頭上、黒々とした分厚い雲から降り注ぐ雨脚は激しかったが、体力を奪うその冷たさはしかし、ヴラッドの胸元に残った微かだが力強い熱量をもかき消すには至らない。
俺が兵隊さんを手伝ってあげればなんて言ったからだ、と。出撃前、泣きはらした顔をヴラッドの腹に押し付け、小さく薄い胸板の中に荒れ狂う感情を吐き出すように鍛えた胸を叩いた手の重みは、そう簡単に薄れるものではなかった。
それだけが、末端まで冷え切った身体に活力を与えている。ヴラッドは濡れて重くなった戦闘服の裾を絞り、目深にかぶったキャップのつばから垂れ落ちる水滴の向こう、叩きつけるような雨に霞む市街へ向けた目を、ゆっくりと左右に動かした。
飛び散った雨粒の微細な粒子で靄がかかったようににじむ街並み。低く垂れ込めた黒雲によって陽光を遮られているのも重なって、活性死者のふらつく輪郭はひどく曖昧だ。
白く濁る景色からだしぬけに浮かび上がった人影に目を留めたヴラッドは、それがこちらへ向けて三度ライトを点滅させたことを確かめると、小さく口笛を吹いた。
それを合図にして、やや距離をとって膝をつき、各々の担当方向を警戒していた部下が立ち上がる。集まる視線を確かめたヴラッドは、指を揃えた左手でゆっくりと進路を示した。
クラヴィスとジョエルがそれに頷き、手にしたカービンのストックを肩に沈めて前進を開始する。左手はハンドガードを握り込み、グリップを掴む右手の親指は安全装置にゆるくかけて、銃口は心持ち下げておく。
接敵に対応するための即応姿勢のまま、先行していたマディソンらの元まで幅の広い道路を横断すると、ヴラッドは無人となった雑貨屋の軒先へ飛び込んだ。
「どうだ」
「大丈夫だ。雨音がひどくて、こっちを見つけるどころじゃないらしい」
ヴラッドの質問に対し、マディソンは濡れた髪を手でなでつけながら返した。拠点を出発してもう二時間と少し。激しい雨のもたらす視界不良で移動速度が低下する中、道路を這い回る二匹の“ネイルフロッグ”を発見したのは三〇分ほど前のことだった。
有効視界が著しく減少するこの状況下で、肉眼による目視ではなく音で獲物の位置を把握するネイルフロッグに絡まれてはたまらないからと、こちらの目的地へ向かうルートを先行する二匹の化け物の尻を追いかけてここまで来た。
「途中、気が変わったのか向こうは進路を変更。ロストして五分、もう大丈夫だろう」
ヴラッドたちに先行して二匹の動向を探っていたマディソンは、雑貨屋のカウンター裏からくすねたらしい新品のタバコを開封しながら報告した。見れば、カウンターには一箱分の小銭がおいてある。
「残りはどのくらいだ、ヴラッド」
「スケジュールの半分は消化した」
「二時間かけて?」
「あいつら相手に徒競走したかったなら、もっと早く言えよ」
ジョエルの問いかけにヴラッドは肩をすくめて返した。その後ろで各々小銭をカウンターへ転がしてタバコを回収し始める部下を尻目に、ヴラッドは店外に視線を向ける。暗く濁った路地のところどころで、大粒の雨ですら消しきれない力強い炎色が揺らめいている。
ここに到達するまでの間に派手な住宅火災はいくつも目にしてきたが、それへ立ち向かう消防士は愚か、野次馬の姿すらどこにも見受けられない。降下から二日と少し。完全に死に絶えた街並みの静謐さは、どこか浮世離れしていた。
「ここで休憩を取る。時間は五分」
視線を外へ向けたままヴラッドが言うと、ネイルフロッグを警戒してか控えめな返事が部下から返ってくる。膝をつき、カービンに手を添えたまま警戒にあたるヴラッドの横から、開封されたばかりのタバコの箱が突き出された。
ジョエルだった。ソフトパッケージから飛び出たフィルターを咥えると、入れ替わりでライターが差し出された。火を受け取り、冷え切った体内に煙を吸い込む。ニコチンが脳みそに染み込み、頭蓋の中が活発になるむず痒い感覚に目を眇める。
「あると思うか」
「なにがだ」
隣にしゃがみ込み、同じように外へと目を向けたジョエルが囁くような声量で言った。ヴラッドは主語を欠いた質問に対して逆に問いを返した。
「血清だ。アリッサがお前に伝えたのはその話だろう」
