子を遺して死するとも
1998年9月26日 1400時
曇り空が恋しく思えるとはなと、マディソンが背後でつぶやいた。
外はすでに日が傾き始めていて、鈍色の空の向こうに太陽の存在を感じさせる。分厚い雲は地へ注ぐ日差しの恩恵を遮っていたが、地中の地獄に長くいたこちらからすれば、外光を感じられるだけで十分というものだ。
『それで、噛まれた人間がいずれは奴らになるってのは、確かなんだな』
「小隊長いわく間違いないらしい。こちらもルーベンスが死後に活動を再開したのを確認している」
頭上にはめ込まれた網目状の金属蓋、そこから無線のアンテナを突き出し、集結地点で待機するマルコフへとどうにか無線の電波を送り込んでいた。音質がやや雑音混じりだが、交信に不都合はない。
『了解した。負傷者の位置を民間人と離して、それとなく監視をつける。生きてるうちに射殺ってわけには、いかんからな』
「それでいい。俺たちは無線の捜索と、ついでにお使いを済ませてくる。マイケルにはもう少し待てと言っておけ」
『あの爺さん、お前が約束を守るってだけで痛く感動してた。いくらでも首を長くして待つさ』
「それはなにより。交信終わり」
必要な情報共有を終え、無線交信を打ち切ったヴラッドは、頭上の金属スリットから染み込む光に目を眇めた。ライトなしには足元は愚か自分の手すらも見えぬ闇に慣れた目には、自然光はいささか強烈にすぎる。
駅への偵察を行い、未だ多数の死者が屯するホームを確認したヴラッドら分遣隊は、路線の各所を確認して周り、最終的に地上へと繋がる通気孔を発見してそこから出る道を選んだ。
おそらくは過去、ラクーンが成り立ってから現在までのどこかの段階で使用されていたのだろう。古い地下鉄のホーム跡を利用した通気孔は、武装した人間が十分に通行可能なスペースを保持していた。無線交信がてら地上の様子を探っていたが、近くにそれほど多くの死人が歩き回っている気配はない。
腕時計を見る。時刻はすでに昼を周り、予定していた交信時刻をとっくに過ぎている。それでもマルコフがこちらからの呼びかけを待っていたのは、現有戦力では何をするにも数が足らないと判断したからだろう。
「それで」
「どうした」
交信を終え、外の気配に耳を澄ませながらヴラッドが問うと、マディソンが未だ出発する気配のないこちらへと怪訝な眼差しを向けた。
「ジョエルにマディ、どうしてガルシアの具申に口を突っ込んだ」
眼差しには向き合わず、蓋の外へと目をやったままで疑問を投げてやる。帰ってくるのは沈黙だけだ。少ししてから、うめき声が人々の営みの気配に取って代わった外界から、薄暗がりで待機する部下へと目を向けた。
「お前は知らなかったな」
「何を」
「お前の先代はあいつに殺されてる。まあ、噂でしか無いが」
完全に初耳の話にヴラッドがほんの僅かに片眉を持ち上げると、知らなかったろうとマディソンが首を傾げた。
「お前が赴任する前に、我が社の研究施設が襲撃される事件があってな。U.S.Sじゃ手勢が不足だってんで、うちの小隊が向かった。結局、
戻ってきたのはU.S.Sとガルシアだけだ、とマディソンが続けた。U.S.Sは基本的にはまとまった武力として運用されるU.B.C.Sと違い、アンブレラの上層部直属の少数精鋭集団だ。U.B.C.Sと比して人員が少なく、頭数が必要な作戦にはU.B.C.Sと帯同するか、U.B.C.Sを送り込むことになる。
そもそも、U.B.C.Sは殴り合いに用いる戦力であり、U.S.Sは秘密裏の奇襲や暗殺、幹部の警護を主として設立された部隊だ。
