現在よりずっと後
共和国東部
重犯罪刑務所
若い記者は少々苛立っていた。
オフィスの窓際で燻る生活からどうにか抜け出すチャンスを得られると思っていたのに、目の前の男ときたら俺より"燻って"やがる。
だが記者は辛抱強く待つしかない。
相手の機嫌を損ねれば、それこそ自分の欲望を満たすことなどできないだろう。
遠い異国の習慣を耳にしたことがある。
その国では神官が全ての権限を握っているらしい。
神官が左と言えば左。
右と言えば右。
昨日左と言っていても、翌朝に右と言えば右になる。
なぜかって?
そりゃあ、あんた。
それが
残念ながら、それが本当に神様が神官にご自身の意向を示したものか、それとも神官が神様の名を騙っただけなのか判別はできないが。
辛抱強く待った若い記者は、自らの忍耐力によってついに望んでいたものを得られることになった。
ただ…"その時"まではあと数刻待たねばならない。
記者の欲しい物を握っていた人物は、長年の心労でとても捻くれてしまったようだ。
「……そう、じゃあ君の望む物を与えよう。ただ私はもう歳でね。全てを覚えているわけじゃない。」
「覚えている範囲で結構です、どうかお願いします。」
「ふむ。それでは……ああ!忘れてしまった!何か"飲み物"があれば思い出すかもしれない。」
「………」
若い記者は目の前の男を監視している看守に目配せする。
看守はこの面会室に入った時から、今の今まで眉間に皺を寄せていた。
今回も看守は眉間に皺を寄せて、それから鋭い眼光を記者に向ける。
"お前の考えは分かっているが、そいつは俺が許さない"
この看守は表情で考えを伝える能力があるのではないかと疑いたくなるくらい、彼の意思は強く伝わってくる。
それでも、記者は自前のカバンの中からブランデーとグラスを取り出しながら看守にこう言った。
「長官の許可は得ている。君は下がっていてくれ。」
ブランデーをグラスに注いでやりながらも、記者は目の前の男に愚痴を垂れる。
「…もうこんなやり取りは数十回とやっています。そろそろ話してはもらえませんか?」
「必要なら何百回、何千回とだってやるとも。悪いがね、君。共和国のブランデーは
ブランデーを注ぐ記者の手がピタッと止まる。
彼は怒りと猜疑心を理性で押さえつけたような目で目の前の男の顔を見た。
男はポロッと漏らしてしまった一言をとても後悔している様子だが、覆水盆に返らずの言葉の通り、もうどうすることもできない。
「やっぱり!しっかりと覚えていらっしゃる!」
「………」
「どうして話して下さらないんです!」
「…仕方がないだろう!全部話してしまったら、もう誰もブランデーを持ってきてはくれないじゃないか!」
「ふはぁ、呆れた。…分かりました、こうしましょう。あなたが私に話してくれたら、決まった時期にブランデーを届けさせます。」
「ただの口約束では信用に足らんよ。」
「でも、信用するしかありません。あなたは重犯罪刑務所に収監中の政治犯だ。もう先は永くないし…失礼ながら、共和国政府は何度恩赦しても
「共和国政府は私を飼殺しにするつもりだ。…そうだな。………君は紳士かね?」
「…最も紳士らしい紳士とは言えませんが、それでも紳士です。」
「仕方がない…今の私に選択肢はない。君の提案を受け入れよう。ただ…紳士として約束は果たしてくれ。」
「ご心配なく。」
「なら安心だ。…ところで、私は君にどこまで話したかな?…どうも思い出せない。ブランデーを飲めば」
「もうその手には乗りませんよ?」
「いや、今度ばかりは本気で言っている。その素晴らしい産物を私に恵んで貰えんかね?」
記者はため息をつきながらも、男を言う通りブランデーのグラスを差し出した。
男は手錠の掛けられた両手でそれを掴むと、ゆっくりと味わうように琥珀色の液体を口にする。
しばらくの時間のあと些か頬を紅潮させた彼は、スラスラと流れるように話し始めた。
「…そうだ、思い出した。オスター河畔の戦いの後、辺境伯殿が方伯と軍司令官を始末したところまでは話したな。」
「はい。辺境伯…ゲルハルトはついに望んでいた物を手に入れた。しかし、彼は望んだ物を手に入れたにも関わらず、そこで立ち止まる事が出来なかった。」
