別荘に向かう当日の朝。僕は薄いピンクのシャツとワインレッドのニットベスト、それにグレーのジーンズという組み合わせの装いにした。
湖畔にある別荘は外に出たら肌寒く感じるかもしれないので、ジャケットも持っていこう。
「用意はできたか?」
声をかけてきた兄さんは、チャコールグレーのシングルスーツを着て、ダークグリーンのネクタイをきっちりと締めていた。
遊び心を取り入れたカジュアルスーツならまだいいけど、兄さんが着用しているのはかっちりした仕様のビジネススーツだ。
おまけに兄さんは実用性を重視したビジネスバッグを持っているから、出張に赴くサラリーマンにしか見えない。
……日頃のハードワークのしわ寄せが、こんな所にも……っ!
それに加えて兄さんは休日も
慊人は兄さんがラフな服装で診察しても文句を言わないだろうけど、慊人の世話役は「草摩の主治医なのにだらしない」とか言うんだよな。
「兄さん。その格好は仕事中みたいだから、僕が兄さんの誕生日にプレゼントした服を着なよ」
「……
兄さんはそう言いながら、上着を脱いでネクタイを外した。それでもラフな格好とは言い難いけど、譲歩してくれた兄さんにこれ以上ダメ出しするのは良くないな。
僕が贈った服が押し入れの肥やしになっていた事は、ちょっと悲しかったけどね!
兄さんは運転免許を持っているけど、6人以上が乗れるミニバンは所有していない。
どうやって別荘に行くんだろうと思っていたら、ぐれ兄が貸し切りのサロンバスを手配したらしい。
前の方は普通のバスと同じ座席の並びだけど、後ろの座席はテーブルを囲むようにコの字型に配置されている。バスの天井にはシャンデリアが輝き、テレビやカラオケ機器や小型冷蔵庫もあった。
「カラオケがあるけど、兄さん歌う?」
「俺は歌わん」
即答した兄さんは、進行方向に対して横向きの席の1つに腰掛けた。僕は……そうだな、最後列の席に座ろうっと。
走り出したバスはぐれ兄の家へと向かう。
真っ先にバスに乗り込んできたぐれ兄は黒の着流し姿だ。手に持っているのは扇子1つのみ。バスから降りて待機していたドライバーさんに、荷物を預けたのだろう。
「けーくん、久しぶり。はーさんは昨日ぶりだね。今日も晴れてよかったよ。僕の日頃の行いが良いおかげかなぁ」
「ぐれ兄、立ったまま寝ているのか?」
「
「
兄さんに促されたぐれ兄は、兄さんの対面側の席に腰掛けた。
車内に入ってきた本田さんはツインテールにした髪にリボンを飾り、エレガントなプリーツワンピースを着ている。
「はとりさん、建視さん、こんにちはっ」
「やっほー、本田さん」
「久しぶりだな」
「透君、僕の隣に座りなよ」
「家主の権力を振りかざして、隣に座るように強要するのはセクハラじゃない?」
「やだねぇ。けーくんみたいに、細かい事をネチネチ言う男はモテないよ。そんなだから
「うわーっ! 解った、譲歩しようじゃないか。僕がぐれ兄の隣に座るから、本田さんはここに座って」
僕は立ち上がって、自分が座っていた席を本田さんに勧めた。
苦虫を噛み潰したような顔になったぐれ兄は、「譲歩じゃなくて嫌がらせだよ」と抗議したけど無視する。
ぐれ兄と隣り合って座るのは嫌なので、僕は1つ席を開けた所に座った。
中華風のシャツを着た
由希と夾は嫌悪する相手から離れた席に座るために、どちらかが後部座席に来るだろうと思っていたんだけど。2人揃って、本田さんに背を向ける席を選んだ事も意外だ。
本田さんは前列の由希と夾を、心配そうに見遣っている。
お墓参りをした時は、
