俺と吹奏楽部とトロンボーン 作:たにし
俺がトランペットを始めたのは小学五年生の春だった。
ある日のこと、唐突にクソババァからトランペット教室に通うように命令されて、強制的に通わされる事になったのが始まりだった。それから吹き続けてもう五年。ついに今日、トランペットと決別する時がやってきたのだ。
「はーい、それじゃあ各自、自分の希望のパートに移ってください」
見学期間が終えて一年生の入部の日、一通りの楽器紹介を終えると三年生の先輩が指示を出した。その言葉を聞くと足早に俺は動き出した。
早い者勝ちではないのだが、いこういう時は行動の早さが大切だと思う。狙いはトロンボーン。トランペットやサックスと並んで希望者の多い楽器である。
トロンボーンのブースにはトロンボーンパートの三年生と二年生が待ち受けていた。俺が来るとそのうちの男の先輩が前に出て尋ねてきた。
「お、一番乗りだな。経験者か?」
「中学ではトランペットをやってましたが、トロンボーンは初めてです」
「そうか。なら俺が教えてやるよ。俺は二年の野口ヒデリ。宜しくな」
「神崎一です。こちらこそ宜しくお願いします」
それから俺は野口先輩にトロンボーンの吹き方を教わった。トロンボーンはトランペットに比べてマウスピースのサイズが大きかったり音域が違ったりする楽器なのだが、何よりも演奏方法が他の楽器とは一風変わった特徴を持っていた。
「前々から気になっていましたけど、これかなり面白いですね」
俺はスライドを動かしながら言った。
金管楽器にはピストン式だったりロータリー式だったりと、同じ楽器でも様々な設計をしているのだが、トロンボーンはどの楽器にもない独特的な設計であるスライド式── 伸縮管とも呼ばれるスライドを腕で動かして音階を変える仕組みになっていた。
「ねぇ?アンタ本当に初心者?」
少しばかり練習を繰り返し、大体の音が鳴らせるようになったところで野口先輩とは別の先輩が話しかけてきた。その先輩は三年生で何だか露骨に不機嫌そうな顔をしていた。
「中学ではトランペットを吹いてましたが、トロンボーンは初心者です」
「ふーん。なるほどね」
それでも三年の先輩は何やら気に食わないような様子だった。一体、何が不服なのか。
そういえば今は練習時間ではなかった。楽器選びの時間であり、吹かせてもらっているのは適性審査をしていたからである。
「すみません。独占し過ぎたようですね。直ぐに替わります」
事実、用意されたトロンボーンの数は希望者の数よりも足りておらず、一年の志望者達はまだかまだかと待っていた。
「そうね。他の子も控えているというのにアンタ吹き過ぎなのよ。それと野口も同じ男子だからって贔屓し過ぎたらダメだから」
「はは。すみません。なんだか急成長するコイツが面白くてつい時間を忘れちゃいまして」
「まったく、これだから男子は使えないのよ。とっととマッピを洗い行ってきなさい」
露骨に不機嫌な表情を浮かべる先輩に、野口先輩は弱々しい苦笑いを浮かべていた。この人も大変だ。後輩の面倒と面倒臭そうな先輩に挟まれることになるなんてな。
ただ、その先輩は野口先輩への小言を済ませて、野口先輩がマッピを洗いに行ったことを見送ると、顰めた顔のまま俺の方に向いた。そして自らの髪を払い分けると侮蔑に満ちた表情で言った。
「それにたまにいるのよねー。経験者のくせに初心者のふりして入部してくる奴が。自分の腕に自信がないけど褒められてたくてそういう嘘を吐くのかしら?」
その言葉を聞いたとき俺には理解できなかった。いや、言葉の意味は理解していたのだが、何故そんな事を先輩が言うのかが解せなかった。
しかし今までの人生経験から後輩だからといって罵倒であれなんであれ全てを受け入れて我慢してもロクな事にはならないと知っていたし、単純にムカついてもいた。だから俺は不快感を隠すことなく、先輩の前に一歩踏み出して睨みつけた。
「な、なによ。文句でもあるわけ?」
「ええ、ありますとも」
先輩はまさか食ってかかるとは思っていなかったのか、高圧的な態度を続けようとしていたが、声が一変して上ずっていた。
動揺するくらいなら言わなければ良いのに。そんな呆れに近い失望感を抱きながらも俺は真正面から言ってやることにした。
