死者に祈りを、兵には讃歌を   作:兎坂

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更新だ!!!!
お久しぶりです。平和(?)回となります。戦闘してないならそれは平和、そうでしょう?


捜索、遭遇

「君らが……彼を撃ったのは、正しい選択だ」

 

 ひゅーひゅーと苦しげな喘鳴をかすかに引き連れた男の声は、奇妙なことに微かではあるがからかうような響きを伴っていた。ヴラッドはソファから崩れ落ちそうな姿勢のまま腕を突き出し、手首をだらりと垂らした男に怪訝に首を傾げる。

 

「なんだって?」

「だから……、言っているだろう? 正しい、選択だ……とね」

 

 ところで、手をおろしていいかなと男が問うた。活性死者でないことを証明するにしては掲げたその手の高さは中途半端だ。まるで古典的な幽霊(ゴースト)のマネでもするかのような手を見、ヴラッドは銃口を下ろして返事に代えた。

 

「それで、正しい選択っていうのは」

「彼は感染し、発症している。今は……休眠状態なだけだ。そのうち、また起き上がっただろうね。すくなくとも、そう、私が……眠る前は、発症寸前だった」

 

 起き上がったなら、最初の食事はきっと私だったろうから、礼を言うよと。呼吸のたびに発言を区切り、ゆったりと、しかしこの状況に可笑しみを感じているかのような声音で添えた男は、口の端に薄い笑みを刻んでいる。

 

 それこそ、手を下ろすついでに肩を竦めて見せそうな態度だった。

 

「まて、発症したなら、なんであんたは喰われてない」

「彼に聞いてくれ。活性化後、活動開始までの時間は……個体差がある」

 

 眉をひそめたヴラッドの問に、知らないのかいと、男が質問で返す。彼の視線は、ヴラッドの身につけた戦闘服の肩に向けられている。そこにはアンブレラのパッチが縫い付けられていた。

 

 その意味するところにヴラッドが思い至るより先に、男が笑いながら咳き込む。

 

「そうか……じゃあ、ご愁傷さま。なんにせよ、彼は起きる前にしっかり死ねた。良いことだ。……そうあるべき人間だったよ」

「ずいぶん訳知り顔なのはいいが、それならどうしていずれ起き上がる死人と同じ部屋に?」

 

 そういう趣味じゃあるまいと首を傾げたジョエルは、先程まで施錠されていたドアを親指で示した。その先では、ヴラッドの蹴りを受け施錠部が粉砕されたドアが開け放たれている。

 

 男はそれを見、ああ、そういえばとばかりに眉尻を下げ、一人で何かを納得したのか数度頷く。そのまま下ろした手をソファにつき、ずり落ちた身体を直そうとした彼は、そのまま踏ん張ることもままならず、完全にソファから落ちた。

 

 どさりと音がして、男は地べたにへたり込む。まいったねと笑い、二度三度と身体に力を入れようとしたようだったが、手足の動きはひどく緩慢で、まとまりがない。それどころか、ぎくしゃくとちぐはぐな動きを繰り返すだけだ。

 

「いやはや……ご覧の通り。いずれ私もそうなる身だものだから」

 

 世間にご迷惑はおかけできまい、と。生者の気配が絶えて久しいこの街の、死にまみれた病院の一角で、常識だろうとばかりに男は目を細める。それを前にして、ジョエルが黙り込んだ。いちいちそちらを見るまでもなく、あっけらかんと自分に迫る末路を語る様子に絶句しているのだ。

 

「このありさまでは、彼に始末をつけることも……できなくてね。しかたないから待っていたわけだ。時間稼ぎの結果が……ンンッ、失礼。これではね、まったく」

 

 手は尽くしたが、時間が足らなかったよと鼻息とともにこぼした溜息は、苦笑よりも自嘲の色が濃い。彼はしばらくソファの上へ戻れないか悪戦苦闘してから、ヴラッドに視線を移し、手伝ってくれるかなと問いかけた。

 

 ヴラッドはカービンを背中に回すと、男に歩み寄り肩を担ぐ。白衣に染み込んだ血肉の生臭さに混じって、濁った老廃物の気配を鼻腔が感じ取った。瀕死の人間が放つ独特の死臭だ。血と臓腑の強烈な悪臭とは根本的に違う、命という目に見えないものが、膿み、静かに腐る臭気。どこの病院にも薄らと香る、言語化できない臭い。

 

