任命式の翌日の日曜は、
2日連続で
「ヴァイオリンの練習をしていたのか?」
ウサギグッズまみれの紅葉の部屋に入ったら、ローチェストの上に美しい飴色をしたヴァイオリンと弓が置いてあった。
「練習ってほどでもないよ。メンテナンスを兼ねて、軽く弾いていただけなの」
紅葉はそう言いながら、大切な宝物を扱うように愛用のヴァイオリンに触った。
あのヴァイオリンは紅葉の父親の
楽器を与えた父親が、紅葉から演奏する楽しみを奪うなんて残酷だ。
総嗣おじさんは紅葉の気持ちに全く配慮してない訳じゃないようだけど、紅葉だけに我慢を強いる事がないように対処できなかったのかと今でも思う。
僕が総嗣おじさんに対する怒りを再燃させたのを感じ取ったのか、紅葉は明るい声で話す。
「でも、せっかくだから1曲弾こうかな。ケン、何か聞きたい曲ある?」
「そうだな……『君を○せて』がいいな」
湖畔の別荘に行くバスの車内で、本田さんがカラオケで披露した持ち歌の1つだ。紅葉はいつか
「Ja,ist gut!(うん、いいよ!) せっかくだからケンが歌ってよ」
普段の稚気たっぷりな顔から一変して真剣な表情になった紅葉は、『天○の城ラ○ュタ』のエンディングのイントロから奏でた。
この部分を聞くだけで、シータやパズーとドーラ一家の別れが目に浮かんで泣けてくる。おっと、浸っている場合じゃない。歌い出しを合わせないと。
『君を○せて』の二重奏を終えた時、庭を区切る竹垣の陰からここにいるはずのない人が出てきた。
「本田さん!?」
「えっ? トール? ホントだ、トールだっ!」
ローチェストの上にヴァイオリンと弓を置いた紅葉は、一足飛びに窓へと駆け寄って鍵を開ける。
部屋の中に招かれた本田さんの服は、あちこちが汚れていた。どこを通ってきたのだろうか。それより気になるのは。
「……トール? どうしたの?」
「…………ヴァ……イオリン、お弾きになるのですね」
悲しみに打ちひしがれたような面持ちの本田さんは、言葉を振り絞るように質問を発した。
「うんっ。高校入ってからサボリギミなんだけどねっ。ずっとついてた先生のトコもやめちゃったしっ」
「え……っ。やめてしまわれたのですか……? で……ですが、ヴァイオリン……続け……ますよね?」
問いかける本田さんの表情から、動揺と焦燥が見て取れた。普段の本田さんなら紅葉を気遣いながら、優しく励ますだろうに。
なんだか様子が変だ。何かあったのか?
一方、紅葉は本田さんの必死な気持ちを感じてか、微笑みながら事情を話す。
妹のモモちゃんも同じ先生について、ヴァイオリンを習い始めた事。総嗣おじさんは直接言わないが、本音では紅葉にヴァイオリンをやめてほしいと思っている事。
「……パパ、恐いんだ。ボクがモモやママに近づくのが……恐いんだね……」
父親の心情を語る紅葉の顔には、諦観が浮かんでいる。
「死にもの狂いで築きなおした倖せを、もう壊したくないんだ。もう傷つきたくないんだ。会うことで傷つくのが、恐いんだね……」
紅葉の話を聞く本田さんから、表情が抜け落ちた。まるで希望を絶たれた人のように見えて、不安になる。僕が言葉をかける前に、本田さんはか細い声で、「……けれど」と言う。
「モモさんは会いたがっていました……モモさんが……実はモモさんがここまで私を……案内して下さったんです」
モモちゃんが紅葉に会いたがっている事を総嗣おじさんが知ったら、総嗣おじさんは気を揉みすぎて胃を痛めそうだ。
というか、モモちゃんはどうやって
そういや草摩の子供達の間で、秘密の入り口と呼ばれる抜け穴があったな。「中」と「外」を区切る塀の一部に開いた穴は、僕が小さい頃から今までずっと放置されていたのか。
それより、本当に秘密の入り口を通ってきたなら、本田さんは不法侵入になるんじゃ……。誰かに見つからなくてよかった。
「本当です、本当なんです。モモさんはちゃんとご存知だったんです。ずっと、ずっと……っ」
必死に訴える本田さんは、ボロボロと涙を流していた。
悪い意味で草摩家に順応している僕は、泣く程の事だろうかと思ってしまう。実の兄妹なのに会う事ができない紅葉とモモちゃんは不憫だけど――と、思ったとき気付いた。
本田さんは、亡くなった両親に会いたくても会えない。だから、会いたい相手がこの世にいるのに会えないでいる2人を見て、非常に遣る瀬無い思いに駆られているのか。
