一応、一話分として投稿しますが、もし長いと感じるようであれば意見をくだされば分割にすることも検討しますのでよろしくおねがいします。
「出撃は、いつだ」
「あと四〇分で最終確認。それからとなると、まあ一時間と少しってところ」
物資の仕分けをするジョエルに近づくなり、彼はこちらを見ることもせず問いかけた。
ヴラッドは両手に握ったカップの片方を差し出しながら応えた。このフロアに上がるなり、古物商店から連れてきた老婦人が気を利かせて持たせてくれたものだった。
ヴラッドの返事に、ジョエルはそうかとやや気疲れした声で頷いた。湯気立つコーヒーの入ったカップを受け取って椅子に腰を下ろす。
「大丈夫か」
「俺か? 上の連中よりはよっぽどな。抗生物質が効く相手じゃなし、時間稼ぎしかできん」
「時間稼ぎは、どの程度効いてる?」
「アリッサが持ち出した抑制剤を投与した。彼女に聞いてくれ」
ジョエルはやれやれとかぶりを振ってタバコを取り出すと、ヴラッドの背後を指し示した。肩越しに振り返ると、ハリソンに医療品の残数を報告し終えたアリッサが、オフィスから戻ってきたところだった。
彼女はヴラッドに気づくと、バインダーの紙面に何かを書き込む手を止め、仮眠くらいはとれたようね、とほんの僅かに微笑んでみせた。
「ああ、おはよう。それで、どのくらいの効果が見込めるんだ」
ヴラッドはコーヒーを一口すすり、片手で取り出したタバコの箱を振って吸い口を咥え、もう一本を振り出してジョエルへ向けた。主語を省いた問いかけだったが、ヴラッドが思ったとおり、アリッサはその意味を違えず理解したようだった。
「人によりけりね。短くて半日。長けれれば二日程度。でも運良くウイルスを無効化、なんて期待しないことよ。私で試したけど、抗血清でもない限り無理だわ」
対するアリッサの返答も、無駄を省く端切れの良さがあったが、声音は随分と朗らかだ。とはいえ、そこにはいくらか疲労が滲んでいるように思えた。
「まったく大したマッドぶりだよ。抑制剤の人体実験に自分を使うやつなんぞ聞いたことがない」
受け取ったタバコに火をつけながらジョエルが吐いた言葉は、その口調とは裏腹に愉快げですらある。研究所で食って掛かったときとは真逆と言っていい。
立場は違うが同じ危機をくぐった人間同士の朗らかさに内心で安堵したのもつかの間、ヴラッドはある言葉に気づいて眉根を寄せた。
「まて、自分で人体実験だって?」
「それがどうかしたの」
アリッサはなにが疑問なのかとばかりに返した。
「安心して、人を襲うことはないわ。この先も、手ひどく噛まれない限りはね。抑制剤の対人転用の実証をしただけだもの。他人を使うよりマシでしょう」
「いや、思い切りがいいのは考えものだなと思ってね」
顔をしかめたヴラッドに、そのままお返しするわとアリッサはそっけなく応えた。それを見、ケタケタとさも愉快そうに笑ったジョエルは、お前の負けだよと続けた。
「どうせ呆れられるほどの馬鹿だよ、俺は。それで、俺の部下は」
「芳しくないわ。高熱で朦朧としている人もいる。そっちはもって一日、それ以上は無理ね」
「解決策は」
ジョエルの茶々に拗ねた風に返したヴラッドは、間をおかずに本題を切り出した。
それを受けたアリッサも、ごまかすことなく素直に応えた。談笑という一時の安らぎを楽しむには四〇分という時間は短すぎ、またそれを理由に直視するべきものから逃げるだけの無責任さを、ヴラッドは持ち合わせていない。
「現状無し。血清のありかを
隠し立てせず正直に状況を伝えるアリッサの声は、そのはっきりとした口調とは裏腹に、どこか詫びるような響きがあった。あるいはそれはヴラッドの願望が生み出したものかもしれなかったが、彼はそう捉えた。そしてそれは、ジョエルも同じだった。
彼はアリッサをちらりと見やっただけで、口を挟まず静かにタバコを味わっている。ジョエルは
「四〇分後だったな。装備を用意してくる。そっちはごゆっくり」
