墓場で事故を起こした。相手の男は「いったいここはどこだい? あの世かい? この世かい?」と言った。

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墓場の事故

「あんなことに出会ったら、君だって変になるさ」

 と、柳川洋平が力ない声で言った。

 小春日和の日曜日の午後、突然訪ねて来て、部屋の片隅に座ると、溜息をひとつ吐いたきり押し黙っているので、思わず、

「どうしたんだ。今日は妙だぜ。お前らしくもないな」

 と聞いたが、その答えが冒頭の言葉だったのだ。

 

 読みかけのボルヒェルト全集を片付け、到来物のアップルティーを出したが、カップを持つ手が震えている。あけっぴろげで陽気な彼には珍しいことだ。よほどのことがあったに違いない。

 

 洋平は遠い親戚にあたる。子供時分はあまりつきあいがなかったのだが、たまたま大学が同じになった頃から、同年代の気安さもあって、しばしば行き来するようになった。卒業後はリゾート関係の会社に勤めているが、出世は早く、三十才でもう課長になった。私の小説を面白がって読んでくれて、時々材料になるような話を運んで来る。そのついでに、

「別荘を買わないか?」

 と持ちかけるのにはいささか閉口するが、

「そのうち、ベストセラーでも出せたら」

 と言って逃げている。まあ、どう逆立ちしても、何百万部も本が売れるはずはないが、彼の方は大いに期待して楽しみにしている様子だった。ところが、この日は、別荘の話どころではなさそうだった。

「それがね、今朝は殊勝にも墓参りに小平へ行ったわけさ」

 と、切り出した。

 彼の両親は早く他界した。まだ結婚もせず独身貴族を決め込んで阿佐谷の家でひとり暮らしをしている。墓は私の家と同じ小平霊園にあった。以下は彼の話をそのまま書きとめたものだ。

 

      *

 

 いや、相変らず忙しくてね、ここのところほったらかしだったんだ。なにしろ休日は稼ぎ時だからね。お客を案内して現地へ出張だろう。そのくせ代休は取れないときた。お盆にも行けなかったし、ほとんど一年ぶりに行ったのさ。案の定うちの墓だけ草ぼうぼうでね、墓を埋めつくすほど生えてるんだ。大汗かいて掃除して、どうやらまわりの墓並みにきれいにした。やっと気分がすっきりしてね、滞納した税金を一挙に支払った心持ちだった。久しぶりの休みだし、帰ってごろ寝でもしようと帰途についた。彼岸を過ぎたあとだから日曜日といっても墓地はすいていて人気はなかった。そこで、かなりスピードを出して車を走らせたんだ。大山郁夫さんの墓の近くに、三本松が寄り添って立っているところがあるだろう。あそこを通りかかると、左手の松の陰から何かが飛び出したような気がした。いや、姿形は見えなかったがね。あっと思って急ブレーキをかけたとたん激しいショックを受けた。

(何か衝突したな)

 ひょっとしたら人を轢いちまったかも知れないと思った。論理的に考えればおかしい。誰も目にしちゃあいなかったんだから。

 そのまましばらくぼんやりしていた。精神の空白状態とでも言ったらいいか、人気のない墓場の風景が、ぞっとするほどありありと目に焼きついた。いつもは、ただ墓地という一括した概念でしかとらえていなかったんだが、ひとつひとつの墓は、それぞれに人格を持って存在を主張していることがその時始めてわかったよ。……彫刻のある墓、鳥居のあるもの、球体を備えているもの、十字架を埋め込んだもの、いや、何の変哲もない直方体の御影石の墓でさえ実に個性的に見えた。どれもこれもみんなこっちをにらんでいるように感じた。

 

 車を降りて様子を見た。フロントまわりには傷は見当たらなかったが、うしろへまわると、道に誰かが横たわっているじゃないか。心臓がどきんと音を立てた。茫然と立ちつくした。その間は、ものの二、三秒だったと思うが、ずいぶん長い間のような気がした。

 自分が人を轢いたなんて実際信じられなかった。奈落の底へ落ちて行くような感じだった。こんな場合は、駆けよって怪我の状態や生死をたしかめるのが普通だろうが、相手はまったく動いていなかったし、気は動転して、とにかく警察や救急車を呼ぼうと思った。門のそばに管理事務所があったなと走りかけたら、

