神様と十二支と猫と盃と《完結》   作:モロイ牛乳

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高3・エピローグ
74「いってきます!」


  海原(かいばら)高校の紺青色の制服を着るのは、今日が最後だ。

 初めて見た時は変わった制服だなと思ったけど、着続けているうちに自分の一部のように馴染んでいたから、なんだか寂しい。

 

「それじゃ、いってき……兄さん、どうしたの?」

 

 家の玄関先で見送りに立った兄さんが片手で顔を押さえたと思ったら、トラウザーズのポケットから取り出したハンカチで目元を拭いている。

 

建視(けんし)が高校を卒業する日を無事に迎えたと思ったら、感極まってしまって……」

「その節は大変申し訳ございませんでした!」

 

 僕は兄さんに一生頭が上がらないだろうな。繭子(まゆこ)先生にも。そんな事を思いながら正面玄関に向かい、待機していた送迎車に乗る。

 

「おは……」

 

 しばらくして、春が草摩(そうま)の「外」からやってきた。春は先月から、師範の家で生活するようになったのだ。

 春が急にそんな行動に出た原因は、リン姉が師範の家でまかないさんとして働き始めたからだろう。

 

 リン姉は師範やみつ先輩を異性として意識してないけど、自分以外の男が彼女の手料理を毎日食べる事に春は思う処があったのかもしれない。

 春とリン姉が一つ屋根の下で暮らす事に春の両親は難色を示したらしいが、反対するなら駆け落ちしてやると春が仄めかしたため、節度を持って同居生活を送ると誓う事を条件に認めたようだ。

 

「おまたせーっ」

 

 少し遅れてやってきた紅葉(もみじ)は、明るいピンク色のバラをメインとした花束を持っていた。

 

「その花束、本田(ほんだ)さんに渡すのか?」

「うんっ! トールのこと大好きだし、感謝とお祝いの気持ちを伝えたいからっ」

 

 生徒会長になった紅葉は由希(ゆき)に匹敵しそうな勢いでモテているのに、恋人を作る気配はない。

 紅葉にとって本田さんは、特別な存在だ。初恋の相手で、母親同然の女性(ひと)で。だから、そう簡単に気持ちを切り替える事はできないんだろう。

 

「本田さんと(きょう)と由希と魚谷(うおたに)さんは、今月中に旅立つんだよね……。建視も本家から出ていくし……」

 

 そう言いながら、春はさびしそうに微笑んだ。

 僕は草摩の本家から通える都内の大学に進学が決まったけど、いい機会なのでマンションで1人暮らしをする事にした。

 あくまで自立が目的であって。(さき)と2人きりになって、あんなことやそんなことをしようとか目論んではいない。断じて。

 

「顔を見せに来いって兄さんに言われているから、週に1度は帰ってくるよ」

「ケンは料理がヘタだから、週に1度はまともな食事をとらないとねーっ」

「僕は料理も得意な旦那さんを目指しているからな。練習の末、炊飯器でご飯を炊けるようになったぞ」

「それくらいの事で自信たっぷりに言われても……」

 

 紅葉や春とおしゃべりしながら登校するのも、今日が最後か。などと僕が感傷に浸っているうちに、送迎車は海原高校を目指して走り出した。

 

 

 

「おはよー、けんけん!」

「おはよう、ろっしー」

「おはよー、けんけん!」

「なんで2回も言うんだよ」

「だって学校で会って挨拶するのは、これで最後だから……っ」

「やめろよ、ろっしー。涙が出ちゃうだろ。男の子だもん」

 

 教室での友達とのアホなやり取りも、名残惜しく感じてしまう。おセンチな気分になっているのは、僕とろっしーだけじゃない。

 

「うう……っ、建視君と会えなくなるなんて嫌ぁ~」

「建視君と同じ大学に行けたらよかった……!」

 

 キン・ケンのメンバーが、早くも涙に暮れている。卒業式はまだ始まっていないのに、このまま泣き続けたら脱水症状になるんじゃないか。

 

「おはようございます、建視さん……っ」

 

 教室にやってきた本田さんは、いつもの明るい笑顔を浮かべている。

 あの笑顔を毎日のように見る事ができなくなるのかと思うと、宝物を失くした事に気付いたような寂しさを覚える。

 

「本田さん、おはよう。夾もおはよーさん」

「おはよう」

 

