Side:はとり
不憫な担当は今頃紫呉の家に行って、『旅に出ます。捜さないで下さい』といったベタな伝言が書かれた置き手紙を発見して、途方に暮れているだろう。
俺は紫呉を窘めて、原稿は出来ていると担当に連絡を入れさせた。
電話を切った紫呉は、「つまんない、つまんない」と子供のように駄々を捏ねている。何が悲しくて、自分と同い年の従弟が駄々を捏ねる姿を見なければいけないんだ。
「暇だな……」
「はーさんはゆっくり読書を楽しみなよ。僕推薦の書物をたくさん持ってきたから」
紫呉はそう言って、十数冊もの書籍を持ってきた。本の大半は俺の好きな洋書だ。濫読家の紫呉は大量の蔵書を持っているが、積極的に他人に貸す事はしなかったはずだが。
……そうか。
俺は佳菜と別れた後、自分なりに気持ちの整理をしたつもりだったが、付き合いの長い者達には気落ちしているように見えたのかもしれない。
「紫呉」
「はい?」
「──いや、ゆっくり本が読めるのは久し振りだよ」
眼鏡を取ってきて読書を始めようとしたら、紫呉が「これは僕の著作の中でイチオシの作品だよ」と言って、『夏色の吐息』というタイトルの文庫本を差し出した。
「……作家の名前が『きりたに のあ』になっているが」
「これは趣味で出した本だから。若い読者が手に取りやすいペンネームを考えたんだ」
紫呉は幾つペンネームを持っているんだ。
建視が以前、話のついでに語った吐き気を催す怪談も、紫呉が違うペンネームで出版した本に載っていたと聞いた。
「けーくんは『夏色の吐息』を読んで、『もどかしくて切ない恋愛模様に、段々と話に引き込まれた』って感想をくれたよ」
建視がこの本を読んだのか!? 表紙を飾るイラストから察するに、若い女性向けの小説だろうに。
弟の趣味嗜好を確認するため、『夏色の吐息』を読んでみる。数ページ読んだ時点で、限界を迎えた。
「面白い?」
「気色が悪い」
女子高生目線で綴られる恋愛劇を書いたのが紫呉だと思うと、鳥肌が立つ。これを建視が熟読したと思うと、弟の将来が不安になる。
……気を取り直して、紫呉が用意した洋書を手に取った。
無敗を誇ったナポレオン軍が初めて退却を余儀なくされた、アスペルン・エスリンクの戦いを克明に描写した歴史小説を夢中になって読んでいたら、
「ただいま帰りましたです……っ」
「ただいまー」
「ただいま」
「お帰りぃ……って、透君、もしかして転んだ?」
紫呉の声を聞いて本から顔を上げると、服を泥だらけにした本田君がリビングに立っていた。
「あっ、はい。ジェイソンの足跡に驚いて、足を滑らせてしまいました……」
「えっ? この近くに熊がいたの!?」
普通に受け答えるな、紫呉。本田君が間違った情報を信じ込んでしまうだろうが。何事もなければそう言っただろうが、今は彼女の容体を確認する方が優先だ。
「本田君、怪我はないか?」
「怪我はありません。ご心配をおかけしました……っ」
頭を下げた本田君は着替えるために、荷物を置いた部屋へと向かった。
「由希君と夾君の雰囲気、元通りになっているねぇ。透君が何か言ったのかな?」
建視の報告によれば、転んだ責任を擦り付け合って喧嘩する由希と夾を見て、本田君は笑いながら「いつもの2人に戻ってくれてホッとした」と言ったらしい。
由希と夾が喧嘩すらしないのは、異常だったからな。転んだ事が怪我の功名になったのは、空気を和ませる本田君がその場に居合わせたおかげだろう。
「本田さんって、天然というか器が大きいというか……盃に変身した僕を見て、あんな事を言うなんて思わなかったよ」
思い出し笑いをする建視の言葉を聞いて、俺は安堵と疑問が入り混じった心境になった。
建視の正体を見た本田君が拒絶反応を示さなかった事は察せられたが、彼女は何を言ったのだろう。物の怪憑きの仲間達のように、兄弟揃って愉快な姿に変身すると言った訳ではなさそうだ。
「透君、何て言ったの?」
「落ちた衝撃で僕の鼻が欠けちゃったのかって、大真面目な顔で心配してくれたよ」
「あははははー!! 変身したけーくんを見てボケる事ができるなんて、透君最高……っ」
「紫呉、その発言は本田君に対して失礼だぞ」
「だって、可笑しいものは可笑しいんだもん。それに、はーさんだって笑っているじゃないか」
俺は可笑しくて笑った訳ではない。本田君の純真さに思わず口元が緩んだだけだ。馬鹿正直に言うと、紫呉がからかってきそうだから黙っていたが。
それにしても、建視が変身した姿に関する話題で笑ったのは久しぶりだ。俺が建視の正体を打ち明けた時の佳菜の反応を思い出す。
──建視君は盃に変身するの?
