接近する死者だけをカービンで撃ち殺し、ごく至近の相手には先端に取り付けた銃剣の容赦ない刺突をお見舞いしてやった。
片付けた死者は数えていないが、それほど多くないはずだ。カービンの弾倉の中身はまだ半分近く残っている。一度抜いて中身を確かめた弾倉をカービンへ叩き込み直し、ヴラッドは視線を周囲へと油断なく走らせた。
目的地までの経路は半分ほど消化したはずだ。死者の多くは蘇った後、肉を求めて中心街へと向かったらしく、住宅地であるこの近辺で遭遇する数は多くない。すくなくとも、二名で十分に対処できる程度の敵にしか遭遇していなかった。
仮にもっと多くの死者と出くわしたとしても、弾薬を補充した今、それを恐れる理由は薄い。が、ネイルフロッグだけは別だ。あの皮膚を剥いだような珍妙なバケモノは恐ろしいほど俊敏で、コンクリートで固めた下水道の天井に張り付いて移動することもできる。
死者と違い、人間には想像もつかないようなところから飛んで現れることも十分にありえた。それを分かっているからこそ、クラヴィスもスプリングフィールドのストックを肩に沈め、目をせわしなく左右に動かして周囲を隅から隅まで精査している。
夜明け前は夜半よりもよほど暗く、薄ぼんやりとした街灯以外に明かりのない世界は脅威の宝庫だ。すでに住宅地を抜け、準工業地帯に踏み入りつつあることを確かめたヴラッドは、ガレージショップ兼住宅裏手の柵を飛び越えた。
ブーツの裏に当たる感触が、芝生からアスファルトに切り替わる。銃口を巡らせ、後に続いて柵を超えたクラヴィスが進行方向に銃を向けて警戒態勢のまま進むと、ヴラッドは銃口を下げ、ストックを肩に押し付けたまま追従する。
二人の動きは完璧な連携を維持していた。元は同じ部隊で作戦経験を持つ人間同士、打ち合わせなど必要とせずともかつて教えられた通りの手順で周辺の安全を確保する。
コーナーにたどり着くとクラヴィスがそちらへ銃口を向け、ヴラッドは銃口を持ち上げて前衛につく。クラヴィスの脇を通り過ぎると、今度は彼が背後を警戒して追従する。
銃声に呼び寄せられたらしい死者が、大破した車が炎上するガレージショップの割れた窓を踏み越えて歩み寄ってくるのが見えた。引きちぎれた腕を伸ばし、いつの間にか耳慣れてしまった飢餓の呻きをもらすそれの額に銃口を据えて撃つ。
飛び散った血がアスファルトに模様を描き、背中から死者が倒れ込む。新たな銃声を聞きつけ、街路のあちこちからフラフラとおぼつかない足取りの死人たちが群がってくるのを見渡し、ヴラッドは進行方向を揃えた指先で示した。
同一基準の教育を受けた精鋭同士、無言かつ最低限のハンドサインだけで十二分の意思疎通が図れる。互いに死角を庇いあい、移動方向への火力発揮は絶やさない。射撃は進行方向を切り開く前衛に一任し、弾切れのタイミングが被るなどという素人のようなミスは犯さない。
見るものが見れば、二名という最小単位における最大効率を発揮するその動きは、まさに
血濡れた路面をブーツで踏みしめ、燃え盛り、あるいは死に絶えた店先を疾駆する。こちらの進路に絡まない死者は全て無視した。退路はあとで切開けばいいし、それにかまけていたら、いつどこからあの皮膚を剥かれた四つん這いのバケモノが飛び出してくるかもわからない。
「フレデリック、指定座標付近に到着した。聞こえるか」
わずかに乱れた呼吸をほんの一息で整え直すと、ヴラッドは暗い路地に身を寄せて周囲を見渡した。十字状の車道には、事故車がそのままにされている。歩き回る死人たちは、銃声の方向がわからなくなったのか、ふらふらと当て所無く彷徨っている。
