京都府警・捜査一課に所属する黒瀬 司は、祇園の一角でゴミに塗れた謎の少女と遭遇する。警察官の責務としてその少女を一時保護するが、経歴を調べた司はその詳細を見て愕然とする。そしてその日から司と少女の不思議な共同生活が始まっていった。

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古都の白雨

 それは、数奇な出会いだった。

 

 京都府京都市東山区、つまりは祇園四条の大通りを東に抜けた帰り道。6月という梅雨の時期もあり、雨が降りしきる中、紺色の傘を差してグレーのレインコートを羽織る男はトボトボと家路に向かって歩いていた。

 

 年は30代後半と言ったところだろうか。長身痩躯で髪はボサボサ、目つきは狼のように鋭く、高い鼻に薄い唇。すれ違う観光客がその異様さに避けて通る程の圧力を持った、とてもカタギには見えない異様な男だった。

 

 通り沿いに並ぶブランドショップの美しい照明が、その男の影をより一層濃いものにしていた。何に興味を示すでもなく、男はただ家路に向かって歩き続ける。

 

 憂鬱な日々、無残な死体を見る毎日。しかしそんな男にも唯一の救いがあった。仕事から解き放たれ家路につく瞬間こそが、男の心を唯一癒やしていた。

 

 腕時計を見ると午後十八時二十五分。男はふと魔が差し、行きつけのバーで酒でも引っ掛けようと左の脇道に入った。幅二メートルもない細い道路を歩きながら、男は更にその先に枝分かれする脇道にも目を配った。もはや職業病だが、この警戒心こそが男をここまで生き長らえさせた要因でもある。

 

 そうして気を配っている内に、男の目にあり得ない色が飛び込んできた。「赤」。それも血のように赤い色をした何かが、地面にうずくまっていた。

 

 それもゴミ集積所の隣にだ。男はその赤い色から目が離せなくなり、足を止めて硬直した。よく見ると、それは小さな子供だった。子供が赤色のフード付レインコートを羽織り、ゴミ袋の隣に座り込んでいたのである。

 

 その小柄な子供は靴も履かず裸足で、雨に濡れて全身がずぶ濡れになっていた。男は見るに耐えずその子供に近寄り、自分の傘を子供の真上に掲げ、同じ目線にしゃがみこんで声をかけた。

 

「ボク、どうしたのかな?迷子?」

 

「......」

 

 その問いも虚しく、子供は一言も喋らない。俯いているせいで、その表情も伺いしれない。男は努めて再度優しく問いかける。

 

「ボク、こんな寒い所にいたら風邪引いちゃうよ?おじさんと一緒に近くのお巡りさんのところに行こっか、ね?」

 

「......」

 

 子供を保護する義務がある。無言で返されても尚男は諦めず、胸の内ポケットから黒い手帳を取り出して俯く子供の前に見せた。

 

「怪しい者じゃない。おじちゃんは京都府警の刑事さんなんだ。ほら、見てごらん?」

 

「...刑...事...?」

 

 その体がピクッと動き、子供は男の声に反応する。

 

「ああそうだ、安心していい。おじちゃんが見つけたからにはもう大丈夫だ。ボク、名前は何ていうの?」

 

「...ボク...じゃない。あたしは...」

 

「そうか、ごめんごめんお嬢ちゃんだったね。名前は?」

 

「...あたしは...巻島...玲子」

 

「玲子ちゃんって言うんだね。刑事さんの名前は黒瀬 司だ。よろしくな玲子ちゃん」

 

「...くろせ...つかさ?」

 

「ああ、そうだよ」

 

 玲子はようやく司に向けて顔を上げた。年は10歳にも満たないだろうか。しかし司はその目を見て愕然とした。まるでこの世の地獄を全て見尽くしてきたかのような、虚ろな目をしていたからだ。薄汚れてはいるものの目鼻立ちは整っているが、その目が少女にこれまで起きた過酷な人生を物語っていた。

 

 司はポケットからハンカチを取り出し、その少女の顔を優しく拭った。顔についた雨水を吸い込んでハンカチがみるみる湿っていくが、そのおかげで拭けば拭くほど、その少女本来の美貌を取り戻していくようだった。その目を見て司は尚も問いかける。

 

「よし、おじちゃんと一緒にお巡りさんのところに行こう。お父さんとお母さんも心配してるよ?」

 

「...やだ」

 

 玲子は横に首を振り、明確な拒否反応を示した。司はその目を見つめながら、疑問を口にする。

 

