Side:
6月5日の土曜日。今日は短大の授業が無い日だ。
クラスメイトにいじめられたさっちゃんは、声が出なくなるほど精神的に追い詰められてしまったけど、透君のおかげで声を取り戻して学業復帰するまで立ち直れた。
さっちゃんの従姉として、透君には感謝している。その一方で、透君の影響力の大きさに脅威を覚えているのも事実で。
透君と出会ってから、
私と夾君の距離がどんどん開いていくような気がして、時々どうしようもなく不安になる。
1人で鬱々と考え込んでいても塞ぎ込む一方だから、思い切って夾君に会いに行く事にした。
以前はしーちゃんの家に同居して夾君の側で暮らしたいと思っていたのに、今は少しだけ夾君に会うのが怖い。
今まで異性を拒絶していた夾君が透君を受け入れるようになったら、私は夾君から最後通告を突きつけられるんじゃないかって予感がある。
憂欝な気持ちは、約3ヶ月ぶりに夾君に会ったら吹き飛んじゃったけど。
「で!? なんだよ。用件をさっさと言えよ!!」
しーちゃんの家の居間で夾君とおしゃべりしようとしたら、夾君が苛立たしげに促してきた。
「え? ないよ、用件なんて」
「だからっ、無いならくんなよ!!」
「どうして……? 会いたいから会いにきちゃいけないの……?」
「俺は会いたくねぇんだよ!!」
愛しの夾君にそんなハッキリ言われると、流石に傷つく。ひどいよ、夾君……っ。
「こんなに愛してるのにィィィィ!!」
座卓を持ち上げて振りかぶろうとしたら、顔を引きつらせた夾君が大声で叫ぶ。
「それが嫌がる原因の1つだって気付けよ、そろそろー!!」
と、その時。しーちゃんが夾君を投げて寄こした。私は持ち上げていた座卓を放り投げて、夾君を自分の胸元に抱きしめる。
「楽羅、ソレ貸したげるから2人でデートでもしてきたら?」
「きゃあ♡ しーちゃん、いいこと言う~っ」
「待てコラっ、貸すってなんだ!! 俺は行かねぇぞ。第一、外に用なんざ無ぇ!!」
「ん? そうなの? じゃあ、透君。この2人に夕飯の買い物頼んだら?」
しーちゃんの提案を受けた透君は少し考えていたけど、私に買い物メモを渡してくれた。
「……では、お願いできますか?」
「だから、俺は……」
「よっしゃっ、デートじゃああ!!」
逸る気持ちに任せて、夾君の首の下に腕を回して引っ張るような形で出発進行!!
楽しい時間は速く過ぎるという言葉通り、あっという間にスーパーに到着しちゃった。透君のメモを見ながら商品を買い物かごの中に入れ、鮮魚売り場へと向かう。
「今夜はお鍋なんだね。そうだよね、まだちょっと冷えるもんね。ふふ、夾君の好きなタラもちゃんとリストに入ってる」
「…………」
不機嫌丸出しの夾君は私との会話に応じなかったけど、私の後についてきてくれる。
本当に嫌なら逃げる事だってできるのに。夾君は優しい。昔からそれは変わらない。
優しい夾君は、自分以外の物の怪憑きや
……夾君が透君を選べないのは、居心地のいい今の関係を変えたくないからでしょう?
