【恭也よ……】
永遠神剣不動の声は落ち着いた響きを持っている。初老の男の声であり、渋みと深みがある。またその奥には打てば響くという軽快さも、また隠し持っている様に、恭也には聞こえた。
(なんだ?)
【私はまだ、貴方に力を見せていない。また、たびたび見せる事も無いだろう。私を使う事は、多量のマナを消費する。それは結果として所有者を苦しめる。本当に必要な時以外は、私を抜かぬ事だ】
(一理ある……しかし使うかどうかは俺が決めよう)
淡々とした、しかし物言いを許さぬお互いの言葉に、『不動』と恭也は互いに沈黙した。
腰に佩いた八景(不動)は実は夫婦剣ではない。父士郎が国内を遊び歩いていた時に、刀剣屋から買い入れたものだ。後士郎が死んで家に届けられたのは、片側の右用のみであった。それだけに恭也の永遠神剣は片手しかなく、両刀を使うのは難しい。
これは後々の戦闘に支障が出るな。と恭也は深刻な悩みとして受け止めた。
隠れ家からほど近い、森の中である。
木の幹は太く、抱えきれないほどに育った木がそこかしこに見受けられる。
下生えの木や草は実や花をつけるのが多い。
自然と生物は多種多様であり、また大型動物も好んで生息している。
最初土地感覚が分からなかった恭也は、この森に立ち寄る事を禁じられた。それだけ危険に満ち溢れていると言う事だった。
それは同時に、一度で得られる獲物や食料が多いと言う事でもある。
永遠神剣が開放されたのを理由に、初めて恭也はこの森へと訪れた。
なるほど、天まで突き伸びた木は空を覆い隠し、ほぼ一定の間隔で生い茂る為に、方向感覚を喪失してしまう。また絶えず聞こえてくる野生の生物の鳴き声や、時に獣の悲鳴は、平常心を削り取るだろう。
が、恭也に取っては何ほどの事でもなかった。
元々恭也は幼少時を自然と暮らしてきた。
天と地と父である人を師として来た。天地人、この三つが兼ね揃えば、分からぬ事はない、と太古の人間は言っている。
その境遇が、恭也には揃っていた。
今の恭也の感覚は剃刀の様に鋭く、錐の様に尖っていた。しかし気配はあくまで穏やかであり、草食動物でさえ不安を持たず近寄れるほどに、心身が落ち着いていた。
ゆっくりと森の中を闊歩していく。そこには獣を捕らえるという気負いは何処にも無かった。むしろこの動作は、獣が近付かなければ良い、と危惧している様でも有った。
恭也が進むうちに、森は途切れ、小さな広場に辿り着いた。
中央には泉があり、澄んだ水が滾滾と湧き上がっている。
日の光が水面で乱射して辺りを美しくライトアップしていた。
そして泉の横には、身の丈の優に三倍を超す大岩があった。
遥かな歳月を雨風に打たれていたのだろう。大岩は非常に丸く、その表面は細かく磨かれていた。
それは最早忘れ去られた事実ではあったが、聖ヨト暦の元年、ヨト国を建国した内の一人、第三王子が地の神を慰撫する為に築いた霊石だった。
恭也がそんな事を知る由も無いが、ただ導かれるように岩の頂へと目を上げ、口が叫ぶように開いた。――だがそこまでで、声は出ない。むしろ出さなかった。
岩の頂には、リュと呼ばれる一角獣がいた。ファンタズマゴリアでもめったにお目に掛かれない、多くのマナで構成された幻獣である。恭也の世界での、ユニコーンがこれに似ている。
神々しい空気を身に纏ったリュは、恭也に気付く事もなく暢気に天を見ていた。青空の中点々と千切れ雲が浮かんでいる。明日の晴れを予感させる綺麗な青空だった。
リュはファンタズマゴリアでは信仰の的であり、見た物に幸運を授ける神の遣いとされていた。だがそんな事を露知らぬ恭也は、肉付きの良い体格を見て、
(今夜の夕食は、ステーキか、はたまたシチューか)
などとぼんやりと考えていた。
恭也は身構えなかった。だからリュも、恭也の存在に気付いた後も警戒しなかった。