思考能力を持つ人間にとってすらも、不意の物音の方角は見失いやすいものだ。思考力があるとは思えぬ死人にとってみれば、途絶えた銃声の方向などそうかからずにわからなくなるのが道理だろう。
『聞こえる……くそ、あいつが近くにいやがる。音がする……早く来てくれ。スタンドのバックヤードにいる』
フレデリックの潜めた声音は緊張でかすかに上ずっていた。パニックにこそ陥っていないものの、恐怖を抑え込む余裕もすでにないらしい。
ヴラッドは銃口を目線の高さに持ち上げ、路地から外を見回した。弱々しい街灯と火災の赤以外に明かりのない十字路にぽつぽつと死人がふらついているが、四つん這いで這いずり回る影は見えない。
こちらの死角にいるのか、身を潜めて獲物を待っているか。数も不明、周囲には死者が複数。数はそう多くないだろうが、賭けになる。
が、ヴラッドは覚悟を決めると、クラヴィスの肩を叩いて路地から出た。待てば状況が良くなる可能性は低い。である以上、速度を重視して事をなすべきだ。すくなくとも、いままではそうだった。
十字路の一角に面したガソリンスタンドの給油機の前に停まった車の割れたウィンドウから、哀れな犠牲者が血濡れた手をこちらへと伸ばしている。シートベルトで縫い留められたそれを無視し、店の脇からバックヤードへ向かいつつ、ヴラッドは無線の送信ボタンを押した。
「いまスタンドの裏に回って――」
奇妙な音があたりにこだました。
鳥の鳴き声、あるいは劣化した金属のきしみ。瞬間的にそう思ったものの、その音は地下で耳にしたネイルフロッグの不気味な高い咆哮のそれに近い。が、同時に全く異質な音でもあった。
もっと音が高く、肌が粟立つような不快さ。
反射的にカービンの銃口を周囲に走らせると、視界の端、街灯の明かりが生み出す光の中に影が踊った。そこからの動作はほとんど本能のもたらしたものだった。ぴたぴたと濡れた素足で走るような音が死角から接近し、危険と判断した脳が勝手に地面へ身を投げる。
肩から転がるヴラッドの背後を、なにかが風切り音とともに擦過する。カービンの安全装置を外し、膝立ちの姿勢に立て直すと銃口を音の方へ据える。
「おい何だコイツ」
クラヴィスが怒鳴った。ヴラッドは眼前の薄闇の中でぬらりと光る乱杭歯を見、ずんぐりとしたシルエットのそれが獲物を捉えそこねた爪先をコンクリートへと突き立てる姿に、ほとんど無意識に引鉄を搾る。
ソレの姿は、地下で遭遇したネイルフロッグとは別種の異様さをはらんでいた。二足歩行の姿勢は人間らしくも見えるが、白い街灯の下にさらされたそれのほとんど胴にめり込んだ頭部は、叫び声とともに唾液を散らしながら鋭く不揃いな牙をむき出しにしている。
人間で言えば肩から頭頂部にあたる部位は醜く腫れた赤紫の肉腫に覆われていた。ほとんど地面に届きそうな長さの腕の先には、鋭い光を放つ大きな爪。膝を曲げた脚は大きく膨らみ、爬虫類を思わせる表皮の下から強靭な筋肉の存在を主張している。
単発にしたM4のマズルフラッシュが奇妙なバケモノの姿を照らす。瞬く発砲炎、連続して肉腫に着弾をうけたソレが怒りの咆哮をあげ、こちらに飛びかかる。ゆるい弧を描いて接近するソレを見ながら、ヴラッドは周囲で幾つものバケモノの叫びが連鎖していることに気づいた。
コイツは群れて動いている。
身体を横に反らしながら、親指がセレクターを
