部下の名前を呼ぶ余裕などなかった。こちらの目に浮かんだ恐怖と当惑に気づき、女へ目を向け直したエドモンドが引きつった小さな声を上げると同時に、女だった何かが、彼の喉笛へと喰い付いていたからだ。
「エディ! 畜生、何だ、何だこのクソアマ、イカレてんじゃねえのか!」
ダニエルの上ずった怒鳴り声が周囲の喧騒に塗りつぶされてかき消える。
背後で市民の悲鳴、走り去る足音。転んだ男の呻き。それはそもそも意識になく、女に喉を噛まれたエドモンドが声にならない悲鳴を上げ、喉笛に深く歯を沈めた女を押しのけようと手足をばたつかせる。
それは昔、家の裏庭で蜘蛛に囚われた小さな昆虫の最後を思わせた。ダニエルが駆け寄り、女の脇腹に蹴りをいれて引き剥がそうとしたが、ぐじゅりと嫌な音をたて、ブーツのつま先がめり込んだだけだ。
怖気を感じる不気味な肉音にダニエルが足を引き抜くと、女の腹部から消化液を垂らしながら内蔵が溢れ出る。どう見ても、生きている人間とは思えない。
「ぁ゛、あ゛っ、ぶ……だい、ぢょ!」
そのまま、自分に蹴りを入れたダニエルを意に介すこともなく、女はエドモンドの喉笛を極上の肉を味わうように顎を大きく動かして咀嚼し、首を引いて肉を引きちぎる。
皮膚が裂け、血が勢いよく溢れ出すと、エドモンドはもはや人間の声とすら言えぬ悲鳴を上げた。それはまるで粘性の液体でうがいをするような、神経を逆なでする不愉快なものだった。肌がぞわりと泡立ち、目の前でエドモンドの喉肉がぶちぶちと引きちぎられる。
それがとどめだった。エドモンドはのけぞり、強張った四肢を痙攣させて地面に沈んだ。
「ふざけるな」
自分たちの手にした火器の存在意義を最初に思い出したのはヴラッドだった。M4のセレクターを
ブリーフィングで明示された交戦規則は、武装の有無に関わらず攻撃的であれば、状況に合わせた危害射撃を許可する、だ。すでに部下の命が危ない。
基本に忠実に二発ずつ、二度。四発の小銃弾が、それぞれ間隔を開けて着弾する。一発では確実な殺害を見込めないがゆえに、複数発を叩き込むのは戦闘射撃の基本。だが同じ位置に撃ち込んでも、銃弾が軟組織に運動エネルギーを伝えることで発生する内部破壊の意味は薄くなる。
故に、対人戦闘、ことに至近距離での銃撃戦に置いては、可能な限り複数のバイタルゾーンに
が、それを受けた女は、体を大きくのけぞらせてたたらを踏んだだけだ。崩れ落ちることも喚き散らすこともせず、ただ口にした肉を噛みながら、ゆったりとこちらへの歩みを再開した。
ありえない話だった。小口径とはいえ軍用のライフル弾だ。たしかにソマリアでは威力不足の報告があったが、至近距離での射撃であるし、四発は胸と下腹にしっかりと突き刺さっている。
過貫通であったとしても、主要臓器に大きな損害を受けて活動は不能なはず。なんでこいつは平然としてやがる?
思考がめぐる。しかし本能は分かっている。この女はすでに、この段階で生きているわけがないのだ。銃弾を受けるまでもなく、女の細くくびれた腰のあたりは肉が消え去り、内蔵を失った薄暗い腹腔をのぞかせている。
街頭の明かりが、女の無残な有様をより陰鬱で不気味なものにしていた。投げかける明かりの作る影が、血に染まり歪みきった面貌を、子供の語る悪夢の世界の住人のそれに仕立て上げている。
歴戦の兵士たるヴラッドが理解不能な事態に硬直する間に、部下の理性が限界を迎えたらしい。突然何人かが罵り声を上げると、さんざん叩き込まれた市街地における至近戦闘の基礎をすべて忘れたのか、
M4のまばゆいマズルフラッシュが幾重にも重なり、路地にストロボのように明滅をなげつける。一度に何丁も火を吹いたために銃声はもはや機関銃の掃射のそれであり、分隊員からの弾倉を撃ち尽くす勢いの射撃を受けた女は、立ったまま激しく痙攣すると、仰向けに地面へ倒れ込んだ。
「エディ」
ヴラッドはその女が痙攣するのを見ながら、地面に仰向けに転がった部下へ駆け寄った。彼のベストをひっつかみ、ズルズルと引っ張る。
