龍は門番の主である。
外界と内界を隔て護るものである。
一人の男は門番に会い、大力を以って龍を討たんとす。
死に伏す前、龍は男に問うた。
汝が力を望は何ゆえか、と――。
男応えて曰く――
「内患を廃し外患を除き人臣を平らとし、民を富み臣を清とする為である。
即ち田土は肥え、人臣に愁いなく、王は至上であり法が律し徳が治むる。故に番は要らず」
国が纏まっているならば護るものが何故必要なのか。
むしろそれらは人々に恐れられるだけである。
故に平時であれば私は力は必要としない、と男は応えた。
龍は納得し、自らの死を悲しまなかった。
男は妻となる女王の下、国を富まし良く治め、女王の亡き後三代に渡って治世を行い、
国が治るを見て後、齢百五十を越えなお若さを保ち、人知れず国を出た、とある。
それは一人の少年の、世界を救う物語。
彼を知る物は数少なく、彼を覚えている者は最早皆無となりながらも。
それでも闘いを止めず、世界の為に己の全てを賭して戦った一つの物語。
記憶は残らずとも。
きっとどこかに記録は残っていると信じて。
運命に抗い、そして。
いつ終わるとも知れず、今を進む――――それこそが……。
鹿児島県のとある場所に、日本三大退魔組織が存在する。
――神咲一灯流。
正しくは、「破魔真道剣術 神咲一灯流」と言う。
裏の世界では随分と高名であり、警察を初めとした公的機関に強い権力を持つ組織。
およそ四百年の歴史を持ち、強大な霊を切り伏せる事数知れず。
その情報網は日本各地に広がり、また裏社会の協力者は数知れず。
総員四百二十六名から成る、魔と雌雄を決し闇から光を衛(まも)る組織。
その頂点に立つ一人の少女の名を、神咲薫と言う。
若干十代で当主の座に着いた神童。
広く底の見えない器。
激しい感情と律する知性。
早熟にして未だ完成に至らぬ、先の愉しみな大器。
その少女は今、立派な成人となって、当主に相応しい風格を備えていた。
――――小広間。
多人数ではなく、少人数で話し合いをするために開かれた畳敷きの場所。
上座に座るのは当然の事ながら、神咲薫自身であり、
その対面に座るのは巫女服に身を包んだ、薫以上の風格を備えながらもあどけなさが残る美少女。
二人は静かに時を過ごしていた。
それは沈黙の時間。歴史の闇に消える対談だった。
茶を呑み、窓から覗く景色を楽しむ。
爽やかな風が頬を撫で髪を揺らす。
葉の擦れ合う音が鼓膜を柔らかく揺らす。
部屋に入ってから已然、二人はまだ、一言も口を開かないでいた。
それだけ事は重大で踏ん切りがつかず、機を待つしかなかった。
重苦しい沈黙の後に、ぽつりと薫が漏らした。
「貴女たちの組織の事は、うちの耳にも入っていましたが……真逆、そんな存在が」
「……はい。何としてでも、倒さなければなりません。協力の対価として私は、あの九尾の安全と、神咲に対する守護を約束しましょう」
「しかし、その対価が、一人の人物の紹介、ですか? 随分と得過ぎて、裏があるように思えて仕方がありませんが……ね」
「そうでしょうか? 世界を救う鍵となる人物と接点を保つ。価値としては十分では?」
「なるほど」
腹の見せ合いよりも先に、組織としての運営が頭を霞めた。
長としての思考。当主としての責任。
了承すべき提案だった。
しかしそれを、神咲薫自身のモラルが決断を先延ばしにしている。
たった一人の犠牲で、多くの人間が救われる。
しかし一人を見捨てるという事は全ての人間を見捨てる事と同義ではないか。
そんな感情が心を占めてしまう。
人の上に立つというのは辛い。大きな責任がある。
神咲薫の顔に苦渋が浮かんだ。
若くして苦悩し続けた眉間は、年齢に比べると余りにも深い皺が刻まれた。
顔繋ぎするべきか、否か。
たっぷりとして時間が経った。
壁一枚隔てた外の空気が冷え込み始め、日が傾き始めるほどに。
そして一言。
やはり吐かれた言葉は、苦渋に溢れていた。
「分かりました。ただし条件どおり、顔合わせまでが私の仕事。了承するかどうかは、本人次第だという事をお忘れなく」
「それは勿論です。まあ、言って納得して貰えない様ならば、こちらも最初から探したりはしないのですが」
女が笑った。底の見えない笑み。
長らく、余りに長らくこういった駆け引きに身を置いてしまった人間の持つ独特な笑み。
苦みばしった顔からは生気と、どことなく疲労が浮かんでいる。
未来を知り、それ故に時に支配されてしまう巫女。
名を『倉橋時深』と云う。
代わり映えのない学校風景がそこにはあった。
何時も通りの朝、鍛錬と朝食。
晶とレンの喧嘩。
なのはの怒声。
忍の居眠りと俺の居眠り。
教師の怒声。
昼休みの悪戯に、剣道部仲間ととる昼食。
何時も通りの、日常。
代わり映えのない、日常。
そして何時も通りの下校。
隣に立つ者も居らず、ただ独り。
人気の無い一戸建ての並ぶ家々の連なりを、人よりも早い歩調で歩く。
空はまだ青く、帰ってからの鍛錬を何にするか思案する、三年間の習慣。
塀の上で眠る猫の耳が、ぴくぴくとこちらの足音を捉えていた。
生まれついての狩人、獣には敵わないらしい……俺の無音歩法もまだまだだなと自嘲する。
「あの、恭也くん?」
「……?」
…………誰もいない筈だったが……?
