神様と十二支と猫と盃と《完結》   作:モロイ牛乳

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66「ずっとそこにいらしたのですね」

 Side:(とおる)

 

 

「……“許さない”って言っていた。おまえの母親……血だまりの中で立っている俺に気づいて、俺に“許さない”って……」

 

 (きょう)君は「確かに、そう聞こえた……」と仰いますが、お母さんがそんな事を言うとは思えません。

 

「……俺はなんにもできなくなって、頭ン中が真っ白になってぐちゃぐちゃになって……その場から逃げ出してた……」

 

 帰宅した夾君はそのまま師匠さんに連れられて、山でお過ごしになったと話しました。

 師匠さんは夾君を生かそうとなさってくれましたが、夾君は今度こそご自分が死ぬしか無い気がした……そうです。

 

「俺のせいじゃない、由希(ゆき)のせいだ、俺の希望は全部(ねずみ)憑きが奪ったんだ……そう思い込んで“悪い存在(やつ)”を作り上げて、責任を全部背負ってもらった。根拠なんか必要ない。不都合な事は“悪い存在(やつ)”のせいにして、自分は忘れたフリをすればいい」

 

――俺は由希が嫌いなんだよ!! 嫌いなままでいいんだよ!!

 

 去年の2月に夾君が叫んだ言葉を思い出しました。

 あの時の夾君は、本当に怯えた目をしていらして。嫌う事で何かを必死に守っているように見えたのです。

 ……やはり夾君はあの時、ご自分を守っていらしたのですね。

 夾君が抱え込んでいらっしゃる痛みや不安に触れる事はできましたが、これを全部拭い去る事はできるでしょうか?

 

「……“悪い存在(やつ)”を憎んでいれば、嘘みたいに楽になれた。責任転嫁だ。……俺、ガキの頃からそうやって自分を守ることだけは巧いんだ。……最低だろ?」

 

 夾君は自虐するような笑みを浮かべていらっしゃいますが、最低だと詰る事はしません。夾君がそれを望んでいたとしても、です。

 私にだって狡くて弱くて汚い部分はありますのに、それを棚上げにして夾君を罵倒するなんて恥知らずな事はできません。

 

 ……下山した夾君は慊人(あきと)さんに呼び出されて言い争いになって、賭けをしたようです。

 高校を卒業するまでに夾君が由希君に勝てれば、化け物呼ばわりは止めて十二支(なかま)に入れると。

 

 慊人さんに賭けの条件を持ちかけられた時、夾君は心の片隅で嬉しく思ったそうです。十二支(なかま)に入れるからではなく、由希君を憎む理由が増えたから。

 

 その後、私に会うなど思ってもみなかったそうです。

 夾君は由希君に対する憎悪で、私とお母さんの事を忘れようとしていたのに。私との予期せぬ邂逅は、お母さんが『忘れさせるもんか』とでも言っている証じゃないかと思ったと仰います。

 

「……おまえ、俺を許せるか……? 逃げ出した俺を……逃げてばっかの俺を。おまえに会っても気づかないフリして、何も言わなかった俺を……」

 

 夾君が本田今日子(お母さん)の事を私に言えなかったのは……無理もない事だと思います。

 私が側にいるせいで夾君が罪悪感に苛まれてしまっていた事に、気づきもしなかった自分が情けないです。

 

「……()()俺を許せない。()()許さない。もうおまえにも許されたくない……っ」

「許しません」

 

 私は夾君が望んでいる言葉を口に出してから、夾君を睨みつけます。

 

「……っ、そう言わないといけないんですか……? 許さないとか許すとか、私にはもうそんな関係しか残されていないんですか……?」

 

 そんな悲しいだけの関係は、認めません。それに……。

 

「お母さんが『許さない』とか言うなんて、信じられません……っ。信じられない……けれど、でも、もしも本当にそう言ったのだとしたら……っ、わ、私……私はお母さんに反抗せざるをえません……!!」