 生涯を通じて武術を極めると決めた夾は礼儀礼節を重んじるようになったらしく、夏休み明けから同級生に対しても真面目に挨拶をするようになった。

 夾は卒業後、師範の知り合い筋の道場がある遠方の土地で農業手伝いのバイトをしながら、道場に通う事にしたようだ。

 新天地で指導者として必要な事を学んだ夾は、いつか師範の道場を継ぐのだろう。

 

「うーっす」

「おはよう…………魚谷さん」

「なんで間を置いたんだよ」

 

 魚谷さんは紅野(くれの)兄と同棲する予定だから、近いうちに僕達の親戚になるんだろ。ありささんと呼び方を変えるべきか迷ったんだよ。

 なんて事は教室では言えないので、笑って誤魔化した。

 

 同棲するといっても魚谷さんは専業主婦になる訳じゃなく、紅野兄が住む地域にある特別養護老人ホームで働きつつ、介護福祉士の資格取得を目指すようだ。

 紅野兄は麻痺が残った左足のリハビリを続けながら、主夫業にチャレンジするらしい。家事なんてやったことなさそうな紅野兄が主夫になれるのか心配だけど、家庭科の成績は良かったらしいから大丈夫だろう。

 

「おはよう、建視……」

「おはよう、咲。今日は髪を結ってないんだね」

「ええ……なんだか気分じゃなくて……」

 

 そう言いながら波打つ黒髪を掻き上げる咲は、色っぽく見えた。学校で会うのは最後だからと、気分が盛り上がった輩が咲に群がるかもしれない。目を離さないようにしよう。

 僕が密かに決意した時、廊下で悲鳴じみた甲高い声が聞こえた。由希の名を連呼しているから、海高の王子様が到着したようだ。

 

「お……おはよう」

 

 疲労の色が見える由希に、クラスの女子が次々と挨拶しに行っている。涙を流す彼女達は由希の側から離れようとしないので、僕達は由希に声をかける事すらできない。

 他クラスのプリ・ユキのメンバーも3-Dの教室に集まってきて、由希を讃える会~The Final~が開かれようとした時、繭子先生がやってきた。

 

「ホームルームを始めるぞ。自分のクラスに戻れ」

「繭ちゃん先生、袴じゃないの?」

 

 すけっちが残念そうに言った。僕も残念だ。繭子先生の袴姿を見たかったのになぁ。

 

「袴は着るのが面倒臭いからパスしたんだよ」

「そんなー。教え子の晴れ舞台なのにぃ」

「このスーツは新品だぞ」

 

 我らが担任は黒のパンツスーツ姿だ。背中まで伸ばしていた薄茶色の髪を秋頃にバッサリ短く切ったから、繭子先生は更に凛々しくなった。

 今でこそ繭子先生のショートヘアは見慣れたけど、髪型を変えたばかりの頃は心境の変化があって兄さんと別れたのかと勘繰ってしまったんだよな。杞憂だったけど。

 まぁ、それも良い思い出だ。

 

 僕はリボンに『卒業おめでとう』と書かれた花飾りを胸元につけて、体育館へと向かう。

 下級生が作った紙花や紅白の幕で飾られた体育館の中は、切ないメロディの『卒○写真』の曲が流れていて、しんみりした雰囲気に包まれていた。

 夾と僕と由希が続いて入場した途端、在校生の席から何十人分の泣き声が響く。本気で泣いている子が多そうだから、式の最中に具合が悪くなる生徒が続出するかもしれない。

 

 保護者席を見遣ったら、ゼブラ柄のファーコートを着込んだ綾兄と、メイド服をお召しになった美音(みね)さんのペアが真っ先に目についた。

 綾兄の隣には、チャコールグレーのスーツを着た兄さんが座っていて。兄さんの隣には、藍色の和服をきっちり着こなす師範が着席している。

 師範の隣席には驚いた事に、ダークスーツを身に纏ったぐれ兄の姿があった。ぐれ兄は多忙なのに、わざわざ時間を捻出したのか……って。

 ぐれ兄の隣に座る、肩の下まで黒髪を伸ばした女性は慊人(あきと)じゃないか。皆に自分の性別を明かした日を契機に男装を止めた慊人は、紺色のワンピースを着ている。

 

「まさか慊人が来るなんて……」

 

