準備が粗方終わった所で、縁側で正座した
手伝いをしなかったぐれ兄は何食わぬ顔をして、お椀を受け取る列に並んだ。
ぐれ兄はさておき、縁側に置いた皿から好みの薬味を取っていく。僕は
「皆さんもお腹が空きましたでしょうし、さっそく夢の流し素麺を始めましょう!」
「うわーいっ! はじめよう、はじめよう!」
「では、スタートです……っ!」
本田さんは意気揚々と合図を出したけど、流れてくるのは当然ながら水だけだ。
「誰かが向こうから素麺流さないと……」
「イミないよね~、きゃはははっ!」
由希の困惑混じりの言葉を、
「きゃははじゃねぇよ。流せよ、誰か」
「おまえが流せばいいだろ」
「おまえこそ流せよ」
睨み合う夾と由希を見かねて、本田さんが口を開く。
「あ、あの、すみません。私が流しますので……」
「は? なんでおまえが」
「楽しみにしていた本田さんが流したら、意味ないじゃない」
「まあまあ、交代で流していけばいいじゃないですか」
ぐれ兄の提案を受け、
「え? よろしいのですか?」
「うん、いいよ。夾君、私の流した素麺、し……っかり受け取ってね」
夾が嫌そうに「う……ぐっ」と呻いた瞬間、楽羅姉が被っていた猫が取れてバーサーカーが表に出てくる。
「にゃろう……受け取れっつってンだよ。聞こえねぇ振りしてンじゃねぇぞ、コラァ!!」
「アッハイ。わかりマシタ、わかりマシタから。さっさと流せ、ホラ」
「うふふ~、まっかせて~」
「あー……疲れる」
夾、愚痴を零すのは楽羅姉の姿が見えなくなってからにしろよ。
幸いな事に、楽羅姉は素麺を流す方に意識が向いていたらしく、夾の迂闊な発言を聞き取って引き返してくる事はなかったけど。
「うわぁ……いよいよですね、ドキドキしますっ」
「ボク、ワクワクー!」
裏庭の方から楽羅姉が「いっくよ~!」と合図を出した。程無くして素麺が流れてくる。
「あ、来ましたっ! わぁー……ふふっ、面白いです……っ!」
「よかったね、本田さん」
「はいっ!」
由希と本田さんがアオハルしている。僕も……と思ったけど、花島さんと
食事中の花島姉弟の邪魔をするほど僕は恐れ知らずじゃないので、流れてきた素麺を箸でキャッチしてつゆに浸してから啜った。
……うーん、水っぽいのがちょっと気になる。流し素麺は遊び要素が多いから、味を求めちゃいけないのだろう。
でも本田さんの手作りのつゆは、ほんのり甘めで美味しい。ワサビとの相性もいいな。
それに何より、花島さんと一緒に流し素麺をしているというシチュエーションだけで、何杯でも食べられそうだ。
「あはははっ! なんかキンギョすくいみたい! あ、ねぇねぇねぇ、色がついたのはないの?」
紅葉の質問に答えたのは、雑学に詳しいぐれ兄だ。
「それは素麺じゃなくて冷麦だよ。最近は見かけないけど、あれってオマケみたいで楽しいよね。それを食べた人は倖せになれるとか、両想いになれるとか」
「なにバカ言ってるの」
「冷たい……っ。由希君の絶対零度のツッコミで、僕の心はいつもひんやり冷えてくるのでございます……」
かき揚げを確保した春が「バカな事ばっかり言うからだよ……」とツッコミを入れたので、続けて僕も「ぐれ兄の心は元から冷たいだろ」と皮肉った。
「皆さん、楽しそうですね……っ。夾君、夾君は流し素麺いかがですか? 美味しいですか?」
「美味いまずいの前によ、これ普通に皿で食った方が落ち着かねぇか? せわしねぇよ」
流し素麺を全否定する発言をした夾に、ぐれ兄が「そこがまたいいんじゃないですか」と言い聞かせた。
「そういうモンか? 春ぅ、あからさまに俺の前から取っていくなよ。全然食えねぇだろ」
「由希が全然取れてないから……はい」
春はすくい取った素麺を、由希のお椀に入れてやっている。
それを見たぐれ兄が「不器用さんだからね」とからかうと、年下の従弟に世話してもらって困惑していた由希が「うるさいな」と言い返す。
「やっぱり春は由希の母おy」
僕の言葉を遮るように、由希が低い声で「もう1度言ったらぶん殴るぞ」と脅した。暴力反対!