「その原因は何だと思う?」
「一般的には、コカインの収入で増強させた国力によって自信過剰になったと思われていますね。でも、私は違う。」
「ほほう。では、君は何が原因だと思う?」
「彼は最初から王国全体を支配下に収めると言う野望に取り憑かれていた。コカインはそのための手段に過ぎず、方伯領はほんの手始めだった。…彼は覇権主義の権化だったのでは?」
「ふははははっ!…まるで分かってないな。」
男は声を挙げて記者の意見を笑い飛ばす。
まるで、とんでもない陰謀説を聞いたかのように。
記者は多少不愉快な顔をしたが、男はまるで気にも留めない。
「……辺境伯殿はある思想家を贔屓にしていた。」
「どういう思想家です?」
「我々の知らん思想家だよ。これは辺境伯殿からの受売りだが…その男の本によれば、人間は必要に迫られてはじめて行動する生物らしい。」
「………つまり?」
「彼もまた、必要に迫られて行動したに過ぎない。」
「ふっ、何を仰るんです?ゲルハルトが辺境伯領の領地に安寧をもたらしたいだけであれば、方伯領を併合しただけで終わったはずです。」
「君は何も分かっていないのだよ。…辺境伯殿は確かに方伯領を併合した。領内の食糧問題は以前比べて格段に良くなったし、擾乱の可能性は下がった。だが、それでめでたしとはならない。」
「…なぜです?」
「何故!?何故か!?そんなことも分からないのか!?国王からすれば、装備を充実させた高練度の軍隊を持った連中が、その腹を満たせるだけの食糧を得て、自分の対岸に居座ってるんだぞ!?これを脅威と言わずして何という!?」
男が突然声を張り上げて、記者は幾分圧倒される。
注がれたブランデーの香りか、それとも回顧による頭脳の活性化か。
彼は今、現役時代の俊英さを醸し出していた。
「………それじゃあ、ゲルハルトは国王との衝突を予測していたと言うんですか?」
「『戦争は終わらせ方から決める物』…それがあの方の口癖だった。それは彼にとって鉄則であり、勝利の鍵であり、しかし
先ほど記者に言われた通り、男はもう決して若くはなく、それどころか老人と呼ぶに相応しい年齢である。
男は一通り語ったあとに激しく咳き込み、記者はその背中をさすった。
そのおかげもあってか、男は幾分か落ち着いたようで、時間はかかったものの、やがて呼吸を整える。
「………我々は貴国に負けた。だというのに、その貴国はあまりにも永く平和を享受し過ぎたようだ。…これでは我々が負けた意味もない。あの時代を、国家を、戦争を、無駄だったなどと言わせてなるものか。」
「………」
「私はようやく分かった。これは私の最後の使命なのだ。カリウス殿も、シュタイヤー殿も、辺境伯殿もアンドレアス殿も皆死んでしまったが、私だけは生き延びた。ここで腐っていくだけの運命だと思っていたが…その理由がようやく分かった。」
「………」
「いいかね、君。これから私が話すことは全て記録してくれ。…我々の全てを今から話すが、これはブランデーなんぞのためではない。我々の同胞や、貴国の犠牲者の死が無駄にならないようにするためなのだ。」
「………ならブランデーは」
「あ、待って。やっぱりブランデーも欲しい。」
記者は再び呆れた顔をしたし、男の背後にいる看守は吹き出した。
おかげで若干場の空気が和んだようにも思える。
男をもっと饒舌にさせるためにも、記者は再びグラスにブランデーを注ぐ。
その後使い古して手帳を取り出したが、すぐに考えを改めて新しい手帳を取り出した。
目の前の男はこれから一国の"生涯"を語るつもりでいる。
この手帳で足りるかどうかも分からない。
「…それでは、改めて。まずはあなた自身のことを聞かせてください。」
「ああ、わかった。」
「あなたの、お名前は?」
「ウンベルト・シュペアー。最終役職はノルデンラント家行政総監。」
「あなたの仕事で、もっともやりがいを感じた部分は?」
「仕事の正面幅が広かったこと。」
「なるほど。…それでは、逆にあなたの仕事の嫌いなところは?」
「仕事の正面幅が広かったこと。…あまりにも。そして、それはどんどん広がっていった。」