コーヒーを飲み干して立ち上がったジョエルは、こちらに目配せするとひらひらと手を振って立ち去った。途中、老婦人にコーヒーの礼を述べて遠ざかっていく背中を見送ると、ヴラッドはジョエルが座っていた椅子を示してアリッサに勧める。
「これで彼には借りがひとつできたわね」
「何かあったのか」
ヴラッドが問うと、アリッサはええと頷きながら椅子に腰を下ろした。
「あなたに伝えるべきことがあるのよ。彼、察しが良くて助かるわ」
化粧気はないが、しかしふっくらとした形の良い唇が小さく笑んだ。ヴラッドは底に粉の溜まったインスタントコーヒーを揺らし、それに目を落とすことで、視線が釘付けになるのを避ける。
「それで、伝えることってのは」
「まず、血清の可能性の話を」
アリッサはフロアをぼんやりと眺めながら言った。彼女の視線の先では、老婦人から使い捨てカップと今朝の分の食料を受け取ったシャーロットが、それを階段で歩哨に立つ隊員へとゆっくりとした足取りで運んでいる。
が、ヴラッドはその眼差しが周囲の様子を探っているのだと分かっていた。ほとんどの人間には理解できないだろうが、瞳の小刻みな動きがそれを物語っている。
「なんだって。血清?」
「ええ。あくまで、可能性の話だけれど」
「それで」
ヴラッドは努めて平静な声で問うた。トーンを抑えたこちらの言葉に、アリッサはせっかちな男はモテないわよと目を眇める。怒った様子はない。単にからかうような響きが混ざった声だった。
「もう一つの研究施設の話はしたはずだけれど、そっちはどうあっても侵入不能。でもそれとは別に、可能性のある場所が一つだけある」
ところで、あなたアンブレラがどれだけこの街に根を張っているか知っているかしら。アリッサはデスクに頬杖を付き、小さく首を傾げてそう問いかけた。こちらを見上げる眼差しの奥、どこか愉快げで、同時にこちらの奥を見通すような光を見つめ返す。
「街の地下研究施設を作って、鉄道路線を搬入路に流用するくらいだ。どうせ市議会なんかは完全にズブズブだろ」
「ええ、それはもうどっぷり。そんな街だもの、ラクーンの生命線は概ねその手中」
ここまで言えばわかるでしょう、とアリッサが小さくささやくように言った。アンブレラといえば、世界的な多国籍製薬企業だ。そこまで考え、彼女が伝えようとする内容を理解したヴラッドは苦笑とともに頭を振った。
「もっとスマートな伝え方があると思う」
「あなたなら分かってくれると思ったわ。それに、誰に聞かれているかわからないもの」
「それはたしかに。それで、それを見つけてほしいと」
「御名答」
「君がそう言うと、
「あら、命令形がお好みならそうするけれど」
機会があれば新しい趣味の開拓のためにお願いしようか、とヴラッドは肩をすくめた。咥えたままになっていたタバコの穂先に、ポケットから取り出したライターの火を当てる。
「医療物資の残数はどうなってる」
「それが問題ね。殆どが民間のファーストエイドキット程度のものしか無いの。専門の医療物資はあなた達が持ち込んだ分ばかり」
しかも、一部薬品の数が合わないのよ、と。アリッサは先程何かを記入していたバインダーを持ち上げた。あなたに伝えたかったことのもう一つはこれねと、彼女は続けた。
「どういうことだ」
「各分隊の衛生担当が報告した使用数と一致しない。ハリソンにはもう報告したけれど、エピネフリンシリンジと……」
そこまで続けたアリッサの声は、くぐもった、しかし耳に突き刺さる甲高い悲鳴にかき消された。
反射的に右手がカップから離れて腰の拳銃を掴む。落ちたカップが音を立て、まだ湯気の立つコーヒーがブーツにぶちまけられたが、ヴラッドはそれを意に介さず、瞬時にフロアに視線を走らせた。
悲鳴は別のフロアから聞こえたようだった。配布する朝食の支度をしていた女性陣や、まだ眠っていた市民が何ごとかとざわめき、指揮所からハリソンと小隊本部人員が出てくる。