その特性の違いがあるからこそ、U.B.C.S内部ではU.S.Sの要員を指して、一方的に殴るだけの卑怯者と蔑む者が少なくない。一方のU.S.Sからすれば、U.B.C.Sは使い捨てのよく吠える犬、といったところだろう。
「
「ただ戦死しただけじゃないのか」
「先任は拳銃で胸に二発、頭に一発。遺体を引き上げた時、銃口を押し付けて撃った痕があった」
なるほどとヴラッドは頷いた。胴と頭部への被弾は接近戦でなくとも珍しくないが、敵がとどめを刺したならばいちいち銃口を押し付ける意味はない。そういう撃ち方は処刑のそれに近しい。
少なくとも、死亡確認のダメ押しを拳銃で行う場合、銃口を押し付けるほどの距離、つまりしゃがみこんで叩き込む必要はない。ヴラッドも何度かそういった死亡確認射撃を行ったし、目撃もしたが、いちいちしゃがみ込むのを見た覚えはない。
「研究施設内で先任と仲間の死体を引き上げる時、あいつは俺たちを外で待たせて、自分で死体を引きずってきた。見られたら困るものがあったんだろ」
「それで殺したって噂になったわけだ」
「噂どころか、あの頃から小隊にいる連中はみな黒だと思ってるね。死神とつるんで仕事をこなしてる時点で間違いない」
死神、ヴラッドも聞いたことがある。社内では公然の秘密とされているU.S.Sの首刈り職人。どれほど過酷な状況だろうと、部隊が全滅同然の損害を被ろうと生きて帰ることからついたあだ名。そういえば、デルタ小隊のニコライに関しても似たような噂を聞いた覚えがあった。
そこまで考えて、仲間を仲間と思わぬ態度で知れるニコライとガルシアがなにやら立ち話に興じているのを何度か見かけたことを思い出したヴラッドは、やれやれとゆるく首を振った。
ニコライも、過去の作戦中の不可解な行動や、作戦に同行した仲間の生還率の低さから、仲間殺しやアンブレラの飼い犬としての噂が絶えない。
「ガルシアは間違いなく前の分隊長を殺ってる。ローデシアで傭兵を、シエラレオネではダイアモンドマネーに首を突っ込んでたようなやつだ。CIAとつるんでのダイアモンドビジネスでやり過ぎて、村をゲリラごとまるっと一個燃やして埋めた」
ジョエルが忌々しいとでも言わんばかりのしかめ面で鼻を鳴らす。罪人だけで構成されるU.B.C.S、他人の脛の傷を悪し様に言える身では無いが、それでも仲間殺しの罪だけは別だ。それに、何事にも程度というものがある。
「村を焼いた俺に言えたことじゃないが」
「なんだって?」
「いや、なんでもない。その事、ハリーは把握しているのか」
「ああ、間違いない。だから俺達に同行させなかった。腕は信用しているが、人となりは信用していない」
マディソンの首肯に、地下でのやり取りの内容がすべてつながった。ハリソンがわざわざ口を突っ込み、小隊作戦行動の参謀役たるガルシアの意見を突っぱねたのも納得がいく。信用できない相手が、自分の目の届かないところへ向かうのは、気分のいいものではない。
「危ないやつってわけだ。ついてこられたら、後ろが怖くて仕事にならないな」
クラヴィスが愉快げに笑い、自身のライフルをそっと撫でた。彼の罪状は、情報を売り渡していた情報機関員を背後から狙撃して射殺したこと。その情報売買によって戦友を失った事実を鑑み、依願除隊の形になっているが、アンブレラに狙撃の腕前を買われてここに来た。
その事実を思い出したらしいマディソンとジョエルがげんなりとした顔でため息をこぼす。ヴラッドはそれを見て小さく笑うと、頭上を覆う蓋へと手をかけ、強引に押しのけた。
がこん、と音を立てて外れた蓋を、そっと横にどける。階段状になっている足場を昇り、銃口と頭を外へ突き出すと、少し離れたところで食事に夢中になっている死人の姿が見えた。
