いよいよ迎えた、バレンタイン・デー当日。
僕はロング丈の白いTシャツの上にクルーネックの赤土色のニットを着て、黒のスキニーパンツを穿き、暗い紺色のPコートを羽織った。チャラくなく、かといって真面目過ぎない装いにしたつもりだ。
待ち合わせ時刻より20分早く着いたけど、
白のタートルネックのトップスの上に淡黄色のジャケットを羽織り、青緑色のロングスカートを合わせた装いは大人っぽく見えるけど。オレンジ色の猫のぬいぐるみの形をしたお手製のナップザックを背負っているから、子供っぽくも見える。
困った事に、楽羅姉は大学生風の男2人にナンパされていた。
えーと、これって僕が助けに入った方がいいのかな。楽羅姉を颯爽と助ける役目は
ナンパ男が楽羅姉を強引に連れて行こうとしたら、デートを楽しみにしている楽羅姉がキレて男2人をぶん殴って、警察沙汰になるかもしれん。
厄介事の芽は摘んでおこうと結論付けた僕は、急いで楽羅姉の所に向かった。
「失礼、彼女は僕の連れなので」
笑顔で威嚇する僕を見るなり、ナンパ男2人は無言で立ち去った。
僕の赤髪赤目を見て、ヤンキーだと勘違いしたのかもしれない。揉めずに追い払えたからいいけど。
「ありがと、建ちゃん。あの人達、しつこくて困っていたの」
「楽羅姉は見た目だけは可憐な美少女だから、騙され……ごっふぅ!」
脇腹を強い力で殴られた僕は、痛みのあまりブルブル震えた。
楽羅姉は腰に両手を当てて頬を膨らませながら、「建ちゃんは一言余計だよっ」と可愛らしく怒る。猫を被るなら完璧に被ってくれ。
「それにしても、建ちゃんもデートに参加するなんてびっくりしたよ」
「そんなに意外? 僕は夾みたいに
「でも、建ちゃんは今までゆんちゃんと遊ぼうとしなかったでしょ」
「ところで、ダブルデートをしようって誰が言い出したんだ?」
「デートを提案したのは、私だよ。建ちゃんも誘えばって言ったのは、しーちゃんだけど」
腹黒なぐれ兄の事だ。何か企みがあって、僕に誘いをかけたに違いない。
僕が
楽羅姉と雑談しながら待っていたら、
オレンジ色のフライトジャケットを着た夾を見るなり、楽羅姉はハンターと化してあっという間に夾を両腕の中に捕獲する。
「夾君……っ。今日が楽しみで楽しみで、よく眠れなかったよ……」
「あー、そうかよ。ンじゃ帰って寝ろよ」
楽羅姉は興奮のあまり夾を殴り飛ばすと思ったのだが、かなり自制しているようだ。宴会で暴れた罰として2週間の自宅謹慎を言いつけられ、ぐれ兄の家に行く事を1ヶ月禁じられたから反省したのかもしれない。
「
朗らかに挨拶をした本田さんは、ツツジ色のダッフルコートとピンク色のマフラーで防寒し、白いリュックサックを背負い、ハーフアップにした髪に淡い水色のリボンを飾っている。
「本田さん、こんにちは。花島さんは久しぶりだね。また会えて嬉しいよ」
「久しぶりね……」
本日の花島さんは、緩やかに波打つ長い黒髪を下ろしていた。
喉元に繊細なレースがあしらわれた漆黒のロングワンピースを着て、夜の闇を切り取ったようなフード付きマントを纏っている。
ハロウィンの仮装みたいな装いだけど、花島さんは神秘的な雰囲気の持ち主だからゴシック・ファッションがよく似合う。
「貴方も挨拶なさい……」
花島さんの背後から姿を現したのは、黒髪を短く切った中学生くらいの少年だ。黒のタートルネックのセーターに黒のズボンを合わせ、フード付きの真っ黒なマントを纏っていた。
黒尽くめの服装もそうだが、感情の読めない無表情や茫洋とした瞳が花島さんによく似ている。
「どうも……俺は花島
恵君の口調は淡々としているけど、初っ端から牽制を仕掛けてきた。これは手強いと思いながら、僕は万人受けする爽やかな笑みで応じる。
