夾の右頬に殴られた痕があったから無事とは言えないが、最悪の場合、夾の幽閉が早まる事だってあり得たのだから、殴打程度で済んだなら御の字だ。
その日の夜、母屋のリビングの床に様々な花火が並べられていた。
「ロケット花火、線香花火……たくさんありますね……っ。
「ススキ花火……」
「
リビングにやってきた春が質問すると、ソファに腰掛けていた由希は「いや……
「明日の夜は、みんなで花火をしようって。俺はいいと思うんだけど……どうかな」
「……何故、明日なのですか?」
「ホラ……一応、明後日には帰る予定だろ……? 俺達」
「ぁああっ!!」
「は、はい。うっかり……っ。そうでした……よね」
「だから最後ぐらい、楽しい思い出で締め括りたいな……って。
由希の言葉を受けて、リビングにいた草摩家の面々がそれぞれリアクションを取った。
春は普段通りの無表情だけど、本田さんに視線を送り。本田さんに対してまだ素直になれない燈路は、気まずそうにそっぽを向く。杞紗は気遣わしげに本田さんを見上げながら、彼女の腕に縋った。
僕は申し訳なさそうな表情を作りながら、心の中でどうしようと思い悩む。
慊人が本家から何日も離れるのは、今回が初めてだ。
明日の夜になる前に慊人が帰ると決めたら、僕も強制帰還する事になる。
慊人は本田さん達に嫌がらせをするために僕が母屋に泊まる許可は出したけど、皆と花火を楽しむために僕が母屋に残る許可は出さないだろう。
本田さんに寂しい思いをさせたお詫びも込めて、皆で花火をして思い出作りをしようねって流れになっているのに、「慊人が帰るって言ったら僕も帰る」なんて言えないよ……。
水を差すような発言をする事態にならなければいいなと思っていたら、涙ぐんだ本田さんが「わ……っ、私は……私はそんな」とつっかえながら話し始める。
「私は……嬉しかったです……。皆さんと御一緒にこうして夏を……過ごせたこと。本当にただ……嬉しくて」
小さな喜びを噛み締める本田さんの言葉を聞いて、今回の避暑は本来ではあり得なかった事だと気付かされた。
僕の夏休みは、いつ任務が入るかと気が気ではない日々を送るのがデフォルトになっていたけど、それを気にせず皆と探検とかウノとかして遊んで楽しかった。
「ですから……花火っ、楽しみですね……っ」
あああ……どうしよう。更に言い出しづらくなったぞ。嬉しそうに微笑んで「……ん」と答える由希が、憎らしく思える。
「どかーんと打ち上げマショウ……。闇を切り裂くような……」
由希と本田さんだけの空間になりかけていたが、春の発言で元の空気に戻った。グッジョブ、春。
今度は杞紗と本田さんが微笑みながら見つめ合って、2人の世界を作っている。「あ!」と声を上げて立ち上がった燈路は、杞紗を取られまいと必死だな。
「モゲ太のアニメスペシャル始まる時間だっ。杞紗、観よっ」
「……うんっ。
「うん、観よう観よう」
僕が二つ返事で答えると、燈路が「人の恋路の邪魔すんなよ!」と言わんばかりに僕を睨んできた。可愛い杞紗に誘われたのに断れる訳ないでしょう、燈路坊ちゃん。
「あ……れ、紅葉お兄ちゃんは?」
「私が声をかけてきますですよ……っ」
そう言って、本田さんは立ち上がった。
さてと。モゲ太のアニメスペシャルの鑑賞に備えて、お菓子とジュースを用意するか。
▼△
Side:
夏は恋の季節。未然形カップルの親密度がぐぐっと上がるためには、刺激が必要。というワケで、避暑を楽しむ皆の中にスパイス代わりの慊人を投入してみたよ。
最近の由希は精神的に成長しているようだから慊人に反抗するかなと思ったけど、そこまでには至らなかったか。残念。
でも、慊人と接触した由希は精神的な打撃を受けたようには見えなかったから、着実に離反の道を進んでいるようで何より。由希が自分の支配下にあった子供のままだと思い込んでいる慊人が、哀れなほどお馬鹿で滑稽だよ。
慊人が夾を呼び出した時は一波乱あるかと期待したものの、穏便に収まっちゃったみたいだね。夾の内心は穏やかじゃなかったようだけど、
透君と夾はお互い惹かれあっている事は明らかなのに、中々くっつかないんだよね。見ていてジレジレしちゃう。やっぱり夾の行く末を透君に教えないと、事態は大きく動かないかなぁ。
「……結局、今回どうして
僕に背を向けて座っていた慊人に、嫌味混じりの疑問を投げかけた。
今まで
はとりは側に置いておかないと不安なのかもしれないと推測していたけど、僕は
「……別に。最近ちょっと調子悪そうにしていたから、少しぐらい休ませてあげようと思っただけだよ」
へぇ。僕には
「慊人さんはホントにお優しいですねぇ。建視が母屋に泊まる許可を出していましたし」
透君の私物から残留思念を読めと建視に命じるかと思ったけど、今のところ慊人が命令を出す気配はない。
建視が
あるいは……紅野を連れてきたから、建視が力を使う許可は出したくなかったりしてね。
勤務歴が浅い慊人の世話役の1人と
建視に残留思念を読まれたくない人の行動そのものだけど、建視は物の怪憑きの残留思念は読めないのに、なんでそんな事をする必要があるのかなぁ?