それ以外の死人はまだ遠く、こちらに気づいた様子はない。それを確かめ、階段を登りきって半日ぶりの地上の空気を大きく吸い込む。焼けた街並みの記憶に深く染み付いた香り、死臭、きれいには程遠い空気だが、地下よりはよほどマシだ。
4人は地上に戻るとすぐ、地下で決めた経路へと向かった。すでに正午を回っており、季節的にも日照時間は長くない。夜間に人探しをするのはひどく骨だ。日中ですら、死者の多いエリアを避け、残弾に気を配りつつ捜索を行わなければならないというのに、日没後となればなおさらの話である。
死者を躱しながら進むのはそう難しい問題ではなかった。閉鎖的な地下空間と違い、地上には逃げ回るだけのスペースが有る。それに、市中央の方向では散発的ではあるが組織的な抵抗を匂わせる銃声が続いていて、死者の大部分がそちらへと向かったようだった。
しかし、死者の数が減ったところで、荒れ果てた街路に残る死の残滓が消えたわけではない。食べ残しとなった女性の肋骨が、食後の骨付きリブロースのように白い骨を晒している。
血溜まりがそこらに広がり、食いちぎられた腕や足がそこらに転がっていた。散らばった新聞紙、空き缶や手荷物、混乱の形跡が色濃く残る通りを、ヴラッドらは銃口を巡らせながら進む。
至るところに戦闘の痕跡が見受けられた。フロントガラスが割れ、ボンネットに血の手形が伸びるパトカーのそばで、市民の上に覆いかぶさって事切れた警官の姿が見えた。これまでに見かけた警官の死体同様、撃ちきったブローニングハイパワーが傍らに落ちていた。
散弾銃を掴んだままの腕や、予備のカートリッジを握りしめたままの骸は、この町ではもはや珍しいものでもなんでも無い。
「見てみろ、面白いものがあるぜ」
ガルシアの示した無線手の逃走経路をたどり、その周辺の小道を片端から捜索し始めてしばらくしてから、クラヴィスがフェンスドアで封鎖された路地裏の小路の脇にしゃがみ込み、何かを拾い上げた。
ヴラッドは、支給品の銃剣を取り付けたカービンの先端の血を払い、今しがた眼窩を突き刺して始末した死人からそちらへと目を向ける。少数の死人であれば、短槍として使える銃剣付きのカービンで十分であることに気づいたのは、つい少し前のことだ。
「5.56、グリーンチップ」
クラヴィスが差し出したのは使いかけの弾倉だった。装填されたままのカートリッジは、先端が緑になっている。自分たちに支給されるものと同じ、米軍規格の弾薬だ。
「ラクーンに、AR15を愛好するガンフリークがいると思うか?」
「この片田舎に、そういう文化が色濃く根付いているとは思えないね。そう多くはあるまい」
ヴラッドの問いかけに応じたクラヴィスは、それに見てみろよと血が散ったビルの壁を示す。連続した弾痕は、三発ずつ程度である程度のまとまりを保った状態で散らばっている。
「民間じゃバーストロアーは早々手に入るものじゃない」
「ここを通った、か。ジョエル、その死体、何時頃始末されたかわからないか」
弾痕の散らばる壁の足元で事切れた死者を示したヴラッドに、ジョエルがゆるく首を振った。
「死んで起き上がった人間の遺体から、死亡時刻を読めなんて無理言うな。それに俺は、戦闘外傷処置はできるが医者じゃない。ましてや検死官の経験があるとでも?」
まあでも、と彼は壁際の死体の前にしゃがみこんだ。手を触れず、銃口で死体をどかして地面にできた血溜まりを見やる。死体の銃創周りからは未だに粘つく体液が滲んでいるようだったが、地面の血溜まりの大部分は酸化して変色し、乾燥しているのが見て取れた。
「ここ一、二時間の出来事じゃないな。もっと前だろう。吹き飛んだ頭蓋の中に蛆が湧いてやがる。それなりに経ってるのは間違いない。おそらく、降下後すぐのことだろうな」