 

 オレンジ色の目を驚いたように見開く夾君の姿が、涙でぼやけていきます。

 

「だって、それでもどうしたって夾君を好きだって思う私は、認めてもらえないんですか……!!」

 

 どうか認めてほしい。私がとなりにいてもいいと。

 

「――……そんなん……幻滅だ……」

 

 お母さんの命日に私の汚い部分を夾君にさらけだした時は、「幻滅なんかしない」と仰って受け止めて下さいましたが。

 夾君を好きだと思う私は、受け入れがたいと……。

 痛い、痛い、胸が引き裂かれそう。

 

「……バっ、夾……っ、夾!? 待てよ!」

 

 階段の方から由希君のお声が聞こえて、我に返りました。さっきまで廊下に立っていらっしゃった夾君の姿が、見当たりません。

 

「由希く……きょ……君は、どちらに……?」

「外に出て行ったよ」

「い……っ、いけませんっ。外に行っては……」

 

 玄関に走って向かおうとしたら、廊下で足を滑らせて転んでしまいました。由希君が手を貸して、助け起こして下さいます。

 

「俺が夾を追いかけるから、本田(ほんだ)さんは部屋で休んでいなよ」

「わ、私……私が夾君を連れ戻します……っ。ですから、由希君はお家にいて下さい。絶対にお家から出ないで下さいっ!」

「本田さん……? どうしたの? 夾の事以外で何かあった?」

 

 ごめんなさい、答える訳には参りません。

 慊人さんがお見えになるかもしれないと伝えたら、由希君は私に家から出ないでと仰るでしょうから。

 

「何も……ありませんですよ。由希君の分の朝ご飯は台所のテーブルの上にとっておいてありますので、申し訳ありませんがご自分でご飯とお味噌汁をよそって召し上がって下さい」

 

 私はそう言ってからサンダルを履いて外に出ました。雨は上がっています。夾君は雨に弱いですので、止んでくれてよかったです。

 玄関の近くに置かれた植木鉢の下に……ありました。

 紫呉(しぐれ)さんは出かける際に玄関の鍵を忘れてしまって、家の中に入れなくなってしまう事が度々あるので、ここにスペアの鍵を隠してあるのです。

 

 スペアの鍵で施錠した後、夾君を追いかけ……たいのは山々ですが、夾君はどちらに行かれたのでしょう。

 夾君が行きそうな場所は師匠さんのお家と道場が思い浮かびましたが、今は師匠さんに会いに行かれないような気がいたします。

 夾君は酷く傷ついて1人になりたい時は森に行っていた事を思い出し、一か八かで森の中に入ってしばらく歩きました。

 

 密生した木々の陰から、白い着物を纏った人が出てくるのが見えます。

 ……慊人さんです。

 慊人さんは、何も履いていない素足でここまでいらしたようです。雨で濡れた白い着物の裾は、泥で汚れています。

 

「……もう、だめだ……終わりだ、終わりが来る……」

 

 建視(けんし)さんの忠告に従って逃げる事はできませんでした。絶望を漂わせた慊人さんの言葉が、私の心に重く圧し掛かったからです。

 夾君に幻滅されて、私の想いも今までの温かな関係も終わりを迎えてしまうのでしょうか……。

 

「捨てて……いくのか……置き去りに……するのか……置いて……いくのか……っ」

 

 責めるような眼差しを向けてくる慊人さんの姿に、私のお母さんの姿が重なって見えました。

 お母さんの姿が思い浮かんだのは、置いていかれるさびしさを慊人さんから痛切に感じ取ったからだと思います。

 

 生まれた時から“特別”だと線を引かれ、輪の中ではなく上に立つ存在として扱い、扱われてきたのなら。

 それは、置き去りにされていたのと変わらないのに。慊人さんの気持ちに気づかずにいた、自分の浅はかさが憎い。

 

