「――まったく。
慊人の検診を終えて自宅に戻ってきた兄さんは、うちに遊びに来ていた
兄さんが持っているビラには、イルカや色とりどりの風船のイラストと共に『海原祭』と描かれている。
「
居間のソファに座って『モゲ太とアリ』のビデオを観ていた僕は、一時停止のボタンを押してから質問した。
板敷の床に座っていた紅葉はショートケーキを手づかみで食べながら、「Genau!(その通り!)」とドイツ語で答える。
「ユキとキョーに会いに行こうよ。ハリィとケンも2人に会うのは久しぶりでしょ?」
紅葉の言う通り、由希や夾とはここ数ヵ月顔を合わせていない。
由希は中学卒業と同時に
慊人の言いなりになっていた由希がいきなり自立の第一歩を踏み出したから、僕を含む草摩の「中」の人達はびっくり仰天したっけ。
猫憑きの夾も予想外の行動を取ったんだよな。
夾は僕が在籍する高校とは違う男子高に通っていたのだが、今年の5月上旬に突然行方を晦ましたのだ。
それを知った夾の実父を含む草摩の連中は、幽閉を嫌がった猫憑きが逃げたと騒ぎ立てた。
夾が失踪した理由は不明だけど、草摩から逃げたいと思ったなら楽羅姉に相談すればよかったんだ。猫憑きの従弟に熱烈な片思いをする楽羅姉は、黙って見逃したと思う。
だけど、夾は楽羅姉に何も言わずに姿を消した。その結果……。
――建ちゃんは慊人に命じられて、夾君の居場所を調べたんでしょ? 夾君がどこにいるか、知っているなら教えて! 教えろって言ってるだろがぁぁ!!
夾の居場所を調べろという命令は受けていないし、夾がどこにいるかなんて知らない。僕は声を大にして何度も言ったけど、暴走した初号機状態になった楽羅姉に言葉は通じなかった。
猫憑きの従弟が行方を晦ましていた約4ヶ月の間、僕は逃走劇を繰り広げる羽目になったのだ。夾に会ったら、恨み言の1つや2つ言ってやる……っ。
「慊人と紅葉の付き添いをする身としては、今から頭が痛いんだが」
溜息を吐く兄さんは27歳なのに、疲れ切った中年男のような雰囲気を漂わせていた。
癇癪持ちの慊人と、常にハイテンションな紅葉のお守りか。しかも、慊人は紅葉の事を嫌っているし。問題が起きない方が不思議な組み合わせだ。
「兄さん。僕も文化祭に行って、紅葉と一緒に行動するよ」
「助かる」
兄さんと僕のやり取りを余所に、紅葉は暢気に話し続ける。
「ケンもホンダトールに会いたいの? だーい丈夫!! きっと気に入るよ!!」
「
「――紅葉、お前、本田透に会ったのか?」
僕と兄さんが立て続けに問いかけると、紅葉は得意げに「Ja!(うん!)」と言う。
「Sehr hübsch!!(とってもかわいい!!)」
へぇ。美形揃いの草摩一族を見慣れている紅葉がとっても可愛いと評価するなんて、本田透さんはすっごい美少女なんだろうな。
▼△
そして10月最後の日曜日――海原祭当日の午後。僕と兄さんと紅葉は草摩家の送迎車に乗って、海原高校へと向かった。
一緒に行く予定だった慊人は39度の熱が出たので、兄さんがドクターストップをかけたらしい。それを聞いた僕は驚くと同時に、疑問に思った。
草摩の主治医として責任感を持って仕事をする兄さんが、高熱を出した慊人を放置して文化祭に行きたがるとは思えない。
兄さんは、中々会えない由希の診察をしなくてはいけないって言っていたけど。ぐれ兄の家に行けば、由希の診察はできるはずだ。