「それだけわかればいい。死んでなきゃ、とっくに逃げているはずだ」
「このあたりにいるとしたら、とっくに死体か」
そのはずだと頷き、分隊長用の周波数から野外無線の用いる周波数へ切り替える。送信ボタンを押し、呼びかけてみたが応答する気配はない。こちらの無線範囲外にいるか、死んでいるか、無線が破損したか。
死んでいる可能性のほうがよほど高いだろう。無線手のフレデリックは優秀な男だが、単独で生存できるほど、このラクーンの状況は芳しくない。もちろん、生きていないと断言することもまた出来ないが。
「どうする、もうすぐ日が暮れる。一度集結地点に戻ったほうがいいかもしれないぜ?」
「いや、その前に済ませるべきことがある。そうだろう、ヴラッド」
クラヴィスの問いかけに首を振ったのは、マディソンだった。彼はそろそろ心もとなくなり始めた弾倉を抜き出しやすい位置へと移し替えつつ、こちらへ視線を向ける。その眼差しの真意を問いただすまでもなく、ヴラッドには彼の言いたいことが理解できた。
「戻る前に、マイケルとの約束を果たす。一度地下を通ってまたとなると手間だし、弾薬の無駄だ。小隊本部の方針次第では捜索に戻る余裕はなくなる」
「こだわるね、分隊長」
茶化したクラヴィスの声に、不思議と嫌な印象は受けない。彼の顔に浮かんだ笑みは、悪友のいたずらに付き合うティーンのような朗らかさがあった。
「約束は約束だ」
「男の約束、だろ。人選もよく分かってる」
クラヴィスは言いながら、分遣隊の面々を見回した。過去の作戦経験からヴラッドに信頼を寄せるマディソンとジョエル。クラヴィスとは陸軍の特殊部隊出身者という共通項から馬が合う。気心の知れた仲間を指名したのは、ついてくると分かっているからだ。
「急ごう。そう遠くはない」
マイケルから渡された住所は、北西部が準工業地帯になる以前から存在する古い居住区のものだった。ラクーンの初期から住んでいる人間の多く住む地域で、ラクーンステーションの間近にある病院の北側だ。
「いなかったらどうする」
マディソンが問うた。死んでいたら、とまで言わなかったのは彼なりの気遣いだろう。罪状は凶悪だが、性根は分かっている。かつて彼の心を焦がした復讐心に対しても、理解できる程度には不条理と腐敗を見てきた。
「そう伝える。嘘はつかない、なんの意味もない。追加の捜索もしない」
「そう言うと思ったよ。冷血だが嘘はつかん」
「下手くそだからな。昔からうまくいった試しはない」
お前と賭けをする時は手心をくわえてやるよとジョエルが笑った。日没に近づきつつある鈍色の空、分厚い雲の向こうから降り注ぐ淡く頼りない陽光に路地裏を照らす余力はなく、薄暗く汚れたそこに小さな笑いが満ちた。
目的地までの経路はそう遠いものではないが、この街はすでに戦地と同じであることを再確認しなければならなくなった。作戦経験から言えば、戦闘地域での移動経路は常に妥当と思われる所要時間の倍が見積もりの最低ラインだ。
一時間以上をかけてたどり着いた目的の家は、閑静な住宅街の一角にひっそりと佇んでいた。古い木造の、しかし頑丈そうな家屋。ガレージがつき、裏には広めの庭が見える。
ガレージが閉じたままであることから、車は停めたままであると思われた。この非常時にいちいちガレージを閉めて車を出す人間はいるまい。
玄関から歩道まで芝生を横切る石畳には血痕が散っていて、家の窓には木材とトタンが内側から打ち付けられていた。マイケルの言う通り、彼の息子は立てこもる方針だったらしい。外から見る限り、何かが押し入ったような形跡も見当たらない。
