ツツジ色のダッフルコートを着た
「そんなに疲れる道程だったか?」
玄関に立つ本田さんは何故か息切れしていたので、白衣姿の兄さんが不思議そうに問いかけた。
本田さんは呼吸を整えながら、「いっ、いいえ……っ」と返事をする。
紅葉は小柄だけど歩くのは速いから、置き去りにされかけて急ぎ足になったのかな。
「こっ、こんにちは。あの……手ぶらですいません……」
「余計な気を回すな。
「りょーかい」
「ケンがお茶を用意するの? ボクがやろうか?」
僕がお茶を淹れると渋いか薄いかどちらかにしかならない事を紅葉は知っているから、不安に思っているのだろう。その心配は無用だ。
「お手伝いさんが出かける前に、お茶を用意してくれたから大丈夫だよ」
そう答えてから僕は1人で台所に行く。普段ならお手伝いさんが最低1人は常駐しているけど、今日は正月の準備に駆り出されているため、全員出払っている。
台所のテーブルの上には、お盆に載った湯呑みと茶托が4客、銘々皿に載った個包装のきんつばが4人分、用意してあった。魔法瓶の中で保温されている作り置きのほうじ茶を湯呑みに注いでから、お盆を持って話し声が聞こえる客間へと向かう。
待合室と診察室を兼ねている板敷の客間には、折り畳み式のパーテーションやカルテを収納する棚が置いてある。僕は水色のテーブルランナーを敷いた座卓の上に、茶托に載せた湯呑みと銘々皿に載せたきんつばを置く。
「どうぞ」
「あっ、ありがとうございます」
木製の高座椅子に腰掛けた本田さんは、既にコートを脱いでいた。黒のハイネックのカットソーと、淡いレモンイエローのハイウエストのミニスカートを合わせた私服姿だ。
「ほい」
「Danke!(ありがと!)」
背もたれ付きのベンチソファに胡坐をかいて座る紅葉は、自分専用のクリーム色のクッションを膝の上に確保していた。
「兄さんのお茶とお菓子は、診察机の上に置いていい?」
「ああ。……緑茶じゃないのか」
「ペットボトルの緑茶なら冷蔵庫に入っていたと思うけど。持ってこようか?」
「いや、いい」
キャスター付きの事務椅子に腰掛けた兄さんはきんつばを受け取り拒否したので、本田さんの対面に座っている紅葉に渡した。
「……とても静かですね」
「今日は『中』の人達、お正月の準備で奥の門にいるんだ。お正月ってみんなが集まる一大イベントだから、『外』の人も協力して大忙しだよ」
紅葉の話を聞いた本田さんは、不思議そうに首を傾げた。草摩家独自の「中」と「外」という用語の意味が、解らなかったのだろう。
僕は紅葉の隣に座ってから、本田さんの疑問に答える。
「本田さんが
「ええぇっ! そっ、それはすごい事です……!」
キョトンとした顔になった紅葉は「すごいの?」と疑問を発し、兄さんが「非常識ではあるな」と受け答える。
草摩の「中」での生活が当たり前だと思っていると、草摩家の非常識さに気付けないんだよな。
僕は師範の弟子兼秘書のみつ先輩に、「草摩家って忍者の隠れ里みたいだな」って言われるまで、遠縁も含めた親戚が1ヶ所に集まって生活するのは普通だと思っていたよ。
そういや師範は、いつになったら修行の旅から戻ってくるんだろう。などと思いながら、僕は説明を続ける。
「十二支にまつわる秘密を知る者達は、高い塀で囲われた『中』で暮らしている。以前はぐれ兄と
僕の説明に補足するように、兄さんが「逆に言えば」と言葉を受け継ぐ。
「十二支の秘密を知っているのは、一族の中でも少数の人間だけという事。そんな秘密を君のような赤の他人が知っているなど、とんでもない話だ。本来なら即、隠蔽処置を施すところなんだが、
