神様と十二支と猫と盃と《完結》   作:モロイ牛乳

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65「変わろう?」

 Side:建視(けんし)

 

 

 6月9日の午後、紅葉(もみじ)が当主の屋敷にやってきた。慊人(あきと)と話をするために来たらしい。

 慊人は人払いをしたから、僕と紅野(くれの)兄と世話役達は同席できなかった。隣の部屋で聞き耳を立てる事も禁止する念の入り様だ。

 

 紅葉は慊人と何の話をしているのかな。

 今朝会った慊人はいつにも増して気持ちが沈んでいるように見えたから、神経を逆撫でるような事は言わない方がいいと思うけど。

 僕が廊下で待機していたら紅葉が向こうから歩いてきた。

 話し合いは終わったらしい。紅葉の頬に打たれた痕があるから、無事にとは言えないけど。

 

「紅葉、大丈夫か?」

「ダイジョーブだよ」

 

 すっかり低くなった声で応じた紅葉は、いつも通りの明るい笑みを見せた。

 ……いつも通りか? しばらく紅葉に会っていないせいか、なんだか別人みたいに見える。

 

「紅葉……何かあったのか?」

「何かあったのはケンのほうでしょ」

 

 ぐっ。僕が今まで紅葉を避け続けたツケが、こんな処で回ってくるとは……。

 

「ケンはいつまで()()にいるつもり?」

 

 紅葉の気遣わしげな言葉が、何故かよそよそしく聞こえた。違和感を覚えながら僕は淡々と答える。

 

「ずっとだよ」

「みんな待っているよ?」

 

 花島(はなじま)さんの姿が思い浮かんだ。決心が鈍るといけないから、彼女の面影を頭の中から締め出す。

 

「もう決めたんだ」

 

 悲しそうに眉尻を下げた紅葉は「そう……」と言ってから、心を覗きこむような澄んだ眼差しを向けてくる。

 

「じゃあ、自分以外の(だれか)にサキを奪われてもいいんだね?」

 

 花島さんの名前を本家(ここ)で出すなと言う代わりに、僕は苦々しく「別にいいよ」と言う。

 

「ウソつき。ねぇ、ケン。自分にウソつくのって辛いよ」

 

 ああ、知っているよ。

 

「ケンのための倖せは、まだこの先の未来でケンが来るのを待っているかもしれないんだよ。だから、諦めるのは良くないよ」

 

 うるさいな。知った風に言うなよ。()()()が僕の何を知っているって言うんだ。

 ()()()紅葉ならともかく……と思った瞬間、疑惑のピースが集まって形を成していく。

 

 紅葉が別人のように見えたのは何故だ? 紅葉の気遣いがよそよそしく感じたのは何故だ?

 紅野兄が依鈴(いすず)を連れ出す事はできないと言った真意は? 慊人はどうして紅野兄を十二支の仲間にも会わせず、仕事以外の用事での外出を許さないのか――。

 

「まさか……解けた……のか?」

 

 苦笑を浮かべた紅葉は、何も言わずに立ち去った。

 自由になった紅葉を妬む気持ちは、不思議と起こらない。僕の心を占めていたのは、何かとんでもない事が起こるのではないかという予感だった。

 

 

 

 その翌朝。僕が当主の屋敷に出勤したら、騒ぐ声が聞こえた。慊人の世話役が「止まりなさい!」とか叫んでいる。

 何が起きているのか解らないまま慊人の部屋に向かうと、廊下を走る(れん)さんというレアな光景を目の当たりにした。

 しかも犬猿の仲である慊人の世話役と楝さんの世話役が、一緒になって楝さんを追いかけている。

 

 ナニコレ……って、驚いている場合じゃない。楝さん、刃物のようなものを持っていたぞ。

 僕が慊人の部屋に辿り着くと、楝さんが窓辺にいる慊人に果物ナイフを向けていた。

 

(あきら)さんを返して……っ。箱のことよ……知ってんのよ」

 

