Side:
7月22日の土曜に、
という情報を草摩
だって、これからは草摩夾が透君を1人占めしてしまうのよ。少しぐらい意趣返しをしても許されるでしょう。
「くぁ~っ、けっこう歩いたなぁ」
動物園を見て回った後、ありさがはそう言いながら背伸びをした。
キリンがいなかった事はちょっと残念だったけど、猫と触れ合う可愛らしい透君を見る事ができたから満足だわ。
「楽しかったわね……」
「はい、とっても!!」
にこやかに笑う透君とは対照的に、草摩夾は疲弊していた。透君を見る度に浮かれて、私やありさの無茶振りに振り回されて、気分の乱高下が激しかったものね。
「あ……っ。帰る前にお手洗いに行ってきて、よろしいですか?」
「1人で平気かー?」
「はい……っ、いってきますっ」
普段なら透君についていくけど、草摩夾と腹を割って話すにはいい機会だからその場に残った。
草摩夾を改めて観察して、以前とは別人のようだと思う。自然に笑うようになり、草摩夾の心に暗い影を落としていた思念はいつの間にか消えた。
それと同時に、人とは違う妙な電波も感じなくなったわ。透君と両想いになれた事で憑き物が落ちて、普通の人間らしくなったといった処かしら。
「な……っ、なんだよ……?」
「連れていってしまうのね……」
草摩夾は、こことは違う場所で自分を試してみたいと思っている。できれば透君も一緒に、と。
自分の心の中を言い当てられた草摩夾は、頬をわずかに赤らめた。
「……そうね、いつかはそんな時が来るって知っていたわ。でも……」
同級生から忌避や敵意を向けられて学校ではいつも1人ぼっちだったあの頃、帰り道に見上げる夕陽は震えるくらい寂しく見えた。それなのに。
――おおーっ、今日もまっ赤な夕焼けっ。
――はい……っ。
ありさや透君が側にいるだけで、夕陽が優しい色に見えた。のびていく影が1つじゃないと気付いて、泣きたくなるほど嬉しかったわ。
親友達とずっと一緒にいたいと思っていたけど、それは無理な願いだと解っている。
透君はきっと、草摩夾についていく。ありさも
――あんた達もいつかさ、それぞれ別の道を歩きだすとしてもさ。薄情とか寂しいとか、そんなことないよ。続いていくものは、きっと必ずあるはずだから。
住む場所が離れてしまっても私達の友情は決して途絶えたりしないのだから、会おうと思えば会える。そう自分に言い聞かせても、やっぱりさびしい。
「勝手よ……」
片手で顔を覆って俯いた私は、草摩夾を責める言葉を投げつけた。
「……あ、ご……っ、そ、それでも俺は」
草摩夾の言い訳を遮るように、私は「今ここで」と告げる。
「『ママ』って呼んだら許してあげる……」
「え……なにソレ、死ねってこと……?」
「はーなーじーまっ、あんまもうイジめてやんなや」
ありさに頭を軽く叩かれて、私は仕方なく「そうね……」と答えた。舌打ちをしてしまったけど、ご愛嬌というやつよ。
「おい、きょんっ。あたしらはこう見えて、あんたの事好きだよ。バカだけど憎めなくて、いい奴だっ」
「バカだけど……」
「バカだけどなっ」
ありさの好意的な言葉に戸惑っていた草摩夾は、バカと言われて沈んでいた。物の道理を知らないバカだと言っている訳じゃないんだから、そこまで落ち込まなくてもいいでしょうに。
「透はさ……あたしらの親友で、仲間で、家族なんだ。……本気の本気で頼んだからね?」
真剣な口調になったありさは、今日子お母様の分も頼んでいるに違いない。
透君は退院した後、今日子お母様の言葉の真意を草摩夾に伝えた。それを聞いた草摩夾は「紛らわしいんだよ……」と呟いて、脱力していたわ。
それだけで済ませたらオハナシアイの必要があったけど、草摩夾は「随分遅くなったけど、ツケは必ず払う。一生分守るよ」と宣言した。
この後、草摩夾は透君を誘って
さすがにそこまで邪魔するつもりはないから、私とありさは先に帰る事にした。
透君に何も言わずに帰るのは気が咎めるけど、透君の姿を見たら私の気持ちが変わってしまうかもしれないもの。
「なぁ。さっき、きょんに向かって『ママ』と呼べっつってたけど、