隠蔽処置を担う兄さんは、現状の不自然さと危うさを誰よりも感じていたのだろう。兄さんは「それについて俺は俺なりに考え、ある答えも出した」と告げる。
「……君は
「え、あっ、はいっ、とても!」
「俺は出ていく事を勧める。これ以上、草摩に関わるな」
突然の拒絶の言葉にショックを受けたのか、本田さんは焦げ茶色の目を見開いている。
兄さんは本田さんのためを思って、苦言を呈しているんだけどな。突き放すような命令口調から、兄さんの気遣いを汲み取るのは難易度が高いか。
「紫呉はああいう奴だから何も言わないだろうが、物の怪に憑かれ続ける草摩家は君が考えるほど楽しいモノじゃない。奇怪で陰湿で、呪われている。いつか草摩と関わった事を後悔する前に、出ていけ。慊人は君を利用しようとしているんだ」
本田さんを利用しようとしているのは、慊人だけじゃないと思う。腹黒いぐれ兄が純粋な親切心で、草摩と無関係の本田さんを自分の家に住まわせる訳がない。
と、その時、玄関のチャイムが鳴った。
「急患かもしれないから俺が行く」
兄さんが退室すると、部屋に気まずい沈黙が下りた。
紅葉は診察机の上に置かれた写真立てをちらりと見てから、僕に視線を送ってくる。本田さんに
佳菜さんと長く接した僕が話すべきだろうけど、兄さんと彼女が深く傷ついた経緯は思い出すだけでも辛くて、冷静に話せる自信がない。
僕は紅葉に説明を任せて席を立ち、縁側に胡坐をかいて座る。診察机には優しく笑う佳菜さんの写真が今も飾られているから、彼女の話題が出ると何となく客間には居づらかった。
和風の造りとなっている中庭を眺めるともなく眺めていたら、紅葉が普段よりワントーン低い声で話し始める。
「……ハリィは恋人がいたの。カナっていって、ハリィの助手をしてて。とってもいい人で。ハリィとケンが物の怪に憑かれているのを知っても、構わないって笑っていた」
佳菜さんは小春日和のような女性だった。ちょっと天然が入っているけど屈託がなくて朗らかで、一緒にいると捻くれ者の僕まで温かい気持ちになれた。
およそ2年半前に佳菜さんと初めて会った日の事は、昨日の事のように憶えている。
――初めまして、建視君。私は草摩佳菜。同じ一族だけど私は草摩の『外』に住んでいるから、話をするのは初めてだね。今日から、はとりさんの助手として働く事になったんだ。よろしくね。
柔和な笑みを広げた佳菜さんは、握手を求めてきた。躊躇いなく差し出された手を見て、佳菜さんは僕の力を知らないんだなと思った。
盃の付喪神憑きの力を恐れる草摩の「中」の人達は、僕と接触するのを極力避ける。僕の父さんでさえ、僕に残留思念を読まれるのを嫌がって別居した。父さんが別居に踏み切った理由は他にもあるけど。
兄さんの助手として働くようになれば、そのうち佳菜さんは僕の力を人伝に聞いて、怖がって助手を辞める可能性が高い。
僕が抱いた懸念を兄さんに伝えたら、兄さんは「彼女は建視の力を既に知っている」と答えた。
驚いた僕は次に佳菜さんに会った時、疑問を直球でぶつけてみた。
――佳菜さんは俺が怖くないのか?
――建視君が力を使うのは、御当主様の命令を受けた時だけなんだよね? だったら、怖いとは思わないよ。それに建視君は好き好んで、残留思念を読んでいる訳じゃないでしょ?
僕をまっすぐ見つめてくる佳菜さんの澄んだ瞳に、怯えは見当たらなかった。
――ねえ。建視君は、雪が溶けたら何になると思う?
