今回もバレンタインの話で、1万字を超えています。
『モゲ太とアリ』の映画を観てお昼を食べてショッピングモールを見て回った後、解散するかと思いきや。
「
「なに!? 楽羅、てめぇ図々しいぞ。帰r」
「私も透君の手料理を食べたいわ……」
反対しかけた
途中で立ち寄ったスーパーで食材を買ってから、皆でぐれ兄の家に向かう。ぐれ兄の住まいは
「結構遅くなっちゃったな。
兄さんから送られたメールによれば、ぐれ兄は
ぐれ兄に話があったんだけど、帰ってこなかったらまた今度にするか。そんな事を考えながら長い石段を上りきると、2階建ての日本家屋が見えてきた。
ぐれ兄の家の玄関先に、ショートヘアの女性が膝をついて項垂れている。OLっぽい装いをした女性は、世の中の全てに絶望したような重苦しい雰囲気を漂わせていた。
「あの……? どうかされました……か?」
「いいえ、もういいのです。私はもうここで命を絶つ覚悟……!」
戦に負けた武士みたいな事を言い出した女性は、おもむろに取り出したカッターナイフの刃を出した。
本田さんが「え゛!!」と声を上げた時、本家から戻ってきたぐれ兄が声をかける。
「みっちゃん、人ン家の前で死ぬのはよしてくれないかなぁ」
「ぜんぜいぃぃぃぃ」
涙をボロボロと流すOL風の女性は、悲鳴に近い泣き声を上げる。
ぐれ兄が「僕の担当さん」と紹介するのを聞いて、ぐれ兄に振り回されている被害者か……と憐憫の情を抱いた。
本田さんと楽羅姉は夕食の支度をするために、台所に行った。由希と夾は自室に戻り、ぐれ兄と担当さんは仕事場兼書斎に缶詰中。コタツが置かれた畳敷きの居間にいるのは、僕と花島さんと
花島さんに力の制御法について聞く、絶好のチャンスじゃないか! 僕が会話のきっかけを探すのを余所に、花島姉弟は本田さんが淹れたお茶を飲んで煎餅を食べながら話をしている。
「
「いいえ、ちっとも……」
「2学期の期末テストは全教科赤点で、毎日補習を受ける羽目になったじゃないか……高校に呼び出された母さんは泣いてしまったのだから、真面目に勉強しないと駄目だよ……」
姉に言い聞かせている恵君の方が、年上に見えるな。
それより、このままだと花島さんが近い将来ピンチに陥ってしまいそうだ。僕は思い切って提案してみることにした。
「もしよければ、僕が花島さんに勉強を教えようか?」
「貴方は通っている学校が違うから、勉強の範囲が異なるのでは……?」
「習う事は大体同じだよ。使っている教材が違っても、授業のノートを見せてもらえば対応できると思うし」
「
切り込んできた恵君は、底の読めない黒い双眸を僕に向けた。
見返りは求めないと言ったら嘘臭いか。正直に話そう。
「花島さんが力を制御できるようになった経緯を聞きたい」
「そういえば、文化祭でも似たような質問をしていたわね……もしかして、貴方も力を持っているのかしら……?」
「うん。僕は……」
不安が湧き上がって言葉を噤んだ。僕の力を知った花島さんが気味悪がったら、あるいは僕を警戒するようになったらと思うと、告白するのを躊躇ってしまう。
「無理して言わなくていいのよ……」
二の足を踏む僕の内心を電波で読んだのか、花島さんは逃げ道となる言葉を投げかけた。怖気付いて女の子に気を遣わせるなんて、情けないにも程があるぞ。
それに花島さんの力について聞こうとしているのに、自分の力は話さないなんて虫が良すぎる。
「僕は……物品に宿る人の残留思念を読む力を持っているんだ」
「そう……」
えっ、それだけ? 花島さんに拒絶されなかった事はひと安心だけど、僕の力に関する質問とかしないの?