ヴラッドは周囲を見回し、こちらの存在に気づいている死者はあらかた始末し終えていることを再確認してからクラヴィスを見た。
唯一
「ドアはロックされてる」
「死屍累々のこの状況で、鍵をかけて出かけるわけないわな」
ドアをソフトチェックしたマディソンがツールを取り出し、ジョエルが傍らに膝をついて周辺へ目を向ける。曇天とあっては夕刻の日差しは弱々しく、山脈に囲まれたラクーンではなおのことだ。血と煙にまかれた住宅街は青みを帯びた闇の中に沈みつつある。
そうかからず、マディソンがロックを解除して親指を立ててみせた。ヴラッドはそれに頷き、カービンの筒先をドアへと向ける。銃を手にしたマディソンが後ろにつき、ジョエルがドアノブを回すと、ヴラッドは明かりのない闇の中へと踏み込んだ。
家の中は、清掃の行き届いた家特有の柔らかく温かい匂いがした。それも男所帯のU.B.C.S兵舎では感じられない、普通の家庭の匂い。生活の匂い。長らく嗅いでないその香りに、意識的に張り詰めた緊張の線が緩みそうになる。
少なくとも、血の痕跡もなければ戦闘の痕もない空間というのは遥か彼方、遠い過去のものに思えた。窓を塞いだバリケードは破られた形跡はなく、もしかしたらという気持ちが自分の中で湧き上がるのを感じた。
希望が自分の中で膨らんでいくのは、疲れがもたらす甘い罠だと知っていても抑えられない。
思えばもう半日以上寝ずの作戦行動を続けている。もちろん、そんな経験はいくらでもあるが、死人が歩く状況での疲労は段違いだ。途端にどっしりと重くなった身体を奮い立たせ、親指でテープスイッチを押し込む。
薄橙の明かりが伸び、電圧低下によって弱り始めた光が玄関を照らす。間取りの広いリビングにはソファとテレビが据え置かれ、ガラステーブルの上には出したままのコーヒーカップが置き去りにされている。
左右を見渡し、リビングに異常がないことを確かめると、ヴラッドは二本の指で自分の目を示し、それからジョエルとクラヴィスを指して右のドアへ揃えた指を向けた。頷いたクラヴィスがシグを手にしてドアへ向かい、ジョエルが続く。
ヴラッドはマディソンを率い、カービンの銃剣を外して左の部屋へと向かった。接近戦では銃剣があったほうが便利だが、子供がいる可能性があるとなれば外しておいたほうがいい。
感染者の血液にまみれたそれを持ったまま、どう動くかわからない相手を探すのは危険だ。まかり間違って刺さりでもしたら話にならない。
それにならったマディソンがドアを開けて踏み入る。バスルームへと繋がる洗面所、異常はない。歯ブラシが三本、コップ、ジェービングクリーム、ひげ剃り、ありきたりな生活の気配が洗面台に残されている。
小さな子ども用の歯ブラシに留まった目をそらし、バスルームの中を確かめ、マディソンが頷くとリビングへ戻る。クラヴィスたちはまだ右側の捜索を続けているようだった。
そのとき、がたりと上階で物音がしたのを、ヴラッドは聞き逃さなかった。マディソンがこちらへ視線を投げた気配を感じ、唇に指を当てて人差し指で上を示す。頷いた彼が背後に付き、ヴラッドはゆっくりとリビングの奥のホールへと歩みをすすめる。
ホールの先は裏庭へと繋がるファミリールームに面しているようだった。ヴラッドはそちらに目を向け、送信ボタンを押してジョエルに下階の捜索を任せる旨を小さく告げる。そのまま、ホールに設置された階段へとブーツを載せた。
階段は木製だが、よく手入れされているらしくニスが効いていた。硬質なブーツの底を階段の端へのせ、静かに、しかし素早く登る間も、銃口は上へと向けたままだ。木製の階段、特に古いものはきしみやすく、中央へ足を乗せると大きな音が鳴ることが多い。