「なんか空気重いな。こういう時は
僕が前列の座席を見遣りながら言うと、本田さんが「紅葉君はいらっしゃらないのですか?」と質問してきた。
「昨日の夜、紅葉に電話をかけて誘ったんだけどね。友達と遊ぶ約束をしたから行けないってさ」
紅葉は『なんでもっと早く誘ってくれなかったの!?』と文句を言ってきたけど、紅葉だって急に旅行を決めた事があるじゃないか。
今回の旅行の立案者はぐれ兄だから、苦情はぐれ兄に訴えてほしい。
「明るい奴が必要なら、あーやを呼ぶ?」
「「呼んだら殺す……」」
同時に振り返った由希と夾は声を揃えて、綾兄の召喚を提案したぐれ兄を脅した。仲が悪いくせに妙な処で息ぴったりだな。
「カラオケがあるから歌おうよ。まずは僕からっ!」
トップバッターの僕は『モゲ太とアリのマーチ』を熱唱。
次にぐれ兄が『シュ○バ★ラ★バンバ 』をノリノリで歌ったら、1Bメロの途中で兄さんが演奏を停止した。
「はーさん、ひっど~い。僕の持ち歌の上位に入る歌だったのにぃ」
「歌詞もそうだが、紫呉の歌い方がいかがわしい」
「え~。サザンはもっとエロい歌があるよ。曲名から攻めている『マイ・フェr」
「いい加減にしないと、マイクを通して貴様の恥ずかしい過去を延々と語るぞ」
兄さんが低い声で脅しをかけると、ぐれ兄は肩を竦めて「次は透君が歌う?」と話を逸らした。
「わ、私ですかっ? カラオケはあまり行った事がないので、流行の歌は知らないのですが……」
「透君、流行とか気にしないで。けーくんは初っ端からアニメソングを歌っていたし」
ぐれ兄がアニソンを侮辱する発言をしやがったので、僕は「本田さんの前で下ネタソングを堂々と歌う奴よりマシだよ」と言い返した。
「あ、あのっ。それでは、私は『翼を○ださい』を歌いますっ」
前に歌ったぐれ兄が卑猥な選曲をしたせいもあって、本田さんの歌を聞いていると心が洗われるようだ。
本田さんが歌い終わった時、僕と兄さんとぐれ兄は拍手を送ったが、こちらに背を向けている由希と夾は拍手しているかどうか解らない。
「由希君、夾君。透君が歌い終わったんだから拍手くらいしなさいよ」
「えと、紫呉さん、よろしいのですよ……」
「本田さん、あいつらを甘やかしちゃダメだよ。これがクラスのカラオケ大会だったら、場を盛り下げる態度を取る奴はひんしゅくを買うからね。本田さんの歌に拍手1つ送れない甲斐性無しは、お仕置きしちゃうぞ」
まずは夾に対するお仕置きとして、どら猫に恋する三毛猫の気持ちを歌った『ゴ○ちゃん』を聞かせた。
「やめろーっ!!」
歌詞に出てくる「○ロちゃん」を「夾ちゃん」に変えたら、夾が席を立って振り向いて叫んだ。僕は演奏を停止せず、夾の怒号とぐれ兄の爆笑をバックコーラスにして最後まで歌い切る。
由希に対するお仕置きは、『ミッ○ーマ○ス・マーチ』の日本語版にしよう。歌詞に何度も出てくる「○ッキーマウ○」を「ユッキーマウス」に変えてみた。
さすがに由希は夾のように怒鳴ったりしなかったが、前列から絶対零度の冷気が発生したような錯覚に陥った。
「あー、面白かった。はーさんも何か歌いなよ」
「遠慮する」
「そう言わずに。透君もはーさんの歌を聞きたいよね~?」
「あ、はいっ。はとりさんの歌をお聞きしたいですが、はとりさんがお嫌でしたら無理にとは申しません」
「……本田君を唆して俺に歌わせた事を後悔するがいい」
不穏な言葉を呟いた兄さんは、『Hey ○ude』を選曲した。