 僕が箱を取ってくると言ったのに。楝さんは僕を信用していないから、自分で奪おうと思ったのだろうか。

 ……楝さんの様子が明らかにおかしいから、誰かが楝さんを刺激するような事を言ったのかも。

 一昨日、当主の屋敷を訪れていたぐれ兄のしわざかと思った時、慊人が窓辺に置いていた黒漆塗りの箱を掴んだ。

 

「そんなに欲しけりゃくれてやるよ! こんなモノ……っ」

 

 畳に投げ捨てられた箱を拾った楝さんは果物ナイフをそこらに放り投げ、喜色を浮かべながら朱色の紐をほどいて蓋を開ける。

 何が入っているんだろう。晶さんの遺髪とかだろうか。

 

「……? 空っぽだわ……」

「そうだよ、空っぽだ。初めから……」

 

 慊人がうっすら涙を浮かべて言うと、最古参の世話役が気まずそうに視線を逸らした。どうやらあのお局様は、箱が空っぽだと知っていたっぽい。

 

 箱自体が晶さんの宝物なら救いはあるが、そんな感じじゃなさそうだ。

 てことは、もしかして。あのバアさん、適当な箱を晶さんの遺品だと偽って慊人に渡しやがったのか。

 お局様のえげつない所業にドン引いていたせいで、慊人の動きに気づくのが遅れた。

 

 慊人は拾った果物ナイフを振りかぶり、呆然としていた楝さんを刺そうとしている。

 

「だ……っ!」

「あ……っ、き……!」

 

 僕と紅野兄が中途半端な制止の言葉を発した瞬間、慊人は急に動きを止めた。

 さっきまで慊人は憎しみに駆られた顔をしていたのに、今は虚脱状態になっている。

 ……何が起きたんだ?

 

「どうしたの? 私のことを殺そうとしたんじゃないの? そうしてくれても構わないのよ? 殺したいほど憎らしいって思ったんでしょ?」

 

 楝さんが負の感情を一切含まない穏やかな声で、慊人に話しかけた。晶さんの遺品が手に入らなくて、この世への未練もなくなってしまったように見える。

 

「黙って……っ、黙りなさい!」

 

 お局様が楝さんに向かって怒鳴ったのを切っ掛けに、両派閥の世話役同士が言い争いを始めた。

 世話役同士の口論を聞いて判明したのだが、あの箱は晶さん(父親)を亡くして憔悴していた幼い慊人の心を慰めるためにお局様が用意した、お守りのような物だったらしい。

 単なるお守りなら、慊人に箱を渡した時にそう言えよ。誤解が誤解を生んで、とんでもない騒ぎになったじゃないか。

 

「中身がただの空であるぐらい、常識でわかる事です!! 本当に晶さんの魂が入っているなど、信じている訳ないでしょう!!」

 

 お局様は苦しい言い訳をした。慊人を常識知らずな人間に育てたのはアンタだよね、とツッコミを入れる気にもならない。

 慊人と紅野兄が退室したので、僕もついていった。雨が降りしきる庭に面した縁側に出ると、慊人が出し抜けに口を開く。

 

「半々だった。あの箱、信じていたし、信じていなかった。開けても空……でも、もしかしたら“見えない力”なのかもしれない。“もしかしたら”と思うと手離せなくて、でももう確かめたくなくて、隠していた」

 

 空っぽの箱にすがっていたと告白した慊人は、悲痛な泣き笑いを浮かべる。

 

「悪いかよ、それが僕の“常識”だったんだ……! 誰も教えてくれなかったじゃないか……! 今以外の生き方を誰も与えてくれなかったじゃないか! ()()()()事をどうやって知れって言うんだ! わかれっていうんだ!!」

 

 捨て鉢になって喚く慊人を見ていたら、『裸の王様』の童話が思い浮かんだ。あの童話には真実を叫んだ子供が登場したけど、慊人の近くにはそんな人間はいなかった。

 生まれた時から“特別”な慊人が「それは黒だ」と言えば、白いものも黒くなるという認識がはびこっていたから。

 

「あいつらの……おまえらの“当り前”が“常識”だっていうなら、なんで教えてくれなかったんだ!! なんで……っ」

 

 声を荒げた慊人を、紅野兄が抱き寄せた。

 