「初めまして。僕は草摩建視、
「草摩建視さんか……貴方の名前は憶えたよ……仲良くしようね……」
名前は憶えたと言った瞬間、恵君は背筋が寒くなるような薄笑いを浮かべた。
手のかかる年下の相手は紅葉や春で慣れていたはずなのに、恵君は癖のある従弟より一筋縄ではいかない感じがヒシヒシとする。
「建視はどこで本田さんと会ったんだ?」
淡い水色のトレンチコートを着た由希が、詰問してきた。
僕が本田さんには久しぶりと言わなかった事に、疑問を抱いたのか。相変わらず敏い奴だ。
「兄さんと初詣に行った帰りに、本田さんと偶然会ったんだよ」
兄さんが本田さんを本家に呼び出した事を話すと、由希が怒りそうだから言わない。僕が隠し事をしているのを見抜いたのか、由希は疑うように濃灰色の目を細めている。
「みんなーっ。そろそろ行かないと、映画始まっちゃうよー」
楽羅姉が笑顔で呼びかけてきたので、僕はこれ幸いと由希から離れて券売機に向かう。
電車に乗った僕は花島さんと話そうと試みたけど、女子3名は和やかに談笑しているから乱入しにくい。作戦変更だ。花島さんの情報を集めるべく、恵君に話しかけてみよう。
「恵君も電波で人の心を読めるのか?」
「そんな事できない……俺ができるのは人を呪う事だけ……特技は呪詛返しを更に返す事……これ……ちょっと自慢……」
電車の車内は人の話し声や物音が響いていたのに、恵君の静かな声はやけにはっきりと聞こえた。
「……それは冗談?」
「本当だよ……何なら試してみる? その人の名前さえわかれば、どんな呪いも簡単にかけられる……」
さっき名前を憶えたと宣言したのは、そういう意味だったのか。おっかねぇ中学生だな。
「あはははーっ、さすがに呪われるのは嫌だな」
「………………だろうね……」
その不自然な間は何!?
僕と由希と夾が呪われた身である事を、花島さんは電波で察知して恵君に教えたのか? 確認したいけど、下手に探りを入れて墓穴を掘ったら目も当てられない。
会話の糸口を見失って無言が続き、ようやく目的地の駅に到着した。
駅の近くに建つショッピングモールに併設された映画館は、大勢の人で賑わっている。映画館デートをしに来たと思われる男女ペア客が多い。
僕は楽羅姉以外の女性にぶつからないように気を付けながら館内を進み、上映されている映画を確認する。
「おっ。『モゲ太 最後の聖戦』の上映開始時間が近いぞ」
僕が最近ハマっている『モゲ太とアリ』の劇場版を勧めると、夾が真っ先に文句を言う。
「そんなのはガキが観る映画だろが」
「バカと意見がかぶるのは気に食わないけど、俺もアニメ映画は無いと思う」
「何だと、クソ由希……表出ろや」
「1人で出ていろ」
夾と由希は早速言い争いを始めた。中学時代はすぐさま殴り合いに発展していたから、口喧嘩に留まっているのは成長の証か。
とはいえ、本田さんがうろたえているから放っておく訳にはいかない。スマートに仲裁して、僕はできる男だと花島さんにアピールするぞ。
「まあまあ落ち着けよ、2人とも。君達みたいにギスギスした人間こそ、『モゲ太とアリ』作品を観るべきだ。『モゲ太とアリ』は確かに子供向けアニメだけど、作風はプリミティブかつセンシティブで、大きいお友達の視聴者の歪んだ心をそっと癒してくれるんだ」
「何言ってンのかさっぱりわからねぇよ」
「本田さん達は何か観たい映画はある?」
僕と夾を無視して、由希が女性陣と恵君に問いかけた。
小さく挙手をした楽羅姉が、「私はモゲ太の映画が観たいなっ」と主張する。楽羅姉は
「私もモゲ太さんの映画が観たいです」
本田さんの意見に花島さんと恵君が同意し、厳正なる多数決で『モゲ太 最後の聖戦』を観る事が決定した。