 間近、男の身体そのものから滲み出すそれを感じながら、ヴラッドは男をソファに持ち上げ、深く腰掛けさせた。

 

「ありがとう、きみ。名前は」

「ヴラッド・ホーキンス」

「どうも、ヴラッド。私はウォーレン・フィッツカラルド。医師だ。おそらく、今はこの街唯一の」

 

 無理な姿勢が整ったおかげで多少呼吸が楽になったのか、ウォーレンは静かな笑みを口元に刻み礼をするように手を持ち上げる。しかしそれも胸元に届く前に震え出し、当人の思惑をよそに、ひらひらと振ろうとしたのだろう手首がねじれる。

 

「まさか、間に合せの抑制剤が、こう効くとはね……面白いだろう? 病原体が、ね……神経を、末端から……ンッ、ッ」

 

 クスクスと笑いながら言いかけ、ウォーレンがむせた。そのまま背を丸めようとし、胸を叩こうにも言うことを聞かない腕を見かねたのか、ジョエルが彼の胸のあたりを手のひらで叩いた。

 

 ちらりとこちらを見上げたジョエルは何も言わなかったが、何が面白いのやらと言いたげに小さく首を振った。

 

「失礼、ありがとう……楽になった。ああ、そう。抑制剤を自作してね、試したんだ。中枢神経はまだ無事だが、手足はこの通り。意識を失う前は多少歩けたんだが、目覚めたらもうダメだね。進行抑制が関の山では仕方がない。ところで、今は何日の何時だろうか」

「28日、およそ1630時」

「そうか、半日ほど失神していたらしい。神経の侵食が進んでいるのを感じるよ。君たちが来なければ目覚めもしなかったろう」

 

 そう言う間も、ウォーレンは時折身震いするように動き、あるいは神経の機能不全のせいででたらめな動きをする自身の手を眺めている。その様子は、足をもがれた昆虫が暴れるさまを眺めるような、他人事を通り越したはるか彼岸の苦痛を観察する傍観者のそれに思える。

 

「血清が間に合えばね」

「なんだって?」

 

 死にゆく自分の身体を嗜虐的な眼差しで見つめるウォーレンの言葉に、ヴラッドは反射的に問いを投げていた。部屋の奥でソファに横たえられた女医師の死体を確認していたジョエルも、思わずこちらを振り向く。

 

「だから、言ったろう。血清だ。私が試した抑制剤は繋ぎでしかない。本命は血清だよ」

「ここにあるのか、血清が。どこだ」

 

 今度こそ、ヴラッドは食いつくように質問を重ねた。それまでどこか不気味なものを見るような目をしていた男の変化に、ウォーレンは片眉をゆるく持ち上げ、数秒考え込む顔をしてから口を開く。

 

「それは、君たちの任務と関係があることかな」

「いや。だが感染した仲間と市民がいる。血清が必要だ」

 

 ヴラッドは言った。それ以上の無駄を省いた、それでいて明確な意思を持った声だった。よほど鈍い者でもなければ、その言葉が内包する重要性を理解できるだろう、そういう声だ。

 

「意外だな、そうか。いやまあ、驚きはしないよ。活性死者の正確な情報を知らないあたり、君らの境遇は察しが付くからね」

 

 おおかた、君らもまたサンプルだろう、と見透かした様子でウォーレンが言う。相変わらず、痙攣なのか神経の混線によるものなのかわからぬ、小さくデタラメに動く腕でこちらを示しながら。

 

「さっき医者だって名乗らなかったか? それともウチで副業でも?」

「ああ、そのとおりだ。とは言っても……小間使いだけれどね。とは言え、ここじゃ珍しくない話だ。」

 

 眉をひそめるジョエルに、この病院の資金の殆どは君らのクライアントの資産だからねと、ウォーレンが続けた。

 

「医院長だって多少懐を助けられていたよ。資機材、設備、大概のものはアンブレラの金で融通されているし、それは市の行政全体に言える話だ。説教しようというわけでもあるまい?」

「血清の話は」

 

 淡々とこの街の真の所有者が誰であるかを説明するウォーレンの声は、ほんの僅かな失笑の色を含んでいる。それは医師の身でこの地獄を生み出した企業の末端に腰を据えていたことへ向けたものか、あるいは雇い主にここへ送り込まれたヴラッドへ向けられたものか。どちらにせよ、ヴラッドにはどうでもいいことだった。

 