ジョエルが言った。その声には断定するような響きがある。確かにアリッサの言うとおりだなと、ヴラッドは内心に納得した。彼は勘がいい。
「可能性の話だ。彼女がそう言うのなら、あるかどうかは行ってみないとわからない」
ヴラッドは肩をすくめた。アリッサが明言したわけではないが、彼女が伝えたかったのはラクーン病院になら血清が存在する可能性がある、ということだと彼は判断していた。
アンブレラのホームタウンにして、深く根を張っている企業城下町がこのラクーンである。鉄道路線を流用した搬入路、街の中に堂々とそびえるアンブレラの社屋。当然、市議会の首根っこを押さえていることは想像に難くないし、となれば市警察や病院なども当然だろう。
そしてアンブレラが世界的製薬会社であることを考えれば、ラクーン病院はその影響を非常に強く受けているはずだ。実際に見たわけではないが、ラクーンの地下にもう一つ大きな地下研究施設があることを考えれば、ラクーン病院に
「気になるか」
「子供の命がかかってる。仲間の命もな」
「行けばわかる」
そうだなと、ジョエルは頷いて話題を打ち切った。結局、病院内を捜索しなければ答えは出ない。それは重症を負ったマイケルらの手当に必要な物資の有無も同じだ。
ジョエルの見立てが正確なら、混乱の発生から収拾不能に陥るまでの日数と、症状の特徴から、
歩く死人を相手に、いちいち手厚い治療を施す人間はそういるまい。ラクーン病院の規模から考えても、医療物資を使い切る前に負傷者で病院の機能はパンクしていたはずだ。
もちろん、病院という施設の性格上、生存者の存在は期待されていない。
雨で急激に外気が冷え込んだせいで、吐き出す呼気は白く凍っている。それが薄れて消えていくのを見送ったヴラッドは、隣でなにか言いたげなジョエルに目を向け、顎先で言えよと促した。
「ベリヤにエピネフリンを投与したやつが、これで終わりにすると思うか」
「その話、他の誰かにしたか」
「いいや」
外を見つめたまま問いかけたジョエルに、ヴラッドは返した。首を振った彼を横目に確かめ、ヴラッドは頷く。
「死にたくないなら不用意に口にするな。誰かわかるまでは」
「なら、お前だってはぐらかせよ」
誰彼構わず語っていい内容ではない。いまだ、小隊内では錯乱したベリヤの単独犯ということになっている。エピネフリンの紛失と投与疑惑に関して知っているのは、衛生担当者と残数をチェックしていたアリッサ、各分隊長のみだ。
「俺はいい。それで動くなら好都合だ。そのまま殺す」
「まだなにかやる、そういうことか」
「でなければあんなことはしない。目的が混乱を生み出すことであるなら、その先は何を考えている?」
ジョエルはヴラッドへ目を向け、そのまま黙り込んだ。ヴラッドは外を見つめたまま、微かにではあるが雨脚の弱りつつある街区を、ふらふらとあてどなくさまよう死者たちの様子を観察している。
ここ数時間で気づいたことだが、雨で音がかき消される上に臭いも吹き散らされる環境では、活性死者の索敵能力は大幅に低下するようだ。
雨が止む前に移動距離を稼ぐべきだろう。
「さあな、俺にはさっぱり」
「なら、この話題はここまでだ。目立ってもいいことはない」
「お前は」
「言っただろう。誰か判明し次第、殺す。それだけだ」
俺が目立てば、向こうもそう動くかもしれないからなと、ヴラッドは素直に答えた。実際問題、このノーマッドの中ですらベリヤにエピネフリンを投与した人間がいる可能性を否定できない。
それを理解した上で、ヴラッドは自分のスタンスを隠す気はなかった。この状況で不安定な手段を用いて混乱を生むということは、それだけ
であれば、向こうの動きも今後は大きくならざるを得ないだろう。ちまちまと工作を繰り返してどうにかできるほどの余裕があるのであれば、あんな手段を用いる必要はない。
だからこそ、ヴラッドは自分の立ち位置を明確にしていた。それはハリソンも同じであり、部隊の指揮中枢四名のうち二名がそうである以上、
短期の決着を目指してより大きく大胆に動くか、あるいは息を潜めて様子をうかがうか、だ。前者であるならば危険性は増すがそのぶん発見も容易であり、後者の場合はその影響力を減少させることができる。