動物園を後にして駅に向かって歩いている途中、ありさは質問を投げかけてきた。
私は間を持たせるために「そうね……」と言ってから、自分の心に問いかけてみる。
「好きだけど……恋と呼ぶには熱量が足りないと、最近気付いたわ……」
「そんじゃ、リンゴ頭の事はどう思ってるんだ?」
少し前だったら建視さんは友達だと断言していたけど、今は……違う。心境の変化の切っ掛けは、今日子お母様の遺品に宿る残留思念を4人で共有した一件でしょうね。
他人を害してしまった忌まわしい力を使って大切な人達の役に立てた事は、私の心に大きな変化をもたらした。
役に立てたからといって、小学生の時に彼を傷つけてしまった罪は消えないけど。それでも私の力は“百害あって一利なし”じゃなくて、“百害あるけど一利はある”程度には言えるんじゃないかと思えるようになった。
私がそう言ったら、
――依頼を受けて残留思念を読むのは久しぶりだから、緊張をほぐしたかったんだ。
あのとき伝わってきた嫌悪感は、とても根深そうだった。
建視さんは草摩家の仕事に触れないでほしいと頼んできたから、彼の心の
去年の2月に私が自分の罪を打ち明けた時に建視さんは受け入れてくれたから、建視さんが抱え込んでいる心の痛みや苦しみを打ち明けてほしいと思う気持ちもあった。
だけど、建視さんは気さくな割にどこか他人を拒絶している。
去年、皆で今日子お母様のお墓参りをした時、透君が「建視さんが悲しい気持ちを抱えていらっしゃるならば、どうか私に話して下さい」と言ったら、彼は笑ってお礼を言って受け流したとありさが話していたわ。
私がいきなり「貴方の悩みを話して頂戴」なんて持ちかけても、建視さんは心の痛みや苦しみとは全く関係のない悩みを話しそう。
そもそも建視さんが現在頭を悩ませている事と言ったら、私が藉真さんの家に通っている事だろうから、私が建視さんの悩みを聞くなんて偽善もいい処よ。
私がうだうだと迷っている間に、建視さんは変わった。草摩家特有とも言えるあの暗い思念が消えて、心の底から晴れ晴れとした笑みを浮かべるようになっていた。
建視さんは自力で……あるいは他の誰かの力で、心の闇を吹っ切る事ができたのでしょう。私の出る幕なんて無かったと思ったら、無力感に襲われた。
――残留思念を読む力が無くなったんだ。
建視さんは申し訳なさそうな顔をして打ち明けてきた。
自分の意志では制御できない力が無くなったのは良い事なのだから、「よかったわね」と言うべきだったのに。
彼が“仲間”ではなくなって、私は落胆してしまった。
――花島さんと師範の仲を応援するよ。僕にできる事があったら、何でも言ってね。
作り笑いを浮かべた建視さんがそう言った時、胸が締めつけられるように苦しくなった。
悲しみと怒りと後悔が混ぜこぜになった痛みを感じた瞬間、私はようやく自覚した。
建視さんを異性として好きになっていた事を。
――恐ろしいなんて思わないよ。他人の気持ちを優先する本田さんの友達の花島さんが、面白半分に力を使って人を攻撃するとは思えないから。
今思えば、建視さんがそう言ってくれた瞬間から、彼は特別な存在になっていた。
私の力を知った上で臆する事なく接してくれて、なおかつ似たような力を持つ人なんて建視さんが初めてだったの。
だから、“友達”であり“仲間”でもある貴重な存在を失いたくないと思った。
建視さんが私に向けてくる好意に恋情が混じるようになっても、私は気付かないフリをした。
わずかな気持ちのすれ違いで絶縁状態になってしまう場合もある恋人同士より、喧嘩をしても仲直りをすれば元通りになれる友達同士の方が強固な絆を結べると思っていたから。
けれど私は、“友達”であり“仲間”でもある建視さんに酷い事をした。建視さんが見ている前で、藉真さんに女として見てもらえるように振る舞った。
私と建視さんは付き合っている訳じゃないし、藉真さんとは滅多に会えないから機会は逃せないし、私が誰に恋しようが自由だと自分に言い訳をして。
建視さんの想いを蔑ろにしてきたのよ。
「……私は今まで建視さんの好意に甘えて、残酷な振る舞いをしてきたわ……にも拘らず、『好きになったから付き合って』と言うなんて、あまりに身勝手よ……」
