バタフライ   作:非食用塩

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第十二話 ブルーベルを君に

 

 そんなに驚くこと?

 いちばん身近な人間が、さらっとこっちの考えを読んでくる生活をしている身としては、片割れに限らずそういう能力を持った人がいても全然おかしいとは思わない。小説みたく魔術師(ウィザード)の世界が特殊能力の博覧会なら、あっちにいるより遭遇する可能性は何倍にも跳ね上がるだろうと思っていたのもある。

「貴様は恐れないのか」

「何を?」

 今までの横柄な態度はどこへやったのかと思うほどヴォルデモートは戸惑い、目を泳がせている。

「己の心を覗かれれば人は皆恐れるものだ」

「そうかなぁ?」

「は」

「あたしは怖くないよ」

 その答えにヴォルデモートは口を開きかけたまま、目を丸くして後ずさる。

「なんだ貴様は……! 何故恐れない?!」

「慣れだよ慣れ」

 あっ、絶句された。

 暢気に喋り続けてるわけにもいかないし、どうしたものかな。誰かいい案を出してお願い!

 と、鏡の中から誰かが手を振った。ハーマイオニーが鏡の中のあたしの左手を取っている。

 自分の左手を見下ろして首を傾げた。それがヒントなの?

 左手で自分の体に触ってみた。左手で左の肩を脇腹を。ズボンのポケットに手を入れる。硬い、でもほんわりとあたたかいそれがなんなのか、左手を示された意味がわかった。

 これは魔力、いや、違う。真輝(エーテル)の結晶だ。

 そうか。純度の高いエーテルを供給し続ければ、魔法使いにとって寿命なんてないも同然なんだ。

 指先からじわじわと流れ込む生きとし生けるもの全ての源が、自分の中で魔力に変換されて体全体に満ちていく。それに伴って視界が変わっていった。

 空気中に渦巻く自然のエーテルが、城に満ちる魔力が、飛散した魔力の残滓が、人の体に宿る金色の光と靄のような灰色の影が見える。

 今ならあたしでも杖なしで魔法が使えるかもしれない。

 一回、二回と深呼吸する。結果を正確に思い描いて、杖を振る時の動きで手首を動かした。

「accio、あたしの杖!」

 呪文を知っていても使ったことはない。だけど、フリットウィック教授の言う通り、自分の望みを実現するのが魔法なら必ず成功すると強く信じる。

「習ってもいない齢で使えるわけが、」

 パシンと乾いた音がして、この一年で馴染んだ感触が手の中に戻ってきた。

「おかえり、相棒」

 林檎とドラゴンの心臓の琴線、二十六センチ。この世界でずっと待っててくれた、あたしを選んでくれた杖。

 我に返ってハリーの方へ走るヴォルデモートの後ろで杖を振った。

「Finito Incantatem」

 縄が解けて身を起こしたハリーにヴォルデモートが掴みかかる。次、次の呪文は。

「ぎゃあああああ!!」

 耳をつんざく悲鳴がホールに響いた。

 叫ばれたハリーも何が起きたのかわからないという顔をしてこっちを見ている。

「な、なんだこの魔法は?!」

 甲高い声がひどいノイズで乱れた。一瞬迷ったハリーがヴォルデモートの手を掴むと、再度悲鳴が上がった。

 ヴォルデモートがハリーの手を思いきり振り払う。

「殺してやる!」

 目を血走らせ再び掴みかかったヴォルデモートは、抵抗したハリーの手が触れるなりまたも絶叫した。手のひらから煙が上がっている。

──痛い? 熱い?

 ハリーが青ざめて後ずさった。

「僕に近づくな」

「殺してやる」

「近づくなって言ってるだろ!」

「貴様など」

「僕が死ぬ前におまえが死ぬからやめろ!!」

 どっちも様子がおかしい。二人の間に割って入ると、あたしの腰にハリーがしがみついてきた。

「嫌だ、僕は誰も殺したくない」

 自由を奪われても状況を打破しようとしていたとは思えないほど動揺しているのを見て察した。

 滅多なことで動じないハリーにも苦手なものがあった。それは『死』だ。昔は物語でキャラクターが死ぬことさえ泣いて嫌がっていたほど死を恐れている。

 自分の死ではなく、自分以外の死を。

 どう作用してヴォルデモートに痛みを与えているのか杳として知れないけれど、あたしはハリーの手に触れられても何も起きない。ハリーに殺意を持つヴォルデモート、ひいてはクィレル教授の体を殺しかねない力が働いているのか。