――は? 何だよ、いきなり。
――はとりさんにも同じ質問をしてみたの。建視君ははとりさんに面立ちがそっくりだから、もしかしたら同じ答えを言うかなと思って。
からかわれているのだろうか。そう思った僕は、兄さんが言いそうにない捻くれた答えを返した。
――土の上に積もった雪が溶けたら泥濘になるね。アスファルトの上に積もった雪が溶けたら、凍結道路になるんじゃないの。
――あははっ、建視君はリアリストだね。正解は『春になる』でしたーっ。
無邪気に笑う佳菜さんは裏表がなさそうに見えたけど、その時はまだ信用できない他人の範疇から出なかった。
善人のように見せかけておきながら、陰で悪事を働く者はいる。残留思念を読む力で人が隠している薄汚い面を知った僕は、他人を容易に信じてはいけないと学んでいた。
警戒心剥き出しな僕の素っ気ない態度にめげずに、佳菜さんはコミュニケーションを図ろうとしてきた。
人気のドラマやアイドルやスポーツ選手の話題を振ったり、手作りのお菓子を贈ってきたり。当時大流行していた1発ギャグを披露した時もあった。
――建視君は漫画が好きなんだよね? これは読んだ事ある?
佳菜さんが勧めてきたのは、『動○のお医者さん』という漫画だった。
ジャ○プとコ○コロ派の僕は、少女漫画を読みたいと思わなかったのだが。佳菜さんが「これはコメディ漫画だから面白いよっ。騙されたと思って読んでみて」と、しつこく……いや、熱心に言うので借りてみた。
借りた漫画を読んだ僕は、大いに後悔した。
少女漫画は全部、恋愛メインの甘ったるいストーリーの漫画という偏見を抱いていたせいで、名作に出会う機会をふいにしてしまった事に気付いたのだ。
それから僕は今まで読んだ漫画の感想を佳菜さんと語り合って、交流を深めた。
佳菜さんを完全に信用した訳じゃないけど、漫画を愛好する同志としてなら認めてもいい。僕がそんな風に思うようになったある日の夕飯時、兄さんが躊躇いがちに切り出した。
――建視、心を落ち着けて聞いてほしいのだが……。
――……もしかして、佳菜さんと男女の関係に……?
兄さんと佳菜さんの距離感が縮まったと感じていたので聞いてみたら、兄さんは軽く咳払いをして「まぁ、そういう事だ」と答えた。
――そういう事って、どういう事!? まさか、できちゃった結婚……?
――……建視は、俺が物事の順番を無視する不誠実な男だと思っていたのか。
怒りを滲ませた低い声で問い詰められ、僕は早口で「欠片も思っていません。言ってみただけです。ごめんなさい」と謝った。
――はぁ……とにかくだ、佳菜とは結婚を前提とした付き合いをしている。
滅茶苦茶モテるのに浮いた噂がなかった堅物な兄さんに、春が訪れた。
弟として祝福するべきだと頭では解っていたけど、兄さんの愛情を奪われる不安に駆られてしまう。
両親に愛されなかった僕にとって兄さんが与えてくれる無償の愛情は、太陽みたいに無くてはならないものだ。
だからといって2人の交際を反対したら、兄さんにお邪魔虫だと思われるかもしれないので、仕方なく認める事にした。
――えっと、おめでとう。
――祝ってくれるのか。
意外だと言わんばかりに、兄さんは深い青の瞳を見開く。
その反応を見て、気付かされた。兄さんの認識の中での僕は、佳菜さんとの仲を引き裂く小舅的ポジションにいた事を。否定できないけど悲しかったよ。
――兄さん、俺が反対すると思っていたの?
――……建視は小さい頃から、俺を慕ってくれているからな。俺が佳菜と交際すると知ったら、投げ遣りになって非行に走るのではないかと……。
――そんな事しないよ!
母親の再婚を認めたがらないマザコン息子かとツッコミを入れたくなったけど、この例えは皮肉が効きすぎていると思ったから心の奥底に封じた。
――はとりから聞いたよ。建視君は盃に変身するんだって?
佳菜さんは、僕の前でも兄さんを呼び捨てるようになった。
兄さんと佳菜さんの交際をまだ素直に認める事ができなかった僕は、必要以上に愛想よく笑って「そうだよ」と答える。
――人間が生物じゃないモノに変身するなんて、気味悪いだろ。
――うーん……変身した建視君を実際に見ていないから、何とも言えないなぁ。迂闊に変身すると危なそうだから、建視君をぎゅーって抱きしめる事はできないからね。
僕が変身した姿は見たくないと思っているなら、正直に言えばいいのに。そう思った僕は、不快感を隠さずに問いかけた。
――……なんで、俺が変身すると危ないって思うの?