 必要なのは血清だ。シャーロットの容態はまだ不明だが、ダニエルらはすでに危険なラインに差し掛かりつつある。

 

「ない。残念なことに。というより、あれば私はこうなっていないね。見てくれたまえ、用途がある分、シザーハンズのほうが幾分かマシじゃないのかな」

 

 血清、それがあれば拠点にいる感染者たちを――シャーロットやダニエルを――救える。そんなこちらの胸中を見透かし、その上で気にかけるつもりもないかのように、ウォーレンはゆるく首を振って眉頭を吊り上げ、溜息をこぼす。

 

 数秒かけてその言葉を飲み込んだ後、そうか、とヴラッドは吐息に乗せて返した。隣ではジョエルが今にも拳を振り上げそうな顔をしている。言われてみればそのとおりだ。血清があるのならば、ウォーレンが自作したのだという抑制剤を使う理由がない。

 

 ぬか喜びかと嘆息する気も起きなかった。ただ眼の前で不意に放たれた言葉に、一も二もなく飛びついた自分の間抜けさを振り返り、ゆっくりと息を吐いて空いたソファにどかりと腰を下ろす。

 

 濡れた被服と装備が、革張りのソファに当たって湿った音を立てた。身動ぎのたびに湿った布地と革が擦れてぎゅ、ぎゅと音が立つ。その不愉快な音とともに、いつの間にか冷え切っていた身体の重みが肩にのしかかった。

 

 思えばソファなどという上等なものに腰を下ろしたのも、もはや数日前の話だった。そして、僅かな睡眠時以外の殆どを、ヴラッドは立って過ごしている。

 

「ヴラッド」

「言うな。無いものは無い。それだけだ。別をあたる手があったら、そうしてる」

 

 ジョエルの声に押しかぶせ、しかしゆっくりと静かにそれだけを返す。防水ビニールに入れた煙草を取り出し、やる気のない手付きで箱を振って穂先を露出させると、ソレを咥えた。

 

 火をつけることもせず、穂先をぴこぴこと上下に揺らして考え込む。そもそも得体の知れないウイルスの血清が、たかが市病院程度にあるはずもないのだ。アリッサの見立てが根底から間違っていて、その問題点に自分が気づかなかっただけのこと。

 

 アンブレラが生み出した悪魔のウイルスだからといって、アンブレラの息の掛かった病院に血清があると考えるのは早計だ。理屈が通っているようで、それはある種の妄想の――あるいは浮ついた願望――領域に足を踏み込んでいる。

 

 数秒の自省の後、みんな疲れているなと笑いながら、ライターを取り出して火をつける。穂先でそれを受け止め、ゆっくりと冷えた肺に煙を送り込み、全てをニコチンのもたらす心地よさに思考を任せた。

 

「そんなに具合が悪いのかい、君の仲間は」

「女の子が一人と、部下が数人。他の市民はだめだった」

「そうか、女の子か……ンッ、ふ、……ぅ。……歳は」

「お前には関係ないことだ」

 

 問いに答えたヴラッドにウォーレンが更に質問を重ねたが、しびれを切らしたジョエルがぴしゃりと跳ね除ける声でかぶせた。デスクに膝を立て腰掛けていた彼はおもむろに立ち上がり、腰の携行水筒(キャンティーン)を取り出す。

 

 ジョエルはデスクに放置された適当なマグカップに中身の水を注ぐと、カップをウォーレンの口元に差し出しゆるく傾けた。

 

「……ん、ありがとう。そうだね、私にはもはや関係ない。私の庇護下にあるわけでなし。性分だよ。容態が芳しくないと聞けば、気にかかる。気に触ったなら済まない」

「六歳そこらの子だ。俺たちが保護した。今は拠点で寝てる。容態はわからない」

「両親は」

「実の親は事故で死んだと聞いている。育ての親の男は、発見時には発症していた」

「感染は親経由かい?」

「いいや。だが、父親は俺が撃った。感染したのは俺たちのミスだ」

「さっきも思ったが、君は、言いにくいことをさっくりと言うね。嫌いじゃない。それで、その子、名前はなんというのかな」

 

 けらけらとウォーレンは愉快げに笑う。彼に残された、唯一思い通りに感情を示せる部位――すなわち顔には柔和な笑みが浮かんでいたが、厚い眼鏡の向こうの瞳はこちらに据えられたままだ。

 

 その目は何かを見定めるようにゆるく眇められている。

 