ずんぐりとした上体のシルエットに比して華奢な腰部。すれ違いざまの銃撃はそこから頭部にかけて連続で着弾し、高初速弾の連射を受けたそれが空中でバランスを崩してガソリンスタンドの地面へと転げ落ちる。
状況が許す限りの銃弾を撃ち込んで確実に殺害する。身体に叩き込まれた基礎をなぞった本能が、倒れ込んだそれに追加の銃弾を数発撃ち込んだ。
ここに至るまでの射撃で使いかけになっていた弾倉が空になり、カービンが動作を止める。新しいものと入れ替えてボルトを前進させる間に、視線を巡らせたヴラッドは、新たな一体がガソリンスタンドを囲む塀を飛び越えるのを見た。
視界の端では、別の一体に襲われたクラヴィスが、首を狙った斬撃をかがんでかわし、スプリングフィールドを連射している。
「新種生物の宝庫だな、笑えないぞ」
一瞬で緊張と闘志が最大出力にまで押し上げられ、全身にみなぎったアドレナリンが脈拍を上昇させる。ほんの小さなミスが生死を分ける戦場に慣れた身体が、獲物を見定めたらしいバケモノの跳躍を躱し、姿勢を落として振り向きざまの一閃をやり過ごす。
左足を伸ばし右足を曲げて上体を右へかがめ、頭上を振り抜いた必殺の一撃が生む風圧を感じる。そのままドットサイトの照準すら使わず、点灯させたライトの光軸を頼りに連射。
銃口軸に沿うように固定されたライトは、至近距離であれば照準指標として十分役に立つ。バーストが数度続き、余裕を持って叩き込んだたっぷりの銃弾がバケモノの頑丈そうな外皮を食い破った。
血が散り、ソレが不揃いの歯を忌々しげにがちがちと鳴らしながら横っ飛びに避ける。数発が外れ、通りの向かいの店に飛び込んで窓ガラスを粉砕した。
が、その音も、戦闘の音につられて周囲から接近しつつある死人共に構う余裕もない。横に飛ぶやいなや、着地と同時にこちらめがけて地を蹴ったバケモノが低めを狙ってもう一度腕を振るったからだ。
跳ねて避ければ、決定的な隙をもう片方の腕が薙ぎ払う。瞬間的な判断はほとんど本能の警告と言ってよく、腰を狙った爪へとカービンの先を向けた。
銃が壊れるのではないかと思うほどの衝撃。先端につけた銃剣が火花を散らし、欠けた切っ先が光を反射しすっ飛んでいく。が、鍔迫り合いの形で受け止めた腕へ銃弾を叩き込むくらいの余裕はある。
照準をつけることすらせず、トリガーを連続で搾る。三発一セットの発砲、ライフルの弾倉が空になり動作が止まる。発達した腕部の肘関節へ集中した銃弾がバケモノの片腕を無力化し、次いで放たれた後詰めの二撃目を受ける前に間合いを詰めた。
胸元に抱え込んだカービンの先端を、大きな半円の軌跡を描く爪の奥、バケモノの上腕へ突き立てる。鋼鉄の刃が肉を引き裂く柔らかくしかし強い抵抗感。背後の空を裂いた爪は一顧だにせず、獣の本能のままにこちらへ歯を立てようとしたソレの顎へ、飛び込む瞬間に引き抜いたP7拳銃の筒先を押し付けた。
ショートリコイル機能を持たないこの拳銃であれば、文字通りのゼロ距離射撃に何の支障もない。
顎下からほとんど叩きつける勢いで押し付けたマズルにより、肉へ食いつこうと開いた口を強引に閉ざされたソレの脳天へ、連続して9ミリ弾が突き刺さった。
手の中で暴れる拳銃がまたたく間に一〇発近い9ミリ・パラベラムを叩き込み、肉腫で不気味に歪んだ顔面を内から粉砕する。途端、力が抜けて崩れ落ちるそれを脚で蹴りのけた。
地面へ力なく崩れたバケモノから目を離し、拳銃を腰に収めてカービンを持ち上げる。瞬きの間に弾倉を入れ替えたヴラッドが僚友へと目を向けると、クラヴィスはのしかかったバケモノの顔を狙った刺突をギリギリで躱し、右手のスプリングフィールドを乱杭歯の奥へとねじ込んだところだった。