「……知らない事も、わからない事も、これから覚えていけばいい。……だから、変わろう? 慊人にさっき聞いてほしかったのも……この事なんだ」

 

 紅野兄の言う「変わる」とは、慊人が一般常識を身につける事だけじゃない気がした。

 変わることなく続けられてきた十二支の宴に、終止符を打つような大きな変化を提案しているのだろうか。

 

「こんな環境の中に居続けても君は“草摩(そうま)”や“絆”に食いつぶされるばかりで、空っぽのままだ。満たされないままだ……。君ももう気づいてしまったんだろう? ……だから」

 

 紅野兄の言葉を遮って、慊人は「今さら……っ」と言い返す。

 

「今さら紅野(おまえ)が、そんなこと言うんだ……。“変わる”……? 遅いよ。じゃあ、なんで最初にそう言ってくれなかったんだ……っ。なんで、最初から僕を突き放してくれなかったんだ。見捨ててくれなかったんだ……っ」

 

 最後の言葉を聞いて、やっぱり紅野兄は呪いが解けていたのかと納得した。慊人の話から察するに、紅野兄の呪いが解けたのは何年も前の事だろう。

 

「今になってそんな御託……!!」

 

 怒りで声を震わせた慊人は紅野兄に抱き締められたまま、右手に持っていた果物ナイフの柄を両手で握り直した。

 

「あき……っ!」

 

 僕は中途半端な制止の言葉を発したけど、二度目の奇跡は起きなかった。

 慊人が握り締めた果物ナイフの刀身は、紅野兄の左腰に突き刺さってしまっている。

 

「中途半端に僕を救って、中途半端に放り出すような、その“優しさ”ってヤツが……僕を殺し続けたんだ。ずっと!!」

 

 慊人はそう言い放ちながら、果物ナイフを引き抜いた。刺し傷に刺さっているものを無闇に抜くと、大出血につながってしまうのに。

 そんな事を考えられる余裕があるほど僕は冷静かと言うと、そうでもない。目の前で起きた現実を受け入れられなくて、脳の一部が逃避している。

 

「責任とれよ! 償えよ!! 死んで償え!!!」

 

 水溜りができた庭に降りた慊人はそう叫ぶと、庭門に向かって走っていく。

 慊人を追いかけるために庭に降りようとした紅野兄を見て、ようやく我に返った僕は紅野兄の腕を掴んで引き止める。

 

「紅野兄、横になっていて。今、救急車呼ぶから。止血の方が先か……」

 

 清潔なタオルが手近にあれば良かったけど、取りに行く時間が惜しい。僕は着ていたワイシャツを脱いで、それを紅野兄の傷口に押し当てた。

 

「建視……慊人を追って……早く……っ」

 

 苦痛で顔を歪めた紅野兄がそう言った時、慊人の世話役がやってきた。閉じ込められていたリン姉に食事を運んでいた彼女だ。

 

「紅野さ……!! どうされ……血が……!!」

 

 年配の世話役だったら慊人はどこへ行ったと追及する方を優先しそうだが、彼女は紅野兄の事を普通に心配してくれるらしい。

 

「止血を代わってもらっていいですか? 救急車を呼ばないといけないので」

「は、はい……」

 

 ズボンのポケットから携帯電話を取り出して119番にかけようとして、躊躇いが生じる。刃物で刺されたと言ったら、警察が来てしまう。

 草摩総合病院の院長を務める修景(しゅうけい)おじさんに掛け合えば、内密に怪我人を受け入れてくれるだろうか。

 

 犯罪を隠蔽しようとするなんて裏社会の人間みたいだけど、慊人の凶行を表沙汰にしないように動くのは草摩の中枢部にいる人間の思考としては正しいはず。

 自分にそう言い聞かせて自己正当化しようとした時、慊人の言葉を思い出す。

 

――あいつらの……おまえらの“当り前”が“常識”だっていうなら、なんで教えてくれなかったんだ!!