中学校の英語教師がビートルズ好きで、授業中に歌詞カードを配って曲を流したから僕も知っている。様々な解釈ができる名曲だけど、大雑把に要約するなら「彼女を受け入れろ」と切々と説得する歌だ。
歌詞の中に繰り返し出てくる「H○y Jude」を「Hey Sigure」に変えて歌っていたから、兄さんはぐれ兄に何かしら言いたい事があったのだろう。
当のぐれ兄は閉じた扇子の先端を額に当てて、気まずそうな半笑いを顔に貼り付けている。ぐれ兄が受け入れようとしない“彼女”って、たぶん慊人の事だよな……。
そんなこんなで、湖畔に建つ別荘に到着した。
割り振られた寝室に荷物を置いて僕がリビングへと向かうと、本田さんが窓を開けて外の景色を眺めている。
「うわぁ……っ。湖がありますっ、キレイですーっ、大きいですーっっ」
「湖がそんなに珍しいか?」
窓辺に近づいた兄さんの問いかけに、本田さんは満面の笑みで「はい!」と答えた。本田さんは本物の湖を見るのは初めてらしい。
「ふっふっふっ。ジェイソンでも出てきそうな別荘だよねぇ」
ソファに腰掛けたぐれ兄がふざけて言うと、由希が呆れたように「またそういう事を……」と呟いた。
「ジェイソンってのは新種の熊の事だよ。物知らずの夾君♡」
「バッ……知ってらぁ、そんくらい!」
腕組みをして考え込んでいた夾は、赤くなった顔を誤魔化すように怒鳴った。
夾はぐれ兄が呼吸をするように嘘を吐く事は知っているだろうに、なんであっさり騙されるんだ。
「外国産の熊の事ですか?」
天然な本田さんが的外れな疑問を口にした。ぐれ兄に騙される被害者が増えないように、正確な情報を与えよう。
「本田さん、ジェイソンはホラー映画に登場する殺人鬼の事だよ」
「……ホラー映画に登場する殺人熊ですか……っ」
「いや、だからね? ジェイソンは熊じゃないんだよ」
訂正を入れた僕の視界の端で、ぐれ兄が広げた扇子で顔を隠して笑いをかみ殺している。
僕も本田さんに男子トイレの鏡に纏わる嘘を言った事があるけど、あれは必要に駆られて仕方なくだから。ぐれ兄のように人を騙して面白がったりしてないから!
「由希君、夾君、けーくん。せっかく湖畔の別荘に来たんだから、透君を連れて湖まで散歩しに行きなさいよ」
「ぐれ兄、話を逸らすなよ。ジェイソンは熊じゃないって訂正するべきだ」
「ええ~。平和な森を襲った殺人熊ジェイソンの恐怖を、透君の耳に入れるのは躊躇われるなぁ」
「紫呉には俺が言い聞かせておくから、建視達は散歩に行くといい」
口から生まれたようなぐれ兄に言い聞かせるのは、僕じゃ荷が重い。兄さんの言葉に甘えるとしよう。
「本田さん、散歩しよっか」
「はいっ。由希君と夾君もご一緒しませんか?」
「2人で行ってきなよ」
「俺は行かねぇ」
由希と夾は、未だにナーバスな雰囲気を引きずっているようだ。
僕は2人がいなくても一向に構わないけど、本田さんは気に掛けるだろう。仕方ない。手の掛かる従弟達に発破をかけるか。
「という事は、本田さんと2人きりでデートできるね」
「わっ、わわ、私が建視さんとデートですか!?」
「うん。手を繋いで歩いちゃおう」
手を繋いでという言葉を聞いて、由希は険しい表情になった。
残留思念を読む力を持つ僕と本田さんを、2人きりにしてはいけないと思ったようだ。
夾は面倒臭そうな顔をしている。
僕が本田さんの残留思念を本気で読むつもりなら、何も言わずにこっそり実行すると予想しているけど、万が一の可能性は捨てきれないと思っていそうだ。
僕らは別荘から出て、湖を囲む森の中の散策路を歩く。様々な鳥の鳴き声があちこちから響き、揺れる枝葉から木漏れ日が射す。