由希は気管支が弱くて、幼い頃はすぐ発作を起こしていた。成長するに従って由希の体は丈夫になったようだが、風邪をこじらせると発作を起こすので念の為に定期検診を受けている。
ところが由希は慊人がいる草摩の本家を疎んで寄り付かず、兄さんとの約束を破った。自分の体調管理は自分でできると、由希は己を過信しているんじゃなかろうか。
由希が定期検診をすっぽかしているから、兄さんが出向く必要があると言われたら納得はするけど。慊人が体調を崩した時に行かなくても、と思ってしまう。
兄さんが帰ったら、慊人や慊人の世話役が文句をつけてくるよ。それは兄さんだって予想しているはず。
抗議を受ける事を覚悟の上で、海原高校に行かないといけない理由でもあるのだろうか。
「Ankommen!(到着!) ボクがイチバンノリね!」
海原高校の近くで停車するなり、紅葉は後部座席のドアを開けて飛び出した。
慎重に行動しろって釘を刺したばかりなのに。僕と兄さんは急いで車から降りて、紅葉を追いかける。
「あの子、外国人かなぁ? めっちゃ可愛い」
「海外の子役か? あんな美少女見た事ねぇよ」
日本人の父とドイツ人の母の血を引く紅葉は、多くの生徒の注目を集めていた。
ウェーブのかかった金髪と明るい茶色の瞳を持ち、彫りの深い綺麗な顔立ちは天使のような純真無垢さを備えている。
中学3年生なのに小学生にしか見えない幼い容姿に引け目を感じる事なく、紅葉はそれを最大限に引き立てる可愛らしい装いを好んで選ぶ。
ピンクの花のコサージュを飾ったテンガロンハットを被り、ふわふわした素材で襟と袖と裾が縁取られたミントグリーンのジャケットを着て、ベージュのハーフパンツを穿いた姿。背負っている小振りのリュックサックは、女の子向けのデザインだ。
キュートなアイテムは紅葉の愛らしさを際立てるのに一役買っているけど、おかげで紅葉の事を少女だと勘違いした生徒が続出している。
「あの人、髪が真っ赤! でもかっこいい!」
「八神庵のコスプレか?」
僕の髪は真っ赤だけど、バンドマンっぽい格好はしてないぞ。
今日は白のシャツの上に黒のジャケットを着て、ワインレッドのチノパンを穿いて……ああっ、そうか! 服の配色が八神流古武術の遣い手っぽいのか。言われるまで気付かなかった。
「ねぇ、見て。向こうにいるスーツを着た背の高い男の人、すっごく素敵!」
「俳優かモデルじゃないの? 誰か、カメラ貸して!」
さすが兄さん、女子高生にもモテモテだな。
兄さんは切れ長の目と凛々しい眉がクールな印象を与える端正な顔立ちをしていて、瞳の虹彩の色は光の加減で紫にも見える深い青。視力がほとんど失われた左目を前髪で隠しているけど、他の部分の黒髪はすっきり短く整えている。
医者は体力勝負だから、草摩家の「中」にあるスポーツジムで体を鍛えているし、高い身長に比例して手足はすらりと長い。
白いワイシャツの上に黒のシングルベストを着て、青紫色のネクタイを締め、ベストと共布のトラウザーズを穿いた出で立ちはビジネスマン風だけど、容姿が整っているから俳優かモデルでも通用する。
兄さんは外見だけじゃなくて、内面も男前だけどな。無愛想で命令口調だから厳しくて怖い人だと誤解されてしまう事もあるけど、誠実で優しくて真面目だ。
おまけに大人の男の色気が感じられる渋いバリトンボイスの持ち主なので、仮病を使ってまで兄さんの診察を受けたがる草摩一族の女性が後を絶たない。
結論、僕の兄さんは世界一かっこいい!