 

 慊人が言っていた“常識”とは草摩家の常識じゃなくて、世間一般の常識の事だよな。それに則って行動するなら、こっちだ。

 119番にかけると1コール目で、消防通信員が電話対応に出る。

 

『119番、消防です。火事ですか? 救急ですか?』

「救急です」

『どうしましたか?』

「……26歳の男性が刃物で腰を刺されました」

 

 草摩家の住所を伝えてから、119番につないだままにした僕の携帯を世話役の女性に渡す。

 消防通信員が正しい応急手当の仕方を教えてくれるらしいので、紅野兄の止血をしている彼女が聞いた方がいいだろうと判断した。

 

「建視……慊人を……」

 

 血を流しすぎて顔が青白くなった紅野兄の嘆願に、僕は「わかっているよ」と応じる。

 

「これから慊人を捜しに行く。慊人が帰ってきた時に紅野兄の訃報を聞いたら、自責の念に駆られた慊人が再起不能になりそうだから死なないでよ」

 

 僕は紅野兄のスラックスのズボンを探って携帯を借りて、記憶している兄さんの携帯の番号を押す。

 

『……誰だ?』

「僕だよ、建視だ。紅野兄が慊人に刺された。救急車を呼んだから、救急隊員が当主の屋敷に辿り着けるように案内をお願い。それと慊人がどこかへ行ったから、手分けして捜すように頼んで。僕も捜しに行く」

『待て。紅野が刺されただと? 傷は深いのか?』

 

 一気に色んな事を言われて当惑する兄さんに応じながら、僕は玄関へと向かう。途中で出くわした年配の慊人の世話役がごちゃごちゃ話しかけてきたけど、無視して靴を履いて外に出る。

 

 雨の中を走って当主の屋敷の付近を捜したけど、白い着物を身に纏った慊人の姿は見当たらない。どこへ行ったんだと思った瞬間、慊人に頬を引っ掻かれた本田さんの姿が脳裏をよぎる。

 まさか。でも、あり得ないとは言い切れない。僕は紅野兄の携帯で、ぐれ兄の家に電話をかけた。

 

 

 

▼△

 

 

 

 Side:(とおる)

 

 

「おはようございます、(きょう)君っ」

 

 居間にお見えになった夾君に、挨拶をしました。夾君はそっぽを向いて、「……はよ」と挨拶を返して下さいます。

 朝から雨が降っているせいでしょうか。夾君が元気ないように見えます。ですが思い返してみますと、昨晩も口数が少なかったような……。

 

 考え事に没頭しそうになった時、電話が鳴りました。作家仲間さんとの飲み会に行かれた、紫呉(しぐれ)さんからでしょうか。

 私が電話の応対に出ましたら、予想外の人物のお声が聞こえます。

 

『もしもし、建視だけど』

「え……ええっ!? あっ……し、失礼しましたっ。お久しぶりです、建視さん! またお話できて嬉しいです……っ」

『急いでいるから用件から言うね。慊人が……精神的にすごく不安定な状態になって、刃物を持ったまま行方を晦ましたんだ。もしかしたら、ぐれ兄の家に行くかもしれない』

 

 慊人さんが……?

 いったい何があったのでしょう。私が聞く前に、建視さんは話を続けます。

 

『慊人はまた本田(ほんだ)さんを傷つけるかもしれない。だから、慊人がそっちに行ったら逃げて。できれば花島(はなじま)さんか魚谷(うおたに)さんの家に避難してほしいんだけど、迂闊に出歩くと慊人と鉢合わせするかも……タクシーで本田さんを迎えに行ってくれるように、(めぐみ)君に頼んでおくから』

 

 受話器の向こうから聞こえる建視さんのお声は、今までにないほど切羽詰まっています。草摩の御本家で、大変なことが起きたのでしょうか?

 

「あ、あの、いったい何が……」

『ごめんね、説明できない。でもお願い。今の慊人に近寄らないで』

 

 その言葉を最後に、建視さんは電話を切ってしまいました。

 ……私はどうすればいいのでしょう?