数秒の喧騒の後、一度きりで途絶えた悲鳴に皆が緊張を緩めようとした瞬間、紛れもない銃声が全てを吹きちらした。
ハリソンが部下に命じ、無線で拠点外周の警戒班に交戦の確認を取る中、ヴラッドは腰のレザーホルスターからP7を引き抜いた。銃声の発生源は外ではない。同じ建物の、それも上階からだ。
そして、先程の悲鳴もまた同じく。
階を隔てても耳に刺さるほどの高音域。未成熟な体躯が発する中でも、特に女児のそれに特徴的な叫び声。そしてこの拠点に女児は一人しかいない。
同じ結論に至ったアリッサが、鋭い声を上げた。
「ヴラッド!」
「分かってる」
ヴラッドはP7のスライドを引いて装弾を確かめながら階段へと飛び出した。薬室から覗く真鍮を目視するとスライドを離し、その後端を指で押し込んで確実に閉鎖する。
銃を抜いて接近するヴラッドの殺気立った姿を見て、階段前の歩哨は混乱を顔に貼り付けたまま立ちすくんでいた。それに手で退くように示すとほぼ同時に、階下からマイケルが駆け上がってくる。
「シャーロット? シャーロット!?」
「マイケル、下がれ! カルロ、状況!」
ヴラッドは階段の前に立つと、負傷者フロアの警備を担当している隊員へ呼びかけた。その間に、上階へ飛び込んでいきそうなマイケルの肩を掴んでフロアに引き込むと、強引に壁に押し付ける。
マイケルは語気を荒げて離してくれと喚いたが、下から息を切らせて上がってきたリアムがその腕を掴んで引き止めた。階段前をどいた歩哨がそれに加わり、背後ではハリソンが無線で上階での不明な発砲を報告し始めている。
上階からの応答はない。発症した隊員を射殺したのであれば、今頃報告に降りてくるはずだ。そうでないのなら――。
「何があったんだ! シャーロット!」
かすれた少女のすすり泣きのような声が階段の上から聞こえた瞬間、マイケルが歩哨をはねのけて階段へと飛び込んだ。ヴラッドはその背に手を伸ばして引き留めようとしたが、伸ばした指先が寸前で空を掴む。
ヴラッドの視界に映る全てがスローモーションのように減速していく。
前のめりに階段へ進むマイケルの背中。その眼前、踊り場に現れた戦闘服に身を包んだ人影。その影が血の滴る腕で抱きかかえた少女の、乱れて赤黒く汚れた衣服。
ヴラッドがその影の右手にカービンの輪郭を見つけた瞬間、まばゆく発砲炎が散った。発射薬の燃焼がもたらす薄橙の明滅が、射手の血に汚れた土気色の顔と、それに抱えられたシャーロットの驚愕に見開かれた目元を照らす。
「来るな! 動くんじゃねえ!」
銃弾が耳元を飛び抜ける不愉快な擦過音と、自分の顔に生ぬるい血が飛び散る不快感。
そこで、ヴラッドの時間が元の速度を取り戻した。
目の前でマイケルが倒れ伏している。
リアムの喉から絞り出すような悲鳴と、口を手で塞がれて抱えられたシャーロットのくぐもった泣き声の中で、ヴラッドは反射的に飛び出そうとするリアムの襟首を掴んで自分の後ろへと押しのけた。
「畜生、クソ! クソ! クソ! ジジイ、飛び出してこなけりゃ!」
背後で悲鳴。撃たれたと泣きわめく女性の声。必死にマイケルに呼びかける、高く濁ったリアムの絶叫。そして、噛みつかれた喉元のガーゼを血で染め、M4を右手で握った男の罵り。
「邪魔するなよ、ヴラッド軍曹。俺は知ってるんだ、お前たちが何を考えてるか、俺は知ってるんだぞ!」
「いいか、落ち着け。わかった、邪魔はしない。だからまず、マイケルを手当させてほしい」
「うるさい! 黙ってろよ! お前たちはそうやって、俺たちを殺そうとしてるんだ! だってのにジジイ一人でガタガタ抜かすんじゃねえ!」
ヴラッドは足元でうつ伏せに倒れたまま、床に血を広げていくマイケルを示した。男は――ベリヤ伍長は怒鳴り声でそれをねじ伏せると、撃たれた祖父を前にして脚をばたつかせ、大粒の涙をこぼしながら身を捩るシャーロットを二度三度と振り回して黙らせる。
ヴラッドは胸元にこみ上げた熱に急かされ、思わず銃を持ち上げかけた腕を理性で押し留めた。
「伍長、やめろ! 今すぐに銃をおろして投降しろ!」