「人の残留思念を読む力……オブジェクトリーディングかな……だとすると、対象に触れる事によって力が発動するパターンが多い……建視さんは力を制御できないから、常に手袋をつけているの……?」
代わりに恵君が質問してきた。彼の洞察力の高さは侮れないと思いながら、僕は「そうだよ」と答えた。
「だから、私が力をコントロールできるようになった経緯を知りたがっているのね……参考になるかどうか解らないけど、教えてあげるわ……」
中学2年生の頃まで花島さんは、力を制御できなかったらしい。思っている事を知らぬ間に他人に伝えてしまう力を抑えきれず、同級生と問題を起こしてしまった事もあったようだ。
花島さんは他人の思念を電波で読むという受動的な能力の持ち主だと認識していたので、能動的な力も持っていたと知って少し驚いた。
それより、だ。同級生と問題を起こしてしまったと花島さんは話したけど、彼女の力を気味悪がった生徒が騒ぎ立てたんじゃないか?
僕の推察を裏付けるように、目を伏せた花島さんの表情が翳ったように見えた。
「ごめんね、花島さん。辛い事を思い出させてしまって……」
「話すと決めたのは私だもの……気にしないで……それより、貴方は私の事を恐ろしいとは思わないの……?」
花島さんと僕の会話を静かに見守っていた恵君が、視線で圧力をかけてきた。返答次第ではただじゃおかない、という無言の脅しが伝わってくる。
言葉を慎重に吟味してから受け答えないといけないけど、僕は心に浮かんだ思いをそのまま口に出す。人が心の中に秘めているものを垣間見てしまう力を持つ事で、他者に恐れられる辛さを知っているからこそ、言葉を飾らずに答えたかった。
「恐ろしいなんて思わないよ。他人の気持ちを優先する本田さんの友達の花島さんが、面白半分に力を使って人を攻撃するとは思えないから」
即答されるとは予想していなかったのか、花島さんは驚いたように軽く目を見開く。
「……家族と透君とありさ以外に、受け入れてくれる人がいるとは思わなかったわ……」
「ありささんって、
文化祭での花島さんの発言を思い返して確認すると、花島さんはこくりと頷いた。
金髪の彼女はスケバンみたいな出で立ちをしていたから、ちょっと怖いなと思ってしまったけど、懐の深い人物なのかもしれない。
「透君とありさに出会って、私の力も含めて受け入れてもらえて……心が満たされることで、余裕が生まれたせいかしらね……それから暫くして、力をコントロールできるようになったの……」
それは誇らしげに語ってもいい事なのに、花島さんの平坦な口調は悔恨を帯びているように聞こえた。花島さんは隣に座る恵君の方を向いて、優しい声音で話しかける。
「感謝しているわ……父さん達と……貴方に」
「俺は咲が1人ぼっちじゃなくなったから、それでもう充分だよ……父さん達も同じように思っている……」
花島さんの家族は早い段階から、力を持つ彼女を受け入れて理解を示していたのだろう。
家族に愛されていながら自分の心が満たされなかった事を、花島さんは後ろめたく思っているのかもしれない。
僕も兄さんに感謝しないといけないな。
母さんが死に至った元凶である僕を、兄さんは憎む事なく慈しんでくれる。兄さんの愛情は当たり前に与えられるものではないのに、僕は心が満たされたと実感できないでいた。
「花島さんの話はとても参考になったよ。心が満たされる事で生まれる余裕か……盲点だった」
「でしょうね……混沌……カオス……形こそハッキリわからないけれど、暗い影の落ちた思念が貴方の心を支配しているから……」