由希と夾は嫌そうな顔をしていたので、チケット売り場に向かう途中で僕は従弟2人に小声で話しかける。
「……君達はモゲ太が不満らしいけど、女性陣が切なくて甘酸っぱい恋愛を題材にした映画を観たいと言い出したら、どうするつもりだったんだ?」
僕としては花島さんと恋愛映画を観るのは一向に構わないけど、恵君の目を掻い潜って花島さんとイチャつくのは至難の技だ。
「それは……ちょっと気まずいかも」
考えてから言葉を返した由希に対し、夾は馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「これだから頭の固い優等生は。ンなもん、寝たふりすりゃいいだろ」
「夾は命知らずだな。映画の甘い雰囲気に浸った楽羅姉に、手を強く握り締められてみろ。手の骨が折れたら武術の鍛錬は当分できなくなるぞ。それだけならまだしも、楽羅姉が責任を取って夾の身の回りの世話をするとか言い出して、ぐれ兄の家に同居し始めたらどうすんだ」
僕が仮定の話をすると、顔色が悪くなった夾がガタブル震えた。由希は夾を嫌っているはずなのに、なんて酷い事を……と言いた気な視線を僕に向ける。
こいつら、実は仲良しだろ。
草摩の男3人でお金を出し合って7人分の映画チケットを購入してから、グッズ売り場に向かう。僕は今日の記念にと、モゲ太のシャープペンとパンフレットを買って皆に配ったのだが。
「いるか、そんなモン」
「俺の分は燈路にでもあげればいいだろ」
「2人して受け取り拒否か。夾と由希は何だかんだ言って気が合うな」
僕が笑いながら指摘すると、目付きを更に鋭くした夾が「寝ぼけた事言ってんじゃねぇ!」と怒鳴る。由希は苦渋の表情を浮かべながら、シャープペンとパンフレットを受け取った。
上映開始まで時間があるので、売店で食べ物と飲み物を購入する。由希は自分が飲むホットコーヒーと、本田さんが飲みたいと言ったホットカフェラテを買い求めた。
夾は自分が飲み食いするものは買わなかったけど、楽羅姉が飲みたいと言ったオレンジジュースを渋々買った。感激した楽羅姉が夾を絞め落としそうになり、それを目撃した売店の店員とレジに並んでいた客が何事かとざわつく一幕があった。
僕は自分が飲むジンジャーエールと、花島さんが飲みたいと言ったコーラと、恵君が飲みたいと言ったアイスウーロン茶を買う。
花島姉弟がフードメニューをじーっと見つめていたので、何か食べたいものはあるかと聞いてみたら、2人同時に「全部……」と答えた。
どれも美味しそうで迷っちゃうという意味じゃなくて、全部食べたいと言っているのだろう。僕は任務で稼いでいるから、この程度なら余裕で買える。
Lサイズのポップコーンを3人分、チキンナゲットを2人分、フライドポテトを2人分、ホットドッグを2人分、ワッフルを2人分、ドーナツを2人分、ソフトクリームを2人分購入した。ちなみに僕が食べるのは、Lサイズのポップコーン1つのみだ。
「おい、そんなに食えるのか?」
顔を引きつらせた夾が聞くと、花島さんはソフトクリームを食べながら「この程度は朝飯前よ……」と答えた。恵君も大食いのようだから、花島家のエンゲル係数は高そうだな。
シアター内に入って、階段状に設置されたシートに横一列に並んで腰掛ける。由希、本田さん、花島さん、恵君、僕、楽羅姉、夾という席順だ。
ボディガードの恵君が無言で僕を威圧してきたから、花島さんの隣席は断念したよ……。
▼△
Side:はとり
「はいっ、はーさん♡ 僕からのバレンタインチョコ♡」
玄関先に立つ
「ごめんなさい。ウソです。透君からです。入れて……」