 ヴォルデモートが自ら引かなければ、ハリーは望まずして殺人を犯すことになる。

 これはゴーストのなり損ないに止めを刺すのと、生きた人を殺すのは同じじゃない。あたしもハリーも生きた人間が人質にとられているのを見捨ててまで闇の帝王を倒すような人非人にはなれない。

 深呼吸して状況を確認する。

 動揺しているのはヴォルデモートも同じらしい。あたしに手を伸ばしかけたものの、ハリーがいるのに気づいて半歩後ずさった。

「諦めた方がいいんじゃない?」

 ヴォルデモートが睨みつけてくる。

「死にたくないから、そんな半端な状態でいるんでしょ? これ以上続けると、あんたも先生も死んじゃうかもしれないよ」

 どうしてか、泣いている小さな迷子を前にしているような気持ちで話しかけている。

「あんたは死にたくない。あたしは先生を助けたい。あんたが退いてくれれば、どっちも解決するんだよ」

 ハリーの手を解いて、ヴォルデモートに一歩近づいた。

 映画や小説なら理不尽に人が死んでも、物語だからと割り切れる。だけど今ここで起きていることは現実なのだ。決着を急げば失うものがあまりに多い。

「ここは痛み分けってことにしてくれない?」

 もう一歩、あたしが足を踏み出すのを見たヴォルデモートが『怯えて』後ずさった。

「寄るな」

「なんで?」

「俺様は貴様らの親を殺したんだぞ?! もっと恨み恐れるものだろうが!」

 いや、確かに親の仇といわれればそうなんだけど。

「ごめん。そういうのよくわかんない」

 親がいなくてもハリーがいてくれたから誰のことも恨まずに生きてこれた。それはこの先もきっと変わらないと思う。そもそもあたしは先生を助けに来たのであって、こいつを倒そうなんて、ここに来るまで少しも考えていなかったから。

 ヴォルデモートが愕然として立ちすくむ。あたしは一気に間合いを詰めて、クィレル教授の体ごとヴォルデモートを抱きしめた。

「やめろ! 離せ!」

「お断りします」

「殺されたいのか?!」

 靄が揺らいで声にかかるノイズが強くなる。先生の意識が少しでも戻りかけているのなら、あたしの声が聞こえるはずだ。

「離せ!」

「先生」

 引きはがそうとした手を掴んで言った。

「一緒に帰りましょう、先生」

「……君は、私が恐ろしくはないのですか」

 震えた少し高い声。先生の声だ。

「全然」

 まだ問題は解決していない。

「だから、とっととそいつを追い出してしまいましょう」

「黙れ小娘!」

 甲高い声でヴォルデモートが喚く。

「俺様に逆らうとどうなるか、身を以て知っているだろう! 殺せ! 小娘を殺せ!」

「大丈夫、先生ならできます。だって、あたしが知る中でも、先生はとびきりすごい魔術師(ウィザード)だから!」

 人に魔力をわけられる。箒もなしに空を飛べる。トロールを使役できる。論理的に物事を考えることができる。あたしの孤独に寄り添ってくれる。全部全部、その辺に掃いて捨てるほどいる魔術師にはできないことばかりだ。

「うるさいうるさい! こいつにそんなことができるものか!」

「あたしは先生ならできるって信じる」

 クィレル教授は心底驚いたという顔をした。 

「私を、信じる?」

 笑って頷く。そんなの当たり前のことだからだ。

「魔法は望んだことを実現する力ですよ」

 先生が心から望むなら、それは絶対に叶う。

「──そうです。魔法とは、そういうものです。どうして忘れていたのでしょう」

「やめろクィレル! 力と名誉が! 賞賛が! ほしくないのか?!」

 ヴォルデモートの叫びを聞いても先生は揺るがなかった。

「そんな大層なもの、私の身の丈に合わないのだと実感しました。……貴方には、わからないでしょうね」

 

 

 

◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇

 

 

 