「お巡りさん嫌い?」

 

「...きらい」

 

「じゃあ、おじちゃんの事も嫌い?」

 

「......」

 

 玲子は無言だった。司は内心ため息を付いたが、このまま放っておくわけにも行かない。寒暖差の激しい京都に置いては、このまま雨の中夜を迎えれば一気に気温が下がる。放っておけば肺炎にでもなりかねない。近くの東山警察派出所に連絡しようにも、ヘタに警戒心を与える結果となるだろう。司は少女の前にしゃがんだまましばらく考えた。そしてこの少女を保護するため、一つの案が浮かぶ。司は極力優しく微笑みながらそれを口にした。

 

「そうだ玲子ちゃん、お腹空いたでしょ?おいしいご飯食べに行こう、ね?」

 

「...ご飯?」

 

「そうだよ、近くに知り合いの店があるんだ。パスタとか最高に美味いんだよ?」

 

「行く!!」

 

 玲子の表情が急に明るくなり、その場で立ち上がった。このような身なりだ、当然腹も空いているだろうと司は考えたが、どうやら正解だったようだ。立ち上がると少女は身長140センチにも満たない小さな体で、180センチはある司が見下ろす程だった。司も立ち上がり、傘を差しながら少女の肩を支えた。

 

「よし、じゃあ行こうか」

 

「手。」

 

「ん?」

 

「手つないで、ツカサ」

 

「ああ、もちろんいいよ」

 

 玲子の小さな手を握り、司は一路行きつけのバーへと向かった。

 

 時間が早かった事もあり、傘を畳んで入り口を潜ると客は一人も居なかった。一番乗りである。店内は薄暗く、カウンター席が10席ほど並んだだけの、奥に細長く小さな店だ、その中でグラスを磨いていたマスターが、こちらに目を向けてきた。

 

「おお、いらっしゃい司さん」

 

「やあマスター、お邪魔するよ」

 

「ご注文は何に...」

 

 そう言いかけたマスターの顔が曇った。右手に握る小さな子供を見た瞬間だった。マスターは眉間に皺を寄せ、あからさまに嫌悪感剥き出しの表情となり、大きく溜息をついて腰に手を当てた。

 

「...司さーん、困るんですよねぇ?そういうの連れてこられても、うちは保育所じゃないもんでね?」

 

 それを聞いて司の手を握っていた少女の手に力がこもる。普段は気のいいマスターがこのように露骨な顔をするとは、事情を聞かねばなるまいと司は考えた。

 

「何かあったの?」

 

「...いえね、最近ゴミ荒らしが酷くて、どうやらその子がやってるみたいなんですよ。この通りの界隈じゃ、噂になってるってもんでして」

 

 司はそれを聞いて納得した。握っていた玲子の手を離し、赤いフードをかぶった頭をポンポンと優しく撫でると、小さく頷きながらマスターに微笑を返した。

 

「ならいいじゃないか。俺がこの子を見つけたからには、それも今日で終わる。この子の身柄は、俺が責任を持って預かる。マスター、おしぼりをいくつかもらえるかな?」

 

「...まあ、司さんがそう言ってくれるのなら助かりますがね。今お持ちしますんで、少々お待ちを」

 

 そう言うとマスターは保湿機を開き、温かいおしぼりを四本まとめてカウンターの上に置いた。司はそれを手に取り、袋を破いて玲子の顔と手足を拭いていった。

 

「女の子は清潔にしなくちゃな。サッパリするだろ?」

 

「...うん」

 

 温かいおしぼりの湯気に包まれ、玲子はされるがままにじっとしている。ハンカチで拭き取りきれなかった顔の汚れが取れ、その少女本来の真っ白な肌がみるみるうちに姿を表した。汚れたおしぼりをマスターに返し、司は笑顔でチョンと少女の頬を軽くつつく。

 

「よし、きれいになった。席に座ろうか、よっと!」

 

 司は玲子の両脇を抱えあげ、背の高いカウンター席へと玲子の体をそっと乗せた。そしてその隣に腰掛け、カウンターに寄りかかるとマスターに声をかける。

 

「マスター、マティーニを一つ。あとこの子にはコーラを頼む。それにミートソースと、カルボナーラもよろしく」

 

「へいへい、只今!」

 

 マスターが厨房へ行く間、司は玲子のフードを下げて、濡れた髪をハンカチとおしぼりで拭い去った。先程よりも明るい表情で、玲子が尋ねてきた。

 

「ツカサ、カルボ...ナーラって?」

 

