入学式の朝。兄さんに見送られて家を後にした僕は、
切妻造の瓦屋根を戴く厳めしい棟門が見えてきた。正面玄関の前に待機していた送迎車の側に立つ金髪の少年は、
あれ……? 僕ってば、寝ぼけているのかな。紅葉が女子用の制服を着ているように見える。
「ケン! Guten Morgen!(おはよう!)」
僕が寝ぼけている訳でも、目の錯覚でもなかった。紅葉は青いセーラー服を着て、下は紺色のショートパンツを穿いている。
他にもセーラー帽子とかピアスとかウサギ型のリュックサックとか、校則違反に問われそうな点は幾つかあったけど、制服に比べれば些細な問題だ。
「おはよう。紅葉、その格好は……」
「似合うでしょ!」
着替えてこいと言いたいけど、紅葉は男子用の制服を用意していないかもしれない。それに紅葉が男子用の制服を着ると、外見の幼さが悪い意味で強調されそうだ。
早々に説得を諦めた僕は、「コワイくらい似合っているよ」と答えた。
「あっ! ハルが来たよっ」
こちらに歩いてくる春はノーネクタイで、シャツは第3ボタンまで開けていた。ネックレスを3つも重ね着けして、ピアスは派手じゃない物を6つ付けて、ブレスレットと指輪を嵌めている。
アクセサリーをつけるなと窘めるべきだろうけど、紅葉の制服を見逃したのに春だけ注意するのは不公平だ。
「ハル、Guten Morgen!」
「おはよーさん」
「おは……」
3名の物の怪憑きを乗せた送迎車は、静かに動き出す。
ハイテンションの紅葉が甲高い声で喋りっぱなしなのに、その隣で熟睡できる春は音を取捨選択する耳のフィルター能力が高いのだろう。
「紅葉。高校生活が楽しみなのは解るけど、あまりはしゃぐなよ」
「ダイジョーブ! 女の子に激突したりしないよっ」
僕が釘を刺すと、紅葉は得意げに胸を張って答えた。騒動が起きるフラグを立ててしまったような気がした。
入学式に出席するため、僕は2‐Dのクラスメイトと共に体育館へと向かう。
クラスメイトの集団の中に、
そんな事を考えつつ、僕は移動の途中で
「綾兄が今日、
「は? まさかアイツも女子高生目当てか……」
眉を顰めた由希は吐き捨てるように言った。同じ予想をした僕は苦笑しながら、「そうじゃなくて」と否定する。
「正月は由希に会えなかったから、様子を見に来るらしいよ」
「……今更」
酷く冷めた表情になった由希は、低い声で呟いた。
綾兄は今まで、自分の弟を気にかける素振りすら見せなかったからな。これに関しては、綾兄だけに問題があるとは言えないけど。
由希の両親は、草摩家の中での自分達の地位を確固たるものにするため、幼い
長男の綾兄だけが、親に大切にされていた訳じゃない。
そんな両親の我が子に対する無関心が綾兄に影響を与えて、弟への無頓着に繋がったんじゃないかと思う。
僕は第三者だから綾兄に理解を示せるけど、家族に蔑ろにされた由希は理解なんかしたくないだろうな。
体育館に到着した僕は保護者席を見渡す。兄さんとぐれ兄と綾兄は、すぐに見つかった。
高校生の保護者にしては若くて容姿が非常に整った3人は、周囲にいる女性の保護者の視線を集めまくっていた。
グレーのスリーピース・スーツを着こなす兄さんは、ネイビーのネクタイをきっちり締めている。兄さんは体育館に入った僕に気付くと、軽く手を振ってくれた。
ダークスーツを着たぐれ兄は、黒灰色の髪をざっくりと後ろに撫で付けている。周囲の熱い視線に愛想笑いで応える様は、やり手ホストそのもの。体育館に入ってくる女子高生を真剣な顔で品定めする様は、変態そのものだけどな。
巳憑き故に寒さに弱い綾兄は、ヒョウ柄のファーコートを着込んでいた。腰の下まで伸ばした白銀の髪と長い睫毛に縁取られた黄色の瞳も相俟って、舞台から抜け出してきたような強烈な存在感を放っている。
「やぁ、由希っ! 元気にしていたかいっ?」
綾兄が立ち上がって低い美声を響かせた。