「伍長、横列で前方警戒、俺の班は左右を固めろ」
エドモンドを女から引き剥がして引きずる。目の前の事態のせいか、逃げる体力すら使い果たしたか、へたり込んだまま動かない市民の隣へ下ろすと、ヴラッドは喉を食い破られた部下の顔を覗き込んだ。
喉は頸動脈をやられたのか、ぴゅ、ぴゅとリズミカルに鮮血を吹き出している。エドモンドは失血と痛みのせいか意識がほとんどなく、うつろな眼差しをこちらに向けた後、ほんの数秒の間にその瞳から熱量が抜けていくのが分かった。
脈を取るまでもなく、彼は死んだ。そうでなくても手当は不可能だ。医療施設は今ここにはない。
「軍曹、不審な民間人が接近! 複数です、すげえ数だ」
エドモンドのまぶたを手で閉じてやると、ヴラッドは部下の報告に顔を上げ、自分のカービンを手にして立ち上がった。
「武装は」
「確認できません」
「アンノウンの詳細!」
「どいつもこいつもズタボロです、畜生!」
「停止させろ。応答がないまま二〇メートルを割るようなら警告射、それでも停止しないなら発砲を各自に委ねる」
戦死した部下の取り扱いは、回収可能時までは安全を確保できる場所で保管するか、それが不能であれば放置だ。装備品は可能な限り回収し、作戦継続のための予備とする。
エドモンドの認識票を引きちぎり、S.O.Eベストからアルミ製のM4用弾倉を引き抜いて、足にくくりつけた多目的ポーチに押し込めるだけ押し込む。
銃も、
「そこでとまれ! 聞こえないのか! こちらは銃で武装している! 停止しろ! それ以上接近するようなら発砲する! 止まれ! 止まれ! 畜生、クソボケ共……撃て! 撃て撃て撃て!」
戦闘指揮を一任されたダニエルが声を張り上げて何度か停止を命じ、警告射を頭上へと放つ。しかし接近する群衆はそれを意に介す様子がないと判断し、発砲を開始した。
エドモンドの装備品を背負ったヴラッドは、弾薬と銃の増加で重くなった身体を膝立ちにし、分隊が射撃を行う方角を見た。
三〇人上の市民――あるいは暴徒――が、のろのろとこちらへ歩みを進めていた。おぼつかない足取りは、歩くというよりはよろめくといったほうが正しいだろう。
街頭が彼らの姿を照らし出したが、そのどれもが、身体のあちこちをひどく欠損しているように見えた。少なくとも、負傷という表現は正しくない。そんな生ぬるい状態ではない。傍目には瀕死の重傷を負った市民にしか見えないが、この状況では何か得体のしれない、理解を超えた恐ろしいものに思えた。
ダニエルの射撃班は、先程の混乱から自力で立ち直ったのか射撃を単発に切り替えていた。
発砲のたびに接近する人影が痙攣し――しかし、死には至らない。悪い夢を見ているようだった。ヴラッドの経験則から言えば、人間はこの距離で二、三発も5.56ミリ弾を浴びれば即死とまでは行かずとも行動不能になるものだ。
「弾倉交換!」
「支援する!」
ダニエルが怒鳴った。ほぼ同時に彼の班員も弾を切らして弾倉を入れ替え始める。ヴラッドは基礎に忠実に返答すると、自分の班員を横一列にならばせ、横列で射撃を開始する。
肩のくぼみにストックの後部を押し付け、引鉄をなめらかに絞る。M4が普段は頼もしく思える甲高い発砲音を散らし、最新鋭ドットサイトの赤くシャープな光点が標的の上で踊った。
撃つ、撃つ、撃つ。ひたすらに撃つ。しかし、接近するそれらは身体を震わせ、あるいは被弾の衝撃でのけぞるだけで、到底致命打を受けているとは思えない。時たま倒れ込む個体もいたが、すぐにのっそりと起き上がると、奇妙な呻きを上げながら腕を前へ持ち上げ、何かを乞うように歩み寄ってくる。
ドットサイトの調整がずれている? 持ち込んだ弾薬の貫通力が高すぎ、過貫通して臓器破壊が不十分か? ぐるぐると頭の中で自分の声が駆け回る。すべては理解し難い現実を前にした、
こいつらはもう死んでる。そうだ、ソレだけは間違いない。だってのに歩いてやがる、死人が歩くなんて無法もいいところじゃないか?