「シャーロット。下の名前はオドネル」

「スティーヴンの家の子か。兄がいただろう、彼女には」

「兄の方は無事だ。知り合いなのか?」

「私の兄は警官でね。スティーヴンは一時期保安官だったから、そのつながりで顔程度は。そうか、あの子か」

 

 今度は、ウォーレンがソファに背を沈める番だった。革張りのクッションに深くもたれかかり、白衣の肩を時たま息苦しそうに震わせながら、彼は天井をぼんやりと見つめている。

 

 その仕草の意味するところが何であるかはヴラッドにはわかりかねたが、少なくとも先程までの愉快げな、どこかに諦念と客観であるがゆえの嗜虐をにじませる気配は鳴りを潜めている。

 

「君たちは、わざわざ血清のためにここに? 楽な道ではなかっただろう」

「仕事だからな」

「仕事でなかったなら?」

「武器を手にする以上、責任がある」

「そうか。潔いことだ。生まれついての素質だね。羨ましい限りだ。君にとっては苦労の種だろうが」

 

 ウォーレンはソファの背もたれに頭をあずけたまま、視線だけをこちらに向ける。ヴラッドはそれを受けたまま、投げられた質問に端的に応えた。ウォーレンは口の端にほんの僅かに笑みとも苦り切ったものとも取れないシワを刻むと、ゆっくりと、苦労しながら背を起こして元の姿勢に戻る。

 

「すまないね、このざまだ。私にできることはない。だから、君たちがやるしか無い。まずは医院長室に行ってくれ。シャーロットを救いたいのなら」

「無いといったのはお前だぞ。その手でどうやって手品を?」

 

 ジョエルは言いながら、キャンティーンに口をつけて水を飲み下す。今更何をと言いたげな彼の態度にしかし、ウォーレンは再び貼り付けたような薄い笑みを向けて言った。

 

「ないよ、作らないことにはね。でも土台を作るところまではたどり着いた。私は間に合わなかっただけだ。今日は本当にいい日だ。君たちが来なければ、私はなにも成し得なかっただろうから」

 

 

 

 

 

 

「シャーロットは」

 

 警備の二名が階段口に立つ最上階。負傷者フロアと銘打たれた事実上の隔離部屋であるそこで、アリッサは重ねた毛布に横たえられた少女に目を向けたまま、声の主の次の言葉を待った。

 

「シャーロットは、助かる?」

「わからない。いまは経過観察しかできない」

 

 リアムの声は小さく震えていた。シャーロットの隣に横たえられ、アルミシートと毛布でくるまれた老人――マイケルの容態は今のところ安定しているし、輸液も部隊の在庫分をやりくりして捻出したおかげで、しばらくのところは安全なはずだ。

 

 今の問題はシャーロットだった。彼女はベリヤの汚染された血液を浴び、粘膜接触している。感染しているのだけは間違いない。だが、今できるのは経過観察だけだ。

 

 というより、ヴラッドらが血清を見つけ出さない限り、それ以上の手は打ちようがない。試作段階の抑制剤を投与するかどうかの判断も、まだしばらくは先のことだろう。

 

「お願いだよ、シャーロットを……」

「最善を尽くす。言えるのはソレだけ。確かなことは何も言えないわ。私は魔法は使えない」

「お願いだから」

「リアム」

 

 シャーロットの隣にへたり込んだリアムに、努めて穏やかな声で語りかける。しかし声音を作れはしても、この状況で深く傷を追った子供の心に貼り付ける絆創膏を生み出すのは不可能だ。

 

 それは状況の難解さもあるし、アリッサ自身の問題でもある。自分でどれだけ頭を捻って言い方を選んだところで、耳あたりの良い言葉だけは生み出せない。そしてそれは彼女自身の自覚するところでもあった。生まれついて、そういう性分なのだ。

 

 しかし、自分がそれに甘えることを許せないのもまた、アリッサの生まれ持った性質の一つだった。生まれついてそうであるのだから仕方ない、などと開き直るのは怠惰と甘ったれの十八番であり、恥ずべきことだとすら思っている。

 

 もちろん、相手が大人であったのなら、いちいちそんなことを考えることもなかったろう。そうでないのは、たんにリアムが年端も行かぬ子供であり、自分は大人であるからだ。

 

 だからこそ、静かに、しかしたしなめる声で呼びかけられ、ピクリと肩を震わせた少年に向き直る。自分にできるのは逃げないこと、言い訳をしないこと。それだけだ。

 