体育館にいた在校生たちは、「由希君のお兄さん!?」とざわつく。当の由希は実兄を無視して、在校生の席に向かっている。
由希の反応を見れば拒絶されたと察するはずだけど、超マイペースな綾兄は自分の声が由希に届かなかったと解釈したらしい。先程より大きな声で「ゆーきー!!」と叫びながら、手をブンブン振っている。
「おい、由希。綾兄が呼んでいるぞ」
「あんな奴は知らない」
氷のような無表情で答えた由希は、取り付く島もない。綾兄は由希と交流を図ろうとしているけど、兄弟間の溝を埋めるのは困難を極めそうだ。
在校生が着席した後、新1年生が整列して体育館に入ってきた。春と紅葉が入場すると、会場がどよめきに包まれる。
「あの2人、なんて格好をしているんだ……」
僕の隣の席に座る由希が、頭を抱えた。
「先生に注意されなかったみたいだから良いじゃないか」
注意されても聞き流したかもしれないけど、という本音は飲み込んだ。顔を上げた由希が、咎めるような視線を僕に送ってくる。
「……
「知っていたというか、2人と一緒に登校したけどそれが何か?」
「なんで服装を改めさせなかったんだ!」
「口煩く注意したら紅葉は泣くし、春はブラックになるかもしれないだろ」
僕が理由を述べると、由希は溜息を吐いた。時には諦めも必要だと悟ったようだ。
入学式が終わって新1年生が退場する。
次いで在校生が教室に戻る時、綾兄が再び声を張り上げて由希を呼んだ。聞こえない振りを貫く由希は、体育館から足早に立ち去る。
兄さんが手招きしてきたので、僕は保護者席に向かった。由希に無視された綾兄は気落ちした素振りを見せず、にこやかに挨拶してくる。
「久しぶりだね、ケンシロウっ!」
「てめぇに会うために地獄の底から這い戻ったぜ!」
「おまえは北斗神拳の伝承者であることを忘れてはならぬ!」
ノリのいい綾兄はトキの台詞で応じてくれた。
嘆息した兄さんが、「2人して人前でバカを晒すな」とツッコミを入れる。
「本題に入るぞ。慊人が自分も海原高校に行くと言い出した。今回は熱を出していなかったから、ドクターストップはかけられなかった」
兄さんの報せを聞いて、僕は思わず息を吞む。
「慊人は今どこに……?」
「遅れて出発したから、学校にまだ到着していないはずだ。由希達にも教えてやってくれ。特に由希は慊人に会いたくないだろう」
「頼んだよ、ケンシロウ」
綾兄は真剣な表情で請うてきた。こういう面を由希に見せればいいと思う。
兄さん達と別れた僕は2‐Dの教室に戻った。慊人が高校に来る事を知らせようとしたのだが、由希と夾の姿が見当たらない。2人はどこ行った?
「きょんなら透と一緒に、1年の草摩を呼びに行ったぜ」
夾の行方は、魚谷さんが。
「由希は入学式の運営委員だから、見回りの仕事があるんじゃない?」
由希の行方は、
ふむ。学校に不慣れな1年生の教室を中心に、見回っているのかな? 紅葉と春にも慊人の来訪を教えなきゃいけないから、1年生の教室に行くとするか。
あ、紅葉と春が在籍するクラスがどこにあるか解らないや。誰かに聞けばいっか。
そう考えて2‐Dの教室から出てテクテク歩いていたら、廊下を並んで歩く夾と
「本田さんと夾が2人でいるなんて珍しいね」
夾は僕を見るなり「げっ」と言ったが、本田さんは顔をぱっと輝かせる。
「私と夾君はこれから、紅葉君と
「うん、行く。1年生の教室がどこにあるのか知りたかったんだ」
夾が嫌そうな顔をしたので、僕はニヤリと笑いながら「(デートの)邪魔してごめんね」と付け加える。
言外に含めた言葉を察したのか、夾は顔を真っ赤にしながら「ふざけた事言ってんじゃねぇ!」と怒鳴った。
「くそっ……春と紅葉はどのクラスにいるんだ?」
「はっ……聞き忘れてしまいました」
「クラスぐらい聞いとけよ」
「入学式で1年生と話す機会はなかったから、本田さんが紅葉達からクラスを聞き出すのは無理だよ」