紫呉がわざと軽薄に振る舞っている事は知っているが、真性のバカではないかと思う時がある。今が正にそうだ。
気を取り直して、家に上がった紫呉から本田君のチョコレートを受け取る。
本田君は最近知り合ったばかりの建視と紅葉と
紫呉と共に客間へと向かい、本田君のチョコレートが入った小振りの手提げ袋を診察机の上に置いてから、背もたれ付きのベンチソファに腰掛ける。
俺の対面に位置する木製の高座椅子に紫呉が座った時、着物姿の家政婦が2人分の茶と灰皿を持ってきた。
「透君は自分で本家に届ける気だったけど、折角のデートだから代わりにこの僕が配達役を請け負ったんだよ」
「建視から聞いた時は耳を疑ったぞ。由希と夾が一緒に出かけるとはな」
「でっしょー!? もうアレはアレだね。透君が完璧影響しているね」
「あれは……影響されるかもしれんな。彼女はどこか他人を……丸くさせる所がある」
俺と建視にとって
兄弟間で佳菜の話題は一切出なくなり、心の傷は癒される事なく放置されていたのだが。本田君に出会って少しずつ変化が現れた。
建視は清廉で温和な本田君に佳菜の面影を重ねて、佳菜が去った時に見失った光を再び見出したようだ。
本田君や花島君に出会えなかったら建視は草摩の闇に完全に取り込まれて、身内以外の誰かを愛する喜びや苦悩や倖せを知らずに一生を終えたかもしれない。
そうなる可能性は取り除かれていないが、建視が光に向かって進む姿勢を見せた事は大きな進歩だと思う。
「この前もさ。僕ちょっと夾君、突いちゃってさ。夾君、とても乱れちゃって」
紫呉は気軽に話しながら、着物の袖の袂から煙草の箱とブックマッチを取り出した。二つ折りのカバーから剥ぎ取った紙マッチを慣れた手つきで擦って、煙草に火を点けている。
夾を動揺させた事は、微塵も気にかけていないだろう。
「……乱すなよ」
「でも透君と一緒に帰って来た時は、もうケロッとしていたよ。まるで2人の精神安定剤みたいだよねぇ」
紫呉が投げ捨てた紙マッチは灰皿の縁にぶつかって、座卓の中央に敷かれたテーブルランナーの上に落ちた。マッチの燃えさしがテーブルランナーに引火するかもしれないのに、紫呉は気にせず煙草をふかしている。
無精にも程があると思いながら、俺は紙マッチを拾って灰皿の中に入れた。
「満足そうだな。思惑通りに事が運んで」
「なにかなぁ。その噛み付いた言い方は」
「その胸に聞いてみろ。何が利用していないだ、大ウソつきが。おまえも慊人も、立派に本田君をコマのように利用しているよ。それぞれの目的と利用の為に」
紫呉は慊人に思い知らせるために。慊人は由希と夾に思い知らせるために。
常に纏っている軽薄な雰囲気を取り払った紫呉は煙草を灰皿に置き、何かを考えるように視線を宙に泳がせてから話を切り出す。
「夢みた朝を憶えてる? 僕も君もあーやも泣いた、あの朝」
俺達は幼少期のある日、4人揃って同じ夢を見た。夢の中にまだ見ぬ
目覚めたら自然と涙が流れ、自分のものではない感情が胸の奥から溢れ出した。
待ち望んでいた存在に、ようやく会える多幸感。
待ち焦がれた存在に、まだ触れる事さえできない焦燥。
待ち倦んだ存在が、遠い日の約束を忘れてしまっていたらと恐れる気持ち。
待ち侘びた存在を、ひたすら求める思慕の情。
俺は自分の中にいる物の怪が、これほどの熱情を秘めていたのかと当惑した。遠くない内に生誕する神様と対面した時、自分の心が物の怪に浸食されるのではないかと不安に駆られたほどだ。
紫呉は物の怪の何百年にも渡る情念を我が物として受け入れ、求めるものを手中に収めてみせると心に決めていた。
――僕はそれを永遠のものにしたいね。確かな形で手に入れたい。必ず。
「その誓いもまだこの胸にある」