 慊人さんがお見えになったら逃げるように言われましたが、私1人だけ逃げる訳には参りません。ここには夾君と由希君もいらっしゃるのですから。

 

「……さっきの電話、建視からだったのか?」

 

 考えながら居間に戻りますと、夾君に声をかけられました。

 

「あ、はい。何やら草摩の御本家で……」

 

 慊人さんの事をお伝えしようとした時、ふと考えが浮かびました。

 おそらく夾君は慊人さんの状態を聞きましたら、私に逃げろと仰るでしょう。

 夾君はお優しいですから私を逃がす事を優先させて、ご自分を守る事を後回しにされてしまうのでは……。

 

「草摩の本家で何かあったのか?」

「いっ、いえ、それが……詳しく話して下さらなかったので、よくわかりません。あっ、朝ご飯を食べましょう! いただきますっ」

 

 結局、今は伝えない事にしました。

 はなちゃんと恵さんが迎えに来て下さった時、夾君と由希君も一緒に行きましょうと強引にでもお誘いするのです。

 問題は、由希(ゆき)君が目覚めて下さるかどうか……。

 由希君はお休みの日は、遅めに起床なさるのです。安眠を妨害する事に心は痛みますが、お起こしするしかありません。

 

 夾君と向かい合って朝ご飯を食べていましたら、先日、依鈴さんに問いかけられた事が不意に頭に浮かびました。

 

――猫憑きのあいつがどうなるとか、役目とか、アタシ達がどう見てるとか、もう知ってるんだろ? 同情してるの?

 

 私が抱いている残酷で欲深い気持ちは、同情と呼べるのでしょうか。

 十二支の皆さんを守りたいだとか解放したいだとか、そんなのは私の本当の気持ちを隠して誤魔化すための詭弁です。

 私は夾君をただ何からも、草摩からも呪いからも誰からも奪われたくなかっただけなのです。

 私の醜い本音を聞いた楽羅(かぐら)さんから叱責を受けました。

 

――そういうコトは、ちゃんと本人に言いなさい!!

 

 私の想いを夾君に伝えなければと思うのに、勇気が出せなくて。お母さんを裏切るような気がして怖くて。……悲しくて。

 でも、辛くて悲しい事に蓋をして忘れたフリに戻るのはもう止めようと決めたから。

 

「……ごちそーさん」

「あ……はいっ」

「でかけてくる」

「ま、待って下さい! 外はダメですっ!」

 

 思わず大声で呼びとめてしまいました。夾君は訝しげに眉を寄せています。

 

「なんで外はダメなんだ?」

「あ、えっと、雨が降っていますので……」

「傘差して行くから平気だ」

 

 夾君は立ち上がってしまいました。

 どうすれば、夾君をお家の中に引き止める事ができるでしょうか。考えに考えた時、伝えるなら今だと心の奥で囁く声が聞こえました。

 足止めをするための時間稼ぎではなく、もっときちんとした形で伝えたかったのですが……ズルズルと延ばしてしまったら、いつになっても告白できない予感がします。

 

「聞いて……頂きたいお話があります……っ」

 

 振り向いた夾君は、ひどく陰鬱な表情をなさっています。

 夾君のこんなお顔は初めて拝見しましたので、戸惑ってしまいました。

 

「……? 夾く……?」

「俺も……俺もおまえに訊きたい事があった、こないだから。俺の勝手な勘違いなら笑ってくれ。いくらでもバカにしてくれ」

 

 少し間を置いた夾君は、体ごとこちらを向いて問いかけてきます。

 

「おまえ、俺が好きなのか……?」

 

 夾君に私の想いを言い当てられて、顔に熱が集まりました。

 

「バカじゃねぇの……ここまでバカとは思わなかった……なんで……」

 

 視線を逸らした夾君は、落胆しきった声で言います。

 

「……おまえ、母親が好きなんじゃなかったか……? アレ、嘘か? 全部“無し”か……?」

 

 ……お母さんの気配が消えていく。いつものように笑っていたお母さんの存在が、薄れて遠くなっていく。

 それを認めるのが悲しくて、悲しくて悲しくて、身を裂くようにさびしくて。

 

 だから私は、お母さんと2人で過ごしたアパートを引き払う事になったあの日に誓った。

 これからはいつだって、どんな時だって1番に胸に想うのはお母さんであり続けようと。

 そうして想い続けていれば、いつまでも色褪せる事はないと信じた。

 