 迷いのない魔術師は強い。

 気を失った先生の体が傾くのを受け止めようとして支えきれず床に転がる。追い出されたヴォルデモートは霞とも煙ともつかない姿で、どうにか起き上がったあたしを睨んだ。

「このままでは済まさんぞ」

「無理だよ。ここには、あんたを受け入れる人がいないもの」

 自業自得と断じるには気の毒すぎる姿に、なんとも言えない気持ちになる。生きている人間に敵わないのはゴーストと同じだ。

 そうだ。慌ててハリーの横に屈んで肩を揺さぶる。

「ハリー、ハリー? 大丈夫だよ、もう誰も死んだりしないよ」

 顔を上げたハリーがあたしを見て、少し離れた所に倒れている先生を見た。

「どういうこと?」

「先生が自力で追い出したんだ」

「マジで?」

「マジで!」

 よかったと胸をなで下ろしたハリーが、ふと表情を暗くした。

「ねえ。僕が英雄とかさ、やっぱり間違いじゃないの?」

「どの口が言うか! アバダを返されて落ちぶれた俺様に謝れ!!」

「いや、あんたもよく考えてみなよ。当時一歳の幼児に何ができるっていうのさ? たぶん他所の人の仕業だよそれ」

 またあのキンキンした声で喚き散らすヴォルデモートから目を逸らして、ハリーは汗の滲む額を押さえた。

「ダンブルドアは僕とあんたを対決させようとしてたみたいだけど、とんだ番狂わせだったね。あのじいさん、アレンをとことん舐めてかかってたからさ」

 こっちを見て苦笑いするハリーにどう返せばいいのか。

「あんたもわかったでしょ。アレンは魔力よりなによりすごい力を持ってるって」

 思い当たることがあったのか、ヴォルデモートはぐっと言葉を詰まらせた。

「アレンはね、魔法なんか使わなくても縫い目のないシャツを仕立てられるし、涸れた井戸でも洗濯ができる。一粒の胡椒を撒いて畑いっぱいに実らせることもできる。ひとはその力を愛というのだけど」

「貴様もダンブルドアと同じことを言うのか」

 低い声でヴォルデモートが唸ると、ハリーは投げやりな態度で言い放った。

「さあ? 僕が実感してる愛と、ダンブルドアが言うそれが同じかどうかは知らないな。……それで提案なんだけど」

「なんだ」

 横柄な態度はそのままに、しかし話を聞く姿勢を見せたヴォルデモートに、おや、とあたしは首を傾げた。

「出直さない?」

「は?」

「あんたも体がないんじゃどうしようもないでしょ。結局『石』は手に入らなかったみたいだし、僕もさっきやって見せた悪ふざけくらいしかまだ使える魔法がなくってね。どうせならお互い全力で殺り合いたいじゃない? それに今回みたいに人質を取って僕をなぶり殺しになんかしたら、いくらあんたでも大手を振って勝利宣言なんかできないよね? どこぞの校長じゃあるまいし、そこまで厚顔無恥じゃないでしょ」

 あれを悪ふざけと言い切るのもどうなんだろう。ブラウン管に映る作られた映像なら笑えても、リアルであんなのに襲われたらひとつも笑えないぞ。

 同じことを考えたのかヴォルデモートがハリーを()めつけた。

「よかろう。次会う時が貴様の最期だ」

「ありがとう。その日を楽しみにしてるよ」

 ハリーがにっこりするのを見て盛大に舌打ちすると、ヴォルデモートはどこかへ飛び去って行った。

──これでミッションクリア、かな?

「あああああああ」

 突然、ハリーが大声を出した。

「へ? なに?」

 びっくりするあたしをスルーして仰向けに倒れる。

「ええっと、大丈夫?」

「疲れた」

 端的な答えに息をついた。こっちではなにもかもが一年生なのに、いきなりラスボスと対決させられたのだから疲れて当たり前だ。

「アレンは元気だね。魔力の残量は? 眩暈や吐き気はしない?」

 あ。すっかり忘れてた。

「しない。ていうかあたし賢者の石持っててさ」

「ええ?!」

 ばね仕掛けのおもちゃみたいにハリーが飛び起きた。

「いつ手に入れたの?」

「ええっと、『鏡』の前に立った時かな」

「よくバレなかったね」

「うん」

 ハリーは何もしなくてもあたしの考えてることを読めるのに、ヴォルデモートは意識しないと読めなかったっぽいからなぁ。血の繋がりがないから? よくわかんないけど。

 ポケットから取り出した賢者の石を灯りに翳した。結晶の中で薄紅色をしたエーテルが靄のように渦巻いている。

 

