Side:はとり
翌日、俺は再び
俺が古書店のドアを開けると、短髪で眼鏡をかけた50代の女性が愛想よく「いらっしゃいませーっ」と挨拶してくる。彼女は確か、白木の母親だったか。
「嘘泣きかい!!」
母親に向かって怒鳴った白木は、俺に気づくと怒りを収めて「……って、はとり君」と呼びかけてくる。
親子喧嘩の最中だったのかもしれないので、俺は「……邪魔をしたか?」と言葉を返した。
「あら、やだ。なぁに、
「お買い上げありがとうございまーす! それでは外にっ、とにかく外にっ、いいから外にっ、外に出て!!」
ぎゃあああと悲鳴を上げながら、白木は俺に本を押しつけて店の外に追い出そうとする。
彼女の勢いに押されるまま外に出た俺は、車を停めた駐車場とは反対方向にある橋の上に連れて行かれた。
「ここまで移動した理由はなんだ?」
「……黙秘っ。女には越えなきゃならない山谷が色々あるのっ。男にも色々あるようにっ」
「よくわからないが大変そうだな」
白木が差し出した注文の本を受け取り、代金を渡した。
「はとり君、今日はスーツじゃないんだ?」
白木が再会の挨拶を度忘れするほど、昨日の俺の服装は季節に合っていなかったようなので、今日はスーツの上着は脱いでネクタイを外してきた。
「できるだけ見ていて暑くないようにした」
俺の言葉を聞くなり、白木は口元に手を宛がって笑い出す。
「くっ、くくく……ふふっ」
「……何か可笑しいか」
「ごめ……違う。ふふ。はとり君は真面目だなぁ」
「流されているだけだろう」
俺は別に好きでスーツを着ている訳ではない。きっちりした格好をしていないと
「……何か傷つけた?」
白木が何故か気遣わしげに俺を見上げてくるので、俺は正直に「いや? 別に」と答えた。
「どうしたんだ、はとり君。昨日も思ったけど、元気……ないね」
「特に身体に不調はない」
「体調のことじゃなくてさ。イヤ、健康なのはいいコトだけどね。なんというか、ハッピールンルンそうじゃないなぁって……」
困惑したように頭をガシガシと掻く白木の言葉を聞いて、俺も困惑する。ハッピールンルンってなんだ。
「“倖せ”オーラがでてないなぁ……ってさ」
「……何を言わんとしているのか判らないが。
紫呉には「保護者が板につきすぎて、本物の父親みたい」と揶揄されるが、俺の生活は良くも悪くも建視を中心に回っている。
つい最近、建視に訪れた変化は実に驚くべきものだった。
父さんと母さんに愛されなかった建視は、自分の心の傷を抉らないために亡き両親から目を背けていた。けれど、建視は友人の打ち明け話に感化され、俺の哀しみを通じて自身が抱える喪失感に気付いたようだ。
気付いただけでは問題は解決したとは言えないが、建視が精神的に成長しつつある事を実感するのは、俺にとって得難い倖せだと言える。
だが、倖せな気分に浸る事はできない。
せっかく成長しようとしている建視が、任務で一歩間違えたら狂気に陥ってしまうと思うと、目の前が真っ暗になる。
「……何、言ってんの? はとり君こそ、何言ってんの?」
白木は驚愕から怒りに表情を変えながら、俺を問い詰めてくる。
「嘘だろう……? 空はあんなに青くって、水はこんなに光ってて、みんな楽しそうに笑ってて……っ。なのに嘘だろ。はとり君は倖せになれないなんて、そんなの嘘だろ!!」
この広い世界をもっとよく見ろと言うかのように、白木は両腕を広げて声を荒げた。
どうして彼女はこんなに感情的になっているんだ? 俺が彼女の気に障るような事を言ってしまったのか?