「出来る限りのことはする。決して見捨てはしない。それだけは約束するわ」

 

 そこまで考えて、ふとかつての自分ならどうしただろうかと考える。わずか数日前、生死の常識がひっくり返る以前であれば、子供相手でもいちいちそれを気にしただろうか。少なくとも自分は、人の感情の機微にいちいち付き合うタイプではなかったように思う。

 

 なぜ自分がそんな疑問を覚えたのか。それはかつての自認識と、今の自分の思考の乖離が原因だったが、それをもたらしたものは何なのか。ゆっくりと考える間に、無理を無茶で押しのけ、雨中を掻き分けて血清を求めに向かった男たちの背を思い出す。

 

 途方もない無茶を、それが大人の義務、戦士の責務だからとやり抜く彼らのあり方が移ったのだろうか。そう考えながら、アリッサはリアムに首を傾げた。

 

「……分かった。約束だ」

 

 眼の前の少年の泣き腫らした顔が、少しの沈黙の後小さく頷いた。

 

「いい子ね。なら少し眠りなさい」

「でも」

「疲弊した人間に看病は任せられない」

 

 すくなくともヴラッドなら大人しく横になるでしょうね、と添えた言葉に、リアムは素直に首肯を返した。この少年にとり、もはやあの男の存在は絶対的な正義になりつつあるのを彼女は知っている。

 

 リアムは少しの間シャーロットを見つめた後、その額を撫でると立ち上がり、階段へ向かった。すでに隔離区画への医療関係者、及び歩哨以外の滞在は禁止され、周知されている。

 

 階下へ消えていく背中がこちらを一度だけ振り返り、そのまま消えるのを見送ると、アリッサはシャーロットの首筋に触れた。

 

 一時間前と比較して体温が上昇し、脈拍もわずかに早くなっている。感染初期の兆候が出つつあった。成人で自然抗体がないと仮定した場合、初期症状から発症までは二四時間以内。子供の場合はそれより短い可能性が高い。

 

「……その子は、助かるのか」

 

 バインダーの白紙に時刻を書きとめ、症状を併記するアリッサの横合いから、しゃがれた声がかけられた。そちらを見ると、黒人の兵士が額から汗を垂らして上体を起こしている。噛みつかれた肩口の傷は腫れ上がり、ガーゼの下の皮膚には黒ずんだ血管が浮き上がっていた。

 

 ダニエルという兵士だった。ヴラッドの部下で、ベリヤを止めようとした男であることを、アリッサは記憶している。

 

「血清がなければ厳しいでしょうね」

「……その、血清は?」

「捜索中よ」

 

 先程、リアムに向けたものと違う抑揚のない声音でアリッサは応えた。大人の、それも兵隊相手に気を使う必要はない。そして、おそらくこの男はそれを必要としない人間だろう。それはアリッサの勘だったが、確信に近いものでもあった。

 

「そうか……なら、大丈夫だ」

「なぜ、そう思うの」

「あの人だからな。軍曹は……きっと上手くやる」

 

 ダニエルは呻き、喉の奥から絞り出すような声で言い切った。その声は小さく弱々しかったが、口調とは裏腹に、絶対的な決まり事を口にするような断定の響きがある。

 

 アリッサはほんの僅かに、ごくごく小さく眉を持ち上げた。

 

「信頼しているのね」

「あの人はツイてる。それに腕が立つし……なにより、そういう人だ。正しいと思ったことを、かならずやり遂げる。それを引き寄せる……ツキを持ってる」

「それなら、大人しく帰りを待つのね。彼にツキがあれば、あなたもきっと助かる」

「その……子のために、祈ることにする。俺にまでツキが回るには……」

 

 一生分の運がいるだろうなと、そう言ったきり、ダニエルは黙り込んだ。目をやれば、彼は手足を投げ出して力なく横たわっている。アリッサは歩み寄り、腕を掴んで毛布の中に押し戻した。

 

 腕はひどく汗ばんでいた。胸は小さく小刻みに上下し、乱れた吐息がざらついた音をこぼしている。感染が進行していた。抗体が投与済みであっても、感染から二日以上経過しているとあっては予断を許さない。

 

 いつ活性死者に転じるか。おそらく、どれだけ長くともリミットはあと一二時間程度だろう。

 




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大事なやる気の源です。
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