 二人で賢者の石についてあれこれ話していると、不意に足音が聞こえてきた。見ると、マダム・ポンフリーとスネイプ教授とダンブルドアの三人が階段を駆け下りてくるところだ。

 いつもより数倍ひどい顔色をしたスネイプ教授は、駆けつけて早々ハリーとあたしに大怪我がないのを確認すると、

「まったく……」

と呟いて額を押さえた。

「クィリナスは?」

「気を失ってます」

 子供二人では動かしようがなかったので、気の毒だけどそのまま床に寝かせておいた。が、その結果に驚いたのはマダムでもスネイプ教授でもなく、ダンブルドアだった。

「生きているのかね? 本当に?」

「生きてますよ。嘘をついて、あたしに何の得があるんですか」

 クィレル教授の生存は想定外だと言いたいのか。

 イラっとして睨むあたしにダンブルドアは手を上げろ(フリーズ)と言われた時のポーズをして首を振った。

「嘘だとは言っておらんよ。しかし、どうやって」

「先生が自力でヴォルデモートを追い払ったんですよ」

「「ねー」」

 状態の確認をしていたマダムが手を叩く音で全員の注目を集めた。

「はい、おしゃべりはそこまで! そこの男手どもは怪我人を運びなさい!」

 医務室の番人らしい剣幕に、流石のスネイプ教授もダンブルドアも「はい」としか返せなかったようだ。

 

 

 

◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇

 

 

 

 事件の後、空いた時間はずっと医務室にいた。

 ハリーの頭痛はそれほど長引くことなく、あたしも擦り傷くらいしかなかったので当日のうちに寮に戻れた。ロンは頭を強く打った可能性があるとのことで一晩泊まらされていたけれどね。

 クィレル教授はヴォルデモートを追い出すのにかなりの力を消耗したようで、まだ昏々と眠っている。

 後は目が覚めれば問題ないとマダムに言われたし、魔力の補給に来たスネイプ教授にまで同じことを言われた。それでもあたしは先生が起きるのを待ちたいので頑として医務室に居座っている。

 三日目の午後、ベッドの脇で読書していたら、クィレル教授が身じろぎしたのに気づいた。

「先生?」

 本を置いて様子を窺う。白磁の目蓋がゆっくりと持ち上がり、ぼんやり瞬きしたと思ったら寝坊でもしたみたいに飛び起きた。

「ミス、……ポッター、」

 大声を上げかけたクィレル教授は、あたしの顔を見るなり尻すぼみに名前を呼んだ。

「はい。お加減はいかがですか?」

「だいぶ、いいです」

「それならよかった。おかえりなさい、先生」

 あたしが笑うと先生も照れたように笑って「ただいま戻りました」と言った。

 改めて受けた診察の結果、どこにもまったく異常なし。部屋に戻っていいと言われたクィレル教授は困惑を隠せない表情であたしとマダムを交互に見た。

「あの、……それだけ、ですか?」

 振り返ったマダムが片眉を上げる。

「それだけとは?」

 先生は青くなったり赤くなったりして、しどろもどろに返した。

「オーラーに引き渡すとか、そういうことは」

 それを聞いて「ああ」と手を打った。

「先生には後日事情聴取があるそうですよ。でも、引き渡しはないと思います」

 どこでどうやってヴォルデモートと関わったのかについては根掘り葉掘り聞かれるに違いない。罪に問われるのもあれだけど、何度も何度も繰り返し同じことをきかれるのもしんどいと聞くのでちょっと心配だ。

 にべもなく医務室を追い出された先生はヒンキーパンクに騙されたような顔で首を傾げた。

「一体何がどうなっているのでしょうか」

「何って?」

 慣れた手つきで長く豊かなブルネットの髪を後ろにまとめたクィレル教授が、右手の拳を顎に当てて思案する。

「結果はどうあれ私はヴォルデモートと手を組んでいました。投獄されたとしても仕方のない身です。それがどうしてまだホグワーツにいるのでしょう」

「先生、何か捕まるようなことしましたっけ?」

 刑務所に放り込まれるほどの悪事、とは。

「き、君は何を言っているのです! 私はグリンゴッツに侵入して、きみの片割れを箒から振り落とそうとまでしたのですよ? それに一角獣も、」

 直接的な言葉が憚られたのか、クィレル教授は口籠った。

「ああ。一角獣なら、みんな元気になって森に帰りましたよ」

「え?」

 聞き返すのも無理はない。でも、本当のことだ。

「どの個体も全て回復しました」

 あたしたちが見つけた個体はかなり危険な状態だった。といっても元が人類と比較するだけ無駄なほど頑丈な幻獣だ。手当てを受けたらみるみる元気になって、昨日の昼頃には土産とばかりにハグリッドを蹴っ飛ばして森に帰ったとロンに聞いている。