「今の言葉は実に不快でした。何を根拠に俺が経験者だと誤認してしまったのか。是非、お聞かせ願いたいものですね」
「それは…そう!おかしいからよ。初心者があんなに吹けるなんてありえないわ。嘘を吐いているに決まってる!」
「最初に言いましたよね。トロンボーンは初めてと言いましたがトランペットの経験者であると。まるっきりの初心者なんて一言も言っていませんよ」
「うっ、煩いわねぇ!そんなの知らないわよ!いちいち覚えてないわ‼︎」
先輩はばつが悪くなったのか、そっぽを向いて会話を打ち切ろうとした。これ以上、お前の言葉は受け付けないという意思表示というわけか。
卑怯な奴だ。本来ならば無理やりにでも発言の撤回と謝罪をさせたかった。
だけど、それをやったところで、そのあとの収拾ができる自信がなかった。間違いなく縺れる、そして最悪、癇癪でも起こされてトロンボーンパートに入ること自体を拒否される可能性も予想できた。だから業腹だが今日はここまで引き下がる事にした。ただし何もしないで引き下がるつもりはなかった。
「仕方がない人だ…」
俺は深い溜息を吐くと、軽蔑するような視線を向けて肩を竦めた。先輩は信じらないような顔をしていたが、敢えて素知らぬふりをして言った。
「なにか、言いたいことでもあるのですか?」
「アンタ、人を馬鹿にするのも大概にしなさいよね」
先輩は怒気を含んだ真顔で言ってきた。後輩を威圧する怖い顔をしているつもりだろう。だけど、既に俺の中で先輩の威厳は先輩と呼ぶことも阿呆らしく感じてしまう程に消え失せていた。怖くもなんともない。
「人を馬鹿にするですか…」
俺は啓蒙でもするかのように優しい笑顔を作ると、丁寧な口調で教えてあげることにした。
「そう思う心があるのなら数秒前の自分を恥じてからにしてくださいね」
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高校最初の部活動は難ありながらも無事に終わった。いや、無事ではない。希望通りにトロンボーンを吹けるようになったのだが、その先輩とは致命的なまでに深い因縁を作ってしまった。だけど、その程度は気に悩むほどの問題ではない。
それよりも俺は茜色の夕陽が辺りを照らしているなか、一人校門へと向かい歩いているポニーテールを見つけた。
茶髪に揺れる見覚えのあるポニーテール。間違いない。中川夏紀だ。先日の部活動見学で知り合った女子生徒。俺はその背後にひっそりと忍び寄り…。
「中川チョップ!」
中川の頭にこつんとチョップした。どうやら俺は彼女にチョップするのが気に入ってしまったらしい。中川は急なチョップでびっくりしたのか不快感を含んだ瞳をして振り返った。
「なに?…って神崎か?」
だが俺だと分かるとその表情を潜めてくれた。良かった。怒られなかった。チョップしたあとから安心するのもなんだが中川的にはチョップの挨拶は許容範囲であるらしかった。昔、同じことを後輩にやって殺されかけたことがある。だから内心ではかなりのスリル感を味わっていたのだが、そんなことをおくびにも出さず俺は爽やかに言った。
「よっ! 一人か?」
俺は見たままの事実を言った。周囲には部活動を終えて多くの生徒達が群れて下校していたが、どうやら中川は一人で帰ろうとしているようだった。
「そうだけど?」
「なら、一緒に帰ろうぜ」
この発言に別に深い意味はなかった。ただ中川を見かけたので、今日の感想でも話し合えれば楽しいだろうなと思って、誘ってみただけである。
それでも中川は一人でいる事を好む性分なのか、少し迷惑そうな表情をしていた。ただ、ここで重要なのははっきりと拒絶をしている訳ではないということ。ならば、もう一押ししても許されるだろう。
ちなみにだが、俺は迷惑だからと一概に遠慮するほど心の綺麗な奴ではない。それにまだ会って間もない付き合いだが中川は嫌なことは嫌だとはっきり拒絶できる人だと認識していた。だから足をきっちしと揃えて腰の角度45度のお辞儀、最敬礼をしながら言った。
「お願いします中川様!どうか一緒に帰ってください‼︎」
「ええ…」
中川は別の意味で困惑していた。
まぁ、普通に生きていて最敬礼をされる機会なんて、少し値が張る旅館や自動車の販売店のスタッフくらいしかないだろう。それをましてや一緒に帰りたい為だけにする奴はいない。側から見たら大袈裟で馬鹿真面目な野郎に見えたかもしれなかった。