「紅葉、スリッパに履き替えろよ」
昇降口で僕が声をかけたけど、紅葉は靴を履いたまま校内に入ってしまった。
几帳面そうな見た目を裏切って物ぐさな兄さんも土足で入ろうとしたので、呼びとめて来客用のスリッパに履き替えさせる。靴を入れるためのビニール袋を、念のために3枚持ってきておいてよかった。
「あーあ……早速、紅葉を見失った」
「由希と夾のクラスに向かったのだろう」
落ち着き払って答えた兄さんは、人混みを縫うように歩いていく。僕も異性にぶつからないように気をつけながら、校内を進む。
お祭り気分を盛り上げるため、校内放送で賑やかな音楽が流れていた。それぞれのクラスが教室を飾り付けて、喫茶店にフランクフルト屋、射的にプラネタリウムといった様々な模擬店を出している。
「ねぇ、占い部屋だって。入ってみようよ」
「え~。確かここって、1-Dの電波女がやっているって聞いたけど」
「電波使って人の心を読むって噂が本当かどうか、確かめてみない?」
すれ違いざまに聞こえた女子生徒の会話が気になったけど、兄さんはスタスタと先に進んでいる。追いかけないと。
由希と夾が在籍する1-Dの教室の前には、『おにぎり亭』の看板が出ていた。教室の中から、紅葉の軽やかなボーイソプラノボイスが聞こえる。
「ユキ、Mädchen(女の子)みたいだっ」
「紅葉、1人でうろつくなよ。それとスリッパに履き替えるんだ」
「よう。元気そうだな、由希。夾も」
僕と兄さんが教室に入ると、顔を赤らめた女子生徒が「きゃー!!」と叫んだ。
教室のあちこちで、「かっこいー!!」とか「かわいー!!」とか「由希くんの知りあいー!?」という甲高い声が飛びかう。
「Guten Tag!(こんにちは!) ボク、草摩紅葉。日本とドイツの半分コ! で、こっちは草摩はとり。こっちは草摩建視。ボクら、ユキとキョーのゴシンセキなんだよ!」
社交的な紅葉が、僕と兄さんの分まで自己紹介をしている。僕はというと、約9ヵ月振りに会う由希に目を奪われてしまった。
由希の濃灰色の髪は相変わらず、慊人の髪と大体同じ長さに整えられていた。中性的で端麗な容姿は女子と見まごうばかり。
というか、今の由希は美少女にしか見えない。子憑きの従弟はフリルやリボンがあしらわれた、可愛らしいピンクのワンピースを着ていた。
……なんで1人だけ女装してんの? 客寄せの演出か? 由希は美麗な女顔にコンプレックスを抱いていたから、自ら進んで女装をするとは思えないんだけど。
ま、まさか……。本家から出て生活するようになった由希は、抑圧されていたパトスが解き放たれて、新たな世界に目覚めたんじゃ……。
「由希……
「違う!!」
濃灰色の目を尖らせて怒った由希から、全力の否定が返ってきた。
あー、よかった。由希が本当に女装趣味に走ったら、慊人が荒れるよ。
「由希、この服はどうやって脱がすんだ?」
兄さんが紛らわしい発言をしたから、近くにいた生徒達が兄さんと由希は恋人関係だと誤解してしまった。嬉しそうな顔をしている女子達は……腐ってやがる。
どよめく周囲を余所に、兄さんは聴診器を出して由希の診察を始めた。
兄さんって何気にマイペースだよな。傍若無人な同い年の従弟2人に振り回された結果、兄さんも我が道を往くタイプになったのかもしれない。
「草摩君……っ。どこか具合が悪いのですか?」
エプロンをつけた小柄な女子生徒が気遣わしげに、由希に声をかけている。
「きみが本田透君か?」
「あ……はいっ。初めまして」
兄さんが問いかけると、本田さんはぺこりとお辞儀をした。
少し茶色がかった黒髪を背中まで伸ばし、焦げ茶色の目はくりっとしている。純朴そうな雰囲気が可愛いけど、並外れた美貌の持ち主って訳じゃない。
紅葉がとっても可愛いって言うし、女好きなぐれ兄が自分の家に住まわせている女子高生だから、過度に期待してしまったようだ。
ひょっとしたら、紅葉は性格美人という意味で言ったのかもしれない。美形の兄さんに声をかけられても浮かれず、落ち着いた挨拶ができる女の子って中々いないよ。
「きゃああぁ!! だめだよ、屋台の上に乗っちゃあ!!」
甲高い悲鳴が響いた方向を見た僕は、とんでもない光景を目にした。屋台の上に土足で乗った紅葉が、大皿に載った売り物のおにぎりを勝手に食べてやがる。
「何やってんだ、このバカ!」
怒号を上げたのは、オレンジ色の頭髪が目を引く夾だ。
端正だけど鋭い顔立ちに加え、柄の悪さが不良っぽさに拍車をかけている。紅葉のやらかしに怒ってオレンジ色の吊り目を更に吊り上げているせいで、喧嘩中のヤンキーにしか見えない。
僕も紅葉を取り押さえに向かうと、卯憑きの従弟はおにぎりを食べながら屋台の上を素早く歩いて逃げた。おまえは観光地の店先を荒らす猿か! 兎のくせに!