丸く黒く、どこまでも優しい瞳が、恭也を見つめていた。
その真意は恭也には分からない。
だがその瞳を見て、リュを狩る事を止めた。
視線に負けた、とも言える。
リュという幻獣から漂う香気に、恭也は惚れた。
良い生き物だな、と素直に感心し、殺すには忍びないと思った。
しばし見詰め合う時間があった。
そしてリュが動いた。
ぴくりと背後へと一度目を向けると、驚くべき俊敏さで恭也へと駆け寄る。
恭也は剣を抜いた。
駆け下りたリュと立ち変わるようにして、黒い獣毛に覆われた大きな獣が、岩に立った。
狼の一種のようだった。目が血走り、涎を垂らしている姿は非常に飢えを感じさせた。
ファロと言う名の獣だった。
リュは恭也の背後へと周り、身の安全を確保した。
恭也はリュを護るべく剣を構え、獣へと切っ先を向けた。
それは、先ほどまで命のやり取りにまで発展しかけたものが持つ関係ではなかった。
一瞬にして強固な信頼関係が、生物として二人に出来上がっていたのかもしれない。
恭也は永遠神剣を、平行にし、身を束ねる様にしてファロへ向けた。
【そう、それで良い】
静かな血の沸くような興奮を感じさせる不動の声だった。
永遠神剣がキィー、と甲高い金属の振動音を自ら立てた。切っ先が僅かに七色に輝いている。
永遠神剣は独自の属性を持っている、意志を持った剣だった。属性は名を冠している。例えば、後に恭也が加わる国のスピリットが持つ永遠神剣で、『赤光』といものがある。
その名から察することが出来るように、この永遠神剣は炎の属性を持っている。
そして、恭也の持つ神剣の名は『不動』であり、それも属性を表している。
永遠神剣とはまた、使用者の持つマナを加工し、増幅する道具でもある。元来使用者――術者は、永遠神剣を介さずとも、異能を遣う事が可能だった。ただその程度には、一と百の開きがある。
恭也はこれらの説明を、他ならぬ『不動』自身から受けた。
ファロは獰猛な笑みを浮かべ、恭也を見据えた。その瞳は恭也もリュも、等しい獲物として捉えていた。
ファロが距離を詰めた。
恭也は動かなかった。
ファロが構え、張り詰めた弓のように身を引き絞っても、恭也は顔色一つ変えず、そのまま剣をファロに一直線に向けていた。
飛び放たれた矢の如く、ファロが距離を詰めた。粉塵が舞い、辺りに腐葉土が舞い、両者の間にはもうもうと砂が立ちこめた。
大きな牙がぎらつき、恭也目掛けて振り下ろされた。涎が散る。
リュが恐怖したように一瞬身を竦ませる。それほどに苛烈な一咬みだった。
だがそれ以上にリュが恐怖したのは、恭也の一撃だった。
ただ真っ直ぐに、ただ直に。
一切の無駄が生じない直突きが、一閃の光となって放たれた。
永遠神剣はファロの頭を貫いた。
そのまま引かれた切り口は、重なり、最早どこが貫かれたのかも判らなかった。
動作に似合わぬ鈍重さで、ファロは地に倒れた。
どくどくと血が流れる。
【お見事】
多分に感動を含んだ声で、『不動』が賞賛の声を上げた。
ファンタズマゴリア以来、恭也は鍛錬以外、一度も剣を振るっていなかった。
『不動』にしてみても、使用者の実力には不安があったのだろう。
これでは文句の付け所が無いと、不動は心から安心し、またこの相棒を心頼もしく感じた。
ファロより流れた血が気化し、更にマナ化して空気に溶けて行く。
また貫かれた部分から少しずつ、その実態が朧になりつつあった。
「これは、なんだ……?」
【こやつもまた、狂える幻獣だったという事であろう。マナより生まれし全ての物は、死してまたマナへと還り行く。その性質が多くのマナで出来ている物は、それだけ早くマナに還る】
「なに……となると俺は何のためにこんな手間を掛けたと言うんだ!」
がおー、と恭也が吼えた。
恭也の目的は狩猟であり、今夕の食事の糧だ。その食肉となるべきファロが消えてしまっては、全ては無駄手間という事になる。