物音はいまだに続いていた。大きな音ではないが、それでも何かが2階にいることを主張し続けている。その鈍い音はカーペットの張った床に、硬いものを当てたり擦り付けたりする音を思わせた。
階段を登りきると、いくつかのドアに面した廊下を音がする方向へ進む。ヴラッドは銃口を巡らせ、天井や物陰に異常がないことを確かめながら音のする部屋のドアへと接近した。
ドアの下の隙間から漏れる僅かな異臭に気付くと、ヴラッドの眉間にシワが寄った。ほんの僅かな死臭、血と臓腑の匂いとは違うそれ。死者の身体が放つ、なんとも形容しがたい独特の臭い
同じようにそれを感じ取ったマディソンが身を寄せ、二つの銃口をドアへとピタリと据えて張り付くと、マディソンがドアのノブをひねって奥へと押しやる。
そこはベッドルームだった。部屋の中央にベッドが一つ。暖房機と大きなデスクに本棚、クローゼット。どこにでもあるベッドルーム。棚の上に合衆国旗が貼り付けられ、ひと目で海兵とわかるジャーヘッドの男たちが写り込んだ写真が飾られている。
デスクの上に置かれた開いたままのケースの中にパープルハート勲章を確かめたヴラッドはしかし、こざっぱりとした軍隊経験者らしい部屋の隅、頑丈に固定された暖房器具のパイプに繋がれた男を見て、そのまま固まった。
ああ、畜生――そんな。防備を固めた清潔な家の中を見、勝手に膨らんだ希望がしぼんでいくのを感じながら、ヴラッドは銃口が下へと引き寄せられるのを止められなかった。
「冗談だろ……クソ」
マディソンの呻きが、まるで遠くの声のように聞こえた。
部屋の隅で、手錠によって繋がれた男が、歯茎をむき出しにしながら喉の奥から絞り出すような呻きを上げていた。かつては規律と制服で身を固め、国のために奉仕したのだろう男は、ひどく青ざめた顔を飢餓に歪めて濁った胡乱な眼差しをこちらへと向けている。
彼の投げ出された足が、ガタガタとカーペットを張った床に打ち付けられて音を立てた。
ガシャガシャと彼の手首を繋いだ手錠が鳴り、パイプに沿って揺れ動く。こちらへ伸ばされた、肉を求める太い腕を覆うシャツが、滲み出た血で黒く染まっているのが見えた。
彼がマイケルの息子なのは間違いなかった。変わり果ててはいたが、高く通った鼻梁も堀の深い眼窩も、棚の上の記念写真で笑顔を浮かべるハンサムな男の面影を残していた。
マディソンが銃をおろし、額に手をやってデスクの前に置かれた椅子へ腰を沈めた。大きなため息を背中で聞きながら、ヴラッドは壁へと寄りかかった。
「2階で死亡した男性を発見した。マイケルの息子だろう」
『了解。子供は』
「まだだ」
返された了解の返答に、ヴラッドはただでさえ疲労しきっている身体が、鉛のように重くなるのを感じた。澱のような疲労がつま先までみっちりと詰まった足は重く、重みを増した瞼がゆっくりと降りてくる。
もしかしたら。この家に入ったときにそう思った。救うべきだった市民の成れの果てを殺し、手遅れになった仲間を始末してここまで来た。その結果がこれだ。自分を善人などとは思わないが、救えるのであれば救いたいと思う程度の人間らしさは残している。
それはマディソンも同じだろう。頭を覆うキャップを外し、グローブをとったマディソンが指先で額をゆっくりと擦るのを見ながら、ヴラッドはまだ子供を発見していない事実へ目を向けた。
少なくとも、この男の犬歯をむき出しにした口元は血に濡れた様子はない。まだ誰かを食事の生贄にしたわけではない。そこで、ふとヴラッドは男の手首へと視線を動かした。
感染した人間をいちいち手錠で繋ぐやつはいない。殺すか、逃げるかだ。誰が彼をパイプへ繋いだのだろうかと、疲労で濁った思考で考える。亀のように遅い思考が結論を出すより先に、マディソンが声を上げた。