 保護者席を見た由希が、驚きを隠し切れないように呟いた。

 

「俺達だけじゃなくて、(とおる)の卒業も見届けようと思ったんじゃないか?」

 

 推測を述べた夾は苦笑している。

 

「咲と魚谷さんの卒業もだろ。本田さんと咲と魚谷さんと慊人は、茶飲み友達だし」

「あの4人が仲良くなるなんて予想しなかったよ……」

 

 由希が感慨深げに言ったように、彼女達が出会った当初は慊人が本田さんを傷つけた事で遺恨を引きずるかと思われた。

 でも、孤独だった慊人が本田さんに救われて友情を育んだ経緯を知ると、咲と魚谷さんは慊人に親近感を抱いたらしい。

 慊人は相変わらず忙しい身なので気軽に会う事はできないけど、ぐれ兄が慊人のスケジュールを調整して彼女達が会う時間を作ってくれている。

 人見知り気質の慊人は、咲に「あーちゃん」と呼ばれると未だに戸惑うが、そのうち諦め……いや、慣れていくだろう。

 

 卒業生が全員入場し終えた後、司会役の先生が開式の辞を厳かに告げ、卒業証書の授与が始まる。C組のクラス委員長が代表で卒業証書を受け取った後、D組の番になった。

 体育館の隅に設置されたマイクスタンドの前に立った繭子先生が、落ち着いた声で出席番号1番の赤坂(あかさか)さんの名前を呼ぶ。泣きながら返事をした赤坂さんが起立し、次の岩田(いわた)さんが呼ばれる。

 

「魚谷ありさ」

「はい」

 

 いつもは適当に返事をする魚谷さんだが、卒業式だからか真面目に応えた。

 下級生と思しき女の子が「姐さぁぁんっ!」と叫ぶ声が響く。この声、どこかで聞いたような気がするんだけど……。

 僕が記憶を探っているうちに、どんどんクラスメイトの名前が呼ばれていく。

 

「草摩夾」

「はいっ」

 

 気合いの入った返事をした夾が起立するなり、「夾、大好きーっ!」とか「夾先輩、卒業しないでーっ!」という声が上がった。

 今に至るまでモテている自覚が芽生えなかった夾は、驚いている。

 

「草摩建視」

「はい」

 

 僕は返事をして立ち上がる。BGMとして流れるパッヘルベルの『カノン』の曲しか聞こえない。

 式の最中は静かにしようねとキン・ケンのメンバーに事前通達しておいたから、皆はそれを守ってくれたようだ。

 

「草摩由希」

「はい」

 

 プリ・ユキが騒ぐかなと思ったけど、意外にも静かだった。後で由希が答辞を読む時は、こうはいかないだろう。

 

 次のすけっちが名前を呼ばれて元気よく返事をするのを聞きながら、僕は由希が原因となった騒動を思い返す。1番被害が大きかったのは、由希の進路に関する一件だ。

 呪いが解ける前の由希の第一志望は都内の大学だったので、由希が関西方面の大学に進路を変更したと知ったプリ・ユキのメンバーに衝撃が走ったらしい。

 由希と同じ大学に進路を変更する事ができたのは、一部の成績優秀者だけ。浪人してでも由希と同じ大学に行くと主張する生徒が後を絶たず、先生方は説得に苦労したようだ。

 

花島(はなじま)咲」

「はい……」

 

 静かに返事をした咲が立ち上がった時、後ろの席にいる誰かがむせび泣く声が聞こえた。この声は、咲のお母様だろう。

 咲は2年生の時に提出した進路希望調査票に、海外逃亡と書いたらしいからな。親としては、無事に卒業してくれて感無量なのだろう。僕達、似た者夫婦になれるね。

 

 卒業後は自宅で家事手伝いをすると決めた咲は、「私は建視のお嫁さんになるから花嫁修業に励むわ……」と言ってくれた。

 あの言葉を思い返すだけで、僕は天にも昇りそうなほど倖せな気分になれる。

 健気で可愛い咲に美味しいものをお腹いっぱい食べさせ続けるために、僕は高収入を得られる会計士になるんだ!

