紫呉と呉慊の人気はやはり根強いですね。
試験が実施される時期が遅いなと思ったけど、
2月28日の日曜。僕は大量の手土産を持って、ぐれ兄の家にお邪魔した。すでに到着していた花島さんは、居間で
花島さんの隣に座る
まさか……いや、深読みし過ぎか。考えを切り替えた僕は手土産を脇に置いて、女子2人に声をかける。
「花島さん、本田さん。試験勉強に取りかかろう」
「あらあら……そんなに急かさなくても……
花島さんが初めて僕を名前で呼んでくれた!! おまけに花島さんは、滅多に見せない微笑みを僕に向けている!! 心の天秤が花島さんとの会話に傾き、僕は即座に「はい、喜んで」と答えた。
「建視……花島さんに乗せられるなよ」
呆れた表情を浮かべた由希の注意を受けて、僕は本来の目的を思い出した。
無表情に戻った花島さんが、「ちっ」と舌打ちをする。柄の悪い態度を取る花島さんも可愛いな。
「じゃあ、数Ⅰから始めようか。このページの問題を解いてみて」
「ご褒美は……?」
「羽二重団子が12串。餡団子は6串で、焼き団子は6串あるよ」
僕の言葉を聞くなり、花島さんは参考書の問題に取り組む。
今日のために僕は和菓子と洋菓子と中華菓子の有名店に前もって注文して、ご褒美のおやつを用意した。店に赴いて商品を買ってきたのは、
「あのっ、由希君。この図形問題の解き方がわからないのですが……」
「これは正弦定理と余弦定理を使うんだよ」
由希が丁寧に説明すると、本田さんは焦げ茶色の瞳を輝かせて「なるほどです……っ」と感心した声を上げた。理想的な家庭教師と生徒の図である。
僕は花島さんが質問してくれるのを待っているのだが、食べ物が懸かると花島さんの脳細胞は活性化するらしく、お呼びの声は一向にかからない。
「ぶぷーっ。けーくんはすっかりメッシー君になっちゃったねぇ」
居間にやってきたぐれ兄に笑われた。
「ぐれ兄、メッシー君って何? ネス湖のネッシーの親戚?」
「未確認水棲獣じゃなくて、女の子に食事をせっせと奢る貢ぐ君の一種だよ。貢ぐ君もバブル期の言葉だから、メッシー君と同じく死語になっちゃったか。おじさん、時代を感じちゃう」
「ぐれ兄は『モゲ太とアリ』を観ないから、時代についていけないんだよ」
「
活字を追いながら恵君が注意してきたので、僕とぐれ兄は大人しく「はい……」と答える。
中学生に窘められるなんて恥ずかしくないのか、と言わんばかりの由希の視線が痛かった。
▼△
「ケン! 16日と17日は学校を休んで、温泉旅行に行こうよ!」
3月14日の夜、遊びに来た
「なんで平日に温泉旅行に行くんだよ」
「ホワイト・デーのプレゼントで、トールを温泉旅行に連れて行くの! 名付けて、ボクとトールのぶらり温泉湯けむり旅情!」
鉄道旅行番組みたいなタイトルだな。それより、16日と17日か。
学校は適当な理由をつけてサボれるけど、16日の放課後は高校の友達とゲーセンに行く約束をしている。友達との約束をキャンセルできない事もないけど、あいつらと学校帰りに遊べるのは残りわずかだから、蔑ろにしたくない。
僕が温泉旅行に参加できないと言ったら、紅葉は「ケンが行けないなら、ユキとキョーを誘おうっと」と言い出した。
「由希と
「でもユキとキョーは、トールやカグラやケンと一緒にお出かけしたんでしょ? トールが温泉に行くなら2人も行くって言うよ!」
「どうかなぁ。夾は由希が行くなら絶対に行かないって言いそうだけど」
それに夾はテンションが高い紅葉を苦手に感じている。夾が同行する可能性は限りなく低いだろう、と思っていたのだが。
『ユキとキョーもぶらり温泉湯けむり旅情に参加するよ! シーちゃんは仕事があって行けないけど(ToT)』
16日の午前9時頃に紅葉から送られてきたメールには続けて、『トールと一緒に温泉に入って、一緒に寝るんだ』と記されていた。
「はぁっ!?」
驚きすぎて、僕は教室で大声を上げてしまった。
今は休み時間だから先生に注意される事はなかったけど、近くにいたクラスメイトに「何かあったのか?」と聞かれた。
「……僕の1つ年下の従弟が、小学生に見える容姿を利用して女湯に入ろうと目論んでいる」
「マジか。うらやま……いや、けしからん!」
全くだ。紅葉は「トールはMutti(ママ)みたい」とか言っていたから、母親に甘える感覚なんだろうけど、アカンだろ色々!
