幼気な慊人を騙した罪に比べれば、お局を苛立たせる程度の嫌がらせは可愛いものだろう。
十数分ほど庭の鑑賞をした僕が目当ての部屋に到着すると、待たされた慊人が叱責を飛ばしてくる。
「遅いぞ、紫呉っ。すぐ僕の所へ来いって、いつも言っているだろ?」
「建視が転校の許可をもらえたと聞いたので、お祝いの言葉をかけていたんですよ」
適当な言い訳をしながら、窓際に座っていた慊人の側に腰を下ろす。
慊人は僕を睨み上げながら、「そんなの後回しにしろ」と文句を言う。
「紫呉は僕の為に生きているんだから、僕を最優先にするのが当然なんだよ」
「……最優先にしているじゃないですか」
僕が薄く笑って答えると、慊人は整った眉を吊り上げて怒りを露にする。
もっと怒り狂って、君の頭の中を占めるのは僕の事だけになればいい。
僕はずっと昔から慊人の事を考えすぎて、頭がおかしくなりそうなんだから。