「紅葉、屋台から降りろ!」
「ちょっとこっち来い、バカっ!」
屋台荒らしの上着を引っ掴んだ夾は、大きな布で区切られた教室の奥へと向かった。紅葉の説教は夾に任せるとして、僕は紅葉のやらかしの尻拭いをしないと。
「ごめんね、屋台を滅茶苦茶にしてしまって。紅葉が食べた分と、売り物にならなくなったおにぎりの代金を払うよ」
「ひゃうっ!? お、お代は結構です!」
「いやいや、お代はちゃーんと頂きますよ~」
革製のトートバッグから財布を出した僕が声をかけると、エプロンをつけた売り子の女子生徒は茹でダコみたいに顔を赤らめた。それを見かねてか、制服を着崩したチャラそうな見た目の男子生徒が代わりに応対する。
「えーと。紅葉君が食べたおにぎりと、ダメになったおにぎりは合計で5個だから、500円になりまーす」
僕が500円玉を差し出すと、チャラ男君は困ったように「あー」と声を出す。
「模擬店は現金じゃなくて、文化祭実行委員が正門の近くで販売している金券で支払う事になっているんだけど」
校舎に向かう紅葉を追うのに必死で、気付かなかったよ。
僕が「困ったな」と呟いたら、それを聞き取った女の子達が「私が持っている金券をあげる!」と申し出てくる。
タダでもらうのは悪いからお金を渡そうとしたら、金券をくれた女の子達に「余り物だからお金はいらないよ」と言われた。チャラ男君の羨望の視線を浴びつつ、僕はもらった金券で代金を支払う。
「建視君の手に触っちゃった!」
金券を譲ってくれた女の子の1人が嬉しそうに言った瞬間、我も我もと女の子達が僕の処に押し寄せてくる。
うわぁ、グイグイくるなぁ。共学の女子って男子との交流に慣れているから、異性との距離感が近いのか?
僕は異性に抱きつかれないように距離を取りながら、少し離れた処で由希と会話する兄さんに視線でSOSを送った。悲しい事に兄さんは気付いてくれない。
……由希はなんで兄さんを睨んでいるんだ? ひょっとして、兄さんが本田さんの記憶を隠蔽しに来たと疑っているのか?
物の怪憑きの正体が部外者に知られた場合、本来なら兄さんが即座に隠蔽術を施す。
だけど慊人は何を考えたのか、草摩家の秘密を知った本田さんの記憶を剥奪せず、ぐれ兄の家に同居する許可まで出した。
気が変わった慊人の密命を受けて、兄さんが本田さんの記憶を隠蔽しに来た可能性はあるけど……。
ボンッ!
教室を区切る布の向こうで、小規模の爆発のような音が響く。
さっきの音は、物の怪憑きが変身する際に発する音によく似ている。嫌な予感を覚える僕を余所に、1-Dの生徒が間仕切り布をカーテンのように開けた。
おーまいがっ!
尻餅をついて呆然とする本田さんの膝の上によじ登っているのは、どう見ても淡黄色の毛並みの兎ですハイ。
本田さんの近くにいた夾は、信じがたい出来事を目の当たりにしたように、顔を盛大に引きつらせている。
夾の反応を見て、僕は察した。何らかのアクシデントで変身してしまった訳じゃなく、紅葉が本田さんに抱きついたのか。あんにゃろう。
「これって紅葉君の服だよね? 紅葉君はどこ?」
「何そのウサギ……どこから?」
「この状況は変すぎだ。何とか言えって、本田さんっ」
まずいな。僕がこの場を逃れる言い訳を探していたら、冷や汗をかいた由希が「……変?」と呟いた。
「それなら俺だって……変だよ。だって男のくせにこんな……やっぱり似合わないよね……」
恥じらうように頬を染めた由希は、軽く握った拳を顎近くに添えるぶりっ子ポーズを取った。
由希……いつだったか君に「女男」と言った事を謝るよ。君は
「バッキャーロー! おまえは最高だ、草摩ー!!」
「もうどっから見ても女にしか見えねぇって」
1‐Dの生徒達が由希の傷口に塩を塗り込むような励ましの言葉を掛けている隙に、本田さんが兎に変身した紅葉を抱いて走り去る。見事な連携プレーだ。
僕と兄さんは紅葉が身に纏っていたものを回収して、物問いたげな女の子達を笑顔でかわしつつ、教室を後にした。