──そうだ。……気味が悪いと思うかもしれないが、建視は気にしているから怖がらないでやってほしい。
──気味が悪いなんて思わないよ。私は建視君を本当の弟みたいに思っているんだから。
実際に見てもそう思ってくれるだろうか、と不安を抱いてしまった。
建視が変身した姿は、正直に言って異形だ。俺達の母さんは盃になった建視を見た瞬間、悲鳴を上げて床に叩きつけたらしい。
錯乱した母さんが生まれたばかりの息子を害した話は、建視に聞かせられない。俺はそう判断して建視に言わなかったのだが、母さんの7回忌の法要の最中に母方の祖父がわざと口を滑らせた。
当時6歳だった建視は母さんの凶行を聞いても無反応だったが、聡い弟は自分の存在を望まない身内がいる事を感じ取ってしまっただろう。
建視を理解してやれる近親者は同じ物の怪憑きの俺だけだから、俺が弟を守ってやらなくてはと心に誓った。
佳菜が建視に忌避感を示したら、彼女と距離を置こうと思っていた。俺の暗い予想を良い意味で裏切った佳菜は、建視を受け入れようとしてくれた。
兄弟揃って物の怪憑きという重い事情を疎まず、どうすれば俺と建視が心穏やかな生活を送れるか真剣に前向きに考えてくれた。
佳菜や本田君のように純真な人間は、そうそういない。
佳菜という存在がいてくれただけで、俺は充分に倖せだと言える。これ以上の倖せは望まない。
それでも望むとしたら、建視は俺と同じ轍を踏まないでほしい。心から喜ぶ事を思い出した弟が昔のように、笑う事を忘れてしまわないようにひたすら願う。
△▼
別荘滞在2日目の午前中。建視は本田君達と湖に行くと言っていたので、俺はリビングのソファで紫呉から借りた本を読んでいたのだが、気付いたら寝入ってしまった。
騒がしい声で起こされたが。
「だからっ。おまえ、一体何しに来たんだっての!!」
「夾、大声出すなよ。兄さんが起きる。綾兄は由希と話をしに来たんだろ。2人で外に行って、兄弟水入らずの時間を過ごしてこいよ」
「勝手に決めるな……っ」
綾女が別荘に来たのか。道理で騒々しい訳だ。
それはそうと、俺の体に掛けられたブランケットは誰が持ってきてくれたのだろう。本田君か、建視か。
「由希っ。ボクは先日、とりさんから助言を受けてね。これからは強気な態度で、君との絆を深めていくよっ。これこそ最大の法なりっ」
「強気……ですか? つまり、どのような……?」
「それはだ! 由希はボクの弟であり、ボクは由希の兄であるっ。その事実の上で、こう宣言するのだっ。由希!!」
俺は体を起こして、読みかけの洋書の背で綾女の後頭部を軽く叩いた。
「あまり周りを困らせるなと言ってるだろう、綾女」
「おはよう、とりさんっ」
「はとりさん……っ。起きてしまわれましたか……」
気遣ってくれる本田君に落ち度は無いが、あの煩さの前で寝ていられる訳がない。
「悪かったねぇ、はーさん。起こしちゃってっ」
「静かにしていようとは思っていたのだけれどねっ」
あー、煩い。
俺は右手で顔を覆いながら、「で? おまえ、何でココにいるんだ?」と綾女に問いかけた。
「本家に行ったらとりさんとケンシロウは皆と一緒に別荘に行ったと、お手伝いさん(53歳)から聞いたので、ならばボクもご一緒したくて出向した次第さ。無論、車で快適無敵っ」
綾女が素直に答えた事に納得がいかないのか、由希と夾は物言いたげな顔をしていた。
再び口論が始まりそうな気配を感じたので、俺は「建視」と呼びかける。俺が言いたい事を察したのか、建視は頷いてから「本田さん、湖に行こう」と声をかけた。
「由希っ、ケンシロウに先を越されているではないかっ。女性をエスコートするならば、もっとスマートにやらねばいけないよっ」
「エスコートを妨害したのはおまえだろ……っ」
「あっ、あ、あの、では、その、私達は湖に行かせて頂きますですっ」
由希が一触即発の状態になった事に気付いた本田君が、狼狽えながら発言した。
建視と本田君と由希と夾が出かけた後で、紫呉が意外そうな声を上げる。