「グリンゴッツには侵入しただけで何も盗んでないですし、例の呪いも未遂ですよね。ハロウィンの時もトロールを引き入れはしたかもしれませんが、パーティーの解散前に全校生徒の前で知らせたことで早期避難ができて犠牲者は一人もいませんでした。ええっと、……他に何かありましたっけ?」

 指折り数えてみても刑罰レベルの害は思いつかない。

 

 階段を上って先生の研究室がある階まで来たあたしたちは早足で歩いてきたフリットウィック教授と顔を合わせた。

「目を覚ましたと聞いて医務室に向かっていたところですよ、クィリナス! 具合はどうですか?」

「は、はい。マダムには、い、い、異常なしと診断されました」

 にこにこしている上機嫌なフリットウィック教授に対して、クィレル教授は目を泳がせ、つっかえつっかえ答えている。どうやらあのどもりも全てが演技じゃなく、すごく緊張した時に出るもののようだ。

「それは何よりです。……ミス・ポッター、ずっとクィリナスについていてくれたのですね」

「はい。あたしも心配だったので」

 クィレル教授は学生時代、フリットウィック教授の教え子だったと聞いている。出身寮がレイブンクローなのもあって、様子がおかしいのを気にしていたそうだ。

 行動に移せなかったのが誰のせいかは言うまでもない。

「できることならついていたかったのですが、先にどうしてもしなければならないことがありましてね」

 それを聞いて思わず身を乗り出す。

「どうなりました?」

 フリットウィック教授がサムズアップして笑った。

「上手くいきましたよ!」

「やりましたね!」

 あたしと手を取り合って飛び跳ねたフリットウィック教授は、話に全くついていけていないクィレル教授の視線に気づいて、こほんとわざとらしく咳払いした。それから、経験豊かな教師らしい威厳を以て言った。

「来学期のことですが」

「はい」

「クィリナスにはマグル学に戻ってもらいます」

「え?」

 ぽかんと口を開けた教え子に今度は慈愛溢れる笑顔を向けて、フリットウィック教授が小さな手でちょいちょいと手招きした。おどおどと身を屈めるクィレル教授の頭を優しくなでる。

「この一年、本当に大変だったでしょう。よく頑張りましたね」

「……はい」

「今後、困った時は些細なことでも私に相談してください。もう一人でなにもかも抱え込んじゃダメですよ」

「はい」

 実はこの数日、フリットウィック教授とバーベッジ教授は、一度でもヴォルデモートと通じたのを盾に取ってクィレル教授に退職を命じようとするダンブルドアの説得にあたっていた。だから、せめてあたしだけでも、と傍についていたのだ。

 二人の熱意がダンブルドアに通じたのかどうかはさておき、目的は果たせたわけだ。これ以上の贅沢は言わないでおこう。

「さぁ、今夜はパーティーですよ。ミス・ポッターもクィリナスもたくさん食べて、元気になりなさいね」

 廊下を歩いていく小さくて大きな背中に、クィレル教授は深々と頭を下げた。

 

 殊更ゆっくり歩いて部屋の前に着くとクィレル教授が話したいことがあると言って、あたしを部屋に招いた。 

 何か言いたそうに口を開きかけて、思い直したように首を振る。

「君が、私のどんな予想も固定観念も平気で飛び越えるのには、本当に驚きましたよ」

 そんな風に言われるようなことしたっけ?