「はいです、由希君。これもお食べ下さい」
「あっ、ありがとう、本田さん」
「いいえー、夾君もはいです」
「あ、ああ……」
本田さんから素麺を取ってもらった夾は驚きながらも、ちょっと嬉しそうに笑っている。……由希が近くにいるのに夾が笑うなんて、自分の目を疑ってしまう。
「モエモエ~」
「……んだと、てめぇ、紅葉!」
紅葉に向かってがなる夾の耳は、照れて赤く染まっている。実にアオハルだけど、このやり取りを楽羅姉が聞きつけて暴走したら困るな。
タタリ神と化した
「そろそろ交代しようか。今度は僕が流すよ」
「ダーメダメダメ! 今度はボクが流すのっ!」
「ええっ!?」
驚きの声を上げた由希に続いて、夾が訝しげに「紅葉がか? 解ってンのか、ちゃんと」と疑問を呈した。
「わかってるよっ。流せばいいんでしょ。まっかせといて! えっへ~ん」
自信たっぷりに胸を張る紅葉だが、こやつは時々とんでもない事を思いついて実行に移すから安心して任せられない。
兄さんと僕と紅葉の3人で手巻き寿司を食べようとした時、紅葉はチョコレートシロップやメープルシロップを持参して、僕と兄さんの制止を聞き流して冒涜的な手巻き寿司を作った事がある。
思い出すだけで食欲が減退する手巻き寿司を作った紅葉は、「これ、おいしくない」と言ってほとんど食べなかったんだよな。
「なんか不安だな」
「全然わかってねぇような気がする」
由希と夾の不信感丸出しの意見を受けて、花島さんが名乗り出る。
「私が流しましょうか……?」
僕も一緒に流すよと言おうとしたのだが、由希と夾が声を揃えて「紅葉頼む」と言いやがった。余計な処で息ピッタリだな、こいつら!
「紅葉君、よろしくお願いしますっ」
「うんっ! ガンバルー♡」
「私に気を遣う事ないのに……」
素麺を流してみたかったのか、花島さんは心なしか残念そうだ。
由希と夾は、何やら物言いたげな顔をしている。素麺じゃなくて電波を流すんじゃないか、とか思っていそうだ。花島さんが流してくれる電波なら、僕は受け止めてみせるぞ。
「花島さん、紅葉の次に流そうよ。僕も手伝うから」
「
ボディガードとしての役目を忘れていなかった恵君に阻まれた時、紅葉と交代した楽羅姉が戻ってきた。「げっ」とか言うな、夾。流し台が壊される。
「夾君ったら、
「やめ、やめろっ」
夾は抵抗虚しく、楽羅姉によって口の中に鱚の天ぷらを押し込まれている。フォアグラ用のガチョウ再び。
「いくからねーっ!」
「はーい、いつでもどうぞですーっ!」
しばらくして流れてきたのは、小さな白い球体だ。
……紅葉の奴、早速やらかしたな。にしても、これは何だ? ゆで卵のように見えるけど、サイズからして鶏じゃない。
「うわぁ……可愛い素麺です、ちっちゃくて」
……本田さん、今の発言はやらかした紅葉を庇っているの? それとも素でボケているのか?
後者だとしたら、本田さんは夏バテにかかって判断力が低下しているのかもしれない。
「うん、まるでウズラの卵みたいね」
流れてきた物体を器用に箸でつまんだ楽羅姉は、観察しながら意見を述べた。
「……味もウズラの卵にそっくり」
春は大胆にも口の中に放り込んで咀嚼してから、コメントする。
というか、ウズラの卵なんて用意しなかったと思うけど。もしかして僕が生ワサビを持ってきてほしいと頼んだように、紅葉も流す食材を届けさせたのか!?