「卵とチーズを絡めたパスタだよ」

 

「なにそれ、美味しそう!楽しみー!」

 

「へっへー、期待してろよ?ここのは最高だぜ?」

 

「うん!」

 

 するとマスターがドリンクを先に作り、二人の待つカウンターにそっと乗せた。

 

「マティーニとコーラ、お待ち!」

 

「ありがとうマスター。勝手にコーラ頼んじゃったけど、良かったかな?玲子ちゃん」

 

「うん、コーラ大好き!」

 

「そうか、なら良かった」

 

 司がマティーニの入ったカクテルグラスに口を当てた時だった。玲子が司のスーツの裾を引っ張ってきた。

 

「ツカサー、カンパイしないの?」

 

「え?」

 

「あたしのお父さんがよくやってたんだー。カンパイって」

 

「...ああ、そうだね。乾杯、玲子ちゃん」

 

「カンパイ、ツカサ!」

 

 二人は軽くグラスをぶつけ合う。すると玲子は、ストローで一気にコーラを飲み干してしまった。司はそれを見て、マスターに再度注文する。

 

「マスター、この子に好きなだけコーラを頼むよ」

 

「じゃあ、特大ジョッキでお持ちしましょうかね!」

 

「ああ、それで頼む」

 

 マスターはワンパイントにも近い樽のようなジョッキにコーラを注いできた。それを見て玲子が歓声を上げる。

 

「わぁーツカサ見て見て!すごいよこのコーラ!!」

 

「良かったな。何杯でも飲んでいいからな」

 

「うん!」

 

 玲子が夢中でコーラを飲んでいるうちに、マスターが厨房に戻り皿を2つ持ってきた。

 

「へいお待ち!カルボナーラにミートソースでございます」

 

「ふわぁ〜、いい香りー!」

 

 玲子は2つの皿を見て目をキラキラさせていた。司はミートソースを、玲子はカルボナーラにフォークをつけた。

 

「...んんー、美味しい!フワフワだよツカサ!」

 

「だから言っただろう?ここのは最高に美味いって」

 

「ねえねえ、ツカサのそれも食べさせて!」

 

「いいよ、食ってみな」

 

 ミートソースの皿を差し出すと、玲子はグルンとフォークに巻きつけて、口に頬張った。

 

「んんー!これも美味しいー!!ツカサずるい、これと交換して!」

 

「ハッハ!いいよ、じゃあ俺がカルボナーラ食べるね」

 

 豊潤なひき肉とトマトを煮込んだミートソースに、玲子は酔いしれていた。司もカルボナーラに手を付け、2つの味を堪能した。全てを食べ終わり、玲子は満足そうにため息をつく。

 

「はー、食った食った!美味しかったねツカサー」

 

「だから言っただろう?ここのはガチで美味いって」

 

「うん!」

 

「まだ足りなかったら、注文していいからね」

 

「もうお腹いっぱい」

 

「そうか、なら良かった」

 

「それでツカサ、さっきの話だけど」

 

「ん?」

 

 玲子は握っていたフォークを皿の上に置き、カウンターの椅子を司のいる右側にクルンと向けた。

 

「あたし、警察には行かないよ」

 

「それは困るな。おじちゃんも一応警察官なんだし」

 

「なら一人で行けば?」

 

「そういう訳にはいかない。玲子ちゃんの家族も探さないといけないし、そこは協力してほしい」

 

「んー、じゃあそれは後で考える。今日はツカサの家に泊めて!」

 

思わぬ提案に、司は驚いて大きく目を見開いた。

 

「それはだめだ。お巡りさんの所へ行くのが先!」

 

「ツカサのお部屋、見てみたーい!」

 

「困ったな...」

 

 司がカウンターに肘を付き頭を抱えているところへ、マスターが口を挟んできた。

 

「いいんじゃないですか?何かあれば私が証人になります。その子の不憫な生活は、この通りじゃ有名ですからねえ。正直いなくなってくれると、こっちも助かるんですよ」

 

「マスター...」

 

「幸い司さんの住まいはこの近くだし、手間取る事もない。その子の事に関して、今まで見て見ぬ振りをしてきたんだ、そのくらいのことはさせていただきますよ」 

 

「...そうか、分かった。でも今日だけだ。明日には一緒に警察に行くからな。そのつもりでね玲子ちゃん」

 

「えー?!」

 

「えーじゃない!おじさんだって暇じゃないんだ。君の身元をはっきりさせておかないとな」

 

「うー、分かった...」

 