「ヴラッド」
目を向ければ、彼は椅子から立ち上がり部屋のドアを締めたところだった。そのドアに貼り付けられた便箋が、ひらりと揺れる。
繋がれたのではない、自らの手でそこへ繋いだのだ。何故、それは他者を喰うことのないように。なんのためにそんなことをする? 当然、それは決して喰ってはならない誰かがここにいたからに他ならない。
目の間で揺れる便箋へ、ほとんど無意識のうちに手を伸ばしてドアから剥がすと、ヴラッドはマディソンが点けたライトの中へその紙を引き寄せた。
「まず、貴方が善良な心根の人であることを祈って。
これを読むのが誰かはわからないが、自分の不始末にケリを付けられない私に代わって、私の頭を潰して始末をつけてほしい。
ここに来た貴方なら理由はわかると思うが、そうでない場合に備えて書き記す。私は新種の感染症の発症者に噛まれ、自死を選ぶだけの勇気が湧かないために自分を繋いだだけの間抜けだ。
この感染症について私に分かることは多くない。少なくとも血液や唾液などを媒介していること。感染した場合、期間に個人差があるがいずれは発症し、貴方の前で無様を晒す私のように、肉を求める死者となること。この二点のみである。
病院に勤める友人から教えてもらった話であるから、間違いはないと思う。
そして忠告だ。たとえ親しい人間であろうと、この感染症に罹った以上救う手立てはない。身近な人間が発症してしまったら、迷わず頭を潰して始末することだけを考えてほしい。
貴方が当然のようにそうしてきたなら、ためらってしまった弱い私を笑ってくれ。
前置きはここまでにしよう、貴方にどうしても頼まれてほしい事がある。一つだけだ。これは私の遺書になるだろうが、同時に頼み事をするための置き手紙でもある。
地下に、二人の子供を隠した。地下への入り口は階段の下、ドアを開けた先にある。
私の従兄弟が遺した、我が子同然の可愛い子たちだ。利口な子たちだから、言いつけを守って誰かが来るまで身を潜めているだろう。
二人を素性も知らぬ、来るともしれぬ誰かに委ねるのは気が進まないが、もう私にはあの子達を守る力も資格もない。
もちろん、貴方にその気がないなら、私にはなにもできない。悪党なら逆効果かもしれない。どちらにしろ、自分を縛った屍にはもはやどうにもならないことだ。
しかし、もし貴方が、人並みに情を持ち合わせた人間なら、どうか我が子を残して死する私の、最後のわがままを聞いてほしい。
願わくは、これを読んだ貴方が優しい心根の、強い人間であることを。
スティーヴン・オドネル」
自身の最後を悟って急いでしたためたのだろうその置き手紙の筆跡はところどころ歪み、最後に至っては滲んだ痕が見受けられた。それを読み終え、マディソンに押し付けたヴラッドは、部屋の隅で繋がれたまま、必死にこちらへと手をのばす男の亡骸へ目を向けた。
最後まで自分の役目を忘れなかった男は、力の限り暴れるせいで繋がれた手首が肉まで削げ、肩の骨はとっくに外れているのかぐにゃりと歪んでいる。もう苦痛を感じることはないだろうが、それでも、これ以上彼が悪魔のいたずらによって無残を晒すのを見ていたくはない。
自分の中にそんなむき出しの感情を訴える部分が残っていた事実に驚きつつ、腰の拳銃を引き抜き、スライドを引いて装弾を確かめる。マディソンは読み終えた手紙をデスクに置くと、何も言わず部屋を出た。
両手で握った拳銃の照準をピタリと眉間に据えると、彼をあるべき死者の姿へ戻すべく、ヴラッドはためらいなく引鉄を絞った。
「おやすみ、スティーヴン。