 

「本田透」

「はい……っ」

 

 本田さんは今までのように家事を行いつつ、道の駅でレジ打ちのバイトをするらしい。

 師範の知り合いから庭付きの一軒家を格安で借りられたとはいえ、非正規雇用で働く夾と本田さんの生活は楽なものではないだろう。

 苦労が多くなると人間関係はギスギスしがちだけど、本田さんと夾の仲が冷え込むとは思えない。むしろ、困難にぶち当たる度に2人の愛情は深まっていきそうだ。

 

 3年D組の生徒全員の名前が呼ばれた後、クラス委員長の由希が代表で校長先生から卒業証書を受け取るため、壇上に登る。

 下級生の誰かが「由希先輩、大好きです!」と叫んだのを切っ掛けに、次々と由希コールが飛び交って、繭子先生がマイクで注意して静かにさせた。

 

 卒業証書授与の後は、卒業生代表による答辞だ。代表に選ばれた由希が壇上に向かう途中、プリ・ユキのメンバーが嗚咽まじりの歓声を上げた。

 

「ファイトだよ、マイブラザー!! ボクはここから君をすっごく見守っているからねっ!!」

 

 綾兄の叫び声が1番大きいな。司会役の先生が「答辞は静かに聞きましょう。保護者の方にもお願いします」と注意しているよ。

 

「草木もようやく長い冬の眠りから覚め、生命の息吹が感じられる季節になりました。本日は私達255名のために、このような素晴らしい式を挙行していただき、ありがとうございます」

 

 由希の答辞に華を添えるべく『旅立○の日に』のピアノ伴奏が流れているのだが、大勢の女の子が泣きじゃくる声の方が大きくて、そっちがBGMになっている。

 落ち着きを保とうとしている由希の声音から、困惑と悲しみが如実に伝わってきた。

 

「……最後になりましたが、諸先生方のご健勝と、都立海原高校のますますのご発達を心より祈念して、答辞と致します。平成13年3月1日。卒業生代表、草摩由希」

 

 由希が答辞を締め括ると同時に、盛大な拍手と歓声と泣き声が響き渡った。卒業式というより、人気アイドルのコンサートみたいだな。

 

 こうして後輩達の別れを惜しむ声に送られて、僕達は海原高校を卒業した。

 

 

▲▽

 

 

 

 本田さんと夾が旅立つ3月4日は、澄み切った青空が広がっていた。2人の門出を祝福してくれているような、良い天気だ。

 

 東京駅の新幹線のホームには、本田さんと夾を見送りに来た面々が集まった。

 慊人は所用があって来る事ができなかったけど、元・物の怪憑きは紅野兄を除いて勢揃いしている。

 咲は御家族と一緒に来て、魚谷さんは明後日に出発だけど当然のように駆けつけた。師範とみつ先輩、美音さん、本田さんのおじいさんも旅立つ2人に声をかけている。

 

 人に囲まれた本田さんと話す順番が回ってくるまで時間がかかりそうだから、先に夾と話そう。と思ったら、ぐれ兄に先を越された。

 

 ぐれ兄は本腰を入れて慊人の補佐をするため、昨日から本家に戻って生活するようになった。

 利津(りつ)兄から聞いた話だと、ぐれ兄の担当編集者の(みつる)さんは、ぐれ兄が作家活動をやめると聞いて泣くほど喜んだらしい。

 満さんと利津兄が結婚すると、親戚としてぐれ兄と長きにわたって関わる事になるんだけど……言わぬが花だろう。

 

 本田さんと夾と由希とぐれ兄が同居していた家は空き家になるが、当分の間は取り壊さないようだ。あの家には遊びに行った思い出があるから、残しておいてくれるのは素直に嬉しい。

 

「はい、夾君。これは僕からの餞別だよ」

 

 ぐれ兄は胡散臭いほど爽やかな笑顔を浮かべながら、夾に紙袋を渡していた。

 

「あ、ありがとな」

藉真(かずま)殿が孫を切望しているからと言って、先走った事をしてはいけないよ。子作りは計画t」

「公共の場で言う事じゃねぇだろ!!」

 

 顔を真っ赤にした夾は、ぐれ兄から渡された紙袋を急いでバッグの中に仕舞った。

 ニヤニヤ笑うぐれ兄が立ち去った後で、僕は夾に声をかける。

 

「夾、今いいか?」

「ああ。俺も建視に話しておきたい事があるんだ」

 

 そう言って夾は、僕の肩に腕をがしっと回してきた。「俺達、一生友達だよなっ」と言うノリじゃなく、内緒話をするために距離を縮めたかったようだ。

 