草摩の「中」の敷地内にも林があるけど、厳格さと陰鬱さが漂う本家とは違って、ここは空気が澄んでいるように感じられた。
「うーん、森林浴って気持ちいいね」
「あ、はいっ。木々の良い香りがして、何やら気持ちがほんわかと和みますね……っ」
「僕は本田さんと一緒にいると、気持ちが和むけど」
お世辞じゃなくて割と本気で言ったら、本田さんは顔を赤くして「え!? え、えと、そのっ」と慌てている。可愛い。
「本田さん。風が冷たいから、肌寒くなったら遠慮なく言ってね」
「は、はいっ。お気遣いありがとうございますっ。私は寒くないですよ。由希君と夾君は大丈夫ですか?」
「……大丈夫」
僕と本田さんの数歩後ろを歩く由希は、短い言葉を返した。最後尾を歩く夾は無言で頷く。
2人が素っ気ない対応をしたせいで、本田さんがしょぼんと項垂れている。
由希と夾の奴、落ち込むなら自分1人の時にしろよ。僕がいい加減苛立ちを覚えた、その時。
「あの、すみませんでした……っ」
後ろを振り向いた本田さんが、謝りながら頭を下げた。由希と夾が同時に「は?」と疑問を発する。
「なんで本田さんが謝るの? 謝らなきゃいけないのは由希と夾だよ」
「い、いえっ。私がボケラとして、お2人のお怒りにまったく気が付かなかったせいなのです。あ、あ、あの、気に障った事がありましたならば、何でもおっしゃって下さい。次からは直します。だから、だから、ですから……」
何やら責任を感じている本田さんは、焦げ茶色の目に涙を浮かべた。本田さんの隣にいた僕はそれに気づき、後ろの2人に非難の目を向ける。
「おい。本田さん、泣いているぞ」
「えっ!? ちょっと待って……俺は怒ってなんか……」
「はぁっ!? 何で泣いているんだ……うおっ!?」
本田さんに近づこうとした夾は転びそうになったが、木につかまって事なきを得た。
「夾君!? 夾君、大丈夫ですか!?」
「くっそっ。なんだよ、この獣道は……っ」
悪態を吐いた夾は、散策路から外れた地面を見下ろして硬直した。
怪訝に思った僕と由希と本田さんが近寄って見ると、大型動物と思しき足跡があった。これは恐らく……。
「ジェイソンです!!」
「じぇいそんか!!」
ぐれ兄の嘘を信じてしまった本田さんと夾が、顔色を変えて叫んだ。
由希は遠くを見るような目付きになって、「熊だってば……」と訂正する。
ツッコミを放棄した僕は、熊と遭遇しないための方法を提案しようとしたのだが。
「ど、ど、ど、どうしましょう!! 危険です、大変です、危ないのですっ。お3人共、急いで戻……」
パニックに陥ってしまった本田さんは両腕を上下に振りながら、散策路から外れた方向に後ずさりした。
「本田さんっ」
「あ」
足を滑らせた本田さんが急斜面に落ちた。
僕と由希と夾は反射的に飛び出して、本田さんを抱きとめようとしたけど、呪われた身の僕達は変身してしまう。
朱塗りの盃になった僕は木の幹にぶつかって、藪の中に落ちた。
「すいません、すいません、すいません~っっ」
「本田さん、怪我はない?」
「はい~、すいません~っ」
由希の問いかけに、本田さんが涙声で応じた。
盃の付喪神形態だと手足が無いので身動きが取れず、僕の位置から本田さんの無事は確認できなかったので、安堵の息を吐く。
「ったく。足許はちゃんと見ろよなっ」
「はい~っ。お、お洋服を集めてくるです~」
「“ちゃんと見ろ”だって? 1番最初に転んだ奴の言う台詞じゃないな」