減殺された銃声が連鎖し、
「ヴラッド!」
地面に転がったクラヴィスが上にのしかかる死体を蹴飛ばして叫ぶ。彼の視線はこちらの背後、上方へと向けられていた。背後の甲高い声、自分の足元の影にかぶさる黒い輪郭を見て思考より先に恐怖が身体を動かした。
先程まで自分が立っていた空間を、何かが勢い良く薙ぎ払うのを背中で感じた。飛び退いた身体が痛み、カービンを手繰り寄せて構える。ガソリンスタンドの給油所を覆う屋根から飛び降りたソレは、すでに至近に飛び込み爪をこちらへと突き出している。
姿勢が崩れたこの状況では回避も間に合わない。死体の下から這い出たクラヴィスが銃を構えようとしたが、跳ね回るバケモノに狙いをつけるには彼の姿勢は不安定過ぎる。
ヴラッドが遅きに失した射撃に転じようとした瞬間、三点射の音が連なった。目の前で腰から背中にかけて火線に貫かれたソレがバランスを崩し、こちらの胸めがけて迫りつつあった爪がブレる。
銃声の正体を訝しる理由もなく、銃撃で勢いを落としたソレの爪を銃剣の先でいなし、そのままストックを前へ押し出すように銃を回す。ライフル弾を受け、挙げ句小さな顔面にストックを叩き込まれたそれは奇妙かつ哀れな悲鳴を上げ地面に伏した。
すぐさま銃剣を肉腫に覆われた背中へ突き立て単発でとどめを刺す。身体を踊るように痙攣させたソレは、じわじわと血を地面へ広げ動かなくなった。
「急いで逃げるぞ」
始末したバケモノから銃剣を抜き、バックヤードを飛び出してこちらの命を救ったフレデリックに目を向ける。かれは左上腕に血のにじむ包帯を巻き、カービンを持って駆け寄ってくる。
「ヴラッド、来てくれて助かった」
「こっちこそ。クラヴィス!」
「いつでも行ける。お前は切り替えが早すぎるんだよ」
四匹のバケモノが転がるガソリンスタンドは銃声に群がった死者に包囲されつつある。早急に移動しなければジリ貧になるのは目に見えていた。
移動しつつの射撃ではなく、一箇所にとどまって盛大に銃声を轟かせたのだ。このガソリンスタンドめがけて近隣の死者が押しかけてくると考えて間違いない。弾倉を取り替えたクラヴィスが親指を立てるのを見、フレデリックに手持ちの弾倉を三本分けてやる。
無線手であるフレデリックは、しっかりと野外無線機を背負ったままだった。破損した様子はない。腕の傷にしても、出血は収まっているようだった。疲れ切ってはいるが、いまだ生存本能とアドレナリンで高揚状態にあるらしい彼が、ようやく仲間に合流できた安堵感からか大きくため息をつく。
「ルートをなぞって戻る。敵は可能な限り回避しろ。家に呼び込むわけには行かない」
了解とクラヴィスが応じると、ヴラッドは再び死の縁に立たされた事実を認識し、小さく震える手を握り込んだ。
死者を始末して走り抜けるヴラッドたちの背後で、いましがた始末したばかりのバケモノの仲間が雄叫びを上げている。それに急かされるように走り続けながら、ヴラッドは彼らが追いついてこないことを祈った。
祈りが通じたわけではないだろうが、幸いにして帰途は語るべきもののない道のりになった。
途中で小休止を兼ねて身を潜め、死者の追跡と密集を回避したために余計な時間を食った以外はほとんど行きと大差はない。
すくなくとも、窓から外を見る限り、死者の追跡は撒けたようだった。排除をクラヴィスに一任したために、帰途ではほとんど銃声を発していない。