「おいおい、どこへ行くんだい」

 と、声がかかった。振り返ると、轢いたと思っていた男が半身を起こしてこっちを見ているじゃあないか。ぞっと背筋が寒くなったが、同時にほっと胸を撫でおろしていた。

(なんだ無事じゃあないか)

 まったく命拾いした思いだった。

 男はゆっくりと立ち上がって、頼りない足取りでこっちに歩いて来た。なんだか変な印象の人物だった。第一服装が妙だった。絵に描かれている神話時代の神様がいるだろう……オオクニヌシノミコトとか、スサノオノミコトとかね、あれをずっとみすぼらしくした様子だったよ。白い作務衣を着ているんだ。ズボンも柔道着のようなものだった。髪は長く伸ばしてうしろで束ねていた。髭をぼうぼうと生やし、眉は剃ってしまったのか極端に薄かった。しかも裸足だ。胸に星のマークが縫い取りしてあって、中央に墨で335と番号が書いてある。男は近寄ってくると、いきなりこう言った。

「いったいここはどこだい?」

 頭でも打って記憶を失ったんだなと思った。小平霊園だと言うと、

「あの世かい? この世かい?」

 と、変なことを聞く。この世だと言うと、しばらく考えてから、

「いいや、様子が違う。ここはあの世だ。あの世に来ちまったんだ。この風景は見覚えがあるからな。しかし、どうしちまったんだろう?……そうか、思い出したぞ、走っていた時にあんたの車がぶつかったんだ。おかげでこっちは生き返ってしまった。どうしてくれるんです」

 何を言っているのか理解できなかった。生き返ったなんて言うんだからね。ふと僕は、すぐ近くに精神病院のあったことを思い出した。通りかかると、格子窓から病人が陰気な顔で外を覗いているのを見かけたりするが、あそこから脱走した患者ではないかと思った。だから、こんなおかしな服を着て、妙ちきりんなことを言うんだろう。まあ怪我もなさそうだし、あまり係わりあいにならぬうちに退散しようとしたが、男は恨みがましい目で見ているし、ほとほと弱り果てた。どう対処していいかわからんのだからね。男はこっちの煮え切らない反応に我慢ならないという風で、

「よし、それじゃあ天使を呼ぼう」

 と、言った。

(天使だって?)

 この展開にはびっくりした。まだ実際に天使を見たことはなかったからね。男は、黒い小さな箱をポケットから取り出すと、ちょうど携帯電話をかけるような仕草で顎に当て、大真面目でしゃべり始めた。

「私、三三五号です。ちょっと事故がありまして、私生き返ったんです。そのことでトラブってまして、すみませんが現場までご足労ください」

 まったく芝居がかったやり方だなと思った。かわいそうに、何でもない箱を電話と思い込んでいる。すっかり同情してしまったよ。ところが本当に天使が来たんだ。……いや、羽など生やしていなかったがね、背広に青いネクタイをしめて、ベージュ色のレインコート姿で帽子もかぶっていた。時代がかった灰色のソフト帽だったがね。こんなのを天使と認めたくなかったが、向こうがそう言う以上は、一応天使としておくしかなかった。まあ、病院の看護人かも知れないし、この天使の良識に期待しようと思った。この人物なら変な関係を打開してくれるだろうからね。

 レインコートの男は、僕に挨拶もせず、ポケットに手を突っ込んだままで映画「カサブランカ」のハンフリーボガートみたいな仕草をし、鋭い目で現場を見回した。それから二人は、つまり天使と男は、墓の陰に行って何か話をしていた。やがて相談がまとまったか、連れ立ってこっちへやってきた。と、いきなりレインコートの天使はこう言った。

「君はたいへんな事故を起こしてしまったな。原因はすべからく君のスピードの出し過ぎにある。御蔭で『はの三三五号』が生き返ってしまった。君はこの代償を払わなくてはならない」

 期待に反してこの男までおかしなことを言い出すんだ。僕はこんなシュールレアリスムの世界とはおさらばしたいと、突破口をさがすのにやっきとなった。

(だいたいこいつは何者なんだろう? 格好からして一般人だが……そうか、まあ、いろいろ都合があって患者に話を合わせざるを得ないのだろう) 

 と好意的に解釈して、僕も調子を合わせた。

「で、あなたは天使なんですか? どうも羽が見あたりませんが」

 相手は、目を剥いてにらむと、険しい口調で言った。

「羽だって? 粗悪な想像画の見過ぎだね。どうして天使は必ず羽をつけてなきゃあいけないんだ。私も忙しいんだ。くだらん話はしないでくれたまえ。こうしてる間にも、案件がほら三件……」

