Side:
込み入った話になりそうだから、僕と
「建視は1人で
敏い由希は
「そうだよ」
「どうやって救うつもりだ?」
「
今回の一件で心境に変化が生じた慊人にとって、
「慊人と交渉って……慊人を脅す気か? そんな事をしたら建視が……」
言葉を切った由希は、まさかと言いたげに濃灰色の目を見開く。
「建視は夾の身代わりになって幽閉されるつもりか?」
勘良すぎだろ。僕は舌打ちしたい気持ちを抑え込んで、鼻で笑う。
「そんな訳ないだろ。自己犠牲とか僕のキャラじゃないし」
「建視は不特定多数のために身を削る事はしないけど、大切な人――花島さんとかはとりのためなら何だってしそうな感じがする」
由希は僕の事を、愛が重い奴だと思っていたらしい。……花島さんも僕の愛を重いと感じていたりしない、よね?
「建視が夾を救うために自分を犠牲にしたら、悲しむ人が大勢いるぞ」
心配そうな顔をした兄さんの姿が思い浮かんだ。僕が幽閉される事になったら、兄さんの精神状態が危うくなってしまう。
でも、兄さんは
「物の怪憑きの仲間には、僕が自分で選んだ道だと話しておくよ。夾には言わないけど。
左頬に衝撃が走った。不意打ちで顔面を殴られたせいで重心を失った僕は、よろけて尻餅をついてしまう。
「な……にすんだよ!」
「建視が寝ぼけた事を言っているから起こしてやったんだよ」
脅すように握り拳を見せつける由希は、冷たい怒りを纏っていた。
何いきなりキレてんだ、こいつ。むしろ、キレたいのは僕の方だ。殴られた頬がズキズキ痛むし、聞き捨てならない事を言われたからな。
「僕は真剣に頼んだのに、おまえには寝言に聞こえたって言うのか?」
「ああ、そうだよ。花島さんの言葉を聞き流すなんて、建視は疲れて寝ぼけているとしか思えない。花島さんはさっき、1人でやらなきゃいけないと決めつけるなって言ったんだぞ」
聞き流した訳じゃないのに。安全圏から好き勝手言いやがって。
「そこまで言うなら、夾を救うための案を出せよ!」
僕に睨みつけられた由希は腕組みをして考え込んだ。
猫憑きは幽閉されるのが当然と思い込んでいる草摩の「中」の奴らの反対を抑え込んで、夾を解放する案なんてそう簡単に思いつくはずがない。
「猫憑きの離れを跡形もなく破壊する……とか」
短時間で案を出したのは褒めてやるが、あまりにも稚拙だ。
「壊したところで、新しい幽閉場所を作るのは目に見えている。それに草摩の上層部は馬鹿じゃないから、再び壊されないように手を打つぞ」
「うーん……じゃあ、草摩の『中』を鼠だらけにするのはどうかな? 兄さんにも協力を仰いで、蛇もたくさん呼び寄せよう。大量の鼠と蛇を退去させる代わりに、夾を解放する事を認めてほしいって交渉するんだ」
ヒェッ……このユッキーマウス、コワイ。無邪気な笑顔を広げながら、えげつない案をサラッと出しやがった。
「交渉じゃなくて脅しだぞ、それ……というか、古代中国の刑罰でそんな感じのがあったよ。由希は
「誰が妲己の生まれ変わりだ」
低い声を出して凄んだ由希は、気を取り直すように咳払いをする。
「さっきの案は極端だったけど、建視が犠牲にならなくても済む方法があるって解っただろ? 他の
「あーあ……バッカみてぇだな」
思わず本音が漏れた。由希が眉をしかめたので、僕は言葉を付け加える。
「1人で思い悩むのがだよ」
僕の人生をなげうってでも夾を救うとか、思い詰めていた自分が恥ずかしい。由希と少し話をしただけで、気持ちが楽になってしまった自分の単純さに呆れる。
でもまぁ、心の重荷が取り除かれた事は素直に良かったと思う。
相談しろって言ってくれたのは花島さんだから、由希には礼を言わないけど。何らかの形で礼はしておくか。
本田さんと
慊人の機嫌が良ければ、側近の辞任を申し出るつもりだ。辞めるのを認めてもらえなかった場合は、高校で勉強する時間は仕事を免除してもらえるように頼んでみる。