恭也は慌てて一握りの肉を得ようと、ファロへと近寄った。が、その手をすり抜けるように、ファロは肉体の全てをマナへと還した。
自分を殺した相手に対する、最後の抵抗と言えなくも無い。
「くそっ!」
【なに、あやつから喰らったマナのお蔭で、私の腹は膨れた。問題無かろうて】
永遠神剣『不動』が一人、愉しそうに笑っていた。
「なるほど。では今夜は野菜炒めですね」
「申し訳ない」
「いいえ、恭也様がいらっしゃるまで、肉にありつけた事はまずありませんでしたから」
イオが朗らかに言った。
目は手元へと向かい、そこでは野菜が切られている。
イオが『理想』を握ると、切っ先から火がでた。火は薪に燃え移り炎になった。
随分と庶民的な魔法だ。
魔法と聞くと大きな事に思えるが、その始まりは結局こう言った細々とした事から始まったのではないか、と恭也は思った。
イオは釜を置き、野菜を炒める。
一連の動作は優雅であり、イオの腕を知らしめるものだった。
恭也は不思議と腕の良い料理人との縁があるな、とその幸運に感謝した。
もしかしたらその幸運の分だけ、美由希が料理下手になるのかも知れない、とさえ考えた。
そうだとすると、あまりにも愚妹が憐れだ。
恭也が『理想』に目を向けていた為か、イオは恭也の神剣『不動』を話題にした。
「恭也様の永遠神剣は燃費に優れていますね。またマナを多く求めない、おとなしい性格のようです」
「そうみたいだな。俺にも無駄な多用は避けろ、といつも口うるさく言っている」
【…………】
恭也の腰元から、当然である、というような剣気を感じた。
イオは苦笑しながら、しかし恭也の意に反して、不動の肩を持つような発言をする。
「でもこの世界にある上位の永遠神剣は皆、互いに仲が悪く、いつか相手の神剣を吸収してやろう、と思っているらしいのです。また使用者に多量のマナを要求する神剣も多いと聞きます。それにより自我を失う者さえいるとか……。恭也様は良い神剣と巡り合いました」
イオの目元には優しさがある。多くの不幸を乗り越えてきた者だけが持つ、静かで力強い優しさだった。
その目を見ると、恭也は優しい気分になる。不動への不満も、まあ良いか、という気持ちになる。
それはイオがもたらす、大いなる包み込むような優しさだ。
恭也は今、独りだった。家族と次に会える日が来るのは、何時の事か分からない。
来年かも知れず、もしかしたら二度と会えないかもしれない。
ふと胸に寂寥感が湧く時、イオの目を思い出す事に気付いて、惹かれている事を知った。
それはイオも同じだったのかも知れない。
スピリットと言うだけで、家畜のような扱いを受ける事が多かった。
スピリットは人ではなく、人権は無く、また戦争の道具として常に最前線で戦う宿命を持っていた。
多くの人間から受ける視線に底冷えする冷たさが無かったのは、ヨーティアを除いて、恭也が初めてだった。それはイオが知る、始めての異性。スピリットは子を成さず、人で無いが故に、愛欲の対象にはならなかった。
また恭也の性格は朴訥でありながらも時に鋭く、人の心の闇を良く知っていた。
恭也の過酷な過去を髣髴とさせるような、ふと浮かぶ寂しい表情が、イオの胸を穿った。
急に静かになった。二人の視線が交わる。
少しだけ、二人は見詰め合った。互いの瞳が濡れたように輝いている。
だが、それも長くは続かない。
「野菜焦げちゃいますよ」
「そうでした。ヨーティア様に何て怒られるか」
恥ずかしそうにイオが微笑した。
まだ目の奥に憂いの残る笑みだ。
恭也の胸が締め付けられた。
結局、イオと恭也はその後、何事も無いかのように三人で食卓を囲んだ。
事実、時が経つと先ほどの情感は嘘の様に静まっていた。
時の悪戯だろう、と恭也は思う。
時は人を誑かす。
人は一瞬の判断の過ちで、一生を台無しにする事がある。