「誰かを好きになるのは自分の意思じゃどうにもならねぇモンだから、心変わりをしても身勝手だと責められる事じゃねぇと思うけどな。恋人がいるのに他の奴に浮気したら、問題になるけどよ」
それより、とありさは言葉を続ける。
「リンゴ頭はあれでモテるからよ。花島が頭の中でグルグル悩んでいる間に、横から掻っさらわれちまうかもしれねぇぜ?」
そんな事は無いとは言い切れない。
建視さんに恋焦がれるファンは大勢いるし、
ありさの言う通りになる可能性は多分にあるのだから、いつまでも悩んでいられないわね。
▼△
Side:建視
夏休みに入って間もない7月23日。今日は本田さんの快気祝いパーティーが、草摩温泉の宴会場で開かれる。
待ち合わせ場所として指定したゆうひが丘駅には、パーティーの出席者が集まっていた。
まずは主役の本田さん、
草摩家の出席者は、由希、夾、
本田さんと草摩家の両方に関わりのある出席者として、師範の秘書兼弟子のみつ先輩と、綾兄の店で働く
紅野兄にも声をかけたけど、生活基盤がまだ安定してないから出席できないという返事がきた。
一行は草摩温泉の送迎バスに乗り、約2時間後に目的地に到着した。
木造2階建ての純和風の旅館は、約8年前に訪れた時とほとんど変わってない。前回は兄さんや紅葉と一緒に、日帰りで温泉に入りに来たんだよな。
「み……皆さん、ようこそいらっしゃいました……っ」
真紅の日除け幕が飾られた玄関から利津兄が出てきて、出迎えの挨拶を述べた。淡緑の色留袖を着こなした利津兄は、初々しい
「……利津兄、職場でも女装している訳?」
「ご……っ、ごめんなさい、ごめんなさい、今すぐ脱ぎますぅぅ!」
燈路の言葉にショックを受けた利津兄は、泣きながら自分の帯を解こうとしている。
玄関先でストリップをしたら色々と大変だ。僕は利津兄の脇腹をプッシュして大人しくさせた。
「ごめんなさいぃぃぃ! 職場での女装を許したのは、親馬鹿なこの私! 草摩温泉の影の大番長であるこの私が謝ります、世界中にあやまりますわぁぁぁぁあ!! ごーめーんーなーさーいー!」
高らかに叫んだ青白い顔をした和服姿の女性は、利津兄の母親の
「オレは女装が悪いって言った訳じゃないよっ。ちょ、離れてっ!」
他では見られない熱烈な歓迎を受けて、僕達は旅館に入った。
利津兄の案内で辿り着いた宴会場は、40畳ほどの広さの畳敷きの大広間だ。
白いテーブルクロスがかけられた脚の短い円卓が5つ置かれ、1つの円卓につき5~6人分の座椅子が用意されている。
「これは誰がどこに座るのか決まっているの?」
僕の質問に、利津兄は「決まっていませんので、お好きな席に座って下さい」と答えた。
「ボク、トールと同じテーブルがいいーっ」
「わ……私も……っ」
「オレは杞紗の隣に座るよ」
紅葉と杞紗と燈路は真っ先に希望を述べた。
「夾は本田さんとは違うテーブルでいいよな?」
由希は笑顔でサクッと、付き合い始めて1ヶ月も経ってない恋人同士を引き裂く提案をした。
抵抗しても無駄だと悟っているのか、夾は「へいへい」と適当に応えている。
「余裕だね、夾……本田さんとずっと一緒にいられるから……」
「……別れればいいのに」
隠れ本田さんラブ勢であるリン姉の本音は、紅葉達に囲まれている本田さんの耳には届いていないだろう。
「別れたら、とっておきの毒電波をお見舞いしてやるわ……」
「死んでも別れねぇよ!!」
「んじゃ、じゃんけんで決めっか」
本田さんと同じテーブルに着く権利を巡って、紅葉と杞紗と燈路と花島さんとリン姉と魚谷さんと恵君が、仁義なきじゃんけん勝負を始めた。
じゃんけんに参加しなかった人達は、先に好きな席に座っている。兄さんのいるテーブルに行こうとしたら、楽羅姉が僕に近寄って話しかけてきた。
「じゃんけんが終わるまで待ったら? 咲ちゃんが負けたら同じテーブルに着けるよ」
「……僕が余計な世話を焼いて恋のキューピッド役を申し出たせいで、花島さんとの仲が気まずくなっちゃったんだよ」