 建視さん、ごめんなさい。逃げる事はできません。

 私は慊人さんとちゃんと向き合って、話をしなければなりません。

 

 

 

△▼

 

 

 

 Side:慊人

 

 

 草摩(そうま)の「中」から出た僕は、雨の中を歩いていた。

 両手が震えているのは寒いからじゃない。紅野(くれの)を刺した感触が消えないからだ。

 

――慊人、どうしたの? こわい夢をみたの? ほら、おいで。お月様、キレイだね。

 

 僕が子供の頃に悪夢を見て起きた時、紅野が側にいてくれたおかげで気持ちが落ち着いた。

 でも今は、紅野が無責任な事を言ったせいで心が酷く乱されている。紅野が悪い。紅野の責任だ。紅野なんかいたから……っ。

 

――誰かのせいにしていたら、いつまでたっても変われない。

 

 まるで僕を責めるように、由希の言葉がよみがえった。

 

「……じゃあ!! じゃあ僕のせいかよ……っ。全部全部僕のせいかよ!! こんな……半端で、仲間ハズレなのも!!」

 

 僕の下から去った十二支(みんな)は、どこへ行くのか。そう思った瞬間、本田透の姿が脳裏をよぎった。

 

――実は僕の家に夾と……もう1人、住まわせたいなぁとか思っているんですけど……ダメですかねぇ?

 

 紫呉にそう言われた時は、(れん)との勝負に勝てると信じていた。

 神様と十二支(僕たち)の絆は誰にも壊せやしないって、信じて――……ちがう、祈るような願いだ。

 

――僕らは離れることができないから。

 

 口にしないと死ぬかのように。

 

――僕の処へ戻ってくる。

 

 呪いのように同じような言葉をくり返して、くり返してくり返して。

 でも、もうだめだ。一昨日の夜に、紅葉(もみじ)との絆が解けてしまった。楝を刺そうとした時、燈路(ひろ)との絆も解けたのを感じた。

 もう本当にだめなんだ。絆がボロボロ壊れていく。十二支(みんな)が僕を置いていってしまう。それを止められない。

 

 “さよなら”がやってくるんだ。

 

 終わりを考えたくないから、ひたすら走った。

 紫呉の家に行った事はないけど、住所は知っている。電信柱に付いている街区表示板を見て位置確認すれば、辿り着けるはず。

 

 ……さっきから、すれ違った人達が僕を見ているような気がする。

 紅野を刺した果物ナイフは袖で隠しているのに。和服を着て裸足で走っているから、悪目立ちしているのだろうか。

 

 草摩家が所有する小山の近くまで来たから、人通りのない道に移動しよう。僕は石垣を乗り越えて、鬱蒼とした木々に囲まれた山道に入った。

 アスファルトの道路を走っていた時とは違って、枝や小石がそこらじゅうに転がっているから足の裏が痛い。

 でも立ち止まらない。立ち止まったら、罪悪感や恐怖に飲みこまれてしまいそう。

 

 紫呉の家が建つ小山の天辺を目指して森の中を小走りで進んでいたら、木立の向こうに人影が見えた。

 近寄ってみると、僕の目当ての人物――本田透だった。

 

「……もう、だめだ……終わりだ、終わりが来る……」

 

 本田透に会ったら何を言ってやろうか考えていなかったせいか、泣きごとめいた言葉が口をついて出てしまう。

 

「捨てて……いくのか……置き去りに……するのか……置いて……いくのか……っ」

 

 僕が置き去りにされるのは、本田透(こいつ)のせいだ。

 あらん限りの恨みを込めて睨みつけてやると、本田透は悲しそうな表情になって涙を流した。

 ……悲しそうに見えたのは気のせいだ。あれは嬉し涙に違いない。

 

「嬉しいかよ……おまえの勝ちだよ。僕の居場所まんまと奪って、僕を仲間ハズレにして、みんなには好かれて、気分いいかよ……っ。おかげで僕は……1人で、“間違い”で、悪者で……いい気味かよ!!」