背後から飛んできたハリソンの命令に、ベリヤはもう一度M4の引き金を絞った。バーストでばらまかれたライフル弾がガラスを粉砕し、耳障りな音を立てる。
「黙ってろよ……、お前の差し金なんじゃないのか、大尉サマよ! 俺たちをぶっ殺して掃除する算段を立ててただろうが!」
唾液を散らし、声を枯らす勢いでベリヤが喚く。ヴラッドは、彼のせわしなくあちこちへ向けられる目の瞳孔が開ききっていることに気づいた。感染進行と興奮のせいか、呼吸は非常に荒く全身が汗ばんでいる。
「おい、なあ、軍曹。銃を捨てろよ。それ捨てろって、なあ。じゃないとぶっ殺すぞ」
彼の目がヴラッドの握る銃に向けられ、ベリヤはM4の先端をこちらへと向けた。明確な殺意を乗せた銃身がこちらの額で止まり、昏い小口径の銃口を覗かせる。
こちらの拳銃は、飛び出すマイケルの背にかぶらないよう逸したせいでベリヤを捉えていない。徹底的に訓練された人間の、安全管理本能の弊害だった。
一か八か、横に飛び退いて反撃という手もあるが、背後には半狂乱のリアムがいる。さらにベリヤは狙いにくいようシャーロットを胸元に抱え込んでいた。不安定な姿勢で撃てば、最悪の場合はどうなるか。
背後のハリソンらも今は動けまい。不用意に行動すれば、弾倉の中身がありったけぶち撒けられることになる。
「わかった、今下ろす」
このまま銃を握っていてもできることなどなかった。
「やめろ、ベリヤ……お前は……自分が何をしたのか、わかっているのか!」
一度相手の興奮を諌めるべく、ベリヤの脅迫に従おうとしたとき、上階から聞き慣れたかすれかけの声が響いた。ダニエルの声だった。
ベリヤが上階に目を向けた瞬間、下階へ通じる踊り場にガルシアとマルコフが姿を表した。二人は腰丈の手すり壁に身を隠したまま、ガルシアを先頭にして、慎重だが素早い足取りでカービンを上階へ向けて登ってくる。
しかし極度の興奮で感覚器官が鋭敏になっているのか、ベリヤはその僅かな気配に感づいたようだった。忌々しげな唸り声を上げ、彼は本能まかせの反射行動でマズルをそちらへスライドさせた。
手すり壁からガルシアとマルコフが現れた瞬間、ベリヤの目が強い驚愕に見開かれ、狼狽を示すように標的へ向けた銃口が揺れる。直後、ベリヤのM4がバーストを放ったが、銃撃の気配を察知したガルシアは、マルコフを片手で抑え込みつつ身を翻していた。
マズルフラッシュがまばゆく連鎖し、空を切った銃弾が手すり壁と建材をぶち抜いて白く粉塵を撒き散らす。
その中で、ヴラッドは銃撃を避けた二人を目にしたベリヤの瞳に、強い恐怖の色が滲んだのを見逃さなかった。
同時に、自分から銃口が外れたほんの僅かな隙もまた。
「銃を捨てろ、ベリヤ!」
こちらがその一瞬の間に右手を跳ね上げたのに気づき、ベリヤは身を引いてガルシアらの射界から逃れようとしつつ銃口をヴラッドへ再び移動させる。それを目にしながら、ヴラッドはそれでも最後の警告を発した。
状況は誰彼構わず撃ち込めばいいベリヤが圧倒的に優位だ。逸れたとはいえ、ほんの少し動かすだけで銃口はこちらを捉える。
しかし、ヴラッドの速度はそれを上回った。
筋肉の記憶が一瞬で正確な
警告を受けてなお、ベリヤは銃の引き鉄に指をかけたままだ。
ベリヤに投降する気はない。瞬時にそう結論づけたヴラッドは、素早く滑らかに引き鉄を絞りきった。
乾いた発砲音。べしゃりと、粘性のものが叩きつけられる鈍い音。
あまりに素早いヴラッドの射撃に、ガルシアに肩を押さえられた姿勢のままマルコフが固まっている。ガルシアはカービンを油断なく踊り場へ向けると、射撃姿勢のままベリヤへ接近するヴラッドに代わってマイケルへと駆け寄った。
ベリヤは鼻頭を撃ち抜かれて即死していた。正面から見て目と目の中心点の奥には、人間の生命活動の根幹を握る脳幹がある。