花島さんは皆と一緒にいる時は僕と普通に話してくれるけど、僕と2人きりになると彼女の口数が減ってしまうのだ。
喧嘩したなら仲直りするための努力に励めばいいが、喧嘩した訳じゃないからな。何をどうすれば、花島さんは以前のように接してくれるようになるのか解らない。
今日のパーティーが好転の切っ掛けになればいいと思っているけど、焦って花島さんに付きまとったら逆効果だ。
花島さんが心置きなく食事するためにも、僕は別のテーブルに着いた方がいいだろう。
「Unglück!!(ついてない!!)」
じゃんけんの勝敗が決したらしい。勝利の栄冠に輝いたのは、杞紗と花島さんとリン姉と魚谷さんと恵君だ。
「女の子に囲まれて……ドキドキのシチュエーション……」
「お、おいっ。杞紗にちょっかい出すなよ」
「俺の好みのタイプは年上の女性だから、安心して……」
恵君とのやり取りを終えた燈路は紅葉と一緒に、夾と由希と春のテーブルに向かった。僕と兄さんが着いたテーブルの席には、綾兄と美音さんと楽羅姉が座っている。
残る1つのテーブルには、本田さんのおじいさんと花島さんのおばあ様、師範とみつ先輩と利津兄と女将さんが着席した。
仲居さん達が料理と飲み物を運び終えた後、主役の本田さんが挨拶する事になった。
立ち上がった本田さんは緊張しているのか、「え、えと、あの、その……っ」と言葉をつっかえている。
「きょ、今日はお集まり頂き、誠にありがとうございます……っ。このように立派な場所で快気祝いパーティーを開いて頂けて、本当に嬉しくて倖せで……胸が一杯で、私は果報者です……っ」
本田さんがぺこりとお辞儀をして着席すると、幹事の紅葉が「カンパイするから、みんなコップを持ってねっ」と呼びかける。
「それじゃ、トールのケガが良くなったことを祝ってーっ」
「「「「かんぱーい!」」」」
歌うように響き合った声は、賑やかなおしゃべりに変わった。僕は上品な味付けの会席料理に舌鼓を打ちながら、楽羅姉と話をする。
「保育園で働き始めたって聞いたけど、調子はどう?」
「うーん、最近ちょっとヘコんでいるかな。子どもと関わる仕事をするのは昔からの夢だったけど、やっぱり理想と現実は違うね。楽しい事より、辛い事の方が多いよ」
異性に抱きつかれると変身してしまう呪いがハンデになっていたから、楽羅姉は保育士の資格が取れる短大には通わなかった。
今は保育補助としてパートタイムで働きながら通信講座で試験対策をして、保育士の資格取得を目指しているらしい。
「でも、へこたれないよ。無理だと思って諦めていた夢が、ようやく叶うんだもの」
「楽羅姉なら絶対に良い保母さんになれるよ」
慰めじゃなくて本音だ。面倒見が良くて子ども好きな楽羅姉にとって、天職だと思う。
「えへへ、ありがと。建ちゃんは進路どうするの?」
「とりあえず進学はするけど、就きたい職はまだ決まってない」
「進路は大事だからな。じっくり考えて決めればいい」
会話に入ってきた兄さんはそう言うけど、資格や専門的な知識が必要な職だと進学先が限られてくる。夏休み中に、就きたい職の絞り込みをしなきゃな。
「ケンシロウも進学するのかいっ。それは重畳っ。女子大生とのめくるめくラブロマンスが待ち構えているキャンパスライフを、存分に楽しみたまえっ」
不自由だった自分達の分まで……という思いが感じられる台詞だが、綾兄はそんな意味合いは含ませていない。綾兄とぐれ兄は呪いという枷があったにも拘らず、大学時代も女遊びをしていたらしいからな。
「そういえば
兄さんの問いかけに、綾兄は「うむっ」と答える。
「少々手狭だが、大学から程近いマンションの一室を押さえる事ができたよっ。ボクとしては、見晴らしのいい場所に由希御殿をドカンと建設したかったのだがねっ。不動産会社の者に却下されてしまったのだよっ」
綾兄の物件探しに付き合う羽目になった不動産会社の人は、ご愁傷様としか言いようがない。
それより1人暮らしか。兄さんと繭子先生は近いうちに結婚するだろうから、僕も本家から出て生活する事を考えた方がいいな。
ビンゴ大会が始まる前に、トイレに行っておこうと思って席を立った。用を足して宴会場に戻る途中で、花島さんとばったり出会う。