「だったらあたしは信じない! もう何も信じない!!」
「言っている事が無茶苦茶だぞ……」
「いいんだよ!! ……いいんだよ。もう……いいんだよっ」
目に涙を浮かべた白木はそれを隠すようにそっぽを向いたが、堪えきれなかったのか両手で顔を覆って泣き出した。
「ぅあああああああ! ゔぅう、ぅああああああああああ!」
成人女性が大声を上げて泣いているから、通行人が何事かと見てくる。
呆気に取られた俺は第三者の視線に気付き、「おい」と声をかけたが白木は泣きやんでくれない。
「無茶苦茶すぎだぞ……いい大人が……」
――あんな大声で泣いて……恥ずかしいわね。
慊人の世話役が、泣きじゃくる子供を見て言い捨てた言葉が脳裏を過った。
草摩家の人間の全員がそうだとは限らないが、しきたりや礼儀を重視する者達は泣いている子供を案じるより先に外聞を気にする。
俺と建視の両親も厳格な人達だった。歴史ある草摩家の人間らしく、常に冷静沈着で礼儀正しく振る舞い、威厳を保って他人に隙を見せるなと教えられて育った。
俺は幼い頃から感情を抑制して生きてきたから、感情のままに振る舞う佳菜がとても自由で眩しく感じられた。……今、俺の目の前で泣きじゃくっている彼女も。
「……何か勘違いをしていないか。俺はただ、少しだけ外に……出たくて。理由をつけて少しだけ」
僅かな時間でも逃げたかったのだ。淀んだ闇に支配されている、草摩の「
「そうだな、意外に泣くと楽になるのかもしれない」
建視も辛いなら泣けばいいのに、俺を気遣って取り繕った笑みを浮かべる。
物々しく体裁を飾る事に腐心する草摩家の家風に慣れきった俺と建視は、ただがむしゃらに子供のように振る舞う事ができない。
「……下手になっていくな。年を追うごとにそういう行為が、下手になっていくものだな……」
「……なんかそれって、あたしの立場がない……。あたしだってこんな泣いたりしないぞ、いつもは」
「そうだな、あんな大声で。俺の代わりに君が泣いた」
トラウザーズのポケットから取り出したハンカチを白木の頬に宛がうと、彼女の目から再び涙が溢れる。
「……ありがとう」
俺が礼を述べたら、顔を赤らめた白木は奪うようにハンカチを受け取った。
「……おっ、お役にたって光栄ですがっ。これからはホント、あたしはホント知らないからねっ。恋人がいるんだから恋人に泣いてもらえよなっ」
白木は何を言っているんだ。俺が「恋人なんて俺にはいない」と言ったら、白木はぶるぶる震えながら俺を指差してくる。
「え……でも恋人……できたって……
「五月? ……もしかして
下らない、と呟いた俺は確信を持って白木に告げる。
「……紫呉にからかわれたな?」
唇をひん曲げて絶句した白木は、勢いよく右手を突き出して「返せ!!」と叫ぶ。
「あたしの涙を利子付きで今すぐ返せ!!」
「また無茶苦茶な事を……悪いのは俺か?」
「あああ、畜生、バカだよ。あたしゃ一世一代のバカだよ」
頭を抱えた白木は、「まんまと信じてしまったよ~」と呻いている。彼女を騙したのは紫呉だが、奴の従兄として責任を感じてしまう。
「……時間はあるか? あるなら食事にでも行くか。詫びと礼に」
「……こんなグチャグチャな顔の時に食事に誘うなんて……っ。鬼か、はとり君」
「行かないのか?」
「行くけどもっ」
「……だな。こんないい天気なんだからな」
見上げれば夏特有の澄んだ青空が広がっているのに、白木に言われるまで気付かなかった。
俺が頬を緩めると、白木は眉尻を下げて柔らかく微笑む。彼女はこういう笑い方もするのか。
「あー……あたし、ビール飲む。生ビール」
「運転する奴の横で飲む気か? 鬼か」
「飲むっ」
泣いた気まずさを誤魔化すために、冗談を言っているのかと思ったが。俺の車で向かった先の寿司屋で、白木は本当に生ビールを注文した。
「ぷはーっ! 生き返るぅ」
「そうか、美味いか、よかったな」