俺の対面に座る紫呉は昔と変わらない不敵な笑みを浮かべて、自身の右手で左胸を押さえた。紫呉の胸の中では、愛情と嫉妬と憎悪が煮詰まっていそうだ。
「手に入れる為なら多少の偽りも利用も問わない。たとえ、それが誰かを傷つける結果になっても」
自分の企みに巻き込まれた誰かが傷ついたとしても、紫呉は罪悪感を抱かないだろう。目的を達成するためならどのような犠牲を払っても構わないと、あの夢を見た時点で決意してしまっている。
俺は諦観を込めた溜息を吐いてから、向かい側にいる紫呉を鋭く見据え、気になっていた事を確認する。
「今回、建視を唆したのも策の内か?」
「唆すだなんて人聞きの悪い。僕はけーくんの後押しをしただけだよ」
「――本当にそうならいいのだが」
物品から人の残留思念を読み取る力を持つ建視は忌避されているが、その力を利用しようと目論む人間は多数いる。
慊人は自分に反発する者達に建視を奪われる事態を恐れ、建視を己の側近にするための教育を施そうと考えているらしい。
それを知った紫呉は、第2の紅野が誕生するのを防ぐために先手を打ったと思われる。今回のデートが慊人に露見して建視が窮地に追い込まれても、紫呉は意に介さないだろう。
「はとりは過保護だよねぇ。過保護がすぎると、建視が自立できなくなっちゃうよ」
「自立を促すために建視を敢えて突き離せと? それは危険な賭けだ。下手をしたら建視は俺に見捨てられたと思い込み、任務で追い詰められた時に正気を完全に手放してしまう恐れがある」
「建視の自我が崩壊するのは僕としても困るんだよね。そうなったら、はとりも壊れちゃうだろ? 正気を失った君たち兄弟を愛でる慊人なんて、見たくないよ」
えげつない内容の話をしながら、紫呉は些細な事に困っているかのような苦笑を浮かべた。
「……こんな話題を冗談めかした軽い口調で語るおまえも、大概壊れている」
「君に言われるまでもなく自覚しているよ。僕は慊人に関する事以外では、感情が動かないんだ……って、コレ前にも言ったよね?」
俺が記憶を探って「最初に聞いたのは小学4年生の時だ」と言うと、紫呉はわざとらしく目を丸くして「そんな前だっけ? まぁ、どうでもいいけど」と答えて話題を変える。
「今のところ建視が依存している相手は君だから、建視をどうこうしようなんて考えないよ。建視の依存対象が記憶を隠蔽する許可を出す慊人になっちゃったら、考えを変えないといけないけど」
皮肉げに口の端を吊り上げて笑う紫呉の愛情は歪んでいると思うが、俺も他人の事は言えない。
俺と建視は共依存の関係に陥っていると解っていながらも、俺がいないと建視は任務に耐え切れないと理由を付けて、弟離れに踏み切れない有様だ。
「先生。慊人さんの検診のお時間ですよ」
家政婦が襖を開けて声をかけてきた。俺は気を取り直してから、「ああ、わかった」と返事をする。
「はい、先生っ。僕がその代役、立派に務めさせて頂きます!」
軽佻浮薄さを取り戻した紫呉は、挙手をして名乗り出た。本田君のチョコレートを届けるのはついでで、紫呉が本家に足を運んだ目的は慊人に会う事だろう。
仕事が溜まっているから、慊人の
「帰ったら本田君に礼を言っておいてくれ」
玄関まで紫呉を見送った際に言伝をすると、紫呉は適当に「はーい、はい」と答えた。
ちゃんと礼が伝わるか心配だ。建視にメールで頼んでおこう。
「紫呉。どんな結果が待っていても、歯の1本は覚悟しておけよ。由希か夾か……本田君か。誰かは知らんが、必ず1人には殴られるだろうよ」
「痛いのはやだけど仕方ないね~。ところで、僕を殴る人候補にけーくんの名前が挙がらなかったけど、けーくんは僕の精神を削る仕返しをするって意味?」
