――聖ヨト暦330年、ソネスの月、青一つの日。
恭也の生活は激変した。
まず彼はファンタズマゴリアを知る所から始めなければならなかった。
永遠神剣『不動』は僅かに中空に漂うマナを吸収しているが、未だ眠りについているのかと思えるほど、その波動は緩やかだった。
言語の習得は、当初想像しているほど難しくはなかった。
何しろ聴き取る事が可能だったのだ。
たどたどしい発音ながらも、会話は成立し、いつしか普通に話せるようになった。
それも恐らくは、『不動』の能力があるのだろう。
また恭也自身に読心術の心得があった事も大きかった。
とは言え、比較的早かったと言っても、その間には二ヶ月が経過している。
言葉を憶え、ヨーティアの雑用をこなし、日々の鍛錬を続ける恭也は多忙を極めた。
この日も恭也は比較的近隣に存在するニーハスの村に食料を買いに出掛ける最中だった。
峻険な山であり、村へと続く道は近いながらも、マロリガンに比べて険路が続く。
傾斜が強く、また足元は凹凸に富んだ。
スピリットとしては殆どの力を持たないイオでは通れない道だった。
枯れ枝や落ち葉が積み重なる土を噛み締め、恭也は跳躍する。
その姿は軽々としており、空中を飛ぶかの如くと言った様相だった。
そしてこれらの運動は永遠神剣を介さず、恭也の生身で行われたものだった。
傾斜が強い。だから滞空時間は長くなる。
恭也はその特性を利用して、跳躍を繰り返した。
自由落下を利用するから自然と速度がつく。
二時間ほどでヨーハスの村へと辿り着いた。
そこでヨーティアの発明で得た小さなエーテル結晶を対価にして、野菜を中心に買い込み、帰路へと着く。
帰りは道の途中で仕掛けた罠を確かめ、動物が捕れていたらそれを獲物にする。
子であったらそれを放す。
また辺りの木々を倒し、乾燥させて薪の蓄えとした。
ヨーティアが山伏のようだ、と笑ったのも無理のない事かもしれない。
これらは恭也が幼少時代サバイバル技術として身に刻まれた生存技術だった。
飽食の時代に役立つ事は無かったが、真逆こんな場面で日の目を見るとは、と思うと恭也も苦笑するほか無い。
洞窟の前ではイオが水汲みを終えて返ってきた所だった。
「お帰りなさい。今日はまた、昨日よりも早かったのですね」
「ああ。村の人間もようやく慣れてきてくれたみたいでな。交換にも時間が掛からなくなってきた。悪い、ちょっとこの鳥持ってくれないか?」
「はい、今日は獲物が掛かったのですね」
イオ・ホワイトスピリットは憂の人だった。
常に憂いを目に宿し、血を嫌う。
物腰は穏やかで、知識が豊富であり、また良識に溢れているためヨーティアの補佐としては正に打ってつけの人材だった。
そのイオは今、僅かにだが微笑んでいる。
その僅かな変化が嬉しい。
このような感情の機微を感じ取るようになるまで時間が掛かった。
あるいはそれは、言葉を憶える事よりも難しかったかもしれない。
またイオも、恭也に対し気を許し始めたという事に意がある事も確かだった。
恭也はヨーティアよりもむしろ、イオに注意を払われていた。
五人目のエトランジェ。
それは聖ヨト伝説の伝承には無く、想定外の来訪であったからだった。
イオは鳥を持つと、洞窟の中へと入っていった。
水瓶は一杯に入っており、重さならば三十キロは下らない。
それを片手に持ち平然と歩くのだから、恭也としては脱帽するほか無かった。
これでスピリットとしては最弱に近いと言うのならば、俺など一体何の役に立つのか。
頭が痛くなるような現実だった。
今持っている野菜は一週間分で三十キロほど。一つの麻の袋に入れているから重さは大した事はないが、だからと言ってああも容易く持てる重量ではない事も、また確かだった。
溜息を吐く。のろのろとイオの後をついて、恭也は歩いた。
ホワイトスピリットは特異なスピリットだった。
ブルー、レッド、グリーン、ブラックの他の四色のスピリット立ちに比べその数が少ない事も一つであるし、また各属性を兼ね揃えている事実も、注目しなければならない。
他のスピリットが基本的に戦等を目的とされているのに比べ、ホワイトスピリットだけは、むしろ橋渡しのような役目を持っている。
その中でもやはり、イオ・ホワイトスピリットは特殊な部類に入るだろう。彼女は他のスピリットに比べいつも消沈したような面差しを持つものの、意志は強壮であり、思考は柔軟さと深みを兼ねていた。
ある時イオは、恭也のエトランジェとしての特異性に気が付いた。
即ち、彼が未だに神剣と言葉を交わしていない、と言う事である。
スピリットにしろ、より高位な存在であるエトランジェにしても、神剣とは相棒であり、同時に心許せない武器でもある。
永遠神剣は意志を持ち、時に協力し、時に所有者を操り喰らいながら力を振るう。
沈黙を好む者もいれば多弁な者もいるが、しかし彼らは一概に所有者と言葉を交わす。
無言の永遠神剣と言う存在を、イオは信じられなかった。
場所は隠れ家の最奥、研究室である。
本棚にずらりと並ぶ書物。使用前の研究器具。唯一物で溢れているのは、部屋の主、ヨーティアの事務机だけだ。
最近は恭也が買出しに出る事が多い為、部屋は整頓されていた。
買出しで使われていた労力はイオの物だから、ヨーティアに整頓能力の無さが浮き彫りになったのだが、本人は何処吹く風。今も椅子に行儀悪く凭れながら、イオの考えを聞いていた。
「ふうむ、なるほどな。そりゃあ確かに私の知ってる知識とも違う」
神剣が使えないエトランジェ。こりゃ問題だね。
ヨーティアもまた即答できる答えが見つからず、初めて知る事実に困惑したように頭を掻いた。
困ったとき、頭を掻きながら思考を展開させていく癖。
いつでも自信満々のヨーティアには似合わないのだが、言っても直らない習性の様だった。
今ではイオも、微笑ましく思うに過ぎない。
この偉大な科学者もまた、一人の人間には違いなかった。
「で、当事者の恭也には聞いてみたのかい?」
「いえ、まずはヨーティア様に覚えが無いかお聞きしておこうと思いまして」
「私よりもスピリットのイオの方が詳しいだろうに……」
「文献の力という物もありますので」
「なるほどね。まあ良いさ。じゃあとりあえず持ち主に聞くとしよう」
おーい恭也ー。
ヨーティアが叫んで間もなくして、気配を感じさせず恭也が研究室へとやってきた。
それどころか平然と、イオの背後に近付いている。
一体何時の間に?