「……いいか。何があっても花島と別れるんじゃねぇぞ」

 

 咲は僕の恋人になってくれたけど、師範への憧れの気持ちは捨てた訳じゃない。

 考えたくもないけど、咲が僕に愛想を尽かしてしまったら師範の家に再び通い妻をするかもしれないのだ。

 

「言われなくてもそのつもりだよ」

「私と建視の仲を案じるなんて、随分と余裕ね……」

 

 咲が背後からぬうっと現れた。驚いた夾が「ひょわっ!」と奇声を上げて飛び退く。

 僕はこの手の不意打ちに慣れたから驚かない。

 花島家で咲と2人きりになって良い雰囲気になると、(めぐみ)君がどこからともなく現れて妨害してくるからな。

 

「貴方に心配されなくても、私と建視はずっとラブラブよ……」

 

 く……っ。咲を抱きしめてキスしたいけど、恵君が見張っているからできない。

 

「だから、貴方は透君と一緒に倖せになる事に専念なさい……」

「お、おう。わかった」

 

 たじろぎながら返事をした夾に、楽羅(かぐら)姉が近づいている。2人で話をさせてあげた方がいいだろうと思い、僕は咲の手を取ってその場から離れた。

 

「咲は本田さんに挨拶はしたのかい?」

「さっき済ませたわ……建視はまだなの?」

「うん。本田さんは人気があるから話しかけるタイミングが掴めなくて」

 

 今、本田さんと話をしているのは由希だ。

 おや、由希が本田さんに「透」と呼びかけている。卒業式の日は「本田さん」と呼んでいたのに。

 本田さんと夾が籍を入れるのも時間の問題だから、名前で呼ぶ事にしたのかな。いや、由希はそういう考え方はしないか。

 

「やぁ、本田さん」

 

 由希と本田さんが話し終えた隙を見計らって、僕は本田さんに声をかけた。

 

「あっ、建視さん、こんにちは……っ」

 

 挨拶を返した本田さんの目は若干赤い。杞紗(きさ)の涙につられて、もらい泣きしていたからな。

 それにしても困った。話したい事がいっぱいあって、どれから伝えればいいか迷ってしまう。

 

――……置いていかれるのは……とても寂しくて……とても悲しいです……。

 

 盃の付喪神の気持ちに寄り添うと同時に、幼い頃の僕の不安もすくいあげてくれて。

 

――建視さんのお鼻がありません……っ。落ちた衝撃で欠けてしまわれたのですかっ!?

 

 不気味だと言われ続けた僕の変身した姿を見ても恐れず、真摯に向き合ってくれて。

 

――あっ、春になりますね! 今はどんなに寒くても春はまたやってくる。かならず。不思議ですね……。

 

 僕と兄さんの心の中にあった、凍てついた思い出を溶かしてくれた。

 本田さんに救われたのは、僕と兄さんだけじゃない。見送りに来た人達が――来る事ができなかった人達も、君の事を大切に想っている。

 

「僕は……本田さんの朗らかな笑顔を見て、何度心が和んだか数え切れない。きっと本田さんは、これからも出会う人を温かい気持ちにしてくれると思う。君が笑ってくれた分だけ、倖せが訪れてほしい。心からそう願うよ」

 

 ちょっとクサいかなと思ったけど、僕の正直な気持ちをそのまま伝えた。

 

「あ……ありがとうございます……っ。建視さんにそんな風に思って頂けて……私は……っ」

 

 言葉を詰まらせた本田さんは、ぽろぽろと涙を零した。感激して泣いてくれているんだろうけど、そのままにはしておけない。

 僕がジーンズのポケットからハンカチを出すより早く、咲が黒いレースのハンカチを本田さんに渡している。

 

「建視と一緒に、透君達に会いに行くわ……」

「……っ、はいっ、お待ちしています……っ」

 

 ハンカチで涙を拭いた本田さんは、太陽のような眩しい笑顔を浮かべた。

 そして発車時刻5分前になった頃、列を作っていた人達が続々と新幹線に乗り始めた。みんなは最後のチャンスとばかりに、本田さんや夾に声をかける。

 

「トール、キョー、がんばってねっ!」

 

 真っ先にエールを送ったのは紅葉だ。

 

「夾ちゃん、透君! 絶対倖せになってよ!」

 

 楽羅姉は涙ぐみながら声を張り上げる。

 

「透君とキョン吉の旅立ちを祝って!! 祝砲の代わりにクラッカーを鳴らそうではないか!」

 

 綾兄ってば本当に鳴らしちゃったよ!? 駅員さんに不審がられないといいけど。

 

「透君達のお家に可愛いお洋服をいっぱい送ったから、着たら写真撮って送ってねっ!」

 

 美音さん……グッジョブです!