「紅葉君をずっと見ていらしたんです。紅葉君がずっと、ずっと見守っていらしたように、モモさんもヴァイオリンを聴いていらしたんです……っ」
モモちゃんやマルグリットおばさんに近づく事を禁じられている紅葉は、母親と妹の元気な姿を陰からこっそり見るため、父親の自社ビルに遊びに行っている。
本田さんがそれを知っているのは、総嗣おじさんが社長を務める会社が所有するビルで清掃のバイトをしているからだろう。
「お話が……したいと、一緒に遊びたいと、おに……っ、お兄さん……お兄さんになっては下さらないのかと……っ」
紅葉の外見はマルグリットおばさんにそっくりだから、幼いモモちゃんでも血の繋がりを感じ取ったようだ。
もしかして総嗣おじさんが紅葉とモモちゃんの接触を極度に恐れるのは、紅葉は自分のお兄ちゃんじゃないのかとモモちゃんが発言したからだったりして。
「ホントだったんだ……パパが……モモはボクを気にしてるって……そっか、見てたんだ……」
妹を慈しむ想いが一方通行ではなかったと知った紅葉は涙を浮かべて、「どうしよう、嬉しい……」と呟く。
「トール、ボクの夢はね。ヴァイオリン弾きになるコトなんだ。ヴァイオリン弾きになって小さなコンサートを開いて、そこにパパとママとモモが聴きに来てくれたなら」
家族がみんな息災で家庭円満な人であれば、努力すれば叶えられる夢だけど。物の怪憑きの紅葉にとっては、大海を手で塞ぐようなものだ。
「ありがとう……モモ。ボクが今嬉しいって、こんなに嬉しいって思えるのは、ボクの代わりに泣いてくれる人がいるからだね……」
明るい茶色の瞳に涙を浮かべた紅葉は、本田さんの前にしゃがみ込んだ。
「会わなければ……どうしても」
両手で顔を覆っていた本田さんが涙声を発すると、微笑んだ紅葉は静かに問いかける。
「会う……? 誰に? 誰に会いにきたの?」
「
「どうして紅野兄に会わなきゃいけないんだ?」
僕が口を挟むと、本田さんは申し訳なさそうな表情になって話し始める。
「クレノさん……にお会いしたくて、ずっと待っていらっしゃる方がいて。それは……もしかしたら、草摩紅野さんかもしれなくて……確かめたくて……」
ずっと待っているという言葉を聞いて、もしや思った。
「
「な、何故に、うおちゃんだとお解りになったのですか?」
「魚谷さんはコンビニで出会った男性と再会できずにいるって聞いたから、もしかしてと思って。でもコンビニの君は、本田さんに似ている事以外は解らないんじゃなかった?」
「そ、それが……」
本田さんは躊躇いながらも話してくれた。
どうやら魚谷さんは夏休み中に、街中でコンビニの君と偶然再会していたらしい。魚谷さんはコンビニの君と一緒に蕎麦を食べて少し話をした時、彼の名前と年齢と変わった事情を知ったようだ。
「うおちゃんが会いたがっていらっしゃる方のお名前はクレノさんで、お歳は26歳で、コンビニで買い物をしたのは初めてだったそうです……」
コンビニの君は紅野兄である可能性が高いと思ったけど、本田さんに伝えるのは躊躇われた。彼女が確信を得てしまったら、紅野兄に会いに行こうとするかもしれない。
本田さんが紅野兄に近づく危険性は紅葉も解っているはずなのに、卯憑きの従弟は「全部、クレノにあてはまっていそうね」と答えた。
「ほ、本当ですか!?」
「うん。クレノは26歳だし、仕事以外での外出はしないってウワサで聞いたよ」
「余計な外出をする必要はない紅野兄が、コンビニに行くとは思えないけど」
本田さんを思いとどまらせる意味も込めて言ったら、紅葉が「それはクレノに聞いてみないとわからないよ」と言い返す。
「聞くって言ったって、奥の屋敷で生活している紅野兄にどうやって会うんだよ。それに紅野兄に接触するなって、
「紅野さんがいらっしゃる場所を教えて頂ければ、私が会いに行きます……っ」
「待って、本田さん。途中で誰かに見つかったら厄介な事になるよ」
本田さんの不法侵入がバレたら、警察沙汰になる恐れがある。前科もしくは前歴がつくと、彼女の就職活動に支障が出てしまう。
紅野兄と本田さんが会っている現場を、慊人に見られた場合はどうなるか考えたくもない。