また、アンブレラの手のものが工作を行った結果死人が出ている以上、ヴラッドとハリソンがそれを積極的に狩り出そうとするのは自然な反応と言えた。警戒対象にはなるだろうが、その点をもってして変に疑われる可能性は高くないはずだ。
敵地に一人孤立している工作員というのは、極力目立たぬように振る舞うのが普通のあり方だ。少なくともヴラッドが過去に出会った潜入工作員はそういうものだったし、教育でもそう振る舞うように教えられる。
ヴラッドがそのベターな選択を無視したのは、逆に立ち位置を明確にして目につくようにすることが、かえって自然な振る舞いになると判断したからに他ならない。自分の性格を客観的に評価した上で、自然とそうなるのがこの立ち位置である、という要素も大きい。
殺す、殺されるは常に紙一重だ。ジョエルが
それは小隊全体の話に規模を広げても同じことだった。が、ヴラッドはいまそれを気にする理由を持ち合わせていなかった。アンブレラが探りを入れているのが自分の素性であると仮定した場合――ヴラッドはそうであると確信していたが――、同時にアンブレラは
そうなれば、敵はアリッサを確実にマークしている。相手が怪しきは罰せずにのっとっているのなら他のやりようもあるが、アンブレラがその対極にいることをヴラッドは理解していた。
であるから、自分に目を向けさせる必要がある。相手が誰であれ、ヴラッドは命の取り合いでそうそう遅れをとるつもりはなかった。それは自惚れではなく、戦闘に長け、十分な訓練と実務経験を持つがゆえの正当な自己評価だ。
現状、アリッサは小隊本部拠点内でアルヴィンとともに待機している。ベリヤの凶行時、さらなる混乱を嫌ってマディソンらに押し留められたのがよほど不満だったのだろう。出る直前、アルヴィンはアリッサの後ろをつけ回すようになっていた。
自分が注意を引くことができたのなら、
「五分だ。行くぞ」
外では雨音がその激しさをゆっくりと失いつつある。すぐに止むわけではないが、そう長くは続くまい。
ヴラッドが休憩終了を告げると、部隊員は各々立ち上がり、自分の装備を確認し始めた。弾薬、装備品の欠損/異常は、移動再開前の必須確認事項だ。それをいちいち命じられる人間はこの部隊にはいない。
チェックを終えた部下たちが親指を立てて問題なしを知らせる。
分遣隊は再び、雨の中へと歩みだした。人の気配が絶えた死の街へと。
チャーリー小隊のうち、一五名が外部捜索に派遣されていた。うち一班は病院への物資捜索。残りの二班は弾薬等の回収が主任務だ。
そして、
残り時間は少ないが、現状は順調に進んでいる。非常に不安定な手段ではあったが、ベリヤを用いての撹乱は思った以上にうまく作用した点は、
ああまで効果的に作用するとは思っていなかったし、その結末の点から見ても十二分以上の結末であると言えるだろう。
死の直前、ベリヤは自身をそそのかしたのが何者であるかに気づいていた。彼の顔に浮かぶ驚愕と恐怖が表すものは間違いようがない。
だからこそ、ヴラッドが彼を射殺したのは幸運だった。あの素晴らしい一撃。ほんの一瞬の隙を突き、正確無比な射撃を叩き込んだ男の、見惚れそうなほどに見事な射撃姿勢。判断速度、技量ともに一級品だ。米軍の最精鋭、デルタの一員だったというのもうなずける。
あれがなければ、ベリヤはべらべらと自分が何をしたのかを語っただろう。彼に使用したエピネフリンと精神興奮薬は廃棄してあるし、名指しされても言い逃れできる材料は用意してあったが、面倒がないに越したことはない。
おかげで、今も自分は大した制約もなく活動できている。立ち去る直前、エピネフリンを投与されたばかりのベリヤが見せた人懐こく力ない笑みは、彼の顛末と相まって哀れではあったが、それはもう過ぎたことだ。
どうせ救いえぬ命なのであれば、それは誰かの糧になるよりない。人であるまま死ねただけ幸運だろうと考え、頭部を撃ち抜かれ文字通り即死した男を記憶から消し去った。
彼は自分の糧になったのだ。生き残るために。そして奪われたものを取り戻すための糧に。人生はどうあっても、積み上げた犠牲の上に築き上げる砂上の楼閣だ。