幅はせいぜい二センチ、長さも七センチ程度のごく狭い領域。そこを撃ち抜けば人は一瞬で肉体活動を停止する。そして、極限の緊張下で瞬時にそこを撃ち抜く技術を、ヴラッドは膨大な国費によって授けられていた。
後頭部から穴の空いた水風船のように血液を垂れ流し、もはや動くことのないベリヤの腕を脚で押しのけると、リアムが泣きじゃくりながら駆け寄ってくる。恐怖と混乱に加え、乱雑に振り回された影響でシャーロットはぐったりとしていた。
ベリヤの腕から解き放たれた彼女の顔は、口から何からベッタリと鮮血で汚れている。それも、感染者の血液で。
「マイケルは、どうにか安定した。ただギリギリのラインだ。これ以上の手当は物資が足らん」
もう一人もかなりまずいと、血で濡れたラテックスを汚染物袋へ投げ込んだジョエルが吐き捨てた。彼はベリヤの銃撃で負傷した民間人の救護にあたったが、マイケルを含む四人の負傷者のうち二名が死亡している。
死んだ民間人の遺体は、殺害された歩哨やベリヤのそれとともに、屋上の倉庫室へと押し込まれた。それを運んだのは、ヴラッドとマルコフ、マディソン、クラヴィスだった。
「そうか」
ヴラッドはうなずいた。
目の前では、厚く敷いた布の上でシャーロットが横たえられている。ベリヤの血で汚れた服は廃棄され、リアムが持ち出した予備に着替えさせられている。血で汚れた肌はアリッサが消毒を施したが、シャーロットは開放されてから意識を失ったままだ。
幼い子供には過酷すぎる恐怖と、目の前で撃たれた祖父。二つの重荷がシャーロットの防衛本能に働きかけた結果だろう。外傷由来の気絶ではないとジョエルは結論づけている。
ヴラッドはまぶたを閉じ、身じろぎ一つしないシャーロットを見つめていた。小さく上下する胸だけが彼女の生存の証だ。頬に手を触れ、暖かく柔らかいそこを撫でてやる。先程まで血に汚れていたそこを。
目を閉じると、不意にこちらの手を握ってトイレまでの付き添いをねだった顔が浮かんできた。それから、タイラントに殴り倒されて気絶した自分のそばで眠っていた顔を思い出し。スティーヴンの死を実感して泣いた夜が、はるか昔のことに感じられて眉根を寄せる。
まぶたの裏にちらつく顔が、自分が撃ち殺したベリヤの顔に塗り替わる。極度の興奮でせわしなく動く瞳、開ききった瞳孔と、荒すぎる呼吸。不自然なほどに高ぶり、凶暴さをむき出しにした、哀れな男の顔。
「もう少しここにいろ。俺とマディが小隊長に最終確認を……」
「俺が行く。大丈夫だ。装備を整えてくれ」
ヴラッドの声音はほとんど命じるような頑なさをにじませていた。ジョエルは僅かな沈黙を挟んでそうかと頷き、ヴラッドの肩を叩いて立ち去る。それと入れ替わりで、負傷者フロアに上がってくる足音がした。
ヴラッドには、気配だけでアリッサだと分かった。
「ヴラッド」
「言いかけた事があったろう。エピネフリンシリンジの欠品」
「そのまえに、シャーロットよ」
「感染の有無はまだわからない。そうだな」
「ええ」
ヴラッドの問いかけにアリッサはうなずいた。ベリヤの血液にまみれたシャーロットの顔を見た瞬間、一番血相を変えたのは彼女だった。
一滴でも口腔粘膜や眼球に触れれば高確率で感染する。そう分かっていながら、いや、分かっているからこそ、氷のような美貌に焦燥をにじませて、彼女はシャーロットにこびりついた暴力の残滓を拭い取ったのだ。
「それで、エピネフリンを誰かが盗んだんじゃないか。そう思っているんだろう」
ヴラッドは問うた。アリッサは先程と同じように、ええと素直にうなずいた。フラットなようで、静かに怒りをにじませた声だった。
「診察をしたときに不自然に心拍の早い兵士がいることは確認していたわ。Tウイルスの感染進行では説明のつかない大きく早い脈拍、それに瞳孔の拡張」
「アドレナリンの作用が疑われる症状だ。それも自然分泌だと、環境要因からして説明がつかない。そして在庫の不一致。あの攻撃性から見て、おそらく個人配付の精神興奮薬も併用だろう」
「ええ。もっと早く、あなたに伝えるべきだった」
「君のせいじゃない」