 

「透さん、夾さん、どうかお体に気をつけて……っ」

 

 ワイシャツとスラックス姿の利津兄は、たおやかに手を振っている。

 

「お……お姉ちゃん………お兄ちゃ……っ」

 

 涙が止まらない杞紗は、思いを言葉にできなかったようだ。

 

「2人とも、無理しない程度にしっかりやってよ!」

 

 燈路(ひろ)は杞紗と手をつなぎながら、若干捻くれた声援を送った。

 

「元気で……」

 

 短い言葉を投げかけた春は、温かい眼差しを2人に向ける。

 

「透……っ! 辛くなったら、いつでも帰ってきていいから!」

 

 リン姉は最早、本田さんラブを隠そうとしない。

 

「吉報を待っているよ」

 

 師範の言う吉報とは、孫の事ではなかろうかと邪推してしまう。

 

「夾、向こうに着いて落ち着いたら連絡してくれよ。透さん、夾の事よろしくお願いします!」

 

 みつ先輩は、世話焼きな母親みたいな事を言っている。

 

「体は資本だからな。体調管理は怠らないように」

 

 兄さんは医者らしい忠告をした。

 

「なにか困った事があったら、遠慮しないで連絡してね!」

 

 僕には言いづらくても、この場にいる誰かには相談してほしい。

 

「2人に良い電波があらんことを……」

 

 祈りを捧げる咲は、聖女のように神々しかった。

 

「呪ってやりたい人がいたら気軽に言ってね……」

 

 恵君の発言が物騒だよ……。

 

「恵ちゃんっ!? のっ、呪いなんて駄目よォ。透ちゃん、夾ちゃん、真に受けないでねっ」

 

 ほら、お母様が動揺しているじゃないか。

 

「新しい環境に慣れるまで大変だろうけど、頑張って。応援しているよ」

 

 対照的に、お父様は落ち着き払っていた。

 

「根を詰めるんじゃないよ。何事も程々が1番だからね」

 

 本田さんは頑張り屋さんだから、おばあ様の言葉を時には思い出してほしい。

 

「体に気をつけてな~」

 

 本田さんのおじいさんは、小刻みにぷるぷる震えながら2人を見送っている。

 

「余裕ができたら遊びに行くからなーっ」

 

 魚谷さんは、にっかり笑って手を振った。

 

「透君、夾君、ケ・セラ・セラだよ。大抵の事は何とかなるんだから、気負わずにね」

 

 騒動の種をあちこちにばら撒いて何とかなっちゃった人が言うと、妙に説得力あるなぁ。

 

「透、夾、いってらっしゃい!」

 

 晴れやかに笑った由希は、家族のように見送りの挨拶を告げる。

 

「「いってきます!」」

 

 仲良く声を揃えた本田さんと夾は、新幹線に乗った。発車のベルが響いて新幹線が動き出すと、車窓越しに手を振る2人の姿があっという間に遠ざかっていく。

 

「行ってしまったわね……」

「さびしくなるね」

「そうね……でも、心配はしていないわ……」

 

 本田さんの優しさと夾の素直さは、人を惹きつける。新しい土地でも2人は、人に囲まれた生活を送るだろう。

 そうあってほしいと願いを込めて、僕は「そうだね」と応じる。

 

「行こうか」

「ええ……」

 

 さびしさや不安はあるけど、一緒に明るい未来へ歩いていこう。

 本田さんと夾も、同じ方向に進んでいくはずだから。

 僕と咲は手を取り合って、前に一歩踏み出した。

 

 

 




『神様と十二支と猫と盃と』はこれで完結です。
途中でスランプになって更新が途切れたりしましたが、皆様のおかげで最後まで書ききることができました。
読んでくださった方々、感想をくださった方々、評価してくださった方々、お気に入り登録してくださった方々に、この場を借りてお礼申し上げます。
ここまで目を通してくださって、本当にありがとうございました!

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