暴力の世界だろうと、平和な娑婆の生活であろうと大差ない。自分が何かを手に入れれば、それは誰かが何かを失ったことを示す。まっとうに生きていても、評価される人間であるということは誰かに恨まれるということだ。
死ぬまでに必死により良い自分のための宝をかき集め、死ねば全てが無価値になる一時の夢。苦痛と苦労にまみれた夢を、すこしでも良くするために自分はここまできた。
その最後のピース、かつて奪い去られ、手の届かぬところに押し込められた熱を手に入れるために、誰が死のうとそれに気を取られることはしないと決めている。
『姓名、コードを』
今では夢に見る以外を許されていない女の身体を、その滑らかな肩を、くびれた腰を、良く張った胸を。かつてはベッドに組み伏せ、熱を交わした女のすべてを思い出し、芯に集まり始めた熱を吹きちらしたのは、冷ややかな声だった。
市内にいくつか点在する連絡拠点のひとつ。アンブレラが送り込んだU.B.C.S隊員二一〇名のうち、ごく僅かな
『報告を』
名前と与えられた識別コードを告げると、間髪入れずに無線の声が先を促した。人間味のない冷ややかで抑揚のない声は不快だが、アンブレラという会社の性格を考えれば当然のものだし、それは長い勤務で慣れきったものだ。
『タイラントが撃破されたというのは、間違いない情報か』
ノーマッドの戦果に監視者を束ねる上級司令部のスタッフが食いついたのは当然の反応だった。アンブレラが開発した、現状最高傑作と言えるB.O.Wだ。
確かにアークレイの洋館では市警察の
およそ人間業ではない。たとえそれが幸運の賜物であったとしても、アンブレラが無視できる報告ではないのは確かだ。
無線機のコンソールを指でコツコツとつつき、返答を待つ。こちらの報告で上級司令部が慌てるだろうことは想像してあったが、時間の限度がある中で、無為にリソースを食いつぶされるのは気分が良くない。
『了解した。引き続き当該ユニットの情報を収集せよ。また戦闘データの回収を要請する』
了解と
それで、と彼は話題を切り替えた。上級司令部が自分に命じたのは、U.B.C.S内、それもチャーリー小隊に外部の何者かが送り込んだ工作員の特定だ。それに関しての続報を問う。
『チャーリー小隊の投入先を変更した中隊幹部から有益な情報は引き出せなかった。彼は
だが、と上級司令部の無線担当が言葉を切る。
『二七日早朝に、ラクーン市内から郊外への無線を傍受している。内容は不明。交信先は米軍部隊であると考えられる。州軍内の
思わず
なぜなら、
そこまで考えて、
ともかくも、上級司令部がノーマッドと中隊本部の通信を把握していないのは、単に指揮系統の問題だった。U.B.C.Sは確かにアンブレラの組織だが、
もとより猜疑心の強い組織だ。横のつながりは殆どないに等しい。戦闘部門の外を見ても、支社ごとに成果の報告を行うことはあれどその目的は他所への牽制が目的。手を取り合って動きましょう、などという生ぬるさを持ち合わせてはいない。
『そちらは、それについてなにか把握しているか』
いいえ、と
この仕事を終えれば、
もちろんそれは交渉次第だが、額はともかく自分がそれを握る限りは帰りのタクシーの保証になる。状況次第では、情報を絞ったので後は終わり、とされかねないという危惧があった。
だが、知らぬふりをする以上、この段階で収穫がないと示してしまっては上から能力を疑われる可能性が否定できない。それは最悪の場合、切り捨てられるリスクが存在するということだ。
そういう会社であるということは、自分の立場が何よりの証明だ。
だからこそ、チャーリー小隊の反アンブレラ感情が高まっていること。その中で工作を行い、混乱を生じさせたこと。これをもってして工作員の狩りを進めようとしていることを報告する。
道筋が立っているのであれば、あとはどうとでもなる。特に今回の通信である程度の目星は立った。あとは候補者を絞るだけだ。ノーマッドの中に、該当する人間は多くない。
無線手か分隊長か。だが後者である場合は手強いなと、場数を踏んだ戦士の意識で考えた瞬間、無線機が冷ややかな声で告げた。
『了解した。本日深夜、2400時をもってチャーリー小隊は
感想等々お待ちしています(手招き)