「けれど、結果はこのザマよ」
「それでも、予想するのは困難だった」
そうねと、アリッサは静かに応えた。
「俺は部隊内に監視者が存在すると考えていた。確実なものだと。であったなら、こうなる可能性を考えなければならなかった。十分な手を打たなかったのは俺のミスだ」
「誰かが意図してこうなるように画策した、と」
「ダニーが教えてくれた。誰かがここに来て、ベリヤに何かをしていたと。やつも朦朧としていてはっきりとは覚えちゃいないらしいが、おそらくは薬物を投与したんだろう」
「彼ね。ええ、私にも同じことをさっき」
ヴラッドは部屋の隅で寝かされているダニエルを見た。ベリヤを止めようと、撃たれる危険を冒してその行為を咎めた部下は、感染の進行と緊張が解けた安堵から再び意識を失っている。
「会話を聞いたらしい。早いところ殺してしまったほうがいい、ってな」
「それだけで断定はできないわ」
アリッサは言った。発言とは裏腹に、何者かの関与を否定する響きはない。ヴラッドにはその意図が理解できた。証拠としては信用性が薄く、手段としては確実性に欠ける。そう言いたいのだ。
確かに何が目的だったとしても、今回の事件は手段として見ると不確定要素が大きすぎる。それは紛れもない事実だ。
証拠も朦朧とした隊員の証言が一つきり。たとえベリヤを生きたまま確保できていたとしても、高熱とストレスによる被害妄想でないことを証明する手段があったかどうかは怪しいだろう。血中の薬品を検査する設備はないからだ。
そしてそうである以上、誰彼構わずこの話をするわけには行かない。しかしながら、であるからこそヴラッドは何者かの――アンブレラの密命を帯びた“敵”の――関与は間違いないと考えていた。
言語化できる感覚ではないが、ヴラッドからすると確実性よりもその存在を公的に断定させないやり口はアンブレラ的であるように思えたからだ。
どだい、この状況で意図的にこの事態を引き起こしたとすれば、その目的は混乱そのものを生むことにある可能性が高い。であれば、不和の種を仕掛けた時点で向こうの目的は達成されていると言っていいはずだ。
ベリヤの凶行が仕掛けた当人の意図どおりであるかはヴラッドにもわからなかったが、偶然の産物ではないと彼は確信していた。
それはアリッサも同じだろう。
ヴラッドはそうだなとうなずいて同意を示すと、ゆっくりと立ち上がった。出発時刻が近づいていた。脚は重く、ブーツを床から持ち上げるのすら苦労しそうなほどだったが、彼には任務があった。
シャーロットから離れ、同じように眠ったままのダニエルへと歩み寄る。肩口を噛まれた彼は額に汗をにじませて、閉ざされたまぶたの裏で瞳をせわしなく動かしている。悪夢を見ているのだろう。
立ち上がるのも一苦労だろうに、ダニエルはベリヤを制止しようと階段まで這いずってそこで力尽きていた。それでも意志の力を最後のひとかけらまで振り絞り、ヴラッドに伝えるべきことを伝えて、彼は気を失ったのだ。
「ここを頼む」
死に近づきつつある部下の身体にずれかけた毛布をかけ直してやると、ヴラッドはアリッサを振り返った。
「あなたも気をつけなさい。この子達のために」
こちらを見つめる眼差し。氷の瞳の奥の感情のさざなみに、言葉ではなく首肯を返すと、ヴラッドは階段へ向かった。
負傷者フロア階段の警備は二名に増強され、配置も踊り場に変更になっていた。
ベリヤはシャーロットを利用して歩哨を呼びつけ、食事用に配布される樹脂のナイフで歩哨の喉を強引に掻き切ったと推測されたからだ。
予め銃を回収してあるからと油断していたせいで歩哨が殺され、火器が奪われた責任を感じているのか、ガルシアは階段前で歩哨配置を練り直している。
「ラクーン市警は後回しでいい。市立病院へ向かってほしい。医療物資が逼迫している。必要なものはジョエルに確認を取れ、私は門外漢だ」
「了解しました」