「あーや、絶対『ついていく』って言うと思ったのに」
「何を言う、ぐれさん。ボクはそこまでヤボではないさっ。それに、久し振りに3人揃ってゆっくりできるのだしねっ。夜は長い……今日は眠らせないよ……ぐれさん」
「光栄だね……今夜君と同じ夢が見られるなんて、あーや」
アホなやり取りを交わした綾女と紫呉は「よし!!」と言いながら、互いにサムズアップをするお約束の流れをやっていた。
「おまえらも飽きないな……」
隣接したキッチンに入った俺は、呆れ混じりに言いながら茶の用意をする。
綾女と紫呉は中学生の頃から、あの馬鹿げたやり取りを行っている。誤解を招く言い回しのせいで、
本人達はその噂を否定する事なく、むしろ誤解に拍車をかけるような言動を取って、周囲を振り回して面白がる始末。
中学時代の俺は「誤解を招く言動は慎め」と注意したが、同い年の従弟2人は右から左に聞き流したので、ふざけたやり取りを止めさせる事は早々に諦めた。
「おおっと、とりさんっ。お茶ならば、このボクが淹れてあげるともっ。ぐれさんの分も特別に淹れて差し上げようっ」
「えっ、ホント? あーやのお茶飲むなんて何年振りだろ」
王様気質の綾女は、基本的に雑事はしない。天職として選んだ服飾関係の事柄では、率先して手を動かしているようだが。
「ありがたく思いたまえっ。このボクが淹れたお茶を飲めるのは、とりさん以外で2人だけなんだからねっ」
「2人のうち1人は
「ノンノン! 由希は淹れても飲んでくれないのさっ。悲しいねっ」
綾女が自ら進んで茶を出す相手か。もしかするとその人物が切っ掛けで、綾女は由希に接する態度を変えたのかもしれないな。
「あーやのお茶を飲める人って誰だろ。他に思いつかないなぁ。ひょっとして、新しい彼女?」
「詮索はよせ。天気が良いから外に出て茶を飲もう」
俺がさり気なく話を逸らしたら、紫呉が不満そうに唇を尖らせた。いい歳した男が子供のような仕草をするな。見ていて寒気がする。
庭に面したウッドデッキには、木製のガーデンテーブルとガーデンチェアが設置されていた。各自席に着いた処で、綾女が口火を切る。
「そうだっ、
「え……あーやは最近、繭に会ったの?」
予想外だったのか、紫呉は素で驚いていた。
「ノンノン! ボクが最後に繭君に会ったのは、入学式の日だよっ」
「あーやは入学式の数日後に、僕の家に来たじゃないか。3日も僕の家にいたのに、なんで繭のメッセージを僕に伝えてくれなかったの? 僕の最愛のあーやが、僕に隠し事をするなんて……っ」
「泣かないで、僕の愛しいぐれさん……っ。出来ればとりさんが同席している時に、ぐれさんに伝えてほしいと繭君に頼まれたのだよっ」
俺が考えている事と同様の件が気になったのか、紫呉はふざけた小芝居を中断して「ちょっと待って」と言う。
「あーやは、はーさんの言う事しか聞かないんじゃないの?」
「ボクは、とりさん以外の民衆の声に耳を傾ける寛容さは持ち合わせているよっ。それに繭君は我が愛しの弟に道を指し示しつつ、女性教師というシチュエーションロマンまで与えたもう素晴らしき存在っ。よって便宜を与えないとねっ」
他人の事などお構いなしというスタンスを貫く綾女の口から、「便宜を与える」という言葉が出るとは。紫呉も驚いたように呆けている。
仰天する俺達を余所に、綾女は胸を張って白木の伝言を告げる。
「『あたしに電話をかければ済む程度の事で、年下相手に取引を持ちかけるな。大人げないにも程がある』だってさっ」
紫呉に取引を持ちかけられた事を白木に打ち明ける者は、建視しかいない。
綾女が隠し事をしたのではないかと責めた事から察するに、紫呉は建視との取引を隠蔽しようと考えていたな。俺が紫呉を睨みつけると、戌憑きの従弟は即座にホールドアップをする。
「誤解だよ、はーさん。僕が取引を持ちかけたんじゃなくて、けーくんが取引を持ちかけてきたんだからね!?」
「建視と取引を交わしたのは事実だろう。何を見返りに要求した?」