「よし、じゃあ行こうか。マスター、お勘定」

 

「へい、3500円になります」

 

 代金を払い終わり、玲子が裸足な事を受けて、司は玲子を抱えあげて大通りに出た。傘持ちは玲子担当だ。その途中にあった靴の量販店に寄り、玲子の足に合ったスニーカーとソックスを買うとその場で履かせた。

 

「うわー、靴なんて履いたの久しぶり!」

 

「久しぶりって、ずっと履いてなかったの?」

 

「そうだよ、ありがとうツカサ!」

 

 そして赤いレインコートの下に着た汚れた服を替えるべく、靴屋の隣にあった服屋のキッズコーナーにも寄り、玲子に合う服とパジャマを数点買い込むと、店を出た。

 

 四条通りを直進し、八坂神社の手前を左折した先にあるオンボロアパートの階段を二人は登った。そして部屋の扉を開けて入るなり、玲子は嬉しそうに叫んだ。

 

「うわー、きれいだね!予想してたのと大分違った!」

 

「そんなことより玲子ちゃん、お風呂入るよ!体中生ゴミ臭くてかなわん!今お風呂沸かすから」

 

「お風呂?ツカサも一緒に入ろうよ」

 

「俺はいいから、一人で入りなさい!」

 

「でもあたし、一人でお風呂に入った事、あまりないんだ。ツカサに洗ってもらえると助かる」

 

「えーと、あー...OK、分かった。ゴシゴシ洗うから覚悟しとけよ?」

 

「うん!」

 

 司は入り口の右手にある風呂場に入ると、ガスの電源を点けてお湯を貯め、風呂の準備を整えた。古い追い焚き式の湯船である。その間玲子は、居間にあるテレビのリモコンをオンにしてニュース番組を食い入るように見つめていた。

 

 居間に入った司はそれを不思議そうに眺めていたが、しばらくして風呂にお湯が溜まったセンサーが鳴り、司は腰を上げてユニットバスに入り、手を差し入れてお湯の温度を確認した。丁度良い湯加減である。司は居間にも聞こえるよう大声で玲子を呼んだ。

 

「玲子ちゃーん!お風呂沸いたよー」

 

「はーい!」

 

 トタトタと玲子が脱衣所に入ってきた。司は玲子の服を脱がし、汚れきったレインコートや衣服を洗濯機へと放り込み、洗剤と芳香剤を入れて電源をオンにし、かき回した。そして自らも着ていたレインコートとYシャツ、ズボンを脱ぎ、籠の中に入れてトランクス一丁の姿となる。

 

「はい、まずはシャワーで洗い流すよ!」

 

「うん!」

 

 司は全身お湯でびしょ濡れになりながら、玲子の頭から足のつま先までシャワーを当てて汚れを洗い流した。

 

「はい、次は湯船に浸かる!」

 

「はーい」

 

 玲子は少し熱めな湯にそっと足をかけて湯船に浸かった。しかし司が湯船に入らないのを見て、玲子が問いかけてきた。

 

「ツカサも入りなよ」

 

「俺は洗い役!後で俺も入るから、玲子ちゃんはまず体をきれいにしてね」

 

「分かった。はー、何日ぶりの風呂だろう」

 

「そんなに入ってなかったの?」

 

「一週間は入ってなかったんじゃないかな」

 

「じゃあ洗いがいがあるね。湯船から上がって。頭ゴシゴシするから」

 

 司はバスチェアを用意し、その上に玲子を座らせた。そして手に余る程のシャンプーを盛り、玲子のセミロングの髪になじませていく。

 

「痛くない?」

 

「大丈夫、気持ちいいよツカサ」

 

 指の腹でマッサージするように玲子の髪を洗い上げ、お湯で流す。そして司が普段滅多に使わないトリートメントを手に取り、玲子の髪にじっくりと擦り込んでいく。そして再度シャワーをひねり、トリートメントを洗い流す。

 

 それが終わると司は垢すりを手に取り、ボディーソープを染み込ませて玲子の体の隅々まで磨き上げた。最後に洗顔ソープで顔を洗わせて歯も磨かせ、無事玲子の体はきれいになった。洗い終わった玲子は再度湯船に浸かり、感無量の表情だった。

 

「はー、ありがとツカサ!サッパリしたよ」

 

「そいつはよござんした。俺は肩が凝ったわ」

 

 司は左肩を掴み、ゴキリと首の骨を鳴らした。それを見た玲子が湯船の縁に寄りかかり、声をかける。

 