 

 持っていた果物ナイフの刀身を本田透に向けて、叫ぶ。

 

「おまえなんか大嫌いだ……っ。人の世界を……壊しておいて、それでもおキレイな存在でいられるおまえが、1番汚いんだよ……!!」

「ずっとそこにいらしたのですね……」

 

 意味不明な事を言いながら本田透は僕に近づいてきた。僕は反射的に、ナイフで本田透の腕を斬りつける。

 

「寄るな……寄るな、気持ち悪い!!」

「慊人さん……」

 

 ナイフで斬られたら悲鳴を上げて逃げそうなものなのに、本田透は泣きながら僕の名を呼んで再度近寄ってきた。何なんだ、こいつ。

 本田透は聖母様のように慈悲深くて、天使のように優しいから、どんなに傷つけられても僕を理解しようとするのか?

 気持ち悪い。完璧すぎる人間(やつ)は逆に怖いんだよ。

 

「さびしくて……でも、強がっていらしたのですね……」

 

 強がっていたとか言われて腹が立ったから、もう一度腕を斬りつけてやった。今度こそ……と思ったけど、本田透は逃げようとしない。

 

「慊人さんが永遠や……不変を言葉(くち)にするのは、繰り返すのは、そうしなければこわくて、こわくて仕方ないから……っ」

 

 僕が心の中に秘めていた本音を言い当てられて、泣きそうになってしまった。

 本田透(こいつ)の前で弱みを見せて堪るか。僕はナイフを捨てて、本田透の頬を平手で打ってやる。

 

「黙れ……っ。わかったような……口……っ、見下してんのか。おまえなんかに僕に騙されない、懐柔されないっ。僕は……僕は……!!」

 

 他の十二支(みんな)は本田透に手懐けられてしまったけど、僕はそうはいかない。

 僕は“特別”なんだ。平凡な女子高生に心を許してしまったら、僕は父様に望まれた“特別”ではなくなってしまう。

 

「汚いです、私は。慊人さんの仰る通り。慊人さんの願う“不変”を否定しておいて、本当は私だって願っていたんです。“不変”を、変わらない想いを、絆を。けれど……っ」

 

 悲痛そうに顔を歪めて泣く本田透の言葉は、真実味を帯びていた。僕を騙すための虚言とは思えない。

 

「人も、想いも、縛れません……。それをもう、慊人さんも気づいていらっしゃるのでしょう? だからそれが、それがずっと悔しくて、かなしくて、つらくて、さびしかったのでしょう……?」

 

 心の痛みを分かち合うように、本田透は胸元を手で押さえて語りかけてくる。

 

 違うと否定する事は……できない。だって僕はずっと悔しくて、かなしくて、つらくて、さびしかったから。

 

 紅野の呪いが解けた時も。はとりが裏切った時も。紫呉が裏切った時も。燈路が裏切った時も。

 由希が僕の処に帰らないと態度で示した時も。依鈴(いすず)が僕のものを盗もうとした時も。激怒した潑春(はつはる)が去ってしまった時も。紅葉の呪いが解けた時も。

 それに……。

 

――心配しないで、慊人……僕はおまえを置いていく訳じゃないから。姿は見えなくなっても側にいるから。

 

 命の灯が消えかけていた父様は、枕元に座っていた僕を見つめながら「“特別”な子……」と言った。

 

――楝に1番喜んでもらいたかった……。

 

 父様が心の底から残念そうに(あの女)の名を呼んだ瞬間、幼かった僕の心に決定的なヒビが入った。

 

――僕は結局こうして死ぬだけの男だったけど、残せる子どもが……できた。その子どもが“特別な存在”だったのは、僕と楝が“特別”だったって証だろう……?