 ポケットから電子手帳に似たものを取り出して見せたが、黒い盤面には、数字や記号が緑色で表示され、赤い点がいくつか点滅を繰り返していた。

「近頃はトラブルが頻繁に発生する。人手不足で忙しいんだ。できるだけすみやかに事を解決したいんだよ。ただちに償ってもらいたいんだがね」

 天使は、ちりほども妥協しないぞと言った態度だった。こっちも少しかっとなったね。

「だって、無事だったでしょう。怪我もしていないし」

「とんでもない、彼は本来死んでる人間なんだ。それを君は殺した。死んでる人間を殺すとどうなるか、常識で考えればわかるだろう」

「いや、さっぱりわかりませんね。それに、僕はスピードだって、たいして出してなかった。目に見えれば車を止められる程度のスピードさ。車の前に誰も見なかったんだからね。第一ぶつかった証拠はどこにもないじゃないか」

 車体にショックがあったことはあえて言わなかった。あれだけじゃあ証拠にも何もなりゃあしないんだからね。

 押し問答がいくつかあって、僕はとうとう業を煮やして、

「君達とふざけているほど暇じゃあないんだ!」

 と怒鳴ってしまったよ。すると、天使は『はの三三五号』に目くばせすると、まるで、カラヤンのように手を振り上げ、フルトベングラーのように降り下ろした。ベートーベンの「運命」でも響くのかと思ったよ。だが、聞こえて来たのは騒がしいたくさんの声だった。夏の夕暮れの蝉しぐれのようだった。いや声だけじゃあない。墓の陰から人間が現われたんだ。やはり白い作務衣を着た、おびただしい人間が出現した。彼等は口々に喋りながら、ゆっくりこっちに集まってくる。その光景を見た時には、もう冗談事でないとわかった。

(これは脱走患者なんかじゃあない。いや、現実の人間でさえない。じゃあ誰だ?……こいつはきっと墓場にいる霊だ。なんてこった、こりゃあまぎれもない死者達だ。死者が押し寄せてくるのだ。こんなことってあるかい)

 相手の狂気を云々するどころの騒ぎじゃあない、自分の頭を疑ったね。

 彼等のおしゃべりは、ごっちゃになって訳のわからぬ騒音となっていたが、それでも部分的に聞き取れた。右手から来るふたり連れの男は、

「第一あいつの税金に対する考えはなっちゃあいないんだから、空出張や空会議費の請求なんぞあたり前、よくもずうずうしくのさばっているものだ。給料なんか人の何倍も取ってるのにさ」

「いやあ、給料の高い奴ほどそうらしいぜ、ますます執着心が強くなるんだ」

 などと意外に現実的なことを話している。また左手の女性の三人連れは、

「まだまだあれじゃあ元気ね、当分長生きするわよ、だってねえ、言いたいことは言い放題、したいことはし放題でしょう。まわりはたまらないわよ」

「そうね、だからみんな我慢できなくて、先に逃げ出すのよ」

「でも因果ねえ、寂しい、寂しいって言うけど、しまいにはあの調子じゃあ誰も寄り付かなくなるわ。いい気味だけど。少しは反省するかしら?」

「反省なんぞするもんですか」

 などとかしましい。まあ、聞こえる範囲だけのことだが、ほとんど世間話だ。娑婆のことを言っているのか、あるいは、いわゆるあちらの世界のことを語っているのかは知りようもない。そんなおしゃべりがわんわんとまわりを取り巻いた。僕は、もう恐ろしくて口もきけなかった。

 いつか君に借りたドストエーフスキーの「ボボク」という小説をふと思い出した。ほら、墓場の死者がおしゃべりするあれさ。そういうことが現実にあるとはね。……

 天使は、彼等を見回すと、ぱんと手を叩いた。それが合図で、みんなしゃべるのをやめた。僕はすっかり死者に取り囲まれる形になった。天使が大声で言った。

「さあみんな、君たちは事故を目撃したはずだ。それについて証言してくれたまえ。この男は事実を認めようとはしないんだ。諸君、真実を提供してくれたまえ」

 死者のひとり、頭の禿げた年取ったのが言った。

「わしの見たところでは、少なくとも四〇キロは出してたな。ひどいものだよ。あれじゃあカール・ルイスだってよけきれねえ」

「いや、五〇キロさ。二〇キロ制限のところを倍以上だ。せっかく眠っていたのに、エンジンのひどい音で目が覚めた」

 そう言ったのは、痩せて目の大きい若者だった。だいたい墓場に車を持ち込むのが間違ってるとか、わざと撥ねたんだ、などと、事を大袈裟にする悪意のある発言も飛び出した。僕はたまらずに叫んだ。