――建視君が変身した時、打ち所が悪くてヒビが入ったり欠けたりするかもしれないでしょ。そうならないように対策を立てようっ。
――…………は?
――万が一の場合に備えて、建視君は普段から厚着をしていた方がいいと思う。でも、夏に厚着をするのはキツイよね。夏場の対策はどうしようってはとりに相談したんだけど、はとりは笑ってまともに取り合ってくれなくて……。
からかわれているのかと思ったけど、佳菜さんは大真面目だった。彼女は本気で僕を心配してくれている。僕は佳菜さんの事を良く思っていなかったのに。
佳菜さんは僕の敵意に気付いて戸惑いながらも、ずっと手を差し伸べ続けてくれていた。僕は自分の狭量さを情けなく思うと同時に、込み上げる喜びを噛み締める。
物の怪憑きじゃない人が、僕の事情を知った上で受け入れてくれるなんて夢にも思わなかった。
暗く閉ざされた
きっと兄さんも佳菜さんに救われたのだ。闇の中で見出した光を手放したくないと思ったのだろう。
それからしばらくして、兄さんが佳菜さんと結婚すると打ち明けてきた。
その頃には佳菜さんに対するわだかまりは無くなっていたから、僕は心から祝った。新婚夫婦の邪魔をしないように、紅葉の家に居候させてもらおうと考えていたのに……。
「――けど、アキトが怒った。すごく怒って結婚は反対だって許さないって暴れて、ハリィの目にケガさせてほとんど見えなくした」
慊人に結婚の許しを乞うために兄さんと佳菜さんが当主の屋敷に赴いた日、2人は心身共にボロボロになって家に戻ってきた。
兄さんは後遺症が残るほどの大怪我を負い、佳菜さんは錯乱状態に陥ってしまっていた。
慊人を制止しようとしたぐれ兄から聞いた話だと、慊人は佳菜さんに向かって「はとりの目が見えなくなったら、おまえのせいだ」と責め立てたらしい。
兄さんと僕は佳菜さんのせいじゃないと何度も言ったけど、慰めにはならなかった。
――建視君、ごめんね。私のせいで、取り返しのつかない事に……私ははとりの側にいたのに、あんな……ひどい怪我を……。わ、私は呪いも解けなくて、はとりを守ってあげる事もできなくて……ごめんね。私のせいで、本当にごめんね……。
自分を責め続けて心を病んでしまった佳菜さんは、兄さんの助手の仕事ができなくなった。佳菜さんが本家の一室で療養生活を送るようになった頃、慊人が兄さんに命じた。
愛する女性との大切な記憶を自分の手で奪わなくてはいけないなんて、どれほど辛いだろう。僕は誰かと深く愛し合った経験がないから、想像もつかない。
当時の僕は情けない事に、兄さんを気遣う心の余裕を持てなかった。盃の付喪神憑きである僕を受け入れてくれた佳菜さんから、僕と親しくなった記憶まで消えてしまう事が悲しくてやり切れなくて。
そんな事を言ったら兄さんが余計苦しむから口には出さなかったけど、他者の心の機微に敏感な兄さんは気付いていたと思う。
記憶を隠蔽された佳菜さんは見る間に回復し、兄さんの助手を辞めて草摩の「中」から出て行った。
以前のように笑えるようになった佳菜さんを見送った兄さんは、無言で涙を流していた。兄さんが人前で泣いた姿を見たのは、あの時が初めてだった。
「でも、ハリィはアキトを責めなかったよ」
「どうして……責めなかったのですか? はとりさんは辛くないはずないのに……」
本田さんの問いかけに、紅葉は暗い声で「それが呪いだから」と答えた。
神様と物の怪達は遠い昔に約束を交わした。幾度となく生まれ変わっても側に行く。離れない。遠くにいても会いに行く。永遠に一緒にいよう、と。
流石に何百年も前の記憶は残ってないけど、物の怪の血は約束をしっかり憶えている。
慊人は“神と十二支”の間には誰も断ち切る事ができない“絆”があると言っていたけど、当人がそれを重荷に感じたら、“絆”は