嘆願の流れを頭の中でシミュレーションしながら廊下を歩いていたら、「建視さん」と呼び止められた。慊人の世話役のお局様だ。
「何故、消防に通報をしたのですか? おかげで、余計な騒ぎが起きてしまったではありませんか」
兄さんから聞いたのだが、昨日は消防署から連絡を受けた警察が
紅野兄の父親が「息子は処罰までは望んでいません」と言った事で、警察による厳重注意に留まったようだけど。
普通なら、あれほどの深手を負わせた慊人は逮捕されてもおかしくない。やはりというか、草摩の上層部が警察に圧力をかけたのだろう。
怒り心頭なお局様の言う「余計な騒ぎ」とは、慊人が事件を起こして警察がやってきたという噂が草摩一族の間に広まった事だ。
噂の火消しが大変なのは解るけど、悪い事をしたと認めて謝ったりはしないよ。
「貴女は以前、こう仰っていましたよね? 『それが慊人さんの望む事ならば』と」
慊人さんが望むなら、監禁された
このようにお局様は考えて、リン姉が監禁されていた事を知りながら隠蔽していたらしい。
お局様に限った話じゃないけど、草摩の「中」の者達は道徳観が歪んでいる人間が多い。
このお局様は先日、「常識でわかる事です」とか言っていたけど、彼女の常識も世間一般のそれとは大分乖離しているだろう。
「慊人は泣きながら、誰も常識を教えてくれなかったと訴えていました。だから慊人の望み通り、教えてあげる事にしたんですよ。どんな理由があろうとも、人を刺したら罪に問われるのだと」
慊人を常識知らずに育てた一端を担うお局様は、ぐっと言葉に詰まった。僕はそれ以上何も言わず、その場を離れる。
僕も慊人に常識を教えようとしなかったから、お局様を責めたてる権利はない。追及を避けるために嫌味を言っちゃったけど。
到着した慊人の部屋には布団が敷かれていなかった。
ここ最近の慊人は頻繁に寝込んでいたから、布団はほとんど敷きっぱなしだったのに。万年床にしてしまうと不潔なので、布団は毎日新しいものに取り換えられていたけど。
「慊人、おはよう」
「……おはよう」
慊人が普通に挨拶を返した……だと……!? 幻聴かな?
驚愕を隠し切れなかった僕を見て、慊人は不愉快そうに眉をしかめる。
「僕が挨拶をしたら悪いか」
「いや、悪くないよ。ちっとも悪くないけど……少し驚いた」
ふんと鼻を鳴らした慊人は自分の側を指差して、「ここに座れ」と命じた。心境の変化はあったようだけど、支配者気質は変わっていないらしい。
「昨日、
……このタイミングでぐれ兄が仕掛けてくるなんて、予想もしなかったよ。僕は思わず視線を泳がせてしまった。
「夾が高校卒業後も『外』で生活できるようにするため、楝と手を組んで僕を脅そうとしていたんだって?」
筒抜けじゃないか。楝さんの口の軽さを嘗めていたな。口止めしなかった僕も悪いけど。
余計な事は考えるな。どうにかして言い逃れ……るのは無理か。
「確かに僕は楝さんと取引したけど、楝さんと手を組んではいないよ」
「言い逃れをしてもムダだ。建視も僕を裏切ろうとしたんだろ」
慊人は悲しそうに顔を歪めて、僕を責める言葉を淡々と紡ぐ。普段の慊人なら、とっくに激昂して手を上げているはずなのに。
「僕としては慊人を裏切ったつもりはなかったけど、慊人がそう感じたなら裏切った事になるんだろうね。どんな処分でも受ける覚悟はあるよ」
どんな処分でもなどと言えたのは、今の慊人なら幽閉処分を下さないような気がしたからだ。
僕の思惑を見透かすように、慊人はまっすぐ僕を見つめてくる。慊人の漆黒の瞳には怒りも悲しみも見当たらず、諦観が浮かんでいるように見えた。
「処罰を言い渡す。建視はクビだ。任務は二度と命じない。高校に復学しようが大学に進学しようが、好きにしろよ」
それを聞いた瞬間、僕の胸の奥で相反する2つの声が同時に上がった。もう任務をやらなくていいんだという歓喜と、慊人に見捨てられてしまうという悲哀が。
異なる感情に流されて呆然としてしまったけど、気になる事が頭に浮かんで我に返る。