だが残念だったな、紅葉よ。由希もしくは夾が紅葉の年齢を本田さんに教えれば、彼女は紅葉と一緒に温泉に入らないぞ。
……いや、待てよ。
誰かが本田さんに紅葉の年齢を教えているだろうと、由希と夾が思い込んでいたら。旅館に到着した由希と夾が自分に宛がわれた部屋に引きこもって、紅葉が本田さんを誘って一緒に温泉に入ろうとしている事に気付かなかったら。
不安に駆られた僕は返信のメールで、『紅葉の年齢を今すぐ本田さんに教えるべきだ。そうしないと本田さんに嫌われるかもしれないぞ』と忠告する。
そしたら紅葉は、『トールはボクをキライにならないもんね/(≧ x ≦)\』と反論してきた。
開き直りとはイイ根性をしているじゃねぇか。本田さんに忠告するためにぐれ兄の家に電話をかけたら、ぐれ兄の担当編集さんが電話に出た。
『先生……いえ、草摩紫呉はただいま〆切を2つ抱えているため、手が離せません。お差し支えなければ、私が用件を承ります』
「ぐれ兄に用はありません。ぐれ兄の家に同居している本田透さんに代わってください」
『先生のイトコさん達は、30分ほど前にお出掛けになりましたよ』
「そうですか……失礼します」
電話を切ってから僕は、「やられた……!」と呻いた。
僕が本田さんに紅葉の実年齢を教えるのを回避するため、紅葉は出発した後にメールを送ってきたのだろう。
こうなったら、温泉宿の従業員に本田さんへの伝言を託した方が良いだろう。紅葉は
僕は
『すっ、すみません。草摩温泉が1998年度人気温泉旅館ホテル250選の上位に入らなかった事が、
「そんな事ないよ。慊人は草摩温泉に関する不満は一言も言っt」
『ごめんなさい、ごめんなさいぃ! 両親は私を次期経営者にするための教育計画を練っているので、従業員への指示が行き届かなかったのかもしれません。草摩温泉の評判を落とした元凶はこの私! 諸悪の根源はこの私! 草摩温泉にご不満がおありでしたら、私にクレームを申し立てて下さい! もーうーしーたーてーてーくーだーさーいー!』
利津兄は電話の向こうにいるから、脇プッシュして黙らせる事ができない。申憑きの従兄が息切れした隙を狙って宥めの言葉をかけ、どうにかこうにか草摩温泉の電話番号を聞き出す事に成功。
利津兄との通話を終えてから数分後、僕の携帯電話から着信音が鳴り響いた。携帯の画面を見ると、草摩温泉の電話番号が表示されている。何やら不吉な予感がするけど、放置する訳にはいかないので通話ボタンを押す。
『正月以来ですね……建ぼっちゃん……』
ヒュードロドロという幽霊の効果音が似合いそうな弱々しい声の主は、女将さんもとい利津兄の母親の
葉月おばさんは病弱だから、温泉旅館の女将の仕事は代わりの者がしているらしい。それでも物の怪憑きの多くが「女将さん」と呼ぶから、僕も皆に倣っている。
芸人気質の紅葉は日本語に疎い外国人の振りをして、「メショーさん」と呼んでいるけど。
「お久しぶりです、女将さん」
『先程、利津からメールで連絡を受けました……建ぼっちゃんは、草摩温泉の従業員に頼みたい事があるそうですね……?』
「はい。紅葉達と一緒に宿泊する本田透さんに、『紅葉は
『承りました……ところで建ぼっちゃんは、透さんに会った事はありますか……?』
僕が「ありますよ」と答えると、女将さんは少し間を置いてから質問を投げかける。
『透さんはどのような方かしら……? 本家の人達の噂話を、鵜呑みにしてはいけないと解っているのですが……どうしても不安で……』
草摩の「中」の人達はぐれ兄の家に同居する本田さんの事を、どこの馬の骨とも判らぬ輩とか、ふしだらな小娘とか散々に罵倒している。
女将さんは他者の悪口が好きなタイプじゃないから、本田さんを批判する材料を求めている訳じゃないだろう。
本田さんを色眼鏡で見ないために、彼女に会った事がある僕の意見を聞いておこうと考えたのかもしれない。