「……建視は紫呉の影響を受けているからな」
建視は全力で否定するだろうが、慊人に反逆しながらも上手く立ち回る紫呉に憧れている節がある。
「何それ。すっごく嫌なんだけど」
苦虫を噛み潰したような顔になった紫呉に対し、俺は「それはこっちの台詞だ」と言い返す。
草摩の上層部に振り回される建視が、要領の良さを身につけたがる気持ちは解るが、紫呉のあくどい処は見習わないでほしかったと心から思う。
1番の仕返しは倖せになる事だと、建視に教えよう。反省や後悔という言葉が己の辞書から抜け落ちている紫呉に復讐するなど、徒労でしかない。
それに、紫呉だけが悪者という訳ではない。俺は同い年の従弟に向かって、「紫呉」と呼びかける。
「俺はおまえの味方にはならない。だが、敵にもまわらない」
俺が何を言っても紫呉は思い止まらないし、手を緩める事もしない。紫呉を制止するのは不可能だと諦めて傍観する俺は、共犯者の謗りを免れないだろう。
共犯だから主犯より罪が軽いとは考えていない。他の者が傷ついても見過ごすのに、自分の大切なものは傷つけられたくないと願う。吐き気を催すほど醜くて冷淡なエゴの塊だ。
「……それじゃ、また」
作り笑顔ではない微笑みを浮かべた紫呉は、家から立ち去った。その後ろ姿に向かって、「風邪をひかせるなよ」と釘を刺しておく。
玄関の戸を閉めてから、俺は深く溜息を吐いた。紫呉と立ち入った話をしたせいか、精神的に疲れたな。
客間に戻った俺は気分を変えるため、本田君がくれたチョコレートを食べた。本田君の手作りと思われるガトーショコラは甘さが控えめで、甘いものを好んで口にしない俺でも食べやすく感じた。
ふと佳菜の写真が視界に入り、彼女から手作りの菓子を差し入れしてもらった時の事を思い出す。
――はとりさん、これっ、私が作ったクッキーです。はとりさんは甘いものが苦手だと建視君が教えてくれたので、甘さ控えめにしてみました。よければ食べて下さいっ。
――……建視が俺の好みを君に教えたのか?
佳菜と知り合って間もない頃の建視は、彼女に対して警戒心剥き出しだったから、身内の個人情報を教えたと聞いて俺は心底驚いた。
――はい。私が作ったお菓子を建視君にあげたら、建視君が忠告してくれたんです。『兄さんは義理堅いから、苦手な甘い菓子を贈られても必ずひと口は食べるんだよ。兄さんの苦行を減らすためにアドバイスしたんだから、勘違いするなよ』って言っていました。ふふっ、建視君ってお兄さん思いの優しい子ですね。
嬉しそうな佳菜の笑顔を思い出すと、今も胸が痛む。
佳菜の記憶を隠蔽した時、俺は一生溶けない雪に囲まれて死んでも構わないと思った。その代わり、どうか彼女は今度こそ倖せになれる誰かと出会えるようにと祈りを捧げた。
祈りが天に届いたのかどうかは解らないが、佳菜は倖せになったと知る事ができた。
愛した女性が他の男と結婚すると知って、少しもショックではなかったと言えば嘘になるが、彼女を解放して本当によかったと思えた事が嬉しい。
時間はゆっくり、けれど確実に流れていると実感した。俺の心に根雪のように凍りついた悲哀が僅かに溶けた要因は、時間の経過だけではないだろう。
――春になりますね……! 今はどんなに寒くても、春はまたやってくる。かならず。不思議ですね……。
本田君と出会った事で建視に変化が訪れたと感じたが、俺も多少なりとも彼女に影響されているようだ。その礼も兼ねて、ホワイト・デーには本田君の好きなものを贈るとしよう。
後で紫呉に電話をかけて、本田君が何を好むか尋ねようと思ったが。紫呉にからかわれそうな予感がしたので、本田君と頻繁に会っている紅葉に聞こうと思い直した。
恵と建視が通う学校名は独自設定です。