あっけない銃声、スティーヴンの首がのけぞり、そのままうつむいた。ピクリとも動かなくなった彼の骸を遺し、部屋の外に出ると、地階の捜索を一通り終えたジョエルとクラヴィスが部屋の前で待機していた。
「中に、マイケルの息子の死体がある。もう動かない。ベッドに横たえてやってくれ」
「了解。子供は」
「地下にいる。彼に託された。今から確認しに向かう」
託された、という一言に首を傾げたジョエルには取り合わず、ヴラッドはマディソンを連れて下階へ降りた。ホールへ降りて階段を確認すると、たしかに階段下にひっそりとドアがはめ込まれていた。鍵はかかっておらず、それを開けてライトで下を照らす。打ちっぱなしコンクリートの階段が地下へと伸びていた。
ヴラッドは、銃を下ろして手持ちのライトへ切り替えた。無駄に脅かす必要はない。念の為に右手は腰の拳銃にかけたまま、ヴラッドは地下室のドアノブに手をかけ、そっとそれを押し開いた。
地下は物置小屋として使われているようだった。ダンボールや、使われなくなった荷物を収めた棚、小さな子供用の自転車。部屋の隅でかすかな音がして、ヴラッドはライトの向きを変えた。
地下室の隅、壁に固定された大きな金属製ガンロッカーの隣に、リロードマシンや工具類がまとめられた幅広のデスクが置かれていた。その影で何かが動いている。
ライトを向けると、ヴラッドの口から安堵のため息がこぼれた。デスクの影に身を寄せる二人の子供の姿が見えたからだった。
小さな手には不釣り合いな、スタームルガーの22口径を手にした少年の眼差しは疲れをにじませていたが、それでも瞳の奥に強い色をたたえたままだ。その背後に隠れた少女は、少年の肩越しに不安を孕んだ鮮やかなブルーの瞳をのぞかせていた。
少年は22口径の小さな筒先をしばらくこちらへ据えたままだったが、武装した姿をしばらく観察するように見つめ、死人でもなければ攻撃の意思もないと見て取ったか、ゆっくり銃口を下ろした。
しかし、彼の手はしっかりグリップを握ったままだ。人差し指はトリガーガードへ添えられ、必要なら何時でもそれを使う意志を示している。スティーヴンがしっかりと取り扱いの方法を教えたのだろう。
9ミリではなく22口径というのもいいチョイスだ。頭を撃ち抜くだけの威力はある。子供の筋力でも十分な操作性を期待できる。
「マイケルから頼まれて君たちを探しに来た。リアムとシャーロットだな?」
「おじいちゃん? おじいちゃん、生きてるの?」
しばらくの沈黙、向こうから話を始める様子がないと察すると、ヴラッドは少し距離を置いてかがみ込んで言った。とたん、リアムの後ろに身を隠していたシャーロットが身を乗り出して食いついた。泣きはらしたのだろう、目元が赤くなっている。
「おじさんは、おじさんはどうなった」
シャーロットを手で制したリアムが問うた。物怖じした様子のないはっきりした声だった。向けられた眼差しは真っすぐで、ヴラッドは、彼はすでに真実を知っているのだと悟った。
彼の眼差しは昔、夫の戦死を知らせに来たヴラッドに、戦友の妻が向けたものと同じだったからだ。何が起こったかは知っていて、それでも、誰かがはっきりと告げてくれるまで自分では認めまいと決めた人間の眼差し。
「スティーヴンは亡くなった。俺たちは、彼から君たちを託された。マイケルからもだ」
ヴラッドは隠さずに素直に答えた。二人とも、上階で響いた銃声は聞こえているだろう。
「あんたが……撃ったのか」
「ああ、俺が撃った」
少年がきつくスタームルガーを握りしめてうつむく。シャーロットは、すこしぽかんとしてから、ようやく会話の意味を飲み込んだのか、大きな瞳に涙をためてしゃがみこんだ。
金髪幼女は守らねばならない。