「ツカサ、次はあたしが洗ってあげるよ。そのパンツ脱いで」

 

「いやいや!それは遠慮しておきます!」

 

「そう?照れなくてもいいのに」

 

「まあいろいろと問題が、ね」

 

 玲子を風呂から上げてバスタオルで体を拭き、下着とパジャマを着せてドライヤーで髪を乾かし、一端の美少女の姿に戻った。ざっくばらんな黒髪さえ整えれば、どこぞのご令嬢だと言われても不思議ではない品のある顔立ちだ。しかし身元不明な現在は、あくまで推察でしかない。

 

 司はその後一人でのんびりと風呂に浸かり、その日一日の疲れを癒やしたのだった。

 

 風呂から上がると、玲子はまたもテレビに釘付けとなっていた。2DKの狭い部屋ではあるが、一応最低限の家電は揃っている。ベッドにテレビ、冷蔵庫、電子レンジと、普段の生活には困らない程度には整っている。

 

 司は隣の部屋でドライヤーをかけて髪を乾かし、寝間着に着替えて居間に戻った。玲子は相変わらずニュース番組に夢中だったが、それには構わずベッドに腰を下ろした。

 

「玲子ちゃん、喉乾いたら冷蔵庫にお茶とスポーツドリンクが入ってるからね」

 

「乾いた!」

 

「どっちがいい?」

 

「スポーツドリンク!」

 

「OK」

 

 司は立ち上がり、冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを取り出すとキッチンに置いてあるコップも手に取り、強化ガラス製のテーブルに置いて並々と注いだ。それを玲子は一気に飲み干す。司は部屋の窓が開いている事に気づき、テレビの棚を跨いで閉めた。外は相変わらず雨が降り注いでいる。

 

 司もベッドに腰掛けて、スポーツドリンクを一杯飲み干した。そしてふとTV画面に気を向ける。

 

 そこには、今自分が担当している事件が映っていた。京都で起きている連続猟奇殺人事件の様相だ。正直あまり見たくはなかったが、何故この子がこんなニュースに釘付けになっているのか、理解できなかった。司はそれをそのまま口にした。

 

「玲子ちゃん、何をそんなに夢中になってるの?」

 

「ううん、何でも無い」

 

「そう、ならいいけど。そろそろ寝ようか、玲子ちゃんも疲れたでしょ?」

 

「そうだね、寝よう」

 

「玲子ちゃんはベッド使っていいからね。俺は隣の部屋で寝るよ」

 

「うん分かった。ありがとうツカサ」

 

「明日は早いから、なるべく早く寝るんだよ?」

 

「はーい」

 

「OK、おやすみ」

 

 司は腰を上げると隣の空き部屋に敷布団を用意し、そのまま就寝した。居間からテレビの音声が聞こえる。そのままうつらうつらと意識が遠ざかろうとした、その時だった。

 

 自分の懐に、何かがもぞもぞと入り込む感覚が襲った。司は咄嗟に枕元に忍ばせた、ベレッタM92F自動拳銃を手に取ったが、その柔らかい感触、嗅ぎ慣れたシャンプーの匂い、それを感じてため息を付いた。布団に潜り込んできたのは、玲子だった。

 

「玲子ちゃん、脅かすなよ。びっくりしたじゃないか」

 

「ごめん。違う場所で寝るの、慣れてなくて」

 

「...ここのほうが落ち着く?」

 

「うん。ツカサの隣なら安心」

 

「そうか。じゃあこのまま寝よう」

 

「ありがと、ツカサ」

 

「構わないさ。おやすみ、玲子ちゃん」

 

「おやすみ、ツカサ」

 

 司は玲子の腰に手を乗せて、二人は深い眠りに着いた。

 

 そして翌日、司は焦げるような匂いに気づいて目が覚めた。何事かと飛び起きると、キッチンで玲子が朝食を用意していた。

 

「ツカサ、起きたー?今卵焼きとベーコン焼いてるから、少し待ってね」

 

 司は慌ててキッチンに駆け寄ったが、椅子の上に乗り器用に油を敷いたフライパンを揺すっている。しばらく見ていたが、特に問題なく調理はできているようだった。そのまま玲子に任せて問題ないと判断した。

 

 洗いっぱなしの皿を二枚取り出して並べると、玲子はその上に料理を盛り付け、満面の笑みで居間に運んできた。

 

「はい、お待たせーツカサ」

 

「お、おう。ありがとう玲子ちゃん」

 

「それじゃ、いただきます!」

 