「ありがとう……ございます。心配してくださって。……ですが、ごめんなさい。勝手な事と解っていますが、私はどうしても紅野さんにお会いしたいのです……」
スカートを握り締めた本田さんは、必死な面持ちで言葉を続ける。
「うおちゃんは弱音を簡単に口にしては下さらなくて、バイト先を変えられてしまって。けれど……けれど、クレノさんにお会いできない事は、本当に悲しそうで、さびしそうで……っ」
「トールはアリサのために、コンビニノキミがクレノかどうか確かめにいくんだね」
「ちが……違うです……。そんな……立派な事では、ないんです。私が……勝手に、頼まれてもいませんのに、私1人で勝手に確かめようと……思って。ごめん……なさい」
魚谷さんに頼まれた訳でもないのに草摩家に侵入した本田さんの行動は、自分勝手で無謀だと非難されてもおかしくない。
だけど、本田さんを突き動かした行動理由は、紅葉やモモちゃんを思って泣いたのと同じ気持ちだろうと思うと、非難できなかった。
「ボクも行くよ」
「紅葉君……ありがとうございます。ですが、これ以上の御迷惑をお掛けする訳には参りません。私は……大丈夫です。それに
滅多な事では落ち込みを表に出さない紅葉が、沈んでいる。大好きな本田さんの力になれない自分の無力さを、痛感しているのだろう。
せめてもの助けになればと思い、僕と紅葉は人に見つからなさそうな裏道を紙に書き出して、本田さんに渡す。
「もしも誰かに見つかったら、ボクの名前を出すんだよ。絶対に、絶対にだよ」
「本田さん、僕の名前も忘れずに出してね」
連帯責任って事にすれば、慊人の怒りは分散されるかもしれない。そう考えて提案すると、紅葉は大丈夫かと言いたそうな視線を僕に投げかけてきた。
事が露見して慊人の怒りを買ったら仕置きを受けるだろうが、僕は金の卵を産む鶏扱いされているから多分大丈夫だ。紅葉は自分の心配をした方がいい。
「紅葉君、
本田さんは何度もお礼を述べてから、竹垣に囲まれた道を小走りで進んだ。
……大丈夫かな。本田さんが無事に紅野兄の部屋の近くに辿り着けたとしても、紅野兄が話に応じてくれる保証は無い。
僕の幼少期の記憶に残っている昔の紅野兄は、穏やかで優しい人だったと思うけど。
慊人に取り立てられた後の紅野兄は、慊人しか目に入らないと言わんばかりの素っ気ない態度を取るようになった。
紅野兄と接する機会が極端に減ったせいだろうか。その頃から
紅野兄も
紅野兄に咎められた本田さんが僕と紅葉の名前を出したとしても、酉憑きの従兄が見逃してくれるかどうか……。
僕と同じ危惧を抱いたのか、紅葉が「やっぱりボクも行く」と言い出した。
「紅葉……」
「ボクはトールのこと大好きなのに、1人で行かせちゃった。……トールになにかあったら、この先ずっと後悔する」
そう話す紅葉は、いつになく大人びた顔をしていた。
本田さんと出会ったばかりの頃は「トールはMutti(ママ)みたいで安心するっ」と言って、彼女に甘える気持ちが大きかったように思えたけど。いつの間にか紅葉は、本田さんを異性として愛して守りたいと決意を固めていたのか。
「行くなって言っても行くんだろ。それなら……僕も一緒に行くよ」
「ケン、ダイジョーブ?」
隠し切れなかった恐怖の色を僕の表情から読み取ったのか、紅葉は心配そうな声を出した。
本田さんにいざって時は僕の名前も出してと言った時は、特に異変は感じなかったのに。
慊人の命令に背いて紅野兄に近づこうと考えた途端、僕の胸の奥にいる盃の付喪神が“慊人を裏切るな”と強く訴えてくる。
激しい罪悪感が強制的に呼び起こされて、気持ち悪い。物の怪による精神的圧力に打ち勝った紅葉は、本当に凄いな。
「正直言って、大丈夫じゃない……けど」
別荘で僕達が傍観に徹したせいで、本田さんは顔に傷を負ってしまった事を、
この上、本田さんが危機に陥るのを見て見ぬ振りしたら、花島さんは口をきいてくれなくなるかもしれない。
それは嫌だと思う僕の心を揺さぶるように、彼女は師範に想いを寄せていると囁く声が聞こえる。
いっそ無視された方が諦めがつくんじゃないか、と。
ふざけるな。初めて本気で恋した女の子に最低な人間だと思われて見放されて、それで良かったなんて思える訳ねぇだろが。
「本田さんに何かあったら、今度こそ花島さんに顔向けできなくなっちまう」