……呪いの事、バレているんじゃない? 僕は真面目な顔を取り繕いつつ、心の中で滝のような冷や汗を流した。
「草摩由希や草摩夾……盗み聞きしている草摩紫呉にも、同様の事が言えるけど……」
居間に隣接した書斎の方から、ぐれ兄の担当さんが「先生、何やってんですか! 資料がお茶でびしょ濡れですよ!」と叫ぶ声が聞こえる。
花島さんに自分の挙動を言い当てられて、動揺したぐれ兄がお茶をこぼしたようだ。
実を言うと、僕もかなり驚いたけどね。離れた場所にいる相手の動向もお見通しとか、最強だろ。
襖が勢いよく開いて、冷や汗と作り笑顔を浮かべたぐれ兄が出てきた。担当さんは涙を流しながら、「あと10ページ残っていますよ、先生!」と呼びかけている。
「疲れて集中力が切れちゃったんだも~ん。おンや〜、咲ちゃんによく似た子がいるね〜。弟君かな?」
ぐれ兄の奴、花島さんにこれ以上内面を分析されたらまずいと思って、僕達の会話をわざと中断させたな。
「そうだよ……俺は花島恵……貴方の名前は?」
「僕は草摩紫呉だよ」
この瞬間、恵君の呪いを受ける対象者リストにぐれ兄も名を連ねた。ぐれ兄の企みが原因で、本田さんや花島さんが傷つくような事態にならないといいね。
「貴方が紫呉さんか……趣味で少女小説を書いている色々と歪んだ独身男が、純情可憐な透さんを言い包めて自分の家に住まわせていると咲から聞いたよ……」
「咲ちゃん!? 僕の人物紹介に悪意を感じるんだけど!?」
ぐれ兄は大げさにショックを受けているけど、花島さんは事実をそのまま伝えただけだろ。
そして夜の7時半頃。居間のコタツの天板の上に、本田さんと楽羅姉の合作の夕飯が所狭しと並んだ。
ほうれん草の胡麻和え、じゃこと水菜のサラダ、あさりの酒蒸し、じゃがいもとウィンナーのチーズ焼き、スペアリブの赤ワイン煮込み、サーモンのレモン蒸し、鶏の唐揚げ、数種類のクリームチーズのディップ、具沢山のポトフ。
「おお~、すごいな」
僕は素直に感嘆の声を上げた。普段は兄さんと2人で食事をするから、食卓にぎっしり料理が並ぶ事はない。
「原稿があがった後のご飯は格別だねぇ」
「紫呉はもっと早く原稿を仕上げる事ができただろ」
「夾君、何か食べたいものがあったら遠慮なく言ってね。私が取ってあげるっ」
「自分で取れるから俺に構うな!」
賑やかだなと思いながら、僕は好物のあさりの酒蒸しを食べた。
老舗割烹で修行した経験のあるお手伝いさんが作る料理より美味しく感じるのは、給食の時間のような和やかで楽しい雰囲気も一役買っているからだろうか。僕がそんな事を考えていたら、本田さんが声をかけてくる。
「建視さん、味は薄くないですか?」
「丁度いいよ、美味しい。本田さんは料理上手だね」
「そ、そんな……光栄です。今夜は楽羅さんが手伝って下さったので、上手くできたと思います。楽羅さんはお料理のレパートリーが豊富で、勉強になりました……っ」
「えへへ……褒められちゃった。料理好きな子って私の周りには透君しかいないから、これから色んな料理を一緒に作ろうねっ」
「はい……っ!」
楽羅姉と本田さんのやり取りを聞いて、夾が項垂れている。
「料理するのはいいけど、僕の家を壊さないでね」
ぐれ兄はスペアリブの骨をかじりながらそう言ったけど、自宅を月1ペースで破壊する楽羅姉に注意しても無駄だと思う。
「「おいしい……」」
花島さんと恵君は感動したように呟きながら、茶碗山盛りのご飯をどんどん食べている。すでに2杯目だ。