だが、やり方はどうあれ真剣な言動こそが人に明確な反応を求めることができると俺は考えていた。下手な誘い文句を並べてあたかも自然を装い一緒に下校する流れを作るよりも、こっちの方がはるかに効率的かつ合理的な手段だろう。
そして中川の反応は了承か拒絶か。彼女は少し呆れながらも言った。
「…はぁ。そこまで言うなら仕方がないね。良いよ。一緒に帰ってあげる」
「よし!それじゃあ腹も減ったし帰りにマック寄ろうぜ! 」
「それはイヤ」
絶対的な拒絶。ふむ、そこはダメらしかった。
今日のところは大人しく一緒に帰ることにした。
それから俺は中川と二人で下校した。
ちなみにだが中学のときから俺は色々と面倒な立場にいた事もあり、彼女なんて一度も作れたことはなかったし、女子と一緒に下校したことも殆どなかった。
そんな俺が立場とか気にする必要なく二人っきりで下校しているという現状にどれだけの感動を覚えていたのかは語るに語り尽くせないのだが、そのとき中川が訊いてきた。
「アンタってさ中学校のこんな性格だったわけ?」
こんな性格とは女子高生にチョップしたり、最敬礼をしたりする性格のことだろうか。
「いやいや、まさか。中学生の時は超が付くほどの堅物だったよ。これでも吹奏楽部の部長をやっていたからな。部員の規範となるために服装も挨拶も勉強も演奏技術も学校生活おける全てを緩みなくクソ真面目にやっていた」
きっと当時の俺が今の俺を見かけたら、「この堕落主義者が‼︎その腐った根性を叩き直してやる」などと罵って説教をしていただろう。我ながら吹奏楽部の部長でありながら体育会系のような礼節に厳しいクソ真面目な部長を演じていたものだと思う。
中川はそんな昔の俺を想像したのか、苦笑いを浮かべて言った。
「なんだかとっつきにくそうな部長だね」
その通りだ。その時の俺は下手な馴れ合いは良しとはしなかった。そういう役割は全て副部長に任せ。
俺は鬼のように鞭を振るい、副部長が仏のような相談役を演じて飴をばら撒いた。そして副部長から密告された意見を参考にして鞭の振り方を改善する。そんな感じで俺は最後まで鞭しか振っていなかったのだ。
「そうだな。まぁ、間違いなく好かれてはなかったとは思うぜ。嫌われても良いという覚悟でやってたし、厳しくした覚えしかない。今頃、後輩達は煩い先輩が消えて平和になったと喜んでいるだろうさ」
「なんだが寂しいね」
俺が自嘲的になっていると中川が慰めるような口調で言ってくれた。別にそんな言葉をかけられたって過去が変わる訳ではないのだが、同情されてちょっぴりだけ俺は嬉しかったらしい。我ながら女子に同情されただけで喜ぶなんてチョロい男だと思う。
「どうしたの?」
少し黙り込んでしまった俺に、中川はきょとんとした表情を浮かべていた。かつては不良だと決め付けていたこの顔も今では情に熱い優しい女の子に見えた。ただ俺は実直に抱いた中川の印象を伝えるのが少し恥ずかしかったらしい。だから冗談混じりに言うことにした。
「中川って見た目によらず優しい奴だよな」
「見た目は余計だよ」
そして、いつ以来か、また足で軽く小突かれた。俺はそんな反応をする中川が面白くて笑っていたけど、女子に蹴られて笑っている俺は変態だと思う。
「それで、中川はどうだったんだよ中学の時は」
俺はお返しと言わんばかりに中川に聞き返してみた。だけど、中川は自信がなさそうな笑みを浮かべて言った。
「私はそうだね。全然だったかな。とくに何もしないで過ぎた三年間って感じ。今思えば何か熱中できる部活動に入っていれば良かったと思ってるよ」
俗に言う帰宅部という奴だったというわけか。
俺にとって帰宅部というのは理解しがたい存在だった。なんせ俺が部活動に全力を注いでいるなか奴等は授業が終わるとせっせと帰宅しているのだ。かといって物凄い勉強をしているわけではない。思考原理から真逆の存在。理解できるはずがない。そう思っていた。ただ、それはもう昔の話。目の前で笑う女子は帰宅部ではない。
「安心しろよ。もう暇にはならないだろうからさ」
「どういうこと?」
俺がポツリと言った言葉に中川はきょとんした顔を浮かべていた。だから俺は決め顔で言った。