 首を傾げても答えはない。先生は、その濃い青の綺麗な目を眩しそうに細めただけだ。

「ありがとう。私が今こうして生きているのは君のおかげです」

 片膝をついて恭しく頭を下げる。クィレル教授は、そっとあたしの右手を取った。

「君は闇に身を落とした私を恐れ断罪するどころか、己の危険を省みることなく手を差し伸べ、命ばかりか心まで救ってくれました。……ですが、君の神にも勝る尊い行いに私が返せるものなど、この命しかありません」

 感謝されてるのはわかる。わかるけどこれはその。

「そんなに重く考えなくても」

 えらいことになっているのは理解できた。でも、こんな人生に幾度もあってたまるかという状況に、空いた左手をわたわたと宙に彷徨わせるくらいしかできない。

 クィレル教授は目を伏せて静かに告げた。

「遠くない未来、彼は『ハリー・ポッター』を殺すために舞い戻るでしょう。次に敵対するのは彼一人ではないかもしれない」

 ぞっとした。

 純血でない人々が、純血主義でない人々が、魔法と関わりのない人々が意味もなく殺される日が来る。多くの犠牲が払われるその日までに、あたしたちは今より少しでも強くなる必要があった。

「世は混乱を極め、皆が疑心暗鬼になり、不安ばかりが募ります。事実、『あの日』まではそうでした」

 両親が死に、ハリーが呪われて、ヴォルデモートが体をなくして、あたしが死にかけた『あの日』以前。

「遠くない未来にあの恐ろしい時代が来ると確信しているのに、今はそれほど怖くないのですよ。これも君のおかげですね」

 向けられた麗しい笑みに驚いて鼓動が一拍飛んだ。

「この先、どんな悲惨な未来が待ち受けていたとしても、私は二度と挫けることはないでしょう。その力を齎してくれた君に、私は誰よりも一生、忠実であると誓います」

 手の甲にやわいものが触れて大袈裟なくらいビクッとした。

 やっぱりそうだ。映画で見たことがある。これは騎士が君主の前でやるあれだ。……けど、あたしはただの一般人だ。

 ああもう! どうしてこうなった!?

「駄目、ですか?」

 そんな捨て犬みたいな目をしないでほしい。

「そ、そんなの、先生の心の内で決めてください! あたしは先生が無事に戻ってきてくれただけで、本当にもう何もかもオールオッケーなんですから!」

 頭がぐるぐるして舌が回らない。

 ほら、全然かっこつかないじゃん! ここまで言われるようなこと何もしてないのに! なんてことだ、ほんとに!!

 そんな威厳の欠片もないあたしを見て先生が本当に嬉しそうな顔をするから、あたしは行き場を失っていた左手で茹で上がったように熱い自分の顔を隠すしかなかった。

 

 

 

◇◇◇◆◆◇◇◇◆◆◇◇◇ 

 

 

 

 寮に戻ったあたしの顔を見てハーマイオニーが言った。

「どうしたの?」

 ど、どうしたって。

「どうもしないよ」

 あれはただの決意表明だ。もう二度とヴォルデモートなんかに誑かされたりしないって、それだけの話だ。うん。

「その割には随分顔が赤いよなあ」

「どう見てもなんかあったよなあ」

 ニヤニヤ、ニヤニヤ。

 未だに喋らないとどっちがどっちかわからない二人が、左右からあたしの腕を掴んだ。

「え、いや、ほんとに何もないよ?」

 プライベートなことを勝手に話すのはよくない。

「ちょっとくらいあるだろ」

「ないわけないよな、後輩」

「「顔が赤い理由とかさ!」」

 ハーマイオニーまで期待の眼差しを向けていて、まったく助けてくれそうにない。なんなんだよ、もう。

「わかった。わかったから離して」

 解放された勢いでソファに顔を埋める。

 これは嘘じゃないし、本人にも言ったことあるからいいか。

「あの人、近くで見ても綺麗で困る」

 フレッドとジョージが揃って首を傾げた。

「「誰の話だ?」」

「クィレル教授」

 二人は顔を見合わせて、さらに首をひねった。

「よくわかんねえ」

「うん、わからん」

「理解しなくていいよ。美的感覚なんて人それぞれだし」

 夜になった。

 大広間は緑と銀のスリザリンカラーで飾りつけられて今年の一位を祝っている。生徒の席にも教員席にも空きはない。一年の始まりの日と全く同じ顔触れだ。

 マクゴナガル教授が軽快にゴブレットを鳴らす音がした。好き勝手におしゃべりしていた生徒が揃って教員席に注目すると、ダンブルドアが咳払いして言った。

「また一年が過ぎた! 皆が御馳走にかぶりつく前に寮対抗杯の表彰を行うぞい。四位 グリフィンドール三一二点! 三位 ハッフルパフ三五二点! 二位 レイブンクロー四二六点! 一位 スリザリン四七二点!!」

 スリザリンのテーブルから歓声が上がった。

「よしよし。スリザリンの諸君、よくやったぞ。しかし、このつい最近の出来事も勘定に入れねばのう?」

 途端に大広間が静まり返った。最近? 何かあったっけ?