 二つの皿の上に乗せられたのは、まごうことなきスクランブルエッグとサラダだった。そこにベーコンのすじ肉が合わさり、いい香りを醸し出している。司はその料理にフォークをつけ、口に運んだ。

 

「ん!...美味い」

 

「ほんと?良かったー!」

 

 世辞抜きに、玲子の作った朝食は美味かった。絶妙な塩加減。わずか10歳にも満たない程の少女が、このような朝食を作れる事に司は驚いた。そのまま全てを食べ終わり、司は玲子に称賛の言葉を送った。

 

「おいしかったよ玲子ちゃん!」

 

「へへー、ありがとう。昔から作ってたからね。このくらいはできるよ」 

 

 昔から、とは、司の心に引っかかるものがあった。こんな小さな子供が「昔から」というのには、何かしら訳があるに違いない。

 

 司はそう思いながら玲子を見た。とにかくこの子の素性を知らないことには、手の施しようがない。司は改めて玲子に問いただした。

 

「話は変わるけど玲子ちゃん。今日はおじちゃんと一緒に警察に行ってもらうからね。といってもすぐ近くにあるから、大した距離じゃないんだけど」

 

「いいよ、分かった。ツカサが行ってほしいなら、あたし行くよ」

 

「まずは君の素性を知りたい。そのためには、警察の端末がどうしても必要なんだ。済まないが、頼む」

 

 そして相変わらずの雨の中、グレーのレインコートを羽織った司と服を新調した玲子は、歩いて三分程の距離にある東山警察署の派出所へと足を運んだ。入り口をくぐると、司は警察手帳を署員に見せる。

 

「京都府警・捜査一課の黒瀬 司警部補だ。済まないが端末を借りたい。よろしいかな?」

 

「ハッ、どうぞご自由にお使いください!」

 

「ありがとう」

 

 そして司は玲子を椅子に座らせると、自分もオフィスチェアに座り巻島 玲子の名前を端末に入力した。しかしその後に出てくる画面に表示されたリンクには、何故かアイルランド解放戦線だの、イラン・イラク戦争だのと物騒なキーワードばかりが羅列されていた。試しに司は、アイルランド解放戦線のリンクをクリックした。

 

 そこに表示されていたのは、数年の時を超えて爆発する超精密型爆弾をいくつも作ったとされる時計技師・巻島 浩史(まきしま ひろし)の素性だった。

 

 そして欧州・アラビア諸国に向けての破壊的テロ計画を数多く実行したとされる、妻である巻島 加奈子(まきしま かなこ)の名前も綴られていた。

 

 その娘である巻島 玲子に関しては、存在を覗いて一切の供述がない。玲子の両親は全世界に指名手配され、現在も逃亡中と記されている。

 

 司は我が目を疑った。今目の前にいるこの幼い少女の両親が、悪名高いテロリストなどとは信じたくなかった。

 

 司は端末の隣で画面を見つめる玲子に、そのまま思った事を聞いた。

 

「玲子ちゃん、お父さんとお母さんは今、生きているの?」

 

「わかんない。多分死んでる」

 

「最後にご両親と会ったのはいつ?」

 

「三年前。顔が変わってたから、最初は分からなかった」

 

「...つまりそれは、顔を整形して日本にやってきたって事かい?」

 

「そうみたい」

 

「と言うことはパスポートも偽造か...その後お父さんとお母さんがいないまま、玲子ちゃんは日本に取り残されたんだよね。その間ずっと一人だったの?」

 

「ずっとではないよ。お父さんの知り合いっていう人の家に住んでた。それにあの二人はあたしに遺言を言いに来ただけだったからね」

 

「どんな遺言だったの?」

 

「殺せ。そして生きろ。これが遺言」

 

「玲子ちゃん、それは間違っている。誰かを殺さなくても生きていける。おじちゃんがそうだから」

 

「ツカサだって、誰かを殺した事あるでしょ?」

 

 司は幼い少女に真顔で聞かれ、一瞬たじろいだ。

 

「それは...まあ、やむ無くだが」

 

「それと何が違うの?」

 

「君みたいな幼い子が殺すなんて言葉を、出しちゃ行けないんだ。そんなことは絶対に許されない」

 

「じゃあ、ツカサはあたしにどうしてほしいの?」

 

「安全で、そして幸せな人生を歩んでほしい。特に君みたいないい子はね、玲子ちゃん」

 

「あたしが幸せでいられるのは、ツカサの家だけだよ」

 

「俺の家...だけ?」