「でも僕に任務を命じないと、草摩の上層部が慊人に文句を言うんじゃない?」
「……それは僕の問題だ。建視には関係ない」
体が弱くて精神的にも脆い慊人が、草摩の上層部の魑魅魍魎を相手に戦い抜くのは至難の技だと思うけど。
慊人が可哀相だからといって、余計な親切心を出すのは危険だ。ぐれ兄は慊人を支えるのは自分1人で充分だと思ったからこそ、僕と楝さんの繋がりをチクったのだろうから。
ぐれ兄の意のままに動かされるのは癪に障るけど、渡りに船だし、兄さんにこれ以上心配はかけられないからな。
僕は居住まいを正して、約3ヶ月間お世話になった
「慊人、今までありがとう」
「形だけの礼はいらない」
「僕は本当に感謝しているんだよ。慊人は高校を辞めたいと言った僕に、側近の役職を与えてくれたからね。慊人には慊人なりの思惑があったんだろうけど、仕事に逃げる事ができて助かったのは事実だ」
それに、だ。もし慊人が僕を側近にしてくれなかったら、連日のように任務を押しつけられていたはず。
少し前までの僕は投げやりな考えに囚われていたので、あっさり心を壊していたかもしれない。
「慊人に助けてもらったお礼という訳じゃないけど、困った事があったら遠慮なく言ってね」
「なんで、そんな……僕はお世辞にも良い主人とは言えなかったのに」
当惑したように眉を寄せる慊人の声は弱々しい。弱気な慊人って調子狂うなと思いながら、僕は下心を白状する。
「夾を自由の身にするためには、慊人の協力は必要不可欠だ。慊人に頼むときだけ頼んで後は知らん振りするのは後ろめたいから、ギブアンドテイクにしようと思って」
「建視は相変わらず……親切ごかしな物言いをするよね。世渡り上手そうなのに、肝心な処が抜けているから損をする羽目になる」
慊人の言葉は僕の痛い処を衝いた。自分が犠牲になって夾を解放すれば、花島さんと本田さんが喜んでくれると思い込んだ事とか。
居た堪れなくなった僕が視線を逸らした時、慊人がふっと笑う気配がした。
「僕は建視のそういうトコロが、嫌いじゃなかったよ」
そう告げる慊人は、ぎこちなく微笑んでいて。まるで、生まれて初めて心から笑った人のようだと思った。
慊人との話を終えた僕は、当主の屋敷を後にして家に戻る。診察室を兼ねた客間に行くと、兄さんが古いカルテの整理をしていた。
「忘れ物か?」
「ううん。慊人からクビを言い渡された」
兄さんは持っていたカルテフォルダーを取り落とした。その弾みで紙カルテが散らばる。
患者の個人情報が記されているカルテを見るのは厳禁だから、拾うのを手伝う事はできない。
「上層部の者達が、建視をクビにしろと慊人に訴えたのか?」
「ううん。ぐれ兄が慊人にチクったんだよ、僕が楝さんと取引した事を」
カルテを拾う手を止めた兄さんは、眉間にしわを寄せてこめかみを指で押さえた。
「……何故、楝さんと取引したんだ?」
「慊人と交渉して夾を解放するために、慊人の弱みとなりそうな晶さんの秘密を探る必要があったから」
僕の言い分を聞いた兄さんは深い青の目を見開くと、おもむろに両目をきつく閉じて沈痛な表情を浮かべる。
「……馬鹿が」
怒りより悲しみが大部分を占める兄さんの叱責を聞いて、僕が夾の身代わりになって幽閉されようと思っていた事を見抜かれたと悟る。
兄さんに心配をかけまくった事を土下座して詫びたかったけど、兄さんは謝罪を求めているようには思えなかったので、僕は「ごめん」とだけ呟いた。
「悪い事をしたと思っているのなら、今すぐ学校に行け」
カルテ集めを再開しながら兄さんはそう言った。
約3ヵ月振りに登校するのはちょびっと気後れしてしまうけど、今の僕には兄さんの指示に逆らうという選択肢はない。
久しぶりに
現在の時刻は8時10分だから、
草摩の「中」の正面玄関に辿り着いたら、送迎車が見えた。
後部座席のドアを開けて乗り込もうとしたら、座席に座っていた紅葉が「Alter Schwede!(ビックリした!)」と叫んだ。