――良かった、透を産んで良かった。透が存在(いる)から、あたし毎日笑って生きてけんだ。

 

 お母さんと過ごした思い出も。

 

――いつも一緒。

 

 お母さんと交わした約束も、ずっと大切に守っていれば置いてかれないと思った。

 だけど……。

 

――アンタも元気そうに見える、毎日。……良かった。

 

 真鍋(まなべ)さんとお話したあの日の帰り道。悲しくて胸が軋んで、泣いてしまった。もう1度思い知ったから。

 どんなに大切にしていても、思い出は色褪せていく事を。どんなに誓ったって、残酷なほど時は動いて変化をもたらしていく事を。

 お母さんを1番に想っていた私は、“思い出”になっていく。変わっていく事が生きていく事なら、なんて残酷な優しさだろう。

 

 お母さん、私、好きな人ができました。もう立ち止まらないって決めたから、お母さん、私、いきます。

 

「やってらんね……」

 

 夾君は投げ遣りにそう言って、玄関の方に歩いていこうとなさいました。私は急いで立ち上がって、廊下の途中で夾君を呼び止めます。

 

「夾く……きいて下さい……私……」

「なんにも知らねえで……っ。俺のしたこと、なんにも知らねぇで……!!」

 

 強い口調で言い返す夾君は、何故か泣きそうなお顔をなさっていらっしゃって……。

 

「おまえの……母親、死なずにすんでた……ホントなら」

 

 それを聞いた瞬間、頭の中が真っ白になりました。

 

「……おまえの母親、俺、知ってた。あの日……あの事故の日、近くに立っててすぐにわかった……」

 

 夾君は私のお母さんを知っていらっしゃった……?

 でも、お母さんは夾君のお話をなさった事はありません。どういう事なのかわからなくて私が混乱している間も、夾君のお話は続きます。

 

「……声をかけようか迷ってて。そしたら視界にものすごいスピードで車が、おまえの母親に向かってくるのがわかって。あ、やばい、助けなきゃって……腕をひっぱって抱きとめれば――……」

 

 言葉を切った夾君は、ぐしゃりと顔を歪めています。

 

「でも、俺は“人間”じゃないから。抱きとめたりしたら猫になって、“人間”じゃないってバレるから……見殺しにした……」

 

 俯いた夾君の表情は見えませんが、振り絞るように発せられた掠れ声は罪悪感に満ちていました。

 

「……俺が抱きとめてさえいれば、あんな高くふっ飛んで、痛い思いしなくてすんだ。絶対死なずにすんでた……っ」

 

 夾君のお話を聞いて、車に撥ねられたお母さんの姿が想像できてしまいました。

 帰ってきたお母さんの遺体は、傷だらけ……で。夾君の仰る通り、痛い思いをしたのだと思います。

 ですが……。

 

「なのに俺は、“自分()”とおまえの母親の“命”を秤にかけて、“自分()”をとった。“自分()”を守った。“命”よりも、“命”よりも……!! ……っ、こんな自分……っ」

 

 夾君のオレンジ色の髪の間から覗く涙に濡れた瞳が、“かなしい”とひたすら訴えていて。

 それがもっと悲しくて、愛しく思えて。……痛い思いをして命を落としたお母さんよりも。

 

「…………俺の母親も、ふっ飛んで……死んだ。車じゃなかったけど……こんな俺を産んで申し訳ないって……こんな俺が可哀相で辛くて側にいられないって、ひどく泣いていた次の日、死んだ……」

 

 夾君のお母さんは、ご自分で命を……。

 師匠さんは先代の猫憑きは家族から疎外され、一族から中傷を受けたと仰っていましたが、夾君のお母さんは息子(夾君)の分の苦しみも1人で抱え込んで、思い詰めてしまわれたのでしょうか。

 夾君のお母さんが味わわれた辛苦はあまりに深く、触れる事さえできません。

 

「……俺のせいなんだ……俺が奪った。俺が……俺が死なせたんだ……」

 

 懺悔をする夾君の声は掠れていたのに、その言葉は静かな廊下にやけに大きく響いたように聞こえました。

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