「僕は何も要求していないって。嘘だと思うなら、けーくんに聞いて確かめてよ」
後で建視から詳しい事情を聞いておくか。その際、紫呉と無闇に取引を交わすなと釘を刺しておこう。
「ケンシロウはぐれさんに取引を持ちかけて、何を得ようとしたんだいっ?」
「あーや、その話題はおしまいに……」
俺が視線で圧力をかけると、紫呉は「佳菜ちゃんの結婚式の写真だよ」と白状した。
予想はしていたが、矢張りか。建視が俺の事を思ってくれているのは解るが、危ない橋を渡るような真似はしないでほしい。
「なるほどっ。ケンシロウは副隊長に就任する前から、とりさんを倖せにするための活動を行っていたのだねっ」
「何の副隊長?」
「とりさんを倖せにし隊だよっ。隊長は勿論このボク、そしてぐれさんは参謀だっ。その悪知恵を存分に活用して、とりさんを世界一……否っ、宇宙一倖せな人にするための方策を練ってくれたまえっ」
「まるで僕が悪役参謀みたいな言い方だなーっ」
不服そうな顔をした紫呉は抗議してから、「でも、まぁ、僕に言えるのは」と話題を変える。
「今度こそ、一緒にいても寂しくならない新しい女性と出会えるといいよね。一緒にいる事が倖せにつながる女性とね」
それはかなり無茶な願いだな。
呪われた
俺は佳菜の記憶を隠蔽した日に、一生溶けない雪に囲まれて死んでも構わないと心に決めた。
佳菜と愛し合う倖せを味わえたのだから、違う女性と付き合おうとは思わない。
──僕が倖せになるのは難しいと思うけど……努力をしてみるから、兄さんもそうして
建視の言葉が脳裏を過った。
認めたくない事だが、建視が温かな倖せを掴むのは難しい。
先代の盃の付喪神憑きが引き起こした事件故に、建視は生まれた時から草摩一族に警戒され、疎まれている。
それに加え、残留思念を読む力を他勢力に奪われないようにするため、建視が慊人の側近になる事は決定事項になった。
建視が想いを寄せる
それでも俺にとっての倖せは、倖せになった弟の姿を見届ける事だから。建視が恋した女性と良好な関係を築けるように、できる限り支援してやりたい。
その日の夜は、綾女のリクエストで手巻き寿司になった。手巻き寿司を食べるのは久しぶりだな。
何年も前に俺と建視と
「由希が作った手巻き寿司は、前衛芸術みたいだな」
建視はそう言った後、「……紅葉が作った手巻き寿司よりはマシだけど」と付け加えた。やめろ、思い出させるな。飯がまずくなる。
「うるさいな……っ。初めて作ったんだから仕方ないだろ」
「練習したって上手く作れねぇよ。クソ鼠はド級の不器用だからな」
「知ったかぶりするバカ猫には言われたくない」
「はんっ。負け惜しみにしか聞こえねぇな」
どうやら夾は紫呉の嘘を信じてしまったようだ。恐らく本田君も……。紫呉の罪状がまた1つ増えたな。
「案ずるな、由希っ。ボクが由希の分の手巻き寿司を作って進ぜようっ」
綾女が意気揚々と手伝いを名乗り出たが、由希は迷う事なく「断る」と切って捨てた。
家族に顧みられなかった由希の綾女に対する態度は素っ気ないが、反応を返さないよりは良いと前向きに受け止めるべきだろう。
「あ、あのっ。私が由希君の分を作りますよ」
「……ありがとう、本田さん」
「なっさけねーの」
「そんな事言っているけど、夾君も透君に手巻き寿司を作ってもらいたいんでしょ」
「紫呉、てめぇ! ふざけた事言ってんじゃねぇぞ!」
全くだと心の中で同意していたら、綾女がこっちを見て「おやっ」と声を上げる。
「とりさんのグラスが空いているねっ。ビールをもう1杯飲みたまえっ」
「あっ! 僕がお酌をしようと思っていたのに……っ」
綾女と建視はどちらが先に酌をするかを巡って、じゃんけんを始めた。
「はーさん、モテモテだねぇ」
「紫呉、もう酔っているのか」
「僕はお酒は飲んでも飲まれませんっ」
綾女がいたせいか、今夜の夕食は一際賑やかだった。
由希と夾は綾女のテンションについていけなくて疲れ果てていたが、それも含めて忘れがたい思い出になるだろう。