「本田さんは他人の気持ちを思いやれる人ですよ。それに本田さんは物の怪憑きに対して、恐怖や嫌悪感を抱いているように見えなかったです」
『まあ……透さんは優しい子なのですね……』
「ええ、とっても。本田さんが利津兄に会えば仲良くなr」
『ごめんなさいぃぃぃ! 草摩の「中」の人達に駄目な子だと批判されるような息子でございますが、私にとっては大切な根は優しいたった1人の息子でございまして! 代わりに私が謝ります! 世界中に謝りますわぁぁぁぁあ!! ごーめーんーなーさーいー!』
女将さんは長期の温泉療養を必要とするほど病弱なのに、何でこんな大声を出せるんだろう。前々から疑わしかったけど、やっぱり仮病を使っているのか。
権謀術数渦巻く草摩の本家から距離を置くために病弱な振りをしているのだとしたら、女将さんは中々の策士だな。
「はぁっ!?」
その翌朝。紅葉から送られてきたメールを見て、僕はまたもや驚愕の声を上げる。
メールには『トールと一緒に温泉に入れなかったけど、トールやメショーさんと一緒に寝たよ!』と、報告する文が綴られていた。
幾ら見た目は小学生とはいえ、1つ年下の男である紅葉と同じ部屋で寝る事に、本田さんは抵抗感を示さなかったのか?
……紅葉が泣き落としを行使して、本田さんが折れたのかもしれない。女将さんが見張り役になってくれたようだから、妙な事にはなっていないだろう。
授業が終わって帰宅した後、本田さんにバレンタインのお返しを渡すべく、僕は春と連れ立ってぐれ兄の家へと向かった。
兄さんは急増する花粉症患者の対応に追われているため、兄さんが用意した本田さんへのお返しの配達も頼まれている。
ちなみに兄さんはお返しに、猫を模ったクッキーの詰め合わせを選んだらしい。なんで猫にしたのか兄さんに聞いたら、「本田君は猫年のファンだと紅葉から聞いた」と答えが返ってきた。
猫年のファンっているんだ……。
夾が好きなのかと思ったけど、本田さんはそんな素振りを見せなかったからな。純粋に動物としての猫が好きなのか、もしくは判官贔屓のような感覚で十二支に入れなかった猫を支持しているのかもしれない。
「春はどういうお返しを用意したんだ?」
「俺が作ったカチューシャ……」
手先が器用な春は、自分でデザインして作ったアクセサリーを身に着けている。タランチュラの飾りがついたネックレスとか、スカルリングとか。
ヴィジュアル系のファッションが好きな女の子なら、春が自作したアクセサリーを喜んで受け取りそうだけど。
「髑髏や十字架が飾られたカチューシャは、本田さんに似合わないと思うぞ」
「飾りのないシンプルなものにしたよ。建視こそ本田さんへのお返しに、モゲ太のぬいぐるみとか選んでないよね……?」
お返しをモゲ太のぬいぐるみにしようか迷ったけど、自分の趣味を押しつけるプレゼントは迷惑がられると兄さんに諭されたから、女子高生に人気があるブランドのパスケースにしたよ。
ぶらり温泉湯けむり旅情に赴いた一行はまだ帰ってきていないらしく、ぐれ兄の家には
「僕からのお返し、どう思う? これを着た透君に『ご主人さま』とか言われた日にゃ、おじさんドッキドキ」
居間に飾られていたスカート丈の短いメイド服を指し示しながら、ぐれ兄は犯罪臭のするニヤけ面でそう言った。
春は「捕まんない程度にしておきなよ……?」と言ったけど、これはアウトだろう。僕が携帯電話を取り出して操作すると、公序良俗に反する27歳の男が呼びかけてくる。
「ちょっと、けーくん。どこに電話しようとしているの?」
「恵君の携帯に」
「やだな、怖いな、やめよう!? メイド服はただのネタだって」
ぐれ兄が用意したネタじゃないお返しは、フリルがついたエプロンだった。
いやらしさが感じられるデザインじゃなかったけど、ぐれ兄が選んだというだけで卑猥に見えてしまう。進級祝いとして、本田さんにエプロンを贈った方がいいかもしれない。
女将さんの名前は独自設定です。