「次いくよーっ!」
「つ、次は何?」
当惑した由希の発言は、皆の心の声を代弁していた。息を吞んで待ち受ける中、カラコロと音を立てながら流れてきたものは……。
「……どす黒い」
不安を倍増させる春の発言に続いて、ぐれ兄が「これは……チョコレート?」と見解を述べる。
水流の中でどんぶらこする黒っぽくて丸い物体は、戌憑きの従兄の言うように一見すると普通のチョコレートだ。
けれど、コレを流したのは紅葉だという事を忘れてはいけない。サプライズ好きな紅葉の事だから、何か仕掛けが打ってあるかも。
「チョコレートに見えるけど、梅干しやゴーヤが中に入っている可能性も……って、花島さん、食べないで! 本田さんと楽羅姉も!」
水の中を流れてきたチョコレートを、なんで食べようとするんだ!
本田さんと楽羅姉は箸でつまんだチョコレートを口に運ぶ動きを止めたけど、花島さんは律儀にもチョコレートをつゆに浸けてから口に入れてしまった。
「これはただのチョコレートよ……なかなかイケるわ……」
余程驚いたのか、由希が「でぇ!?」と王子らしからぬ奇声を上げた。僕は驚きすぎて声も出ないよ……。
「咲ちゃん、なんだかんだいって味オンチ?」
ぐれ兄が聞き捨てならない台詞を吐いた。それを聞いた僕は驚きから立ち直って、「ぐれ兄、失礼な事言うなよ」と窘める。
「じゃあ、けーくんはチョコレートとめんつゆの組み合わせが美味しいと思うのかい?」
思うと答えたら、チョコレートをめんつゆに浸して食べてみろと言われるのは明らか。返答に詰まった僕を煽るように、ぐれ兄が「あれれ~?」と某少年名探偵のような発言をする。
「けーくんなら『思う』って即答すると思ったのになぁ。僕の事を失礼とか言いながら、けーくんも咲ちゃんは味オンチだと思っていたんだね」
「そんな事思ってないよ!」
覚悟を決めた僕は流れてくるチョコレートを箸で捉え、めんつゆにちょびっと浸す。
……大丈夫だ。花島さんが美味しいと言ったものを、僕が美味しく感じない訳がない。自己暗示をかけながら、チョコレートを口の中に入れた。
「……甘じょっぱい。なるほど、これはパイナップル入りの酢豚や生ハムメロンのような組み合わせだね」
「気に入ったのなら、どんどんお食べ」
満面の笑みを広げたぐれ兄はそう言いながら、自分のお椀に入ったつゆを僕のお椀の中に入れた。ぐれ兄の奴、いつの間にチョコレートをこんなに集めたんだ。というか……。
「ぐれ兄が箸をつけたつゆを混入するなよ、ばっちいな」
「ひどい……っ。僕をバイ菌扱いするなんてっ。はーさんに言いつけてやるんだから!」
「兄さんに言いつけたら、叱られるのはぐれ兄の方だぞ」
それより、このチョコレートが浮かんだつゆ、どうしようかな。
これを捨てて新しいつゆをお代わりしたいのは山々だけど、手巻き寿司事件の際に食べ物を粗末にするなと紅葉に説教した手前、廃棄するのは躊躇われる。
……自力でお椀を空にするしかないのか。うわぁ……本気で嫌だ。ぐれ兄菌を取り込んだら、僕の人格に悪影響が出そうな気がする。
「紅葉ーっ! ふざけてないでちゃんとやりなよ。これじゃ皆食べられないよ」
由希が声を張り上げると、裏庭にいる紅葉が返事をした。
「じゃあ、次いくよーっ! 今度はみーんな食べられるよーっ!」
紅葉が言う「みんなが食べられるもの」は、僕達が考えている
「も、紅葉君!? 一体何が起きたのでしょう……?」
「嫌な予感がするけど、とりあえず行ってみよう」
そう呼びかけた由希も紅葉に何かあったのではなく、紅葉が何かやらかしたと予想したようだ。
音が聞こえた裏庭の方に向かうと、1つ目の曲がり角に到達するまでの流し台が地面に落ち、足場が横倒しになっていた。その近くには、3つに割れたスイカが転がっている。スイカは小玉じゃなくて大玉だ。
「こンのバカガキ! スイカをまるごと1つ流したら、流し台がどうなるか予想できなかったのか!」
オレンジ色の目を吊り上げた夾が怒鳴った。