 

 僕の世話役は父様が臨終を迎えた事を楝に伝えなかったから、あの女は同席していなかったけど、父様の言葉は楝に向けられたもので。

 父様は僕を見ながら話していたけど、その優しい目は僕を映していなかった。

 

――……仲直りできなかったね、楝……。

 

 涙を流して息を引き取った父様は、最期まで楝の事ばかり口にしていて。

 最初から仲間ハズレは僕だった。初めから無いものねだりだった。それを認めるのが嫌で、こわくて。

 

「やだああっ!!」

 

 悲鳴を上げた僕は本田透の前から逃げた。

 いやだ。置いていかれるのは、いやだ。こわい、いやだ、こんなのはいやだ。

 誰モ、僕ヲ必要トシナイ。他人ダラケノ、世界ハイヤダ。他人バカリノ、世界ガ――。

 

「慊人さん……」

 

 森の奥へ逃げようとする僕の手首を、本田透が掴んできた。

 これ以上、僕に何を言うつもりだ。傷つけられたくなくて、本田透の手を乱暴に振り払う。

 

「もういやだ、僕の……せいじゃないのにっ。今さら、今さら気づいたって……!」

 

 八つ当たりするように本田透の胸元を殴った。何度も。

 

「いやだ、今さらこんな世界で生きてなんかいけない。“約束”も、“絆”も、“永遠”も無い他人なんかと生きていくなんて」

 

 言葉にするのは躊躇われるけど自分1人の胸の内にもう留めておけなくて、「……恐い」と情けない本音を零す。

 

「恐いよ、愛される保証もないのに。そんな他人に囲まれて、生きてなんかいけない……っ」

「……では、慊人さん。私と始めませんか。今、ここから」

 

 身も世もなく取り乱していた僕は、本田透の提案を聞いて我に返った。

 

「出会い方も間違っていました。こんにちは、私、本田透と言います。……貴女のお名前は?」

 

 本田透は微笑んで自己紹介しながら、手を差し出してくる。

 

「私とお友達になってほしいです」

 

 僕に散々痛めつけられたのに、友達になりたいなんて嘘だ。僕は差し出された彼女の手を叩いて払いのけた。

 

「うそつき……っ、そんな事言って……っ、僕が泣いたらすぐ鬱陶しくなるんだ。僕がごねたらすぐ怒って嫌になって、放りだすんだ……っ」

 

 “絆”でつながっていた十二支(みんな)でさえ、頻繁に癇癪を起こす僕を疎んでいたし、怒ると暴力的になる僕を怖がっていた。

 離れていく十二支(みんな)に必死に手をのばして、引き止めて留まらせようとしたけど、余計嫌われてしまって。

 

 どうやれば、普通に仲良くできるのかわからなかった。僕には友達なんて今まで1人もいなかったから。

 草摩家の当主で、十二支のあるじで、“特別”な僕には、隣に並び立つ友人など必要ない。世話役達にそう教えられてきたから、友達を作ろうとも思わなかった。

 当主の屋敷の近くで草摩の子供達が仲良く遊ぶのを見て、羨ましいなと思った事はあるけど、僕には十二支(なかま)がいるから必要ないと自分に言い聞かせた。

 

 友達になる事を拒絶した僕を見放すかと思ったけど、本田透は総てを受け入れてくれそうな柔和な笑顔を広げて、再び手を差し出してくる。

 

――そこにいらしたのですね。

 

 透の意味不明な発言の真意がようやく理解できた。遠くからじゃなく、上からでもなくて。近くで、となりで、僕に話しかけてきたんだ。

 楽しそうにおしゃべりする十二支(みんな)を遠巻きに見つめる僕のとなりに、透が座ったような気がした。

 

 ……こんな僕でも、友達になってくれるの?