「お前が吹奏楽部員になったからだよ。吹奏楽部は、サンフェスやコンクール、学校行事やアンコンに定期公演と年中無休の大忙しだ。お前を退屈になんかはさせないぜ」
まぁ、北宇治なので質が保証できないことは伏せておいた。サンフェスはともかく今の実力ではコンクールは府大会が限度だろうし、それにアンコンは出場すらしていない様子だった。だが、そこは追々何とか改善していけば良いと思っている。何事も可能性を数えて前向きに考えることが大切だ
「まぁという訳で今はがむしゃらになって頑張ってみろよ。サックスの練習をさ」
「うん、それなんだけど私サックス落ちちゃったんだよね」
中川は苦笑いを浮かべて言った。
「え、マジ?」
「うん。マジ。それでなんかよく分からないうちにユーフォとかいう謎の楽器をやらされる事になった」
ユーフォ。ユーフォニアムか。
『先輩ってなんでソロ吹かないんですか?』
その楽器を思い浮かべたとき、それに連想してか、あの口喧しい後輩の顔のことを思い出してしまった。
俺がいた北中には口喧しい後輩と言えば二人いた。一人は噂好きでマシンガン級の口数の多さを誇るトロンボーンの後輩。そしてもう一人は一見すると地味な奴なのだが、俺にとってはそいつが一番厄介な存在だった。
奴は普段は人畜無害な顔をしているくせに、ここぞと言う時に核兵器級の爆弾を落としてくるのだ。しかも、内容は痛烈なまでに皮肉が効いており、それを悪意とかなく無意識で言ってしまうのだから、なおのこと始末が悪かった。
中学のアンコンのときだって、アイツの爆弾のせいで俺は下らない面子のために後輩とソロを争って正面対決することになってしまったのだ。
あのとき俺は後輩にソロを吹かせようと考えていた。実力が俺よりも少しだけ抜きん出てる彼女に吹かせた方が相応しいと判断していたからだ。周囲もリーダーである俺が当たり前のように決めていたので、何も異議を発することなく黙っているようだった。
しかし、アイツの一言を始まりに「普段から偉そうなことを言ってるくせに後輩にソロを譲って恥ずかしくないの?先輩として、部長としてのプライドはないの?」みたいな雰囲気が作られてしまい、ついには俺が
『そんなに文句あるなら俺がソロをやってやらぁ‼︎』
とキレたことで後輩との全面戦争が始まってしまったのである。
あの時ほど練習を頑張った事はなかった。
勉強中だろうが、食事中だろうが、睡眠中であろうが関係なく、トランペットを吹いていなくても、一日中、時場所構わずトランペットのことだけを考えていた。日常的に唇が痛いのは当たり前で、なかなか思うような音が出せず募るストレスのせいで病んでしまったのだろう、あの頃は吐血と腹痛により何度もトイレに駆け込んでいた。また手も何十時間も続けてトランペットを握っていた影響で皮膚や骨格が歪に変形してしまってもいた。
それでも追い越せない実力差。天才を凌ぐということを本当の意味で思い知らされた数ヶ月だった。
まぁ、結果論を言えば彼女のいらぬ一言が俺やグループの成長を促す起爆剤となったわけだから文句は言わないけど、あの野郎の爆弾はもう懲り懲りだ、というのは心からの想いであった。
「おーい。神崎、息してますかー?」
どうやら過去の疲労が顔に滲みでいたのか、気が付くと中川が目の前で手を振りながら呼びかけていた。
「あ、中川か。お前は口の悪いユーフォ吹きになってくれるなよ。頼むから爆弾発言とかは絶対にしないでくれ」
切実な願いだった。
あの爆弾のせいで俺の寿命は三年減った。
「はぁ。それはないと思うけど、大丈夫?」
「大丈夫だ。少し懐かしい記憶を思い出しただけ」
そう。かつて胃腸に空いた古傷が疼いただけに過ぎないのだ。ただ、それも今思い返してみれば良い記憶にはなるはず──
『部長が倒れたぞー‼︎誰か、先生を呼んで来て‼︎」
いや、ならないな。やはり忌むべき過去だった。忘れることに努めよう。そうして俺は切り替えて言った。
「まぁ、同じ金管楽器のユーフォなら、何かと関わる機会もあるだろうし、合奏の席も近いだろうから、これからも宜しくな」
明日から本格的な部活動の日々が始まる。
俺は中学生の頃とは楽器も気持ちも切り替えて、北宇治高校で新しい吹奏楽を見つけようと心から誓った。