が、そしてスティーヴンの家へ戻ってからしばらくの間、遠方ではバケモノの雄叫びが続いていた。こちらを探しているのか、新しい獲物を見つけたのか。すくなくとも現状、あの人型の異形がこちらに追いついた様子はない。
「ヴラッドおじさん?」
ドアがノックされ、遠慮がちに顔をのぞかせたシャーロットがこちらに目を向けた。スティーヴンの部屋を借りたヴラッドは、デスクの上に載せた野外無線機から手を離し、入っていいかと問う眼差しに、おいでと手招きしてやる。
「どうした」
「コーヒー。おじさんたち、疲れてるからあげれば喜ぶって」
口ぶりからするとリアムが提案したのだろう。彼女は小さな手でマグを手にして、ゆっくりとバランスを取りながらこちらへ歩み寄る。
差し出されたマグを受け取り、中に注がれた湯気立つ黒い水面を見やる。ヴラッドは普段からかなりのコーヒー愛飲家――言い換えれば中毒者だが、そういえば最後に飲んだのは出動命令前のことだった。
「ありがとう」
受け取り、微笑みとともにシャーロットの頭をゆっくりと撫でてやる。目を細めて顔いっぱいの笑みを浮かべたシャーロットは、手が離れるとほんの僅かに名残惜しそうにしたあと、ベッドの上に横たえられシーツを被せられたスティーヴンへと目を向けた。
しばしそれを見つめてからそっと顔を背けたシャーロットは、椅子に腰掛けて無線に向かい合うヴラッドの目を見上げた。
視線が交わったまま、無言の時間が流れる。部下を引き連れ無事の帰還を果たした時、しばらくヴラッドとクラヴィスの側から離れようとしなかったのをふと思い出す。追跡がないか窓から外の様子を伺っていたヴラッドらの背後で、リアムとともに身を縮めて丸くなっていた。
脳裏に思い起こされた光景にふと口元が緩み、もう一度ゆったりと頭を撫でてやる。目を眇めてそれを受け、乾いた手のぬくもりを確認するように小さな手でこちらのそれを握りしめたシャーロットに、死んじゃいないだろうと笑った。
「下で待っていてもらえるか。偉い人との話が終わったら戻るから、そうしたらもう一杯もらいたい」
「わかった。下で待ってる」
マグを小さく掲げて笑みを向けると、シャーロットは小さく、しかしはっきりと頷いてこちらの手を離す。ドアまで戻り、もう一度こちらを振り返った彼女に小さく手をふると、同じように振り返したシャーロットはドアをそっと締めた。
熱く淹れられたコーヒーに口をつけ、酸味の控えめな舌触り。苦味がやや強いが、後味に僅かな甘みがある。香りも十分。基地で飲むインスタントとは段違いだ。胃に落ちた熱が臓腑へ回るのを感じながら、無線機へ手をかけた。
フレデリックは本隊とはぐれた後、必死に逃げ回りもぬけの殻になった民家にしばらく身を潜めていたのだという。しかし本隊との合流が必要と判断して移動中に民間人を発見し、それを率いて集結地点へ向かう途上、ガソリンスタンドで遭遇した人型のバケモノに発見されてそれは頓挫した。
曰く、警官の生き残りと民間人数名のグループは襲撃を受けた後に離散、以後どこへ向かったかは不明だそうだ。おそらくは生きていないだろう、というのが彼の見解だ。
下で手当を受け仮眠をとっているフレデリックが言うには、グループとはぐれた後に中隊本部との交信を行ったらしいが、『研究所の捜索任務に関しての詳細は分隊長以上の人員にのみ伝達する』の一点張りだったらしい。
以後、ハンドマイクから音が出る野外無線の電源を落とし、執拗に追跡してくる人型のバケモノ――醜い腫瘍をして『