「はとり君も飲めば? 車なら代行を頼めばいいだろ」
昼間から酒の匂いを漂わせていたら、慊人の世話役に何を言われるか判ったものではない。
今夜の晩酌はビールにしようと決意しながら、俺は「見知らぬ他人を自分の車に乗せたくない」と答える。
「ところで、建視は学校でどうしている?」
急に真顔になった白木は、持っていたビールジョッキをカウンターテーブルに置く。
建視は学校で何かやらかしたのだろうか。夏休みに入る前に
「確認したいんだけど。草摩潑春の母親は、ヒイロイッペー教とかいう宗教に入信しているのか?」
「いや、そんな話は聞いた事はない。……まさか、建視が言ったのか?」
「……うん。草摩潑春は宗教上の理由でタトゥーをいれているって、海原高校の教師陣に説明していたよ」
建視が教師を騙した手口は、校長に長髪を注意された
俺は深く溜息を吐いてから、弁明するために口を開く。
「潑春のタトゥーに宗教上の理由などない。建視は潑春のタトゥーを見逃してもらうために、嘘を吐いたのだろう。だからといって、教師を騙して許される道理はない。後で建視を叱っておく」
「はとり君から建視君に言い聞かせてくれると助かるよ。教職員は草摩潑春のタトゥーは宗教絡みだと認識しているから、今更訂正すると事がややこしくなりそうだから」
ついでに聞くけど、と白木は質問を重ねる。
「建視君の手袋と草摩
「本当だ」
「そっか。じゃあ、草摩夾は小さい頃に池で溺れた事がトラウマになったから、プールに入れないっていう話は?」
「……それは嘘だ」
猫憑きの体質を正直に話す訳にはいかないのは解るが、建視は罪悪感を覚える事なく教師を騙していそうだから気掛かりだ。俺が眉間に皺を刻むと、白木は心配そうな表情を浮かべる。
「建視君は紫呉の影響を受けすぎじゃないか?」
「紫呉のように、人を騙して愉しむような外道に成り下がってはいないと思うが……」
不安に駆られた俺は弟の教育に関する相談を持ちかける。食事時には相応しくない重い話題だったにも拘らず、白木は真摯に話を聞いてアドバイスをしてくれた。
白木は女子生徒からラブレターを送られるほど人気の先生だと佳菜が話していたが、保護者の支持も高いのではないかと思う。
俺が草摩に帰ったら、慊人と慊人の世話役がお冠だった。2日連続で俺が外出した事が、許し難かったらしい。
白木と過ごした時間は非常に有意義だったので、もっと早く話を切り上げればよかったという後悔はしていない。
「兄さん、何か良い事あった?」
その日の夜。夕食の席に着いた建視は、純粋無垢な子供のような顔をして問いかけてきた。
「良い事かどうかは判らんが……白木と食事をした」
「おぉう!? もしかして……」
赤い瞳を輝かせた建視は喜色を浮かべる。俺と白木が交際する事になったと早合点したらしい。
「違うぞ。……紫呉が白木をからかったせいで、彼女が恥を掻いてしまったからな。詫びに食事に誘ったんだ」
「なぁんだ。それにしてもぐれ兄の奴、何やってんだ。別荘に行くために、仕事を片付けているんじゃなかったのか?」
「仕事の息抜きがてら、白木をからかいに行ったのだろう」
俺が推測を述べると、建視は顔を引きつらせて「うわ、サイテー」と言った。
確かにあいつは最低だ。建視が紫呉路線を辿らないようにするためにも、弟の脳味噌と心に反省と後悔をしっかり叩き込む必要がある。
「それより建視、俺に何か言い忘れている事はないか?」
笑顔のまま硬直した建視は言い逃れようとしたけれど、俺が視線で圧力をかけたら観念したように告白する。
「……ブラック春が学校で暴れた時、消火器を持ち出そうとして先生から注意を受けた」
「……それは初耳だな」
「えっ!? 鎌をかけたのか?」
「問題行動を起こしたのに、報告を怠った建視が悪い」
萎れたように項垂れる建視の姿は憐れみを誘うが、ここで俺が甘い顔を見せてしまったら弟のためにならない。
「夕食後に説教だ」
「そんな!?」