イオの内心は、愕然とした。隠居しながらも世界最高峰の技術を持つヨーティアには、勧誘や暗殺の手が多い。それらの危険から護るべく、イオはある程度の武術を修めていた。それらは倒す手段ではなく、護るのが主だ。故に気配の探知には重きを置いている。
しかし恭也に大しては、微塵たりとも気配を知る事が出来なかった。
このエトランジェは、恐るべき武の能力がある。
恭也の深遠な才能に気付くと同時に、敵として出会わなかった巡り合わせに、イオは天に感謝した。
「おう恭也、お疲れさん。今日も狩りは巧く行ったみたいだね」
「ああ……」
「でだな、ちょーっとばかし聞きたい事があるんだけど、お前さん自分の永遠神剣の声は聞けるのかい?」
「いや……そう言う事は無いな」
「うーん、そっか。じゃあ否が応でも聴いとく必要があるな……。多分まだ眠ってるんだろうけど、イオに起こして貰う」
「起こす?」
疑問を投げかけた恭也に、イオが代わって答えた。
イオの持つ永遠神剣、能力は特殊である事。
このような事に使う事になるなんて。そんな思いが湧き上がる。
イオの視線の先には永遠神剣第四位『理想』がある。
最近では火を起こしたり、水を浄化したりする事にしか使われなかった、便利な代物。
本来の能力の大半を使ってやれない事を詫びながらも、それを善しとしていた。
理想と、不動の刃先を重ね合わせる。
緩やかに滲み出すマナを介して、相手の精神領域の奥深くへと潜り込む。
恭也の精神構造は深く、広大だった。
――これは、凄い。
思わず息を呑む。
そこは鋼鉄の柱で出来ていた。それらの周りに夥しい鉄筋が真直ぐに走り、四方へと伸びている。中心は灼熱の太陽のように赤く燃え滾り、周りは雹を思わせるように冷え切っていた。
彼の知性と、心根と。精神世界はその人間の性格を直接表す。
凡人ならばこうは行かないだろう。精神の歪みが中心を歪め、温もりに欠け、広さに欠ける。
器の広い狭い、深い浅いは、精神世界にも同じ事が言えた。
恭也のそこは、冷たさと温かさが同居する、紛れもなく英傑の精神世界だと、イオは思った。
そして中央。
熱された鋼鉄の柱の傍に、一つの小太刀があった。
あれだ、と思った。
イオの意識は精神の中を真直ぐに進み、永遠神剣『不動』へと辿り着いた。
「これ……は……?」
いぶかしむ。
永遠神剣の鞘と柄には、明らかに何者かが縛り、鞘から放たれない様にされていた。
ここは恭也の精神世界であるから、恭也が剣を抜く事を疎んじているのか。
最初はそう推測したが、それだと新たな矛盾点が出てくる。
鋼鉄を主とする精神構造と、イオが体感した恭也の武術の実力は、力を否定していない。
むしろ肯定していると言える。
ならばこれは、自分と同じ様に精神世界に入り込める人間の手によるものかも知れない……。
イオの少々飛躍した思考は、しかし真実を得ていた。
イオの手は鞘へと伸び、神剣を固定している物体へと目を向けた。
マナ独特の感覚が、ぞわぞわと感じられた。高濃度マナの固形物、と辺りをつける。
イオは永遠神剣『理想』抜き放つと、そのままマナ固形物へと叩きつけた。
鈍い金属音が反響して、その後、強烈なマナの波動を感じた。
迸るマナに吹き飛ばされる様にして、イオは恭也の精神世界から弾かれた。
精神世界から現実世界へと、突如として移動したイオは、平衡感覚を失っていた。
また五感が鈍くなり、自分の置かれている状態を直ぐに察知する事が出来ないでいた。
呆然と暫くしていると、やがて意識がはっきりとし、回りに注意を向けられるようになった。
そしてやっと、恭也の変化を感じ取った。
これが真のエトランジェの力……。
イオは直ぐ隣で感じられる力強さに、身震いしそうになった。びしびしと吹き付けてくるようなマナの旋風が身を覆っている。存在感がはっきりと増して、足が地に着いた、と言うような安定感を思わせた。風貌は何一つ変わっていないけれど、身を包む風格が、恭也に出来たと言って良い。
「これが、『不動』……はじめまして、だな」
恭也が永遠神剣に向けて、微笑を浮かべながら語りかけた。
それは後世、永遠に名を刻む高町恭也と言う存在の、第一歩だった。