「建視を母屋に向かわせたのは、浮かれているブスと馬鹿に釘を刺すためだ。僕がその気になれば、いつだってブスを追い出せる事を解ってないみたいだからな」
1番解ってないのは慊人だ。
大昔に結ばれた“絆”なんて不確かなモノに縋っていても、人は繋ぎ止められないのに、いつまで経ってもそれを認めようとしない。
言い聞かせても無駄だと解っているので、僕はそれには触れずに言葉を続ける。
「確かに、慊人さんのさじ加減次第ですけどね。皆がストレスを感じているみたいなので、釘を刺すのはもう充分じゃないかと」
「なんで、馬鹿やブスを気遣ってやらなきゃいけないんだよ。僕の方が、ストレス溜まっているのに」
「それはまた……どうしました。また何か気に食わないことでも?」
「……あるよ、そんなもの。死ぬほど」
僕が「例えば?」と訊いたら、慊人は「……おまえが気に食わない」と率直に答えた。
「おまえ、優しくないんだよ、全然。全然優しくない」
慊人が求める“優しさ”は、先代当主の
僕は慊人の父親代わりになる気は毛頭ないから、そんなものを求められても困る。
「……優しくしているじゃないですか」
こちらを振り返った慊人は「もっとだよ!!」と声を荒げる。
「もっともっと……昔はもっと優しかった。僕だけを見てた。もっとちゃんと、もっと……」
釣った魚に餌をやらないでいると、他の男のところへ行かれてしまう。だから僕は僕なりに努力して、急ごしらえの後づけ品の“優しさ”を慊人に与えていたけど、それでも君は他の奴を選んだ。
だったら、優しくしたって無駄じゃないか。
僕が笑顔を取り繕うのを止めると、慊人はまさかと言うような表情になって僕の顔に手を伸ばしてくる。
「おまえ……やっぱり、あの女の……ことを」
嫉妬に駆られる慊人を良い気分で眺めていたら、襖を軽く叩く音に遮られた。心の中で舌打ちすると、紅野が「慊人」と呼ぶ声が聞こえて殺意が湧く。
人の恋路を邪魔する奴は犬に喰われて死ぬがいいという都々逸があるけど、僕はあんなヤツ食いたくない。馬形態のリンに蹴られて死んじまえばいいのに。
あ、タンマ。紅野が死ぬと慊人の中で永遠の存在になっちゃうかもしれないから、半殺し程度にしておいて。
「…………何」
「本家から連絡が」
僕から離れていった慊人は、戸口で紅野と話していた。紅野は小声で連絡を伝えているけど、僕の優秀なお耳はちゃーんと内容を拾っている。
ふぅん。楝さんとその世話役が、慊人は草摩から出て行ったと言い触らしているのか。
「また……勝手なことを……っ。誰が当主だと思ってる……っ」
「慊人が前に出たほうが、事は丸く収まると……」
「また暴れだしてしまいましたか? 楝さん」
僕が会話に口を挟むと、慊人はこちらを振り返らずに「……何」と訊いてくる。
「気になるの……?」
「邪推……ってヤツですよ、それは」
「…………紅野、行くぞ」
僕じゃない男を呼ぶ慊人の声は酷く耳障りで、何もかもぶち壊してやりたくなった。
▼△
Side:建視
『モゲ太とアリ』のアニメスペシャルは、原作に出てこないオリジナルエピソードを盛り込んだ回だった。
主人公のアリことアリタミス・ドンパニーナ・タイオスの生い立ちが知れて、『モゲ太とアリ』ファンとしては大歓喜&大満足のスペシャルだったな。
モゲ太が主人公だと考えている派の燈路と僕の意見が衝突して口論になったけど、杞紗が「どっちも主人公だよ……」と大岡裁きをしてくれたおかげで、僕は
楽しい気分に浸りながら紅葉とシェアした部屋のベッドで寝ていたら、不意に目が覚めた。朝になったから起きた訳じゃない。真っ暗だから今は夜中だろう。
それより、近くに慊人がいる気配がする。武道家の端くれである僕は気配察知に長けているとか言えたらカッコいいけど、実際は物の怪憑き特有の感覚だ。
魂の支配者である慊人が近くにいると、胸の奥がなんかザワザワするんだよね。慊人の感情が激しく揺らぐと、ザワザワが強くなるのだ。今みたいに。
嫌な予感がしたので、枕元に置いておいた携帯電話を掴んでベッドから下りる。そういや、紅葉はどこいった。薄暗い部屋の中にはいないようだけど。トイレに行っているのだろうか。