「実は駆け込みで点数を与えねばならん者がおる! えー、ではロナルド・ウィーズリー君。ここ数年で最高のチェスゲームを見せてくれたことを称え、グリフィンドールに五〇点を与える!」

 ああ、あれね。にこにこ笑顔のハリーに肩を叩かれたロンが照れて顔を真っ赤にした。

「次! ハーマイオニー・グレンジャー嬢。地獄の業火に囲まれようとも冷静に論理を展開し対処したことを称え、グリフィンドールに五〇点を与える!」

「ハーマイオニーがいなかったら、あの部屋は絶対に抜けられなかったよね。ありがとう」

 まだお礼を言ってなかったのでここで言っておく。これまた真っ赤になったハーマイオニーが周囲の視線にわたわたした挙げ句、テーブルの上で組んだ両腕に顔を埋めてしまった。

「次! アルトリア・ポッター嬢。揺るぎなく公平な判断に基づき類稀なる行動力を発揮したことを称え、グリフィンドールに五〇点を与える!」

 え、あたしも?!

 仏頂面のスネイプ教授の隣でクィレル教授が嬉しそうに拍手しているのを見たら、なんだか急に恥ずかしくなってきた。評価される嬉しさより大勢の前でされることの恥ずかしさの方が上回った。

「次はハロルド・ポッター君」

 校長が無駄に溜めたので、大広間がまた静まり返った。

「君のその並外れた勇気と精神力を称え、五〇点を与える!」

 ハリーは大して嬉しそうでもない顔で肩をすくめた。あれ? グリフィンドールがスリザリンを追い越してない?

 テンションの落ちたスリザリンを完璧にスルーしてダンブルドアが続けた。

「えー、次! ドラコ・マルフォイ君。視界がままならぬ中、恐ろしい怪物に立ち向かった果敢なる勇気に五〇点を与える!」

 あっ、追い越された。これで今年はスリザリンが優勝かな?

 ざわざわし始めた大広間に、またダンブルドアの声が響いた。

「勇気にもいろいろある。敵に立ち向かうのはもちろんじゃが、味方に立ち向かうのもまた勇気じゃ。それを評してネビル・ロングボトム君に一〇点を与える!」

 状況を理解するのに多少の時間がかかった。みんな顔を見合わせ、自分の暗算が間違ってないかお互いの表情から読み取る。

 わっと一斉に歓声が響いた。

 同点優勝だ!

 

 翌日、試験結果が貼り出された。

「……マジで?」

 呪文学はともかく、他はあまり自信がなかったのにどの教科も上から数えた方が早いなんて信じられない。

 あたしの横から、ちょっと不機嫌そうな声が聞こえた。ハーマイオニーだ。

「首席の私と勉強しててビリとか許さないわよ」

「ですよねー。あっ、ネビルはどうだった?」

 横にいたので声をかけるとネビルが嬉しそうに笑った。

「どうにか落第はしなかったよ。あとね、薬草学の点数がすごくよかったんだ」

「ほんとだ。前に得意だって言ってたもんね」

 トランクに着替えや教科書を詰めている最中に『夏季休暇中の注意』というプリントが回ってきたので、休憩がてら読んだ。国際機密保持法と未成年者の責任問題を考えれば真っ当な内容だったので安心したよ、うん。

 先にホグワーツ特急に乗り込んで、ハグリッドがハリーに話しかけているのをコンパートメントの窓越しに眺める。

 ほんと、ハグリッドってハリーのこと好きだよね。

 話を終えて足早にコンパートメントに入ったハリーは早々に外面をかなぐり捨て、行儀悪くどすんと席に座った。

「これお詫びだって」

 分厚い本かと思って開いてみたらアルバムだった。まだ赤ん坊といって差し支えない年頃のあたしとハリーを抱っこしている二十代前半くらいの男女や、ハンサムな黒髪の青年と少し困ったような顔をした青年、他の人よりちょっと小柄でふっくらした顔の優しそうな青年の写真が何枚も何枚もあった。

「これが両親だよね? この人たちは?」

「両親の友人だって」

 一通り見てからアルバムを返すと、ハリーは家族四人で映った写真を一枚、あたしに寄越した。

「一冊しかないから、これはアレンが持ってて」

「ありがとう」

 あたしを見て微笑んだハリーが、ぎゅっと眉間に皺を寄せた。

「根っから悪い人じゃないんだけどさ、時々、ハグリッドは僕が嫌いなのかと思うよ」

 どこが?