ちなみに僕は、校門近くの掲示板に貼り出された1年生のクラス表を見て、従弟達のクラスを把握した。紅葉と春は1‐Dに在籍していると、本田さんと夾に教える。
「では、紅葉君と潑春さんを呼んでまいりますね」
本田さんが離れた今の内に、慊人が来る事を夾に伝えておくか。いや、待てよ。慊人の話題を出すと、夾が機嫌を損ねて立ち去るかもしれない。
挨拶を済ませてからにしようと思い直した時、紅葉と春と本田さんがやってきた。
「Hallo!(やあ!)」
「ちは……」
オレンジ色の目を見開いた夾は、いきなり紅葉を殴りつけて「バカかー!!」と大声で叫んだ。
「よりにもよって女の制服を着るバカがいるか! 気色悪りィっ!」
「きょっ、夾君、落ち着いてください……っ」
「殴ることないだろ」
僕が紅葉の肩を持つと、春も加勢する。
「いいんじゃない。似合っているなら」
「似合っているよね!」
殴られて泣いていた紅葉は一瞬で笑顔になった。切り替えの早さは子役並みだ。
と、その時。唐突に両腕を広げた春が、こちらにやってくる由希に向かって歩いていく。由希を捜す手間が省けたな。
「由希君、お仕事は終わりましたか?」
「ううん、まだ……見回りついでに様子を見に来たんだ」
紅葉が笑いながら「大変ねっ」と言った。
嘆息した由希は紅葉の制服を見遣って、「そう思うなら仕事増やすような真似するなよ?」と釘を刺す。
「きーて、きーてっ。ボクね、学校でね、はしゃぐなって言われているのっ。だから学校ではクールに過ごすのーっ」
「クールか!? そのカッコはクールなのか!?」
「その通りだ、2年D組の草摩夾君!! そのオレンジ頭も不愉快だが、男子たる者が女子の制服を着用するなど空前絶後!! 厚顔無恥!! 教師が許しても私は許さん!!」
近づいてきた黒縁眼鏡をかけた男子生徒が、「なぜならば!!」と大声を発する。
「私こそがこの学校の生徒会長、
竹井誠と名乗った男子生徒の後ろにいた、眼鏡をかけた女子生徒2名が拍手をする。何だ、この茶番劇は。
春は「バカがまた増えた……」と、辛辣かつ的確な発言をした。
「まったく入学早々問題児ばかりだな!! 草摩潑春君は白髪ではないかっ!! 装飾品までジャラジャラつけおって、傍若無人め!! 転校生の草摩建視君は髪を真っ赤に染めた上、カラーコンタクトをつけるとは軽薄極まりないっ!!」
「会長……彼らの髪と瞳の色は生まれつきです」
「おぉ、由希くぅん!! 御機嫌麗しゅう!!」
仔猫を愛でるような甘ったるい声で挨拶した竹井会長は、頬を赤らめている。
竹井会長は由希のファンなのか。いざとなったら、中学生時代の由希の写真を渡すから見逃してほしいと取引を持ちかけよう。
「それはともかく生まれつき!? 信じられんな!!」
僕はスラックスのポケットに入れて持ち歩いていた、証明書を差し出す。それに目を通した竹井会長は納得してみせたが、春の髪は地毛だと証明できるのかと迫ってくる。
残念な事に、春は地毛の証明書を持ってきていなかった。
「確たる証拠をお望みでしたら、春と一緒にトイレに行けば解りますよ」
埒が明かないと思った僕は、解決策を提案した。
竹井会長は顔を引きつらせて、「アレを見せるつもりかい? 言い逃れはできないぞ!!」などと言ってから、春と共に男子トイレに向かう。
「あの……お手洗いの中で、どうやって地毛である事を証明するのですか?」
本田さんの質問はあまりにも無垢で、僕は困惑した。幼い子供に「赤ちゃんはどうやって生まれてくるの?」と聞かれた親は、こんな心境になるのだろうか。
「男子トイレの鏡には、真実を見抜く不思議な力が宿っているんだ。鏡に向かって『鏡よ、鏡よ、鏡さん。私の髪は地毛です』と言うと、それが偽りでなければ鏡にマル印が浮かぶんだよ」
僕が苦し紛れの説明をすると、本田さんは驚きで目を見開く。
「トイレの鏡さんに、そんな力があるなんて知りませんでした……」
「本田さん、建視の話は大嘘だから信じないで」
「おい、建視っ。人を疑う事を知らねぇような奴を騙すなよ」