僕が寝室から出るのとほぼ同時に、夾も自分の寝室から出てくる。夾の表情が強張っているから、慊人が近くにいると感じたのかもしれない。
灯りの点いたダイニングルームに向かうと、由希と春が緊張した面持ちで窓際に立っている。
僕と夾も窓際に近寄って、カーテンの隙間から外の様子を伺う。ダイニングルームから近い庭先には慊人と、慊人を通せんぼするように両腕を広げて立つ紅葉の姿があった。
「気持ち悪いんだよ……!!」
慊人は罵声を浴びせながら、紅葉の顔を拳で殴りつける。一切手加減せずに力を叩き込んだのか、紅葉はよろけてガーデンフェンスに倒れかかった。
まずい。何があったか知らないけど、慊人が不機嫌MAXだ。
僕は携帯電話を素早く操作して、慊人は母屋にいるから早く連れ戻しに来てほしいと兄さんに知らせるメールを作成する。その間も慊人の怒号が響く。
「理解……? 理解……!? 見下したいだけだろ! 自分が優位に立てる理屈で、僕を定義づけたいだけだろ!!」
「やめてください……!!!」
悲鳴じみた声を上げながら庭に出てきたのは、パジャマ姿の本田さんだ。
僕は思わず「なんで外に……」と言葉を漏らし、由希と春は驚愕と警戒を浮かべ、夾は焦った声音で「透……っ」と呼ぶ。
「やめてください……っ」
驚いた慊人が紅葉の胸倉から手を放した隙を衝き、本田さんは2人の間に入った。
自分の体を盾にして紅葉を庇う本田さんを見て、僕の中で不安と恐怖が膨れ上がる。
左目に後遺症が残る大怪我を負った兄さん、錯乱状態に陥った
本田さんに向かって逃げてと叫びたいけど、迂闊な真似はできない。彼女を守ろうとする行為が慊人の怒りを買ったら、慊人が本田さんに暴力を振るう恐れがある。
「……『やめて』……? 僕に命令する言葉だ。ひどい……ひどい、君、
慊人の声はそんなに大きくなかったけど、夜の静けさに包まれているせいか僕の耳に届いた。
違う、本田さんは優しい人だ。
心の底からそう思うのに、僕の口から反論の言葉は出ない。というか出せない。僕の胸の奥にいる盃の付喪神が、本田さんを罵る慊人を全肯定しているから。
――慊人を裏切るな
物の怪の血と僕の意思が対立する時、心がバラバラになりそうな錯覚を覚える。
由希と夾と春も似たような思いを味わっているのか、辛そうに顔を歪めた。外にいる紅葉は両手で顔を覆っている。
「でも透? 本田透、僕は君に会いに来てあげたんだよ。どんなに失礼な態度をとられようとも……君に、君に伝えたいことがあるんだ」
そう言いながら慊人は両手で、本田さんの顔を乱暴に掴んで引き寄せる。
「いい気になるなよ……下種」
見かねた夾が外に出ようとしたけど、春が夾の腕を掴んで制止した。
「放せ、春……っ」
「俺達が止めに入ると逆効果だ」
春の言う通り、僕達が本田さんを庇うと慊人が激昂する可能性が高い。下手をしたら……本田さんが佳菜さんの二の舞になってしまう。
それに僕達が出て行っても、慊人に「動くな」と命じられたら何もできなくなる。慊人に言い聞かせる事ができる兄さん達が来るのを、待つしかない。
……本田さんは僕の友達なのに、
「兄さんに連絡したから、もうすぐ来るはずだ」
己の無力さを痛感しながら僕が告げると、猫憑きの従弟は「くそっ」と悪態を吐いた。
春は夾が我慢できなくなる事態を危惧して、夾の腕を掴んだままだ。由希は外をじっと見据えながら、拳を強く握り締めている。
僕達が様子を窺っている事に気付いてないのか、紅葉はその場から走り去った。恐らく、兄さん達を呼びに行ったのだろう。
「由希や建視や夾を救えたなんて思ってるなら、今すぐその思い上がりを恥じるがいい。教えてやるから。……教えてやるよ。夾はね、高校を出たら幽閉……だよ。先の猫憑きと同じように、一生」
由希と春も知っているのか、驚いてはいない。2人の表情は暗く沈んだけど。
「……畜生っ」
小声で毒づいた夾は、自分の行く末を本田さんには知られたくなかったのだろう。
優しい本田さんが、夾の
夾は「外」に出られる残りの期間は、本田さんと楽しく過ごそうと思っていたはずだ。草摩の闇を知って心を痛めた本田さんに、憐憫の目で見られるのは不本意だろう。