炊飯器だけでなく鍋でもご飯を炊いたのは、人数が多い事に加えて花島姉弟がガッツリ食べる事を見越したのだろう。
賑やかな夕食後に、本田さんが焼いたガトーショコラが出た。デザートというよりバレンタインのプレゼントの意味合いが強いそれを見て、僕は息を吞む。
「本田さん、これは……っ!」
「建視さんから頂いたパンフレットを参考にして、楽羅さんからアドバイスを頂いて、粉砂糖でモゲ太さんの絵を描いてみましたっ」
「ありがとう! すっごく嬉しいよ」
キャラクターケーキは他の女の子からもプレゼントされたけど、『モゲ太とアリ』を今日初めて知った本田さんが、キャラクターケーキに挑戦してくれた所がポイント高い。
食べるのがもったいなかったけど、食べないと味の感想を本田さんに伝えられないので、じっくり鑑賞してから味わった。
ふっくらしっとりした生地の焼き加減が絶妙で、後を引く濃厚な甘さとラム酒の仄かな風味がマッチしている。
「これ、僕の好きな味だ。美味しいよ、本田さん」
「建視さんのお口に合って、よかったです……っ」
「あ、そうだ。兄さんからメールで、
「……っ! 皆さんに食べて頂けて、とっても嬉しいですっ!」
喜びで目を輝かせる本田さんは事前に、僕と兄さんと春は甘いものが好きか否かを紅葉に聞き込んだらしい。こういう、さり気ない心遣いはポイント高いよな。さり気ないアピールがいいんだよ、楽羅姉。
「夾君っ、あーん♡」
「……後で食うからほっとけ」
「私が夾君に食べさせたいの」
それもあるだろうけど、楽羅姉は自分の手作りチョコを先に食べさせたいのだろう。
おい、夾。早いところ諦めて、あーんを受け入れた方がいいぞ。さもないと……。
「もう……夾君ったら、照れ屋さんなんだからァ!!」
「やっ、やめ、うぐっ! はなりぇむむぐぅ!」
焦れた楽羅姉は実力行使に出た。押し倒した夾の腹の上に座り、夾の顎を掴んで口をこじ開けて、チョコレートタルトを押し込んでいる。
うわぁ……。女の子に手ずから食べさせてもらうって男が夢見るシチュエーションのはずなのに、フォアグラ用のアヒルが無理矢理餌付けされるエグイ光景を連想してしまう。
「透さん……ホワイト・デーのお返しは、何がいい……?」
粉砂糖で花が描かれたガトーショコラを食べていた恵君は、強制的にあーんされている夾を見ても動じずに質問した。
本田さんは心配そうに夾を見ていたけど、恵君に声をかけられてそちらに意識が向いたようだ。
「恵さんのお気持ちだけで充分ですよ。ありがとうございますっ!」
「透君は本当に謙虚ね……」
粉砂糖で花が描かれたガトーショコラを食べ終えた花島さんは、ふわりと微笑む。
……花島さんが笑ったところを見るのは、初めてだ。アレは反則だろう。無表情とのギャップがすごい。
僕が思わず花島さんに見惚れたら、恵君が黒いオーラを発したように見えた。まあ、待て。話せばわかる。
花島姉弟と楽羅姉が帰った後、僕はぐれ兄の仕事場兼書斎に入った。本や脱いだ羽織や資料と思しき紙束が、畳の上に散乱していて足の踏み場がない。
ぐれ兄は仕事机の前に置かれた座椅子に腰を下ろし、僕は比較的片付いている一角に胡坐をかいて座った。担当さんが自分の座る場所を確保するために、ここだけ片付けたんだろうな。
「けーくんが僕に直接話があるなんて、珍しいねぇ。電話じゃ話せない大事な用件?」
「まぁね。佳菜さんの事なんだけど……」
「あら? あらら? フリーになった佳菜ちゃんを口説く決意をしたのかい? はーさんが知ったら何て言うかなぁ」