「あ゛!? スカしてんじゃねえぞ、クソ鼠! 今1番すっ転んだのは、てめぇだかんな! だから、部屋に籠ってばっかのおぼっちゃんは使えねぇんだっ」
「山の中で修行してたくせに使えない、どこぞのバカよりマシだ」
鼠と猫に変身した由希と夾は、僕達の服を集めてくれている本田さんの手伝いもせず、口喧嘩している。なにやってんだ、あいつら。
「大変です……っ! 建視さんの姿が見当たりませんっ。建視さん、どちらにいらっしゃいますか!?」
ここだよと答えようとした瞬間、僕の母さんが声を発する盃を気味悪がって心を病んだ事を思い出してしまった。
本田さんは、僕が生物ではない物に変身すると聞いても恐れなかったけど、実際に見たら拒否反応を示すかもしれない。
「おい、建視。返事しろよ」
「もしや、お返事ができない状態にあるのでは……あ、あのっ、建視さんは何に変身なさるのでしょう?」
「あいつは盃だ。知らなかったのか?」
「付喪神さんである事は教えて頂いたのですが……盃さんですね、直ちにお探し致しますっ」
「本田さん、待って。俺が建視を探すから……」
由希が待ったをかけたけど、本田さんは既に僕の捜索に集中しているようだ。
本田さんは程無くして、僕が落っこちた藪を掻き分けた。転げ落ちたせいで髪型が崩れた本田さんは、変身した僕を見るなり顔を強張らせる。
あー……やっぱり、こうなるよな。
盃の内側に瞬きする赤い両眼と開閉する口がついた付喪神の形態は、ダークファンタジー漫画の『ベ○セルク』に出てくるベヘリットに似ている。
戦場で死体を見慣れたガッツでさえ、ベヘリットを初めて見た時は気色悪りィという感想を抱いたのだ。本田さんが怯えても仕方ない。
「建視さんのお鼻がありません……っ。落ちた衝撃で欠けてしまわれたのですかっ!?」
本田さんは焦りを浮かべた表情で、僕に問いかけてきた。冗談を言って、場を取り繕おうとしているようには見えない。
安心した僕は思わず噴き出してしまう。
「……っ、ふふっ。変身した僕を見て、本田さんみたいな反応をした人はいないよ」
「す、すみません……気に障りましたか?」
「ううん、全然。本田さんは良い意味で、予想を裏切ってくれる人だね」
「え……えと……はっ! そうです、建視さんのお鼻を急いで探さなくてはなりませんっ」
「あひゃひゃひゃ!」
堪えきれずに僕は馬鹿笑いしてしまった。
夾が呆れ声で「盃に変身した建視には、最初から鼻はねぇんだよ」と、本田さんに教えている。
「少しは言い方に気を付けろ、バカ猫」
「あぁ!? バカな事言ってンじゃねぇぞ、クソ鼠。ねぇモンはねぇんだ。事実を伝えねぇと、そいつが勘違いするだろうが」
「おまえも勘違いしているくせに偉そうに言うな。言っとくけどジェイソンは、ホラー映画のキャラ名だ」
「建視の話を繰り返しただけのくせに、そっちこそ偉そうに言うんじゃねぇよ。さてはてめぇ、じぇいそんを知らねぇから知ったかぶっていやがンな?」
「知ったかぶっているのはおまえの方だろ、バカ猫」
「殺す!! 今日こそ必ず貴様の息の根を止めたらあ!!」
オレンジ色の毛を逆立てた猫は怒号を上げながら、濃灰色の毛並みの鼠を爪で仕留めようとする。
鼠は攻撃を素早く交わしながら「本当に聞き飽きたよ、その台詞……」と言って、幹を登って木の枝の上に落ち着いた。
「チョコマカすんじゃねえ!! 正々堂々かかってこい! 卑怯だぞ!」
「今の体格からして、おまえの方が卑怯だ」
「ウソつきやがれ!! ズラズラ仲間を呼びやがって! そして和むな!」
「勝手に寄ってくるんだから仕方ないだろ……」