 

 僕が握手に応じようとした瞬間、透が離れていった。

 違う。透が立っていた所の崖が崩れたんだ。驚いたような顔をした透の体が空中に投げ出され、崖の下へ落ちていく。

 

 地面に仰向けに倒れた透は、ぴくりとも動かない。

 

 ……そんな、うそだ、こんなの。友達になってくれるって、言って。さっきまで、僕のとなりにいたのに。透、は。

 

「……あ……っ、だ……っ、だれかぁぁ!!」

 

 大声で叫びながら僕は森の出口に向かって走った。由希でも、夾でも、紫呉でも、誰でもいいから。

 

「誰か……!! 誰か……っ、誰か……だ……誰か来て……!! ……誰か、たすけて……っ」

 

 あのままじゃ、透が。……僕が刺した紅野だって。

 今の今まで紅野の事を忘れていたと気づいて、自分の愚かさを呪いたくなる。視界が涙で滲んで前がよく見えない。

 

「……っ、たすけて……っ」

 

 やっとの思いで森から出たとき、僕が助けを求めるように伸ばしていた手が紫呉にぶつかった。

 

「……わ、びっくりしました」

「…………し、ぐれ。……た、たすけて、お願い、落ちた、が、崖から……っ」

 

 ちゃんと説明したいのに、動揺して言葉がうまく紡げない。

 

「動かない……動かないんだ、全然……どう、どうしよう。動かない、たすけて、全然……っ、全然動かない……!!」

「慊人、落ちついて。……ゆっくり。誰が落ちたの?」

 

 紫呉の静かな声を聞いて、僕は少し落ち着きを取り戻した。

 

「…………と、とおる……」

 

 友達になってほしいと言ってくれた彼女の名前を伝えた瞬間、紫呉の近くにいた由希と夾が森の中に駆けて行った。

 

「……どこで落ちたの?」

「……そこ、ここ……まっすぐ。どうしよう、動かない、紫呉、紫呉……僕……っ」

慊人(きみ)が落としたの?」

 

 冷たい目をした紫呉は僕を疑っている。僕は首を左右に振りながら、「……ち、違う、違う……っ」と訴えた。

 

「……でも、わからない……っ。下が崩れて、急に……っ」

 

 両手に残る感触を思い出して、「でも……っ」と続ける。

 

「紅野を刺したのは……僕だ……」

 

 建視から聞いて知っていたのか、紫呉の顔に驚きはない。その代わりかどうか解らないけど、一瞬だけ後悔が過ったように見えた。

 

「紫呉! (めぐみ)君が救急車呼んだ。来たら応対して!」

 

 報告した由希は再び森の中に走って行く。

 僕も透の側に行こうとしたけど、紫呉に手を引っ張られて森とは反対の方向に連れて行かれた。

 

 紫呉の家の中に入った僕は玄関の上がり(かまち)に座って、生まれて初めて神様に祈っていた。透と紅野の命が助かりますように、と。

 2人を散々傷つけておいて祈るなんて、恥知らずもいい処だと自分でも思う。

 だけど、それでも、僕みたいな間違いだらけの神様じゃなく、本物の神様がいるならどうか願いを聞き届けてほしい。

 

「もしもし、はとり? 僕」

 

 紫呉が電話をかける声が聞こえる。

 

「……うん、慊人ならここにいる。……僕は建視と会ってないけど、由希君と夾君は会ったって。……聞いた、容体は?」

 

 紅野の容体について聞いたんだろう。相槌を打たずにはとりの話を聞いた紫呉は、「…………そう」とだけ答えた。

 

「……いや、それがちょっと待って。今こっちも大変なんだ。……いや、慊人は平気。透君が……うん、崖から落ちたみたいで」

 

 それだけじゃない。僕はナイフで透の腕を二度も斬りつけた。顔や胸や手も打ってしまった。

 自分の行いのあまりの酷さに歯噛みしていたら、通話を終えた紫呉がスーツの上着を脱いで、僕の肩にかけてくる。

 

「……紅野、一応無事だって」

 

 安堵と申し訳なさが同時に胸に押し寄せてきて、僕は膝に顔を埋めて泣いた。僕の祈りを聞き届けてくれた本物の神様には、感謝してもしたりない。

 神様、ありがとうございます……!

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