「本田さんに下ネタを振るよりマシだろ」
そんなやり取りをしていたら、春と竹井会長がトイレから出てきた。
驚愕の表情を浮かべた竹井会長は眼鏡を外して、「見事な証拠だ……世の中、まだまだ知らない事でいっぱいだな……」と呟いた。
これで引き下がるかと思いきや。眼鏡をかけ直した竹井会長は、紅葉に矛先を向ける。
「だが、草摩紅葉君の格好は釈明できまい!! 君は男としてのプライドはないのかい!? 今からそんな事では、君の人生は失敗街道まっしぐらだな!!」
紅葉の事情を知らないくせに、偉そうに好き放題言いやがって。僕が抱いた不快感は、茶色の目に涙を溜めた紅葉を見て更に増大した。
芯が強い紅葉は本気で泣いている訳じゃなさそうだけど、傷ついたのは確かだろう。
「竹井会長、いくら何でも言い過ぎではありませんか?」
「身内だからといって甘やかすのは感心しないぞ、草摩建視君!! 私は常識に則った当たり前の意見を問うているのだ!!」
「うるせぇ……」
凶悪な目付きになった春が低い声を発する。あーあ、ブラック春が降臨しちゃったよ。
「お山の大将気取ってんなよ。耳障りなんだよ、クソ野郎っ。何様のつもりだ、てめぇ。神様か!? あ!!? そりゃすげえや。なんとか言えよ、神様!!」
ブラック春は「鳴け、オラ!!」と叫びながら、竹井会長の胸倉を掴み上げて激しく揺さぶった。
「おいっ。やめとけよ、素人相手に……」
「うっせぇ、バカ猫。横槍入れんな、バカ猫!!」
「バカって言うなっ。殴るぞ、クソガキャァ!!」
怒った夾はブラック春と口喧嘩を始めた。廊下での騒ぎを聞きつけて、好奇心の強い新1年生が集まりつつあるな。チャンスだ。
「紅葉の制服より、竹井会長の発言の方が問題でしょう! 『男としてのプライドがない』とか『人生失敗街道まっしぐら』とか、散々に罵倒されて心に深い傷を負った紅葉が登校拒否になったら、どう責任を取ってくれるんですか!? 生徒会長の権力を笠に着て、入学したばかりの新入生を個人攻撃するなんて、横暴の謗りは免れませんよ!」
後輩達に言い聞かせるように、僕はここぞとばかりに声を響かせた。
ちなみに竹井会長に罵倒された紅葉は、話に飽きて棒付きキャンディを舐めているけど、傷ついたが故に現実逃避しているという事にしておこう。
僕の追及を受けた竹井会長は「うぐっ」と言葉に詰まり、新1年生が続々と非難の声を上げる。
「あの生徒会長、そんな酷い事言ったの? 信じられない……」
「紅葉君をいじめるなんてサイテー」
「会長は紅葉君に謝れ!」
「生徒会長の横暴を許すな!」
「リコールを請求するぞ!」
リコールまで出るとは思わなかった。でもまぁ、さっきのやり取りを聞いていれば、竹井会長は問題有りだとすぐ解るからな。
「……確かに言い過ぎた。それは認めよう。だが!! リコールを申し立てするなら、全校集会で受けて立つぞォ!!」
たじろいだ竹井会長は捨て台詞を残して、取り巻きの眼鏡女子と共に戦略的撤退を選んだ。
「喧嘩吹っかけといて逃げんのか、腰抜けがァ!」
「喧嘩を吹っかけたのは春だろ」
由希はツッコミを入れながら、ブラック春の頭に手刀でチョップを入れる。
ホワイトに戻った春はチョップされた所を擦りながら、「なんか疲れちゃった……」とぼやく。
由希と夾が2人揃って疲れたように肩を落とした時、チャイムが鳴った。
「紅葉君、潑春さん。帰りにでも私のお友達に会っていただけませんか!?」
「トールの友達!? うんっ、もちろんいいよっ」
「んー……」
本田さんは嬉しそうな笑みを広げて、「ありがとうございますっ」と礼を言った。話がひと段落したようなので、僕は用件を持ちかける。
「草摩家の野郎どもに業務連絡があるので、残ってくらはい」
「それでは、私は先に戻っていますねっ」
「本田さん、気を使わせてごめんね」
僕が謝ると、本田さんは慌てたように両手を振って「お気になさらないで下さい」と答えた。