すでに小隊本部には無線確保の連絡を入れ、ハリーから中隊本部と交信しヘリによる撤収を要請するようにと命令を受けている。他小隊との連絡が不通になっている今現在、手元で確保している民間人だけでもどうにか救助すべきであるという彼の意見にはヴラッドも賛成だった。
無線の電源を入れ、無線機に貼り付けられた中隊本部の周波数を確かめる。折りたたまれたブレードアンテナを伸ばし、わずかに開けた窓の隙間から外へとそれを伸ばすと、ヴラッドはマイクの送信ボタンを押した。
「こちらチャーリー小隊、第二分隊長。中隊本部、応答願う」
『中隊本部よりチャーリー02、感明良好。状況報告を』
無線を送ると、数秒の間をおいて事務的な声が帰ってきた。音量を絞ったマイクを顔の側に寄せ、ヴラッドはようやく上部組織と連絡がつながった安心感に小さくため息をこぼす。
「現在02は分遣隊を率い小隊本部と別行動中。野外無線手と合流、安全地域を確保し待機している」
『小隊長か副長は』
こちらの安堵など意に介すこともなく、淡々とした声で応じた中隊本部の声。しかしそれですらも今は頼もしい。すくなくとも、中隊本部はまともに機能しているということだ。
「小隊本部人員は現在、合流地点に仮設拠点を確保し指揮に当たっているため同行していない」
『少し待て』
無線の音が途切れ、沈黙が戻る。ヴラッドはゆっくりとコーヒーを胃に流し、疲労の色濃く残る身体を内側から温めながら声を待つ。長時間の活動による疲労から、自分の体温が普段より落ち込んでいるのは分かっていた。
『チャーリー02、ヴラッド・ホーキンス軍曹だな』
無線から帰ってきた声は、先程の人物とは別のものだった。こちらの名と階級を確かめる声音には、暗に自分のほうが上の立場であることを示さんとする気配が感じられた。
おそらくは中隊の運用責任を負う中堅クラスの人間。あるいはそれ以上か。
「そうです」
『研究施設の捜索と職員の救助はどうなっている』
押しかぶせるように返された声音は、事務的を通り越してもはや無機的ですらある。温度を感じない、感じさせない声。こちらとの間に明確な線を引いた人間の有無を言わせないそれは、ようやく落ち着いたこちらの気分をざわつかせるなにかがあった。
「小隊本部が捜索に向かいましたが、地下道からの進入路が電源のダウンにより稼働せず、施設へは到達できていません。こちらは現在保護した民間人とともに待機中」
『把握した。別ルートを指示する。そちらからアクセスを試みろ』
「了解、小隊本部に合流後、施設へ向かいます」
ヴラッドは腕時計を見た。時刻は0534、予定していた移動開始時間までのこり一時間を切っている。まず、分遣隊はここに到達するまでに使った経路を辿って駅まで戻り、小隊本部に連絡をつける。それから地下の下水道へ応援をよこしてもらえば、比較的安全に――。
『それは許可できない。即時、研究施設へ向かえ』
頭の中にこのあとのプランを組み立てるヴラッドの思考を断ち切ったのは、氷のように冷たい声だった。一瞬、その言葉の意味が把握できず、は?と間抜けな声が漏れる。幸いにして、送信ボタンを押し込んでいなかったため、その声は向こうには届いていないが。
「先程報告したとおり、こちらは民間人を抱えています。この状況で迂回路を取る余裕はありません」
『社の財産が優先だ。すでに研究施設のロックダウンから七二時間以上が経過している。これ以上の遅延は許可できない』
取り付く島もない、とはまさにこのことか。こちらの事情説明にとりあう気などさらさらない、そう明確に意思表示するような感情のない口調が、中隊本部とようやく通信できた安心感を容赦なく吹き散らす。