そう早く決める事は無い、と恭也は思った。
料理は美味かった。少し焦げている事と、肉が無い事を除けば良い夕食だった。
食事が済むとその後はお茶になった。
ヨーティアと恭也が残り、イオは後片付けの為に厨房へと退いた。
恭也も手伝おうとしたのだが、ヨーティアが止めた。
話したい事があるのだと言う。
二人は暫くゆっくりと、黙ってお茶を飲んでいた。
茶の味は鮮麗で香があり、ヨーティアが好む物だ。何でも眠気を散らす効果に優れるらしい。
これなら肉にも合っただろう、と思うと、恭也はますますあのファロが憎々しかった。
「あの獣め……」
悔しげに恭也が呟くのを、ヨーティアが見逃さなかった。
そして事情を聞き、大きな声で笑う。
「そうかそうか。だが良い事をしたよ。リュは聖獣だ。リュを見た者は成功するし、狂った獣、ファロを殺した者もまた成功すると言い伝えられている。もしかしたら恭也、お前は大臣かはたまた富豪にすらなれるかもしれないな」
「真逆」
恭也は一笑する。自分には金欲が無ければ、権力欲も無い。
過ぎた望みが身を滅ぼす事を、恭也は過去の体験から良く知っていた。
「しかし恭也は剣術が冴えるらしい」
「それしか取り柄がないですからね」
「そう謙遜するな。聞きたい事というのは、お前が元いた世界の事だ。どのような学問があったのか、どんな文化があり、特徴があったのか、是非教えてもらいたい」
尊大な態度を崩さないヨーティアが、頭を下げた。
驚くべき自体に恭也は困惑した。
ヨーティアに教えられるほどの知識が、高校の授業もまともに聞いていなかった恭也には無かったからだ。
この後に起こるだろう罵声の声を想像して、恭也の顔から血の気が引いた。
何とか良い言い逃れの方法は無いか、と思ったが、ヨーティアほど自尊心の強い人間が頭を下げているのだ。先延ばしにする事や無かった事にするなど不可能だろう。
恭也の前頭葉は驚くべき速さで回転を始め、自身にとっては初めてとも言えるほど考えに考えた。
そして閃く物が見つかった。
自身にとって学問、として学んだ物が、一つだけあったのだ。
兵法である。兵とは古来の中国において戦を表している。
恭也は剣術を修める関係上、兵法に付いても一通りの勉強をしていた。
兵法は集団での行動時だけではなく、個人の場合にも役立つのを昔、父の士郎が言っていたからだった。
孫子を読んだ。『呉子』『司馬法』『尉繚子』『李衛公問対』『黄石公三略』『六韜』という兵法七書を恭也は貪欲に読んだ。読んだだけでなく物にした。そうする必要が恭也にはあったからだ。
力を望んだ。未熟である己を恥じ、日本でも有数の実力者になった今もまだ、武を欲している。
そこには御神、不破という暗殺と護衛を生業とした自家一族の滅亡があり、父の無残な死が根底にある。
一家の柱となる父を失った事によって、その時父士郎を中心とし、新たな生活を始めていた一家は、崩壊しようとしていた。
それを止めるには、恭也はあまりに幼かった。
しかし恭也は自身に力が無かったからだ、と思った。
憧れと目標である父が、世界で十本の指に入るほどの達人であったのも、原因かもしれない。
既に兵法と鍛錬法に関する知識は深奥にまで達している。
だが恭也は最初、日本の文化について語る事にした。
新聞やニュースを読んでいれば、自然と歴史は頭に入る。
それ等を意識すれば、科学の分野にも知識が増える。
一家の長男として、ある程度権威を持とうと始めた情報の取入れを、恭也はこの時、初めて有り難さを知った。そして知識が如何に大切かという事を、文字通り身に刻む思いで知った。
後年の恭也は文武に明るい傑人となるが、その始まりは、実はこの一人の天才から発された強烈な質問だった事を知る者は、いない。
いるとすればそれはイオ・ホワイトスピリットただ一人である。
6236字だと……。