「業務連絡ってなんだよ。下らねぇ事ならシバくぞ?」
本田さんがその場から離れた後、怪訝そうな顔をした夾が訊ねてきた。僕はできるだけ何気ない口調で切り出す。
「さっき、入学式の会場で兄さんから聞いたんだ。慊人が自分も海原高校に行くって、急に言い出したんだって。慊人は遅れて学校に着くらしいよ」
慊人の名前が出た瞬間、由希の表情が暗くなった。無言で立ち去った由希の背中を、春と紅葉は心配そうに見送る。
夾は由希を案じているようには見えなかったけど、何やら考え込んでいるみたいだった。
「それじゃ、後でね」
紅葉と春に手を振ってから、僕は距離を置いて由希を追いかける。尾行をする必要はないと思うけど、綾兄に頼まれたから放っておく訳にはいかない。
2階の渡り廊下を歩いていた由希は視線を窓の外に向けるなり、全速力で走りだす。何だと思って窓を見遣ると、校舎と校舎をつなぐ1階の外通路に2人の人影が見えた。
青いセーラー服を着た女子生徒は、髪型と背格好から判断するに本田さんだろう。本田さんと向き合って話す、黒いタートルネックのカットソーと黒のズボンを細身に纏う人物は慊人だ。
まずいぞ、こりゃ。
渡り廊下を全力疾走した僕は、階段を一気に飛び降りて急行する。外通路に一足早く到着していた由希が、慊人と対面していた。
「会いたかった、由希! なんだかもう、長い間会ってなかった気がするよっ」
上機嫌な慊人の所に小走りで向かった僕は、慊人の側に控えるように立った。
由希は敵を見るような目で、僕を睨んでくる。沸点の低い慊人の暴走を止めるためだよ、察しろ。
「何をしてたの……本田さんに何をしたのっ」
「別に……挨拶していただけだよ? ねぇ、透さんっ。挨拶していただけだよねぇ!?」
「え、あっ、はいっ」
慊人に強い口調で問いかけられた本田さんは、驚いてかビクッとした。
「ねぇ、由希。そんな事より僕は君に、どうしても聞きたい事があるんだ」
眼差しを鋭くした慊人は由希の頬に触れながら、「どうしてお正月、サボったりしたの?」と訊ねる。
「どうしてそういう事するの? 最近の僕って結構寛大になったのに、そういう事されるとすっごく傷つくなぁ。もう一度、教育しなおすしかないかなぁ」
由希の表情が恐怖に染まる。
僕は「慊人」と呼びかけて、制止しようとしたのだが。煩わしげに眉を寄せた慊人に「建視は黙れ」と命じられて、口出しを禁じられた。
慊人は内緒話をするような囁き声で、由希に語りかける。
「君専用のあの部屋で、もう1度、1日中、君の人となりを教えなおすしかないのかなぁ」
「……っ」
精神的に追い詰められた由希は、脂汗を浮かべている。
携帯電話で兄さんに救援を求めるべきかと考えたその時、本田さんが両腕を前に突き出しながら駆け寄ってきた。
慊人を突き飛ばそうとしているのか。それを悟るなり、僕は慊人の細い腰を抱いて引き寄せる。
両手の行き場を失った本田さんは、つんのめって転んでしまう。
「たぅあ!」
「本田さん、だ……っ」
僕は大丈夫かと問いかける言葉を飲み込んだ。このタイミングで本田さんを気にかけると、慊人が機嫌を損ねる。
本田さんが立ち上がるために手を貸す事もできない。忸怩たる思いを抱えているのは、棒立ちしている由希も同じだろう。
「そろそろ教室に戻らないと……その、怒られますので……」
「そっか……ごめんね。僕もそろそろ
僕に寄りかかっていた慊人は、「由希、それから建視も」と呼びかける。
「楽しい高校生活を過ごすといい。……由希は近いうち、会いに来てくれると嬉しいな」
冷たい笑みを由希に投げかけて、慊人は立ち去った。
慊人の後ろ姿が小さくなった頃合いを見計らって、僕は本田さんに向き合う。
「本田さん、ごめん。僕が慊人を引き寄せたせいで、転ばせてしまって……」
「建視さんは悪くないですよ。私はドジなのでよく転ぶのですっ」
重たい空気を変えようとしてくれているのか、本田さんは明るく答えた。