……だから、“絆”は呪いとも呼ばれる。
呪いに縛られているせいで、物の怪憑きは
自分の中の住むもう1人の
兄さんに怪我を負わせて佳菜さんに責任転嫁した慊人を責める事ができれば、佳菜さんの心の持ちようは変わったかもしれないのにできなかった。
「ボクもアキトが何考えているかはわかんないけど、ハリィの気持ちならちょっとだけわかるんだ。ハリィはもうカナみたいな
紅葉の脳裏に浮かんでいるのは、自分の母親だろう。マルグリットおばさんは
自傷行為に及ぶほど精神的に追い詰められたマルグリットおばさんを救うため、当時幼かった紅葉は母親の記憶から自分の存在が消される事を承諾した。
マルグリットおばさんは、紅葉の健気な心を最後まで知ろうとしなかったけど。
「あれ?! トール、泣いているの?」
紅葉の狼狽した声を聞いて、僕は客間を振り返った。高座椅子に腰掛けた本田さんが俯き、両手で顔を覆っている。
「ボクが泣かせちゃったの……? ごめん……ごめんね」
「違う……です。はとりさんがあんまり……優しい方だから……」
兄さんを憐れんで泣いているのかと思ったけど、本田さんは紅葉の話を聞いて、兄さんの解りづらい気遣いを察してくれたようだ。
足音が客間に近づいてきて、客人の対応を済ませた兄さんが戻ってきた。本田さんの泣き声を聞いて動揺したのか、兄さんは深い青の瞳を若干見開いている。
「私、皆さんと出会えてよかったです。もし、本当に何かに利用されて今の暮らしがあるのだとしたら、私はありがとうと言いたいです……」
「大丈夫ですよ」
軽薄な響きを帯びた低い声が聞こえた。深緑の羽織と黒の着物に身を包んだ
黒灰色の髪を無造作に伸ばしたぐれ兄は、退廃的な雰囲気を醸し出す艶やかな容姿の持ち主だ。ホント外面はいいんだよね、外面だけは。
「
胡散臭い笑みを浮かべたぐれ兄の言葉を聞いた瞬間、僕は反射的に「ダウト!」と叫んだ。
「随分なご挨拶だねぇ。けーくんは何を証拠に、僕を嘘つき呼ばわりするのかな?」
「ハゲている人を見かけたら『ツルツル』って言わないと自分も将来ハゲになるとか、風邪をひいた時は鼻にゴボウをさすと早く治るとか、慊人は吸血鬼だから肌が青白いとか、他にも色々数え切れないほど嘘を吐いたじゃないか」
「やっだな~。あれは嘘じゃなくてお茶目なジョークだよ、ジョーク」
すっとぼけやがって。兄さんは竜宮城の乙姫のペットだった過去を持つという、本人に知られたら激怒間違いなしの嘘を吐いた事をバラしてやろうかと思った矢先、本田さんが驚きの声を上げる。
「しっ……ぐれさん!? なっ、なぜここへ……」
「カンだよ、透君! 小説家たる者、第6感は鋭くないと!」
「嘘を吐くな。正月の準備の様子を見に来ただけだろう。あと慊人に会いに」
紅葉が「あの2人、ああ見えてマブダチなんだよ」と本田さんに話していたので、僕は「正確に言うなら腐れ縁だよ」と訂正を入れた。
「はーさん、心配性も度が過ぎるとハゲちゃうよ?」
「兄さんに心労を与えている張本人がよく言う……」
「あら、いやだ。はーさんの最たる心労の種になっているのは、けーくんだよねぇ?」
相変わらず人の痛い処を的確に衝いてくるな、この腹黒め。
兄さんが咎めるような声音で「紫呉」と呼ぶと、ぐれ兄は「はいはい、ゴメンネ~」と誠意が感じられない謝罪をした。
「話を戻すけど。慊人さんに悪意はないって何度も言っているのに、はーさんは少しも信用しないし、透君まで恐がらせて……ホントに出ていったらどうすんの?」
兄さんをさり気なく悪役にして、本田さんの信用を得ようとするぐれ兄は悪辣だ。
ぐれ兄に対する警戒を強めた方がいいと、由希ときに忠告しよう。……あいつらは僕の忠告を素直に聞き入れないか。