でも、夾君も解っているよね。今の関係は長続きしない事を。いつか決断を迫られる日が訪れる。
ずっと後になって後悔しても遅いんだよ? 曖昧な状況に甘んじている夾君に、思い切って問いかける。
「……ねぇ、夾君。透君はまだ知らないんでしょう? ……ずぅっと、そうやって隠していくつもりなの?」
夾君がホントの姿を隠したがる原因は、私と建ちゃんにもある。
小さい頃、夾君のホントの姿を見た私達が怯えて逃げたせいで、夾君はホントの姿を知られたくないと恐れるようになってしまったんだと思う。
「うるっせぇんだよ!! そんな事てめぇには関係ねぇだろ!!」
「……夾君……」
対話を続けるために言葉を探そうとしたけど、近くにいた買い物客が何事かと私達の様子を窺っている事に気付いた。よく考えたら、スーパーで話すような内容じゃなかったね。
周囲から向けられる詮索めいた視線を交わすため、私は両手で作った握り拳を夾君の両こめかみに宛がい、捻じ込むように圧迫する“梅干し”と称される技をかけた。
「公衆の面前で女の子を怒鳴るなんて最低よォォ!!」
「いていていてーっっ!!」
私達のやり取りを見ていた買い物客は、「痴話喧嘩かしら」とか囁き合っていた。痴話喧嘩だったと周囲に思わせるため、私は夾君の背中を押しながら鮮魚売り場から離れる。
「もう、もう、夾君ってば恥ずかしいんだからっ。ホラ、あっちに行こうっ」
こめかみを押さえていた夾君が、「……なんで」と小さな声で問いかけてくる。
「なんでそんな……俺にこだわるんだよ……変だろ……普通は避けたり、距離を置くだろ……」
「そっ……」
それは夾君の方からだったんだよ、という言葉は飲み込んだ。
色々あって師範の家で暮らすようになった夾君は、一族から向けられる悪意から自分を守るように刺々しい言動が目立つようになったけど。私や建ちゃんには自分から喧嘩を売る事はせず、避けて距離を置くようになった。
……でも、そもそも先に夾君と距離を置いたのは私の方。
「夾君は……知らないから。知らないから。私が」
不自然に言葉を切った事を疑問に思ったのか、夾君が私の方を振り向く。
「……なんだよ……?」
「……夾君、泣いちゃうから……ナイショ♡」
唇の前に人差し指を立てて誤魔化すと、夾君は怪訝そうに眉を寄せて「は?」と言った。
「さてと、会計、会計っ」
「おい……なんなんだ」
「ホラ、行こう、夾君」
「こらっ」
夾君が私の話に珍しく興味を持ってくれたけど、私の本音は言えないよ。
猫憑きのホントの姿を見た、あの時。逃げた私と夾君の距離はもう埋められないんだろうなって、頭の隅で思う自分がいた。だからこそ、余計に必死になって距離を縮めようとしているんだけど。
それを知ったら夾君、どんな顔をする? 心のどこかで夾君の事を諦めているって私が言ったら、夾君はホッとして泣いちゃうかな。
でも、ごめんね。全部を打ち明ける事はまだできないの。
だって、夾君は全てを諦めた訳じゃないでしょう? だったら私も諦めない。
あの日逃げた自分を正当化するために始まった、醜い恋だけど。不器用で優しい夾君に惹かれて、本気で追いかけるようになった自分がいるのは本当だから。
スーパーからしーちゃんの家に帰る道中、私は夾君と昔のように手をつないだ。夾君は最初、手をつなぐ事を拒否したんだけど。
「夾君!! 冷たい……っ」
私がそう言いながら泣き落としを行使したら、夾君は怒りながらも左手を差し出してくれた。
久しぶりにつないだ夾君の手は、私の手より大きくなっていた。夾君が私の事を「かぐらねーちゃん」と呼んで、一緒に遊んでいた時とは全然違う。
昔との違いを改めて認識すると同時に、あの頃の関係には戻れないんだと思い知らされて視界が滲んだ。
夾君が昔のように私と手をつないでくれるのは、透君が夾君の傷ついた心を癒してくれたおかげなんだよね。
やっぱり勝ち目は薄いかな。心の中では悲哀と諦観に沈みながらも、表面上は明るく振る舞って夾君とのデートを楽しむ。
「途中までって言ったろ。そろそろ手ぇ放せ」
「あともうちょっとだけ。お願い!」
そんなやり取りを、しーちゃんの家の前に続く石段を登りきった所まで続けたら。夾君が「いい加減にしろや!!」と叫んで、私の手を振り払った。
「ここまでつなげりゃ充分だろうがっ。俺がベタベタされんの嫌いだって、知ってんだろ!」
「知ってるけどつまんない~っ」
「夾……」
落ち着いた低い声の主が、夾君を呼んだ。
しーちゃんの家の玄関先に佇んでいたのは、折り畳んだ和傘を持った長身の男性。
久しぶりに会うその人は青藍色の着物の上に紺色の羽織を纏い、背中まで伸ばした焦げ茶色の髪をうなじの上で束ねている。
どうやら師範は、修行の旅から戻ってきた事を夾君にも知らせていなかったみたい。夾君は驚きながらも、嬉しそうに表情を緩めた。