邪推するぐれ兄を睨みつけながら、僕は否定の言葉を発する。
「僕はそんな決意はしないよ。佳菜さんは近々結婚するんだから」
「へぇ、佳菜ちゃんがねぇ……彼女の年齢を考えたら、いつ結婚しても不思議じゃないけど。はーさんはその事を……?」
「知っているよ」
正月に兄さんが公園で、佳菜さんとすれ違った一件を話した。それを聞いたぐれ兄は、片手で顔を覆って「あちゃー」と呟く。
「はーさんが年明けに苛立っていた原因は、過労だけじゃなかったのか……」
「それは流石に深読みしすぎじゃない? 兄さんは佳菜さんに未練タラタラって訳じゃないよ」
「はーさんが結婚を決意した女性に未練がないって、本当にそう思う?」
「……未練があったとしても、兄さんは佳菜さんの今の倖せを壊そうとは思ってないよ」
「だろうねぇ。で? 建君は僕に何を頼みたいの?」
おふざけではないと示すためか、ぐれ兄は僕の呼び方を変えた。
ぐれ兄の洞察力だけは見習いたいと思いながら、僕は一癖も二癖もある従兄に問いかける。
「引き受けてくれるの?」
「話によっては。あとは見返り次第かなぁ?」
年下の従弟に見返りを求めるのか、とは言えない。
腹芸が巧みなぐれ兄の本音は読めないけど、ぐれ兄が慊人に近しい僕を嫌っている事は察している。嫌われている相手に頼み事を持ちかけるなんて無謀もいい処だが、打てる手は打っておきたい。
「ぐれ兄が読みたい本を手に入れてくる。300万円以内で買える本にしてほしい」
「本は欲しいけど、置く場所が足りなくなっているからいいや。見返りは僕が考えておくから、とりあえず頼み事を話してごらんよ」
ぐれ兄がどんな条件を出してくるか解ったものじゃない。頼み事をするのをやめようかと思ったけど、頼める相手はぐれ兄しかいないので重たい口を開く。
「ぐれ兄は、佳菜さんの親友の
佳菜さんが「私の大親友の繭と一緒に遊ばない?」と誘ってきた時、承諾しておけばよかったと今更ながらに思う。
繭子さんは学校の先生だと聞いていたので、説教臭い人だったら嫌だなと思って会うのを拒んでしまったのだ。
「僕と繭の関係を誰から聞いたんだい? もしかして、はーさん?」
「佳菜さんだよ。誤解のないように言っておくけど、佳菜さんはぐれ兄と繭子さんの関係を言い触らそうと思っていた訳じゃないからね」
佳菜さんは兄さんと付き合い始めて2ヶ月ほど経ったある日、「建視君から見て、紫呉さんってどういう人?」と聞いてきた。親友の繭子さんが得体の知れない男と付き合う事になったから、不安に駆られたのだろう。
その質問をされた時、僕は佳菜さんの親友がぐれ兄と付き合っているなんて夢にも思わなかったから、正直に答えた。
――海中を漂うクラゲのような奴。迂闊に触れると毒にやられる処がそっくりだ。
僕の見解を聞いた佳菜さんは、ぐれ兄に対する不信感を強めたようだ。
ぐれ兄の評価を下げた事に罪悪感は抱いてないけど、佳菜さんの不安に拍車をかけてしまった事は申し訳ないと思っている。
「繭とは別れてから連絡を取っていないけど、頼めば佳菜ちゃんの結婚式の写真を送ってくれると思うよ。でも佳菜ちゃんの花嫁姿をはーさんに見せるのって、酷じゃないか?」
「……佳菜さんの写真を、兄さんに無理やり見せようとは思わないよ。気が向いた時に佳菜さんが倖せになった姿を見れば、兄さんの罪悪感が少しは消えるかもしれないだろ」
兄さんを思いやったように聞こえる台詞を吐いたけど、実のところ僕は怖かったのだ。