「見えなかったんだ。何も見えなかったんですよ。見えない相手に責任が取れるものか」

 僕は必死だった。にわかの裁きに頭も混乱し、すっかり逆上していた。何を言い出すか、自分でもわからなかった。天使は冷ややかに、

「本当に見えなかったのかね、じゃあ、なぜブレーキを踏んだんだね、実際は見えて、あわてて急停止したけれど間にあわなかったと違うのかね。ほら歴然とした証拠が道路に残っているじゃあないか」

 と言って、タイヤの跡を指でたどってみせた。その間中、轢かれた男は、松の根方にしょんぼりと坐ってぼんやり空を見つめていた。生き返った死者だからだろうか? 自分のことが話されているのに、なんだか頼りなかったよ。やがて彼は天使にうながされて、事故のいきさつを話し始めた。

「俺は追っかけをやってたんだよ。いや、長いことかかってやっと見つけた女だった。生前俺はその女に恋をしたが、先に死なれて今まで会えずじまいだった。それがさ、今朝ほどばったり出会ったんだ。向こうは逃げた。多分びっくりしたに違いないさ。俺も死んでからまもなくだから、こういう場合の作法を知らない。で、追っかけたさ。もし夕暮れまでに追い付かなきゃあ、女の城へ入ってしまうと聞いていた。女の城は迷路みたいなものらしいし、第一入城する手続きがたいへん、おまけに馬鹿でかいからめったに会えないらしい。だから必死で追いかけていたんだ。ここの道を横切った時、車が近付くのを感じた。十分渡れる距離だと思った。制限速度を守ってくれていればね。それがあの忌まわしいスピードさ、ガツンとぶつかって娑婆へ舞い戻ってしまった。俺は一体どうしたらいいんだか……折角のチャンスだったのに、情ないのなんのって……どうおとしまえをつけてくれるんです?」

 なあんて言うんだよ。いかにも哀れっぽく、たっぷり被害を受けたといった言い方だった。まわりから同情の声が一斉に起こった。中には同情してすすり泣く者さえいた。天使は、また、ぱんぱんと二度手を叩くと、声を大きくした。

「さあさあ、罪状は明白だ。哀れな被害者を今すぐ救済しなければならない。天界裁判所はここに決定事項を宣言する」

 もう抵抗しきれるものではないと思った。どんな宣告を受けるか、固唾を呑んで待った。

「判決。……罪を認め、『はの三三五号』を直ちに復活させて、追っかけの継続を可能にさせること。以上」

 天使が言い終わると、連中はさっと身を引いた。道があけられて、轢かれた男がおずおずと車の前に出た。彼は、手をだらりとぶら下げたまま目を閉じて、なんだか覚悟の風情だった。

「さあ、早いところやってくれ、忙しいんでね」

 天使は、手をポケットに入れたまま顎をしゃくって急き立てた。

「どうしろと言うんです」

 心臓はどきどきし、足は震えた。

「決まってるじゃないか、さっさと車でもう一度轢くのさ」

「そんなことできません」

「やるんだ。これが判決だ。責任を取りたまえ」

 すったもんだの揚句、とうとう僕は決心して車に乗り込んだ。しかし君、目の前に立っている人間を轢くなんぞ、僕にはできないよ。僕はハンドルに突っ伏した。すると、大勢の死者たちが車に押し寄せてゆさぶったり叩いたりし始めた。顔をあげると、フロントグラスにもリアウインドウにも非難の眼差しがいっぱいだった。僕はもう我慢できなくなって、心を決めるとエンジンをかけた。死者たちはさっと道をあけた。僕はアクセルを思いきり踏んだ。無防備で突っ立っている「はの三三五号」の、ぼんやりした顔が目の前にせまった。嫌な手ごたえがあった。

 いい気持ちはしなかった。だが、そうせざるを得なかった。気が付くと、あたりは元どおりの静かな墓地だった。天使も大勢の死者も、そして、轢いた男の姿も見えなかった。

 

 これで話は終わりさ。墓地の中では速度制限を守れっていうのは、ありゃあ、伊達じゃあないね。


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