鼠形態の由希は、あっという間に野鼠ハーレムを築いた。この付近に野良猫はいなかったようで、夾は木の幹を引っ掻きながら孤軍奮闘している。
変身した由希と夾が喧嘩すると、リアルな『ト○とジェリー』にしか見えない。その様子がおかしかったのか、本田さんが笑い出す。
「すいませんっ。ケンカしていらっしゃるのに笑ったりして……失礼ですね。でっ、ですが何やらホッとしてしまったのです。ああ……いつものお2人に戻ってくださったなぁ……って。そう思いましたらホッとして、つい……変ですね……っ」
3人分の服を片手に抱えた本田さんは、目尻に浮かんだ涙を指で拭った。あれは笑い涙ではなく、心から安堵したが故に溢れた涙だったようだ。
「あの……さ、本田さん……」
由希が何か言おうとした瞬間、ボンッと小規模な爆発音と煙が発生して、僕達は人間の姿に戻った。変身した際に服が脱げてしまったので、3人とも全裸だ。
顔が紅潮した本田さんは「はうぅっ」と悲鳴じみた声を上げて、後ろを向く。本田さんが集めてくれた衣類や靴を拾った僕達は、木陰で着替えを済ませた。
「えっと……本田さんは落ちる前に何か言っていたけど、本田さんに対して怒っているとかそんなんじゃないよ。怒っているように見えたなら、それは……」
言葉を切って俯いた由希は、「調子が悪かっただけで」と締め括った。
焦燥を浮かべた本田さんが「え゛っ」と声を上げる。
「でも、もう大丈夫だから。……ごめん。気に病ませちゃったね……」
「俺も別に怒ってねぇぞ。何も。……ただ俺もちょっと……調子が悪かっただけだよっ」
本田さんに背を向けながら夾が言い訳すると、由希が「頭の?」と茶々を入れた。オレンジ色の目を吊り上げて怒った夾は、「ちげぇよ!」と怒鳴る。
2人のやり取りを見て僕は密かに驚いた。
鬱陶しいほど落ち込んでいた由希と夾が、いつの間にか立ち直っている。これが本田さんの癒しの力か。僕もそういう力が欲しかったよ。
「でっ、ですが、お体の調子が悪いだけでよかったです。いえ、決してよくありませんが、お変わりなくというか、その」
2人は体の調子が悪かった訳じゃないよ。本田さんのおかげで丸く収まりそうだから、余計な口出しはしないけど。
「変わる? 別に何も変わってないよ」
由希はそう言って夾に人差し指を突きつけた。示し合わせたかのように、夾も由希に親指を突きつけている。
「「こいつが大っ嫌いだっていう事以外は」」
またしても由希と夾は同時に、しかも一言一句違わぬ発言をした。双子でもここまでシンクロ率高くないと思う。
僕は子憑きと猫憑きの従弟達を生温かい目で眺めながら、質問を投げかける。
「今のは『大嫌いじゃなくなったから仲良くする』って宣言か?」
「ちっげーよ!! クソ鼠の事がもっと嫌いになったって意味だ!」
「それはありがたいね。俺も同意見だよ」
「なるほど、これがツーカーの仲か」
僕が冗談半分本気半分で言うと、由希と夾は最早お約束のように声を揃えて「違う!」と言い返した。
「おまえら、コンビを組んでお笑い界の頂点を目指せよ」
「っざっけンな! 誰がクソ由希なんかとコンビを組むかよ!」
「それはこっちの台詞だ。建視は人をおちょくるのはやめろ」
「ふふっ……あはははっ」
本田さんは再び笑い声を上げた。今度は安堵ではなく、喜びが勝っているようだ。
由希と夾が通常運転に戻ったから、帰り道は騒々しかった。森の静謐な空気が台無しだな。
でも、口喧嘩をする2人を見る本田さんが嬉しそうにしているし、大声で話していれば熊は近寄ってこないらしいので、まぁいいか。