「ケン、今日はガッコー行くの?」
「そうだよ。慊人の側近をクビになったから、晴れて学生に戻るんだ」
簡潔に説明しながら車に乗ると、紅葉は満面の笑みを広げて「よかったねっ!」と言い、春は微笑みながら「おめ……」と言ってきた。
クビになったのに祝われるなんて変な気がするけど、2人は僕が立ち直った事を喜んでくれているみたいだから、素直に受け取っておく。
「トールは今、メンカイキンシなんだよねーっ。いつになったらお見舞いに行けるかな?」
「由希から聞いた話だと、本田さんは一通り検査をして様子を見る必要があるから、2~3日待たなきゃいけないんじゃないかって」
「リンも本田さんの見舞いに行きたがってる……本田さんが大怪我したって聞いた時、リンの顔が青くなって白くなって土色になったんだよ。必見……」
「いや、必見とか言われても」
主に本田さんに関する話をしているうちに、海原高校に到着した。車から降りて校門に向かうと、登校途中の生徒達が驚きを浮かべて僕を見てくる。
キン・ケンのメンバーを始めとする人達に声をかけられながら、昇降口から入って上履きに履き替えて職員室へ向かう。
「繭子先生、お久しぶりです」
「ああ。よく戻ってきたな」
安堵を滲ませた笑みを浮かべた繭子先生の表情に、驚きは見当たらない。兄さんから連絡を受けていたのだろう。
「繭子先生が他の先生方に話をつけてくれたおかげで、僕は3年生に進級する事ができたと兄さんから聞いています。本当にありがとうございました」
「後日、追試試験を受けてもらうけどな。それと欠席した授業の穴埋めをするために、レポートを提出してもらう事になると思う。詳しい説明は後でするから、教室に行きなよ。建視君が来るのを、クラスの皆が待っていたからさ」
そう言われて3‐Dの教室に向かうと、廊下で待ち受けていた
以前と同じように受け入れてくれた事が嬉しくて僕が笑いながら挨拶を返すと、キン・ケンのメンバーである彼女達は涙ぐんだ。
「けんけんが来たのか? あ、ホントだ。やっほー、けんけん!」
「おっひさー、けんけん! 元気にしてたか?」
声を聞きつけたのか、すけっちとろっしーが教室から出てきた。
彼らと軽く話をしてから教室に入ると、あちこちから「久しぶりだな」とか「会いたかったよーっ」といった言葉が飛んでくる。
「よぅ」
廊下側の席に座っていた夾が、僕を見上げて声をかけてきた。夾の方から挨拶をされたのは、何年ぶりだろう。
というか、本田さんを乗せた救急車を見送った時の夾は今にも死にそうな顔をしていたのに、思ったより落ち込んでなさそうだ。
さっき春が送迎車の中で、「夾は由希にボコられて、目が覚めたみたいだよ……」とか言っていたけど、マジだったのか。
僕が夾に向かって「おぅ」と返事をした時、力業で相手を説得する特技を身につけた由希がこっちにやってくる。
「思っていたより早く復学したんだね」
由希の顔には、予想外と書いてあるように見えた。
「僕もこんなにすんなり、側近を辞められるとは思ってなかったよ。慊人が……変わる事を選んだからだと思う」
慊人の内面の変化は紅野兄のおかげか、それとも本田さんと何かあったのか。考えても答えは出ないので、気持ちを切り替えて窓際にいる彼女達のところへ向かった。
「ウーッス、リンゴ頭。ようやく来やがったか」
若干呆れ顔の
「花島さん、おはよう」
「おはよう、建視さん……」
滅多に見せない微笑みを浮かべた花島さんを前にしたら、喜びや罪悪感や安堵が一気に込み上げてきて。目頭が熱くなったけど、泣くのは意地で堪えた。
心の底から愛しいと思う女の子がいて。気の置けない友達がいて。
以前より接しやすくなった従兄弟たちがいて。親しみやすいクラスメイトがいて。親身になってくれる担任の先生がいて。
そんな高校生活は、僕にとって掛け替えのないものなんだと今更ながら気付く。
真に大切なものは失ってから初めて気付くという言葉が、現実にならなくて本当によかった。