ぼんやりとしていた顔を引き締め、声へと視線を向けた。
気配を感じられない相手。
自分の油断を考慮しても、手練であるのは間違い無かった。
視線が姿を捉え、射抜き……ふと緩む。
見知った年上の女性が、そこには立っていた。
神咲一灯流現当主神咲薫その人である。
ゆったりとしたパンツに、ハイネックのシャツ。
大部分の髪を後ろで結い、前に垂らした髪が、剣士の鋭い眼光を和らげていた。
与える印象が随分と違う。髪だけでもこんなにも見掛けが変わるのかと、少し不思議に思えた。
それにメガネをかけていた事もある。
二人して歩き始める。薫さんは俺の横を歩いて、特に目的もないらしく俺の行く道を従って歩いていた。
「視力、悪かったんですか?」
「ダテだよ。視力は両方2.0さ。こうしてると人相が柔らかくなるらしくってね」
自分と少し似た悩み。
剣の道を生きるには、こうした細々とした心遣いが本来必要なのかもしれない。
学校生活でも少々浮世はずれしている俺も、メガネを掛けるべきか……ふむ、考慮に入れなくては。
やはり黒縁か……。
黒以外はどうしても避けてしまう。
そう考えていると、薫さんが恥ずかしげに顔を伏せた。
人の顔をそう注視するものではない。
「ああ、申し訳ない」
「いや、いいんだ」
「しかしこんな所でお会いするなんて珍しいですね。今日はお仕事、休みですか?」
「今日は用事が有ってね、それで君に会いに来たんだ」
「俺に……?」
神咲の人間が俺に会いに来るというのはただ事ではない。
退魔と暗殺、護衛を生業としてきた一族には、仕事上ほとんどの接点がないからだ。
「うちの仕事上のお得意さんが、何処から嗅ぎ付けたのか知らないけれど、不破家の跡取りがいる事を知ったらしくてね、是非にも紹介して欲しいと言う事になったんだ」
知らず表情が、硬く険しい物へと変わるのを止められなかった。
その変化を見た薫さんの顔もまた、強張りを見せる。
“言いたくなかった”――感情が手に取るように分かる表情だった。
言うなればそれは、薫さんが俺に対して心を許していると言う証だ。
心を許さない相手には、何があろうとも感情を捉えさせないのが裏の世の常。
その分まだ、薫さんは信用に足る人物だと思えた。ただ全幅に信頼するには位が高すぎるが。
一族の長ともなると感情を超えた部分で判断をしなければならない事も多々あるはずだ。
今回もその一例だろう。
「で、そのお得意さんとは?」
「日本三大退魔組織の更に暗部にある、『出雲』と言う組織。そこの長が、恭也君と対面したいと」
「対面したい、ですか」
「ああ。うちが頼まれたのは、恭也君を対面させる事だけじゃ。それは言い変えると、事の当事者からは外されている、と言う事だね」
寂しそうに薫さんが嘲笑した。
己の無力を嘲る笑みだ。
人が良いと思う。そこまで内情をばらす必要は無かった。
神咲家の当主ともなれば、公的機関から圧力を掛ける事だって容易な筈だ。
これほどの人が結局は断り切れずに、俺に会いに来たのだ。
仕方ない、とそのとき諦めが着いた。
清廉潔白な心情の人の頼みは、断れない。
例えこの決断の先に何があろうとも、怨むのならば己のこの甘さ。
「分かりました。時間はいただけるんですか?」
「うん、向こうには時間があるみたいだから、ゆっくりと準備をしていって欲しい」
「場所は?」
「うちが家まで迎えに行くよ。向かう先は島根県。出雲大社の奥深く、常人には知りえない地下霊場に行って貰う事になると思う」
「そこに何が?」
「さあ。うちにも良く分からない。ただ出雲大社には昔から、世界最古の霊剣があると言い伝えられているから、霊剣絡みの話かもしれない。うちから言えるのはそれだけだ、申し訳ない」
「いえ、充分です」
――――この承諾が、後にこの依頼主に永遠の離別を示唆している物だとは、この時は思いもしなかった。
この時はただ、厄介事へと発展しそうな空気を感じ取り、美由希の教育を美沙斗さんに頼もうと、それだけを考えていた。
端的に言うとその二日後に、俺は世界軸を超えたファンタズマゴリアという世界に転移していた。