僕の内面は少しずつ変わってきているのに、兄さんの心の傷が一向に癒えなくて過去に囚われ続けていたら、兄弟間での認識のズレが深い溝になってしまうかもしれない。
僕が心から敬い慕う兄さんと一緒にいて、隔たりを感じるようになったら嫌だ。
一緒に倖せを掴もうと言えば聞こえはいいけど、現段階では変化を望んでいない兄さんに倖せになる事を強要するのはエゴの押しつけかもしれない。
僕は悩んだ末に結婚式を挙げた佳菜さんの写真を入手しておいて、見るか見ないかは兄さんの判断に委ねようという結論を出した訳だが。
「罪悪感が消えれば、はとりが新しい恋人を求めるようになるって? はとりはそんな単純な男じゃないよ」
それにね、と言葉を続けるぐれ兄は冷ややかな笑みを唇の端に刻む。君の自己中心的な考えはお見通しだ、と言わんばかりに。
「はとりは手の掛かる弟の事で頭が一杯だから、自分の倖せは二の次だよ。はとりの世話を焼くより、建君は自分の恋愛問題をどうにかした方がいいんじゃない?」
「どうにかしろと言われても……」
僕が花島さんに惹かれている事、ぐれ兄にバレているな。
ぐれ兄が慊人にチクると厄介な事になりそうだが、花島さんはただの女友達だと言い張れる。
だって、僕は花島さんと恋人同士になりたいとは思ってないから。
惹かれていると言っても、他人の内面を読む力を持つ者共通の悩みや苦しみを、分かち合えたらいいなと願う程度だ。こんな色気のない想いを恋と呼べるのか。
花島さんから義理チョコすら貰えなくてガッカリしたけど、気になるあの子に異性として意識されなかった落胆というより、男としての自尊心に傷がついたせいだと思う。嘘です。落胆の割合が結構大きいよ……。
この未発達な気持ちが恋だとしても、僕は慊人の命令を受ければ任務だと割り切って、本田さんの私物に宿る残留思念を読んでプライバシーを侵害する。
本田さんラブな花島さんが、そんな事をする奴を好きになるものか。
僕の複雑な内心を知ってか知らずか、ぐれ兄は「けーくんがグズグズしている間に、咲ちゃんは他の男のものになっちゃうよ」と煽ってくる。
「
「花島さんは色気より食い気が優先だから、色恋沙汰にのぼせ上ったりしないよ」
「健啖家な咲ちゃんに、『美味しいものを沢山食べさせてあげる』って誘い文句をかける男子生徒が現れるかもしれないでしょ」
僕は花島さんと会う度に食べ物を奢っているから、「そんな奴は現れない」と否定できない。
「……普通の高校生の財力じゃ、花島さんを満腹にさせる前に財布が空になるよ」
「けーくんの台詞は、咲ちゃんを満足させられるのは自分だけって言ってるも同然だよ。そこまで言うならさぁ。いっそのこと海原高校に転校して、咲ちゃんと一緒に修学旅行を楽しんだらどう?」
目が笑っていないぐれ兄の言葉は純粋な提案ではなく、僕を試しているように聞こえる。
やけにすんなり僕の頼み事を聞いてくれるなと思ったら、これが狙いだったのか。気付いた頃には毒が回っているとか、本当にクラゲだ。
それはともかく、海原高校への転校はまったく頭になかった訳じゃない。花島さんの存在を知った時から、彼女と同じ学校に通えたらいいなとぼんやり思っていた。
だからと言って、転校しようと決断するには至らないけど。ちょっと気になる子がいるから転校するなんて、アグレッシブにも程があるだろ。
それに僕が通う
海原高校が男女共学である事も、躊躇った理由の1つだ。由希のように草摩の檻から出るといった確たる目標を掲げていなければ、大勢の前で変身してしまうリスクを背負う決意は固まらない。