「……し、しょう?」
「元気そうだな、夾……」
再会した夾君と師範を温かく見守りながら、私は勝ち目が出てきたと暗い喜びを覚えた。
師範が帰ってきたなら夾君はしーちゃんの家から出て、草摩の「外」にある道場の離れで師範と共に暮らす生活に戻るはず。
透君と一緒に過ごす時間が短くなれば、夾君はこれ以上彼女に惹かれなくなるかもしれない。……こんな考えがすぐに浮かぶ自分の汚さに、吐き気を催す。
師範はしーちゃんの家に泊まる事になったから、しーちゃんに頼んで私もお泊まりする許可をもらった。夾君への夜這い禁止と、次に家を壊したら即刻帰宅という条件がついたけど。
「師匠さんのお布団は、どちらに敷きましょう……。
透君の質問を受けたゆんちゃんがしーちゃんの部屋を確認したら、しーちゃんの部屋は本や脱いだ着物やゴミが散乱して、人が寝られる状態じゃなかった。
「ここはやっぱり、夾君の部屋が1番じゃないかな?」
私が提案したら、透君は声を弾ませて「そうですねっ。それが1番ですねっ」と同意してくれた。
「はぁ!? 別に居間で寝かせりゃいいだろ。ガキじゃねぇんだぞっっ」
夾君は師範と水入らずで過ごす案を却下したけど、ホントは師範と一緒にいたいんだよね。解ってるよ。
私は師範に意見を伺いに行こうとしたけど、1階に師範の姿は見当たらなかったから、階段を上って2階に向かう。師範としーちゃんの話し声が聞こえる、洗濯物干し場に続く扉の前に立った時。
「今夜アレをはずす事で騒がしくなるやもしれぬ事……先に詫びておきます……」
師範の思いもよらぬ申し出が、耳に飛び込んできた。アレが何を指しているのか察した私は、足に根が生えたようにその場に立ち尽くす。
「それはまた……何故、急にそのような決断を?」
「今日……今日あの子のあの顔を見て、彼女ならばあの子の心を開くのでは。彼女もまた受け止めてくれるのでは。そして、それを見極める事に最良の時期は、今しかないのではと」
師範は1年以上夾君に会っていなかったけど、僅かな時間を共に過ごしただけで、夾君を良い方向に変えたのは透君だと気付いたんだ。
そして私が拒絶してしまった夾君のホントの姿を、透君なら受け止めると信じている。
……師範が帰ってきたから、私にも勝ち目が出てきたなんて考えている時点で、私の負けは決まったも同然だった。違う、これは勝ち負けの問題じゃない。
師範はどうやって、夾君の数珠をはずすつもりなの?
いくら夾君が師範を信頼しているとはいえ、数珠をはずせと言われて大人しく従うとは思えない。透君が近くにいるなら尚更。
まさか、数珠を無理やりはずそうとするんじゃ……。
数珠がホントの姿を封じる役目を果たしている事を知らなかった頃の私達とは違って、先代の猫憑きを祖父に持つ師範は夾君が数珠をはずすとどうなるか知っているはず。
信頼している師範に裏切られたと夾君が思ったら、きっと夾君は耐え切れない。不吉な予感を覚えた私の内心を代弁するように、しーちゃんが疑問を呈する。
「ですが……成功する確証は無いのでしょう? たとえ彼女は受け止めても、夾が拒絶する可能性は多分に有りうる……今度こそ夾が壊れる可能性も。
しーちゃんの淡々とした問いかけに師範は答えなかったけど、決意の重さは伝わった。
師範は万に一つの賭けが外れたら自分が全ての罪を背負う覚悟をした上で、思い切った決断を下したのだろう。
夾君が前を向いて、倖せな未来を選び取れるように。
私は……最悪な事に、師範の一世一代の賭けが成功してほしいと思えなかった。
透君が夾君の本当の姿を受け止めて、夾君が透君に心を開くようになったら、私が入り込む余地は完全になくなるから。すでに私が入り込む余地なんて無い気がするけど。
……その夜、私は自分の残酷さと醜悪さを痛感する事になった。
▼△
Side:
1日の終わりが近づいた22時半頃。野菜作りの本を読みながら栽培計画を立てていたら、庭の方から夾と師範の声が聞こえた。
雨が降っている夜中に夾が外に出るなんて、一体何事だ? 疑問を覚えた俺は、ブラインドを半分下ろした窓に近づく。
「それが
庭に立っていた2つの人影の内、1つは夾だった。夾と向かい合っている着物姿の男性は、髪型から判断するに師範だろう。
「……おまえはこれからもそうして生きていくのか。耳を塞ぎ、目を閉じ、そんな形でしか自分を保っていけないのか」
師範の言葉は夾に向けて告げられたのに、俺が必死に隠している弱い処を的確に抉った。
「そして死んでいくのか……? たった1人で」
それを聞いた瞬間、俺は呼吸を忘れてしまう。夾が近い将来どうなるか、
――高校を卒業したら夾は幽閉だよ。死ぬまでね。由希は夾を嫌っているから、嬉しいだろ?