「あの、私……大丈夫です。心配してくださって、本当にありがとうございます。でも、まだ私はあの家で……」
本田さんの言葉を遮るように、兄さんが彼女の頭の上にデジタルカメラを置く。あのデジカメには、由希と夾の激レアなツーショットを撮影したデータが収まっている。
僕は文化祭から帰る道中にツーショット写真が欲しいと頼んだけど、兄さんに「2人の写真は取引材料にするからやれん」と却下されたのだ。
「忘れないうちに渡しておく。文化祭の時のカメラだ」
「え!? なぜですか!?」
「そういう取引だと言っただろう? 君がここに来るならば、このカメラを渡してやると」
反論したいのを我慢しているような本田さんの表情から察するに、兄さんは取引だと明確に言わなかったのだろう。
「本田さん、兄さんはマイペースな人だから大目に見て」
「は、はぁ……」
「それはそうと……まだ本田君を慊人に会わせていないか」
話を逸らすためか、それともマイペースな気質を発揮したのか、兄さんは出し抜けにとんでもない事を言い出した。
山の天気より機嫌が変わりやすい慊人に、本田さんを引き合わせるのはちょいと危険じゃないか。
本田さんも草摩家の当主と面会するのは、気が引けるみたいだし。慊人が兄さんの左目に怪我させたとか、本田さんを利用しようとしているとか聞いたら、そりゃ躊躇うよな。
「あ、ダメ。僕がさっき会いに行ったら門前払い。慊人さん、ゴキゲンナナメみたい」
ぐれ兄が余計な事をして慊人を怒らせたんじゃないか、と勘繰ってしまう。
戌憑きの従兄はおよそ1年半前に大問題を起こし、激怒した慊人に命じられて本家から追放された前科を持つ。僕はぐれ兄が何をやらかしたのか知らないけど。
追放という厳罰を下されるような事をしでかしたなら、普通の人なら気後れして本家に近寄れないと思う。
でも、ぐれ兄は心臓に毛が生えているから何事もなかったような顔をして、定期的に慊人に会いに行っている。
ぐれ兄との面会を慊人が拒絶しない処を見る限り、慊人の昔からのお気に入りというぐれ兄の地位は今も健在のようだ。
「気になさらないで下さい。それより……はとりさんと建視さんも、十二支のお仲間なのですねっ。何年なのですか?」
ぐれ兄と紅葉が揃って噴き出した。兄さんと僕の変身後の姿は、一部の十二支憑きの間で笑いの種になっているからな。
僕は気味悪がられるより、笑い飛ばしてもらった方がいいと思っているけど。兄さんは変身後の姿がコンプレックスになっているから笑うな、そこの犬と兎。
「いーい質問だ、透君! いやもうなんつーか、兄弟揃ってこれがまた笑えr」
「紫呉……4歳児からの貴様の恥ずかしい過去を、出版業界に流す……」
兄さんが殊更低い声で脅しをかけると、ぐれ兄は冷や汗をかきながら「ごめん、言えない!」と明言を避けた。ぐれ兄にも弱点はあるらしい。
「今日はすまなかった。……泣かせてばかりいるな、俺は」
泣かせてばかりいるという兄さんの言葉は、複数の人間を指しているように聞こえた。
兄さんが隠蔽術を施した事によって、大切な人との別れを余儀なくされて涙した人達――紅葉や由希、そして佳菜さんを。
他者の気持ちを汲み取る事に長けた本田さんも、兄さんが抱える罪悪感に気付いたようだ。
本田さんは気遣うような眼差しを兄さんに向けるかと思いきや、彼女は全てを包み込むような微笑みを浮かべる。
慈愛溢れるその姿は聖母のように見えるけど、本田さんは草摩の闇を全部理解して受け入れた訳じゃない。彼女はただ、自分以外の誰かが悲しい気持ちにならないように笑っているんだ。
……本田さんも佳菜さんと同じように、他人の気持ちを優先する人なのか。
由希と夾の関係が以前では考えられないほど落ち着いた事が不思議だったけど、本田さんのおかげかと納得した。
紅葉の母親の名前は独自設定です。