 あれだけ懐いているのに実はハリーのことが嫌いとか、ちょっとあり得ない気がする。

「だってさ、これなんて明らかに片手落ちでしょ? なんで僕にだけ用意するのさ? 巻き込まれたのはアレンも同じじゃないか」

「ハリーが持っててくれれば、あたしは見たい時に見せてもらえて助かるよ」

 憤慨してもしょうがない。ハグリッドは『そういう人』なのだ。

 誰にだって優先順位というものがある。あたしがハリーを優先するのと同じで、ハグリッドが優先したいのはハリーなのだ。ただそれだけのことでしかない。

 もらった写真を少しの間眺めてから、写真が変に曲がらないようにそっと革表紙の手帳に挟んだ。

 ロンとハーマイオニーがコンパートメントに来て間もなく、列車は予定通り発車した。

 帰りは行く時よりもずっと賑やかだった。みんなで喋ったり、お菓子を食べたり、夏休みの予定を話したりした。他のコンパートメントから遊びに来る子もいて、この一年で友達がたくさんできたのを実感する。

 日が傾く頃、列車がキングズ・クロス駅に到着した。

 マグルの服に着て、重い荷物を手にプラットホームに降り立つと、車が行き交う都会の匂いに懐かしさを覚えた。

 自力で家まで帰るつもりだったのに、ダドリーの鶴の一声で伯父さんが車を出してくれることになったと手紙をもらったのは数日前だ。

「改札口は複数作った方がいいと思うわ」

 ホームから出る順番を待つ間、ハーマイオニーは駅の改善策について語った。

「夏休みに三人で泊まりに来てよ。母さんに話しておくからさ」

 クリスマスの件以来、ロンは母親の話題を避けていた。おおよそ間違いなく、あたしを気遣ってのことだ。とはいえ、親御さんも同意の上で招待されるとなれば断る理由はない。

 ダドリーはともかく、伯父と伯母は、あたしにもハリーにも長く家にいてほしくないだろうし。

 ゲートをくぐって改札を抜ける。

「ママ、彼よ! ハリー・ポッター! ほら、ママったら!」

 耳が割れそうな金切り声に驚く。入学式の日に見た女性と女の子がいて、女の子の方がチアノーゼでも起こしそうな勢いで女性を揺さぶるのが見えた。

 ロンのおかあさんがこっち──正確にはハリー──を見て笑った。

「この一年、どうだった?」

「いろいろあったけど楽しかったです。セーターとお菓子、ありがとうございました」

 ハリーがとびきりよそ行きの笑顔で答える。まだ話が続きそうなのでダドリーの姿を探した。

「よう、なーにキョロキョロしてんだ?」

「ダドリー」

 ぽんと頭をはたかれて振り返る。元から大柄なのに、この一年でまた背が伸びたみたいだ。

「人が多いから、どこにいるのかわかんなくってさ」

「おまえチビだからなあ」

 ニヤリと意地の悪い笑みに肩をすくめて返すだけで何年振りかと思うほど懐かしく感じるのは、きっとこの一年の密度が高すぎたせいだ。

「ただいま」

「ん、おかえり」

 不愛想な声で返されるのも去年と同じなので、つい笑ってしまう。

 伯父が話しかけてくるロンの母親を怪訝そうに見ながら、最低限の言葉を交わしている。少しは魔術師嫌いが収まった……わけないか。

「帰るぞ」という伯父の声が聞こえたので、ロンとハーマイオニーに軽い別れの挨拶をした。それからいつの間にかさりげなくあたしのトランクを片手にハリーと先を歩いていたダドリーにお礼を言って、その横に並んだ。

 




賢者の石編ここまで

読んだ人に少しでも楽しんでもらえてたら嬉しい

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