流し台の天辺から素麺を流すための踏み台に乗っていた紅葉は、拳で自分の頭をこつんと叩いてテヘペロをしていやがる。その仕草が似合う外見だからって、許されると思ったら大間違いだぞ。
「食べ物で遊んだ罰として、落ちたスイカは紅葉が全部食べろよ」
僕がきっぱりと言い渡すと、紅葉は「うええ~っ」と不満そうな声を出す。
「このスイカ、土でヨゴれているよー?」
「水で洗って土がついた所を切り落とせば、お腹を壊す事はないだろ」
「それより、流し台はどうしようか」
そう言いながら由希が折り曲げた人差し指をあごに宛がって考え込むと、春が意見を出す。
「修復不可能なまでに壊れてないから、設置しなおせば……?」
という事で、給水車から送られる水を一旦止めてから地面に落ちた流し台を洗い、足場を立て直して流し台を乗せて再スタート。
……しようとしたんだけど。
「……っ!」
「あーらら。めんつゆが入ったお椀を陽の当たる縁側に放置しちゃったから、チョコレートが溶けちゃったねぇ。ぷぷっ。けーくんは甘じょっぱいのが好きみたいだから、丁度いいんじゃない?」
人の不幸を見て愉しそうに笑うぐれ兄は、悪魔だと確信した。
……つゆは死ぬ気で飲み干したよ。三途の川の向こう側で、父さんと母さんがこっちに来んなと手を振っている幻覚が見えた。
ごちそうさまをした後は、食器類の片付けだ。ぐれ兄は「そういえば、仕事がまだ残っていたっけ」とか言って、真っ先に逃げた。
「本田さんはこれからバイトがあるんだよね? 休んでいいよ」
つゆが入っていた鍋を台所に運んだ由希が気遣うと、グラスを洗っていた本田さんが笑いながら「いいえー」と答える。
「楽しかった後のお片づけって、私、大好きです。こう……お片づけしながら今日1日楽しかった事を噛みしめていくと、そうするとちょっと寂しくて……でもそれ以上に、ポカポカした優しい気持ちになっていくのです。それってステキな気持ちだと思うのです」
言われないと気付かない小さな喜びを見出す本田さんの言葉を受けて、由希は柔らかく微笑んで「そっか……そうだね」と呟く。
「トール、楽しかった?」
お椀を運んできた紅葉の問いかけに、本田さんは満開の笑顔で応じる。
「はいっ。とてもとても楽しかったです!」
「えへっ、よかったぁ。ボクもとーっても楽しかったよ! またやろうねっ!」
紅葉がまたやらかしそうな予感がするから、流し素麺はもういいかなと思ったけど。嬉しそうに「はいっ!」と答えた本田さんの気持ちを傷つけたくないから、言わないでおこう。
片付けが終わった後、本田さんはおにぎりを作り始めた。由希達の夕飯だろうかと思って聞いたら、本田さんは予想外の答えを返す。
「えと、これは流し台を回収しにいらっしゃる庭師さん達に振る舞う分ですっ。庭師さん達が立派な流し台を作って設置して下さったおかげで、皆さんと流し素麺を楽しめましたので、せめてものお礼におにぎりを召し上がって頂ければと思いまして……」
庭師さん達へのお礼は考えていなかった。本田さんは気配りができる子だと改めて実感した僕は、おにぎり作りを手伝おうとしたのだが。
「やめとけ。建視が作ると、悲惨なおにぎりになるだろ」
夾に制止されて、僕はムッとした。
僕の家庭科の成績はお世辞にも良いとは言えないけど、おにぎりくらいなら作れる。そう思って本田さんに頼んでご飯を少し分けてもらって、梅干しを入れたおにぎりを作ってみたら。
「ケンのオニギリ、デコボコしてるーっ」
「……見た目は悪いけど、真心が入っているよ」
「俺も不器用だから人の事言えないけど、そんなものを食べろとか言われたら、俺だったら何の罰ゲームかと思うぞ」
くっそう、由希だってまともなおにぎり作れないくせに!
手料理は無理っぽいから、1万円分の商品券をお礼に配る事にした。女子高生の手作りおにぎりと比べたら味も素っ気もないけど、こういうのは感謝する気持ちが大事だからいいんだ。……と思おう。