「建視さんに話があるの……」
話って何だろう。もしかして師範との仲が進展しないで困り果てて、僕に協力を頼もうと思ったのかもしれない。
キューピッド役を名乗り出たのは僕だから、ダメとは言えないよな。
それに悪い事ばかりじゃない。花島さんの恋の応援を引き受ければ、以前のように話してくれるようになるはずだ。
自分にそう言い聞かせながら、僕は外で話をしようと提案した。廊下で立ち話をすると、師範が通りかかるかもしれない。
ガラス戸を開けて沓脱石の上に並ぶ雪駄に履き替え、池にかかった赤い御太鼓橋が雅な趣を添える庭に出た。
正午は過ぎているが、頭上高くに昇った太陽は容赦なく照りつけてくる。炎天下で立ち話をするのはキツイから、旅館の近くに植えられた背の高い庭木の木陰に向かった。
「それで、話って何かな?」
気楽な口調で促してみたけど、花島さんは言葉を探すように視線を彷徨わせていて中々切り出そうとしない。
もじもじする花島さんって初めて見たな。可愛いけど、花島さんが乙女モードに入るのは師範絡みの時だ。
やっぱり師範に関する話かと思った矢先、ようやく彼女は口を開く。
「け……建視さんが好き……だから、私と付き合ってほしいの……」
何を言われたのか理解できない。僕が好き、だって? それって友達として? だったら、付き合ってとは言わないか。
いや、待て。どこかへ行くのに付いてきてほしいといった意味合いで、付き合ってと言ったのかもしれないぞ。待て待て、それ以前に……。
「花島さんの好きな人は、師範だよね?」
「藉真さんへの想いの大半を占めるのは、憧れの気持ちよ……想う相手を私だけのものにしたいと願ったのは、建視さんが初めて……」
花島さんは恥じらうように目を伏せて、頬をわずかに赤く染めた。……僕の願望が見せている幻覚だろうか。しかも、とんでもないことを言われたような。
落ち着け。ダメだ、無理。顔に集まった熱のせいで、僕の脳味噌がゆだってオーバーヒートを起こしている。冷房が効いた館内で話をすればよかった。
何が切っ掛けで心変わりをしたのかとか、いつから僕の事を異性として意識してくれるようになったのかとか。聞きたい事は幾つもあるが、そんな事はどうでもいい。
いや、どうでもよくないから後で聞くけど。今は、告白してくれた花島さんに応えるのが最優先だ。
「勇気が出せなくてちゃんと伝えられなかったけど、僕は花島さんのことが誰よりも好きだよ」
言葉にする事はないだろうと思っていた想いを、ようやく言えた。すっきりしたというより、少しだけ後悔している。
好きな女の子に告白されるのは舞い上がりそうなほど嬉しいけど、僕の方から気持ちを伝えて彼女を手に入れたかったというか。まぁ、つまらない意地みたいなものだ。
「名前で呼んで頂戴……」
上目遣いでお願いしてきた花島さんを見たら、後悔は一瞬で掻き消えた。
「さ……咲しゃん」
今、とっても大事な場面なのに噛むなんて!
自分の残念さに軽く絶望して片手で顔を覆うと、花島さん……咲さんが近寄ってきて僕の腕にちょんと触れた。
滑舌レベルが更に下がるからボディタッチは控えてほしい。でも、僕に触らないでなんて口が裂けても言えないよ!
「呼び捨てて構わないわ……建視……」
「咲……っ」
愛しくて堪らなくなって、咲を抱きしめていた。咲は驚いたように身を竦めたけど、おそるおそるといった感じで僕にしがみついてくる。
恋焦がれる
世間一般の倖せは夜空に輝く星と同様に手が届かないものだと思っていたけど、手が届いた。目眩がするほど嬉しくて、目頭が熱くなる。
「建視……? どうして泣いているの……?」
「これは嬉し涙なんだけど、色々あって……上手く言えないや」
「それじゃ、少しずつでいいから話して頂戴……これからは楽しい事や嬉しい事だけじゃなくて、辛い事も分かち合っていきたいから……」
すでに解けたとはいえ、十二支の呪いを打ち明けるのは少し躊躇いがある。でも、咲なら受け止めてくれるだろう。
「話すよ、必ず」
約束の言葉の代わりに、僕は彼女にキスを贈った。
次回は最終話です。