からからに乾いた口の中で唾液が粘っているのが分かった。自分が恐怖を感じているのが理解できた。ただただ恐ろしい。いままで、ライフルで殺せない敵などいなかった。
自分が狙いをつけた標的が、一〇メートルまで接近したとき、ヴラッドは自分の身体が勝手に照準を移動させたのを感じた。
もちろん、対人戦闘においての基本は胴体への射撃だ。しかし、同時に胴体を撃って効果が期待できない場合の対処法も教育されている。防弾装備を身に着けた敵と交戦する際は、重要血管が多く存在し骨盤を内包する腰部か、人間の生命活動を司る頭部を撃ち抜かざるを得ないからだ。
ごく至近距離、危機的状況の対処に置いて、彼がU.B.C.Sに送り込まれる以前に古巣で叩き込まれた対テロ作戦の手管を、身体が勝手に引っ張り出した結果だった。
腰は人間の胴体で動きが最も少なく狙いやすい部分だが、速やかな死を決定づけるのは頭部の破壊だ。目前まで迫った男のずたずたに引き裂け胸骨が飛び出した胸から、どろどろとした黒い液体を垂れ流す鼻の上へ光点が移ると、意識とは無関係に身体が覚えた動作に従い引鉄が絞られた。
それが弾倉から送り込まれた最後の一発だった。後退したボルトがロックされて停止した。トリガーを無駄に絞る前に、繰り返し練習した動作を身体がなぞって弾倉を送り込む。
すでに、頭を撃ち抜かれた男は地面に倒れ込み、ぴくりとも動かない。起き上がる気配もない。
「頭を狙え、頭だ」
弾倉交換に合わせて戦列に復帰したダニエルに命じると、ヴラッドは震える左手でM4のボルトリリースを押し込んだ。閉鎖されたボルトを目視し、命令を受けた部下が狙いを頭へ集中させていることを確かめる。
至近距離だが、極度の緊張下で人間が保てる動作の正確性は低く、弾着は散っていた。数発無駄にして、ようやく頭を撃ち抜く。訓練された兵士たちだが、未知の状況、未知の……悪夢と言わざるを得ない標的相手では仕方がない。
「糞、数が増えてやがる!」
「ラインを後退させないと全滅します! 移動の指示を……畜生、この女まだ……あ゛!」
ダニエルの部下の一人がうめいた。彼の足に、最初に撃ち倒した女が這いずりよって脛に歯を立てていたからだ。彼が痛みにバランスを崩して倒れ込むと、女はそのまま両腕で地面を這い、上にかぶさって腹に噛みつこうとした。が、それは果たせなかった。
ヴラッドがその女をブーツで押しのけたからだ。がちがちと、獲物から引き剥がされて不服そうに歯を鳴らす女の口へカービンを突っ込んだ。歯がフラッシュハイダーで砕かれ、そのまま口の中で膨らんだ燃焼ガスと飛び出した銃弾で頭が弾ける。
「後退する。ダニエル、負傷者と民間人を警護、俺とマディで後衛、ドノヴァンは残りを率いて前衛につけ。小隊本部と合流する」
「了解、聞いたな……移動するぞ。おい、何だ、エディ……大丈夫か」
ダニエルの声に、ぎょっとして振り返ると、足を噛まれた隊員を部下に任せたダニエルの前に、喉から下を真っ赤に染めた、グリーンと迷彩柄の男が立っている。
それは確かにエドモンドだった。すくなくとも、つい先程までそう呼ばれていた男だった。が、閉じたはずだったまぶたの下の目には生気がなく、引きちぎれた喉からごぼごぼと、先程女が立てていたのと同じ嫌な音がした。
「離れろダニー!」
ヴラッドの静止は一瞬遅かった。ふらつく足取りからは想像もつかない素早さで、エドモンドがダニエルに組み付いていたからだ。とっさに腕でそれを押しのけようとしたダニエルの肩口へエドモンドが噛みつき、ダニエルが悲鳴を上げた。
「ぁ、がぁ!」
ヴラッドはカービンのストックパイプを握ると、ストックの底部でダニエルに噛み付いたエドモンドの額を殴りつけた。がくりと頭をのけぞらせ、エドモンドだった何かはたたらを踏む。その額へ銃口を向け、本能のままに発砲する。
あっけないほど小さな穴が彼の額に空き、中身をかき乱した銃弾は反対から飛び抜けた。膝を付き、前のめりに倒れたそれを一瞥すると、先程まで部下だった男を撃ち殺した自分へ集まる視線を無視する。
「移動する。このまま全滅するのは御免こうむる。ダニエル、班を掌握し民間人の警護に当たれ」
仲間に噛みつかれた恐怖と当惑に立ち尽くしていたダニエルは、命令を受け取るとすぐ我に返り、小さく感謝を口にしてうなずいた。彼は血のにじむ肩に触れ、それから班員に命じてへたり込む民間人を立ち上がらせる。
「きりがねえ、何人いやがる」
その間、接近する市民を押し留めていた部下が喚いた。振り向けば、こちらに歩み寄る幽鬼のような集団の数は、先程までの倍以上に膨れ上がっている。
その背後、どこか遠くで爆煙が上がった。火の手は刻々とあちこちへと伸び、それらの投げかける赤い輝きが、歩み寄る敵性市民の姿を影絵のように浮かび上がらせている。
分隊はその場を放棄し、移動を開始した。
そして、すぐにヴラッドは思い至る。他の分隊も自分たちと同じ状況に取り巻かれているだろう事実に。ぞっとしないその思考に急かされ、無線を送ったものの、小隊本部は応答しなかった。
作戦は、投入から一時間と経たないうちに、その計画性を喪失していた。