「僕が海原高校に転校したいと言ったら、本田さんに近づくためかと慊人が勘繰るかもしれないだろ」
「けーくんは本当に疑り深いなぁ。由希君や夾君と同じ学校に行きたくなったと言えば、慊人さんは許可してくれるって。多分」
「最後」
「ケ・セラ・セラ。何とかなるって、心配性だなぁ。それより、本命に対して積極的になれないヘタレなけーくんに、由希君たちのクラスメイトから聞いた情報を教えてあげる。咲ちゃんはミステリアスな美少女として、男子の間で密かに人気があるんだって」
思わぬ情報を耳にして、僕は硬直する。花島さんは容姿端麗だけど電波を操る不思議キャラだから、他の男子生徒は恋愛対象として見ないだろうと思い込んでいた。
見知らぬ男子生徒が花島さんに食べ物を奢る光景を思い浮かべたら、何かを蹴飛ばしたくなる不快感が込み上げてきた。僕の胸を占める黒い感情を読んだかのように、ぐれ兄は黒灰色の目を細めて挑発的に笑う。
「けーくんは若者なんだから、行動あるのみだよ」
言葉だけなら年長者の助言として聞こえるけど、ぐれ兄は言葉を巧みに操って人を騙す事が得意だから素直に受け止められない。今この場で答えを出すのは危険だから、家に帰って落ち着いてゆっくり考えよう。
「繭子さんに連絡頼んだよ、ぐれ兄」
僕が立ち上がりながら念を押すと、ぐれ兄はウインクしながら「まっかせといて」と答えた。イラッとする上に信用ならない。
「あ、そーだ。けーくんが本気で転校するつもりなら、僕が慊人さんを説得してあげるから声をかけてね。僕に煽られたけーくんが傷つく結果になったら、逆鱗に触れたはーさんにお腹を開けられちゃう……っ」
だったら煽らなきゃいいだろと思ったけど、ぐれ兄は火に油を注がずにはいられない性分らしいので言っても無駄だ。
今度こそ帰ろうと思った時、大事なことを思い出した。僕は革製のトートバッグの中から、布教用に買っておいた『モゲ太 最後の聖戦』のパンフレットを1部取り出す。
「これあげる。今日みんなで観た映画のパンフレットだよ」
「え……ナニコレ。性春真っ盛りの学生同士で、子供向けアニメ映画を観てきたの?」
「青春という美しい言葉が爛れた感じに聞こえたけど……ぐれ兄のような汚れた大人にもお勧めのアニメだから」
「いや、僕に勧められても……」
困惑気味に遠慮するぐれ兄を見て、意外だなと思った。ぐれ兄は字が書いてあれば何でも読む濫読家なのに、好き嫌いをするなんて珍しい。
「綾兄は『モゲ太とアリ』を毎週観ているって言っていたよ。兄さんも時間がある時は、僕と一緒に『モゲ太とアリ』を観ているし」
「うっそ、マジで!? あーやはともかく、子供向けアニメを観るはーさんなんて想像できないんだけど」
「幼い息子とコミュニケーションを図りたい父親が話題作りのために、息子と一緒に特撮変身ヒーロー番組を観る光景を思い浮かべてみて……」
「うわ……ひっどい例え方するねぇ」
物の怪憑きの中で最も非道い奴に、ひどいと言われてしまった。僕は少なくない精神的ダメージを受けたけど、負けずに言い返す。
「他人事みたいに言っているけど、ぐれ兄の精神年齢の老化の方が深刻だよ。作家は常に感性を磨いてなきゃいけないのに、アニメは小さい子供が観るものっていう古臭い固定観念に囚われているようじゃ、ぐれ兄の若いファンはそのうち離れていくよ」
『モゲ太とアリ』の魅力を1から10まで教えようとしたら、何やらうんざりした様子のぐれ兄に「もういいから帰ってお願い」と言われた。
原稿を仕上げたばかりだから、疲れていたのかな。布教活動はまた今度にしよう。