ハリソンから伝達された命令変更に、ヴラッドは直立不動の姿勢で応じた。硬い声音で、表情を変えずに受諾した部下をしばらく見つめてから、ハリソンは口を開いた。
「アリッサからエピネフリンの件は聞いたな」
「はい」
ヴラッドは頷きながら、指揮所の外を見た。管理職のためのアクリルパーテーション越しであるから会話が聞かれる心配はない。指揮所の外は、目で見ても明らかなほどに沈鬱な雰囲気が漂っている。
実行犯合わせて四名が死亡。二名が重傷、一名が感染の可能性あり。当然のことだ。世帯の膨れ上がった市民らは落ち着かなそうに座り込んでいるか、気を紛らわそうと作業に従事しているかのどちらかだ。
感染の可能性は低いと判断されたマイケルはこのフロアの隅に寝かされていた。傍らには目元を赤く腫れさせ、涙をこぼすリアムが膝をついている。それに老婦人と若い女性が寄り添い、衛生担当がそばで待機していた。
「どう思う。私見でいい。根拠は問わない、お前の考えが聞きたい」
ハリソンの問いに、ヴラッドはほんの一瞬だけ思考を巡らせた。誰がアンブレラの犬なのかは、未だ目星すらついていない。その状況で安易に触れて良い話題ではないが、ヴラッドはすぐに結論を出した。
もしハリソンがそうであった場合、早急に尻尾を掴んで明確な証拠を出さない限りこの部隊は滅ぶことになる。であれば、乗ってみるのも悪くはないだろうとヴラッドは考えた。それにヴラッドの考えでは、彼がそうである可能性は高くない。
「何者かの工作であると確信しています。大尉は?」
「この会社に雇われて長い。嫌でもそう考える」
「心当たりはありますか」
「ガルシアかマルコフ。あとはチャベス、一分隊のパトリック。他数名。アリッサが予想投与時刻を出したが、幅があるから絞りきれん」
お前は戻ってから一度も上がっていないからなと、ハリソンはそう続けて大きく、しかし静かに溜息をこぼす。一度回復した疲労の気配が再び戻っていた。それもより色濃くなっているように思える。
それは演技ではなく、本物の疲労であるとヴラッドは判断した。少なくとも目元のくまは演技でどうにかなるものではない。
「もちろん私も候補の一人だ」
しばらくの沈黙の後、ハリソンは小さな声で言った。ヴラッドはそうですかと頷き、無言をもってその先を促した。こういう時、ハリソンは必ずこちらに伝えるべき言葉を持っている。
「軍曹、仮に私が死んだ場合、何をしてでも市民救助を完遂してもらいたい。そして必ず、
「そして殺せ、と。何があろうと」
「そうだ、何があろうと。誰であろうと。そいつは、この状況に私達を叩き込んでほくそ笑む連中のために、戦友と市民の命を奪った。ならそれは敵だ」
頷いたハリソンの声は決然としていた。自分がそれにたどり着いたのなら、誰にも譲らず自分自身でそうすると決意している声だった。静かだが重く響くその命令に、ヴラッドはゆるく、しかし乱れのない所作で敬礼を投げた。
ハリソンも敬礼で返した。進むべき道を定めた指揮官と、卓越した戦闘員の眼差しが交差する。
「了解。必ず殺します。それがたとえあなたであろうと」
「そうだ、軍曹。それがたとえ、私であろうと」
感想、評価等お待ちしています。
指摘とかでも構わないのでどしどし投げていただければはねて喜ぶのでお気軽にどうぞ!
好きなキャラクターは?(リストにない場合はごめんなさい)
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ヴラッド
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トラヴィス
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マディソン
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ジョエル
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アリッサ