「それじゃ、一緒に行こっ」
「紅葉は帽子をかぶっとけよ。金髪目立つから」
僕の赤髪は更に目立つので、フードをかぶる。パーカーを着てきて良かった。
紅葉と2人で本田さんに教えた裏道を進んだのだが、行けども行けども本田さんの姿は見当たらない。誰かに見つかってしまったのか? いや、そうだったら騒ぎになっているはずだ。
「本田さんは迷子になったのかもな」
「……そうだね。ベツベツに捜そう」
紅葉は紅野兄の部屋の近くに向かい、僕は慊人の部屋の近くに向かう。途中で慊人の世話役のお局様に見つかりそうになって肝が冷えたけど、石灯籠の陰に隠れてやり過ごした。
本田さんの捜索を再開した時、ジーンズのポケットに入れていた携帯電話が震える。紅葉からメールだ。よかった、本田さんは無事見つかったのか。
「建視……?」
名前を呼ばれて驚いて声を上げそうになったけど、何とか堪えた。屋敷の外に出ていたのか、革靴を履いた紅野兄がこっちに近づいてくる。
「……やあ、紅野兄。久しぶりだね」
「何でこんな処に……もしかして、紅葉と同じ用件?」
「そうだよ。彼女には会った?」
名前を出さなくても本田さんの事だと通じたらしく、紅野兄は悲しげに目を伏せる。この反応から判断するに、コンビニの君は本当に紅野兄だったのか。
「建視は慊人の許可を得ずに、俺と会ってはいけないはずだ。早くここから立ち去るんだ」
すぐに表情を消した紅野兄は、感情を載せてない淡々とした声で告げた。
紅野兄は喜怒哀楽が無い訳じゃないのに、なんで感情を表に出さないようにしているんだろう。私生活でも滅私奉公を心掛けないと、慊人の側近としてやっていけないとか? 勘弁してくれ。
卯憑きの従弟の家に戻ったら、紅葉が本田さんにタオルを渡していた。僕が忠告した通りに本田さんは草の中を歩き回ったようで、さっきより服が汚れている。
「本田さん、紅野兄に会えたみたいだね」
「あ、はい……紅野さんはうおちゃんが会いたがっていらしたクレノさんでしたが、うおちゃんに会うつもりは無いとおっしゃっていました」
しょんぼりしたように肩を落とした本田さんは、「ですが……」と言葉を続ける。
「明日目が覚めたら、会いたくなるかもしれません。明日じゃなくて明後日でも……1年後かも……10年後かもしれませんが、生きている限り何か起こり続けますから」
大好きなお母さんに二度と会えない本田さんは、どんなに努力しても叶わない願いがある事を身に染みて知っている。会いたい人がこの世にいても、会えない場合もあると薄々悟っているだろう。
それでも諦めずに、希望を繋ごうとする姿勢は尊いと思うけど。今回本田さんが思い切った行動に出た事は、僕にとって懸案事項になってしまった。
本田さんは夾を助けるため、草摩家に再び侵入する可能性が高い。秘密の入り口を塞いだとしても、紅葉か由希が彼女に手を貸すだろう。
僕はその時、本田さんと慊人のどちらに味方するのか。
――だからね、建視。夾が帰ってこなかったら、建視を……。
やめろやめろヤメロ!
沼の泡のようにいきなり脳裏に蘇った慊人の言葉を、鍵のかかる箱の中に封じ込めて意識の底に沈めた。
ああ、クソ、思い出さないようにしていたのに……。
「紅葉君、建視さん……今日は本当に、ご迷惑をお掛けしてしまい……」
「どうして? ボクには全然メーワクじゃないよっ」
「そうだよ、気にしないで。夏休みに別荘で、『この埋め合わせは必ずする』って言ったからね」
それでも本田さんは申し訳なさそうにしているので、紅葉が話題を変える。
「それにモモのコト教えてくれて、ボク嬉しいものっ。お礼したいものっ。そだっ。ねっ、いつかトールの為だけのコンサートとか、開いちゃおっか!?」
「え!? でっ、ですが、あの……私、クラシックはよく……知らなくて……」
「あははっ、ダイジョーブっ。トールの好きな曲を弾くよっ」
タオルを握り締めて考え込んだ本田さんは、「願い……」と呟いてから顔を上げる。
「星に……願いを」
本田さんの好きな曲というより、本田さんの祈りが籠った選曲だな。紅葉は微笑んで、「練習する」と答える。
普段なら本田さんと紅葉の純粋さを目の当たりにすると羨望の気持ちを抱くのに、慊人の言葉を思い出したせいで吐き気のするような後ろめたさを感じた。