嬉しくなんかない。俺のコンプレックスを刺激する夾は顔を見るのも嫌だけど、幽閉されてしまえばいいなどと思わない。
だからといって、夾を助けるために行動を起こす事はできなかった。慊人に逆らうのが怖いという理由もあるけど、それより卑怯な考えに気付いてしまったから。
猫憑きに比べれば、俺はマシだ。そんな風に思って安心を得る薄汚い自分を自覚した時、消えてしまいたくなるほどの自己嫌悪に陥った。
「……おまえは言ったな、ここが『嫌』だと。だが違う……おまえは嫌なのではなく、逃げようとしているだけだよ……」
そう言いながら、師範は夾の左手首を掴んだ。
「『ぬるま湯』と称した温かい『もの』が自分を癒していくのがわかる。だが、『本当』の事……『本当の姿』を知られたくはない。知られて失うのが怖い。その曖昧な状況から、おまえは逃げようとしているだけなんだよ」
夾は動揺を隠し切れていない声で、「ちが……」と反論しようとした。
「ならば、私はその逃げる手をとろう。失うか、失わざるか。その結果を導こう。夾、おまえの人生は本当に『終わっている代物』なのかどうか」
師範が夾に語りかけている途中で、傘を差した人影が庭に近づくのが見えた。
あれは……
家の中に戻るように本田さんに呼びかけるべきか。俺が決断を下すより速く、師範が動いた。
本田さんに気付いた夾の隙を衝き、師範が夾の左手首から素早く数珠をはずす。
「見るな……!!」
悲鳴じみた叫び声を上げた夾の輪郭が、人から異形へと変化していく。
――猫憑きの本当の姿はね、この世のものとは思えぬほど醜い化け物なんだよ。気持ち悪いのは姿形だけじゃない。何かが腐っているような悪臭を発しているんだ。
猫の物の怪の本当の姿について慊人が話した内容には、誇張が含まれているのだろうと思っていたけど、誇張は一切なかったと思い知る。
体が醜くひしゃげた姿は、深海生物のようにグロテスクで。瞳孔が縦に走った異様なほど鋭いオレンジ色の両眼が、辛うじて夾だと判断できた。
臭いまでは解らないけど、見ただけで吐き気を催して恐怖心を呼び起こされる化け物だ。
こんなのを間近で見たら、本田さんは卒倒してしまうんじゃないか。俺が急いで本田さんの方に視線を移すと、彼女は先程と同じ場所に立っている。
全く動じていない、という事はないだろう。あまりの事に呆然としてしまっているに違いない。
「夾……君……」
本田さんが雨の音に掻き消されそうな掠れ声で呼ぶと、夾は人間には不可能な跳躍力を発揮して森の中に逃げ込んだ。
「……あれが猫憑きの
俺達が動物に変身する処を目の当たりにしても、本田さんは気味悪がらなかったけど、流石にこれは……。
本田さんは恐怖と混乱のあまり気絶するか、気が動転して泣き出すか、紫呉の家から出て行こうとするかもしれない。
ところが俺の予想を裏切って、本田さんは夾が姿を消した森へと走って行く。
夾を追いかける本田さんは、普段の温かくて優しい陽だまりのような雰囲気を纏った彼女ではなく、全くの別人のようだった。
がむしゃらで、捨て身で、強固な意志を帯びていて。俺の知らない
本田さんが
うっすらと答えが見えかけた時、酷く戸惑った。こんな甘えた考えを持っている事がすごく恥ずかしくて、認めたくなくて。
気付かなかったフリをするため、見えかけた答えや夾の本当の姿の記憶を胸の奥底に閉じ込めて、きつく蓋をした。
――耳を塞ぎ、目を閉じ、そんな形でしか自分を保っていけないのか。
先程の師範の言葉が頭を過ったけど、今の俺ではドロドロした汚い感情に飲まれないように自分を保つので精一杯なんだ。