「由希も建視も、草摩の中で僕の側で、みんな生きて……死ぬ」
解っていた事だけど、慊人の口から出た言葉を聞くと現実を目の前に突きつけられる。
本田さんと一緒に過ごす時が、どんなに楽しくても。花島さんと一緒に過ごす時を、どんなに大切に感じても。
「十二支はみんな……同じ場所で同じ速度で生きていくんだ。奪うことはなく、奪われることもなく、いつまでも……変わることなく」
佳菜さんと別れた時から、時間を止めたような状態になっている兄さん。僕も兄さんと同じように、想いを封じ込めて生きる事になるのだろう。
……いや、同じじゃないか。
兄さんは佳菜さんと愛し合ったけど、僕は花島さんへの想いに気付かない振りをしている。
こんなに異性に惹かれたのは初めてだから、怖いんだ。花島さんは僕の力を受け入れてくれたけど、僕が変身した姿を見たら拒絶するかもしれない。
奇跡的に花島さんが
「倖せな未来、終わり無き宴。……不変」
僕より悲惨な境遇の
これが倖せな未来か。
倖せの形は人それぞれという言葉をどこかで聞いた事があるけど、僕の倖せは目を背けたくなるほど醜悪な形をしているに違いない。
「でもおまえは、仲間に入れてやらないよ」
本田さんを拒絶する慊人の言葉に、胸の奥で賛同の声が上がる。不快感と悔しさに耐えかねた夾が、「くそが…っ」と悪態を吐いた。
「それは……それは本当に“倖せ”……ですか? 閉じ込める……ことが……草摩のお家に戻ることが……本当に?」
ここまで率直に慊人に問いかけたのは、本田さんが初めてだろう。
慊人は本田さんの顔から手を放したけど、彼女の髪を一房掴んでいる。
「……さも『悪い事』のように言うのは、やめてくれないか。他人の君と
「……あなたは……“誰”ですか……? あなたは
本田さんの言葉を遮るように、雨が降り始めた。慊人は手を伸ばして、本田さんの頬に触れる。
「……僕は
「慊人……っ。風邪をひく……」
紅野兄がやってきた。最悪の事態は免れたかと、僕は胸を撫で下ろす。
「……ごめん、紅野。どうしても挨拶しておきたかったんだ。もう戻るよ……」
慊人は紅野兄に縋りつきながら、「ああ……そうだ。紹介しておくよ」と言う。
「彼は草摩紅野。……
それを聞いて僕は驚く。慊人が人目に触れさせたくないと思うほどのお気に入りである紅野兄を、本田さんに紹介するとは思わなかった。
「初め……まして」
「え……あっ、はっ、初め……まして」
紅野兄との面通しも済んだから、これで慊人は引き上げるかと思いきや。
慊人は本田さんに再び近づいて、彼女の耳元で何か囁きかけている。小声だから何を話しているのか聞き取れないけど、友好的な内容じゃない事は明らかだ。
「建視! 今すぐ僕の所に来い」
本田さんから離れた慊人に呼ばれ、僕は「わかった」と答える。
僕は寝巻きとして着用している浴衣姿だけど、今すぐと言われたから着替える暇はない。携帯電話は持っているし、寝る時も手袋はつけているから最低限の支度はできている。
「本田さん達には、また今度花火をしようって伝えておいて」
由希と夾と春に伝言を託してから、僕は玄関に向かってスニーカーを履く。
小雨が降りしきる外に出たら、兄さんやぐれ兄と鉢合わせた。兄さん達の後ろには、この世の終わりみたいな顔をした紅葉がいる。
「けーくんは、これからお仕事かな? 大変だねぇ」
ぐれ兄が慊人を誘ったせいで、紅葉は慊人に殴られたのに。夾も慊人に殴られて、自分の行く末を本田さんに知られてしまったのに。本田さんは慊人に暴言を吐かれて、知るべきではない事を知る羽目になったのに。
腹立つなぁ。兄さんはぐれ兄に仕返しなんかしても無意味だと言っていたけど、ぶん殴ってやりたい。
僕が拳を握り締めた時、慊人と紅野兄が庭の方からやってきたので僕はそちらに向かう。
その瞬間、背後から強い視線を感じた。
僕が振り返って確かめると、さっきとは打って変わって酷薄な雰囲気を纏ったぐれ兄が、紅野兄を鋭く睨みつけている。
……普段みたいにヘラヘラしているから全然判らなかったけど、ぐれ兄は気が立っていたらしい。
殴らなくてよかった。ぐれ兄の家で花火大会をする時、場所提供してもらえなくなるからな。