由希は震える手を見つめている。声も出ないほど怯えてしまったのかと思ったが、由希はどうにか自分を立て直したようだ。
本田さん、と由希は小声で呼びかける。
「慊人……本当に本田さんに何か……変な事言ったりしなかった?」
「はい!」
「そう……」
自身の二の腕を掴んだ由希は、弱々しい微笑みを浮かべた。
「由希君、建視さん、遊びましょう!」
唐突に本田さんが提案してきた。
僕と由希は面食らって、「え?」と間抜けな声を発してしまう。
「今日も早く学校が終わりますので、一緒に遊びましょうとうおちゃん達と話していたのですっ。せっかくですから、皆さんもご一緒に遊びましょう!」
本田さんは由希が沈んでいる事を察して、気分転換を持ちかけてくれたようだ。
2‐Dの教室に戻りながら、僕は本田さんにお礼を言った。
キョトンとした本田さんは合点がいった表情になって、「こちらこそ、ありがとうございます」と感謝を述べる。
お礼を言われるような事はしてないけど。僕が首を傾げると、本田さんは穏やかに微笑む。
「私が後先考えずに慊人さんを突き飛ばしてしまったら、慊人さんのお怒りを買ってしまうと予測して防いでくださったのですよね? 建視さんのおかげで助かりました……っ」
僕のとっさの行動には、本田さんが見抜いた通りの意味合いもあったけど。慊人を害そうとする者から守れ、と訴えた盃の付喪神に突き動かされた結果でもある。
力なく笑った僕を、本田さんは気遣わしげに見上げた。
そして放課後。本田さんと
「グーとパーで、わっかれーまショ!」
本田さんと魚谷さんと紅葉と由希のチーム、僕と花島さんと春と夾のチームに分かれた。
ルールはどうするのという由希の疑問に、ラケットを構えた花島さんが答える。
「バドミントンにルールは不要よ……力の限りぶちかまし、力の限りぶち返す……あえて言うならば、最初に倒れた者が負けって事ね……」
「それいい。わかりやすい」
真っ先に春が賛成した。夾はバトルロイヤル形式が好きそうなのに、「わかりやすすぎだっ」と律儀にツッコミを入れている。
それぞれのコートではなく陣地に入ったところで、向こう側にいる魚谷さんがラケットで夾を指し示す。
「行くぞ、王子! あのオレンジ、いてこますぞ!」
「ンだと、ヤンキーっ」
夾はさっきまでやる気なさそうだったのに、前屈みになってラケットを構えて臨戦態勢に入った。魚谷さんの煽り能力が高いのか。夾が挑発に乗りやすいのか。
バトルロイヤル形式のバドミントンを日が暮れるまで続けた結果、花島さんが1人勝ちした。
「また明日ね、透君……」
「な……なんで花島1人……バテてないんだ……っ」
夾は肩で息をしながら疑問を呈した。
身体能力や体力がずば抜けている由希と夾と春でさえ座り込んでいるのに、帰り支度をした花島さんは少しも疲れた様子が見受けられない。
花島さんが息を乱す瞬間を待t……ゲフンゲフン、花島さんのプレイスタイルを逐一見ていた僕が、息切れしながら答える。
「せ、説明しよう……っ! 花島さんは殆ど動かず……ぜぇ……自分の処に飛んできたシャトルを打ち返す偉業を……ぜぇ……達成したのだ……っ」
「はぁ……要するに手抜きしたって事か」
「ふぅ、解ってないな、夾は。花島さんは最小限の動きで、勝利を収める境地に至ったんだよ」
夾と僕が呼吸を整えながら言い合っている間、春は本田さんに話しかけている。
「心配だったけど大丈夫そうだな、由希。……ありがと」
慊人と由希がエンカウントした事は春達に報告していないのだが、春は由希の様子を見て察したようだ。
「じゃあ、帰ろうか俺達も、家に」
本田さんに話しかける由希を見て、僕は呆気にとられた。あんな風に柔らかく笑う由希なんて初めて見たぞ。
慊人とエンカウントした事によって、由希が昔に逆戻りするんじゃないかという心配は杞憂に終わりそうだけど。由希の変化を慊人が知ったら面白く思わないだろうなという、新たな気掛かりが生まれた。