民間人を抱え、疲弊した五名の人員で地下研究所とやらへ向かうなど正気ではない。立地からして閉鎖空間であることは間違いなく、そこに護衛対象を抱えて侵入するのは無茶だ。
施設の職員の人数は知らないが、それが歩く死人になっていた場合、押し切られて全員餌食になる可能性すらある。すくなくとも、ヴラッドにはそれを支えきれると断言することなど出来なかった。
『なお、施設の捜索と救助にあたっては回収できる限りのデータを回収すること。捜索完了後、小隊本部と合流し、ガルシア曹長とハリソン大尉の立ち会いのもと報告するように』
無茶苦茶な命令をうけたこちらの渋面を見透かしたかのように畳み掛ける声はもはや、安心感を与えるどころか絶望をもたらす悪魔のそれでしか無い。
思わず罵りかけて、ヴラッドはそれをこらえた。命令はめちゃくちゃだが、少なくとも自分は罪人であり、アンブレラはその自分を拾い上げた雇い主である。事実はどうあれ公的にはそうであり、傭兵にとって信用は第一。無意味に逆らってもいいことはない。
それに、と口には出さずに自分を慰める。どちらにしてもその施設には向かわなければならない。アンブレラに命じられるまでもなく、それが
ある意味では、報告手順を明確に縛ることで退路を塞がれたのは幸運と言えるかもしれない。ハリソンはともかく、ガルシアはこちらが命令を無視して合流を優先した場合、それをかばったりはしないだろう。
ヴラッドらが現実的判断を優先して、中隊本部に黙って民間人の護送を先に行う可能性を潰した幹部社員のキレ者ぶりを見れば、報告の段で上からの信用の厚いガルシアに確認を取ることは間違いない。
当然、そこまでこちらが察すると考えた上での采配だ。現場の人間の考えることなどお見通しというわけか、と目頭をもみ、脳裏にちらつく兄妹を意識の奥深くへと追いやる。
「了解、装備の確認を終え次第施設へ向かいます」
『よろしい。では別のアクセスルートを説明する』
数秒の沈黙を挟んだこちらの苦悩など斟酌してくれるわけもなく、ねぎらいの一つもよこさずに男の声が続く。ヴラッドがその説明を防水メモに書き留めると、内容の復唱を求めた男の声は、淀みなく伝達内容を読み上げたことに満足して早々に無線交信を切り上げた。
どっしりと胃に重いものがのしかかる。子供2名を連れて未知の地下施設への捜索任務。それを好都合とみなすのはヴラッド一個人の事情でしか無く、同時に軍人という、任務と規範の中で生きる人格のものでしか無い。
ヴラッド・ホーキンスという私人の意識はそれを強く拒んだが、ヴラッドはしばらくの間飲み残しのコーヒーの黒い液面を見つめた後、コーヒーとともに不満を飲み込むことにした。不条理を任務の一言で飲み下すようになって、もう随分経つ。
こうなれば、するべきことは唯一つだ。野外無線をだれにも怪しまれずに使える機会などそうあるはずもなく、このチャンスを逃がす理由はない。
出動命令の直前、連絡員が手渡したメモの内容を思い出す。呼出周波数はしっかりと記憶してある。
周波数をあわせ、耳に意識を集めてドアの向こうに人の気配がないことを確かめると、ヴラッドは送信ボタンを押した。
予め決められたリズムでボタンを押し、応答を待つ。ややあって、無線の向こうから男の声が番号を告げた。
とっくに焼却処分したメモに割り振られていた、使用する周波数の番号。それに合わせた無線の送信ボタンを押し込み、ヴラッドは随分と久しぶりに口にする、自分の呼び出し符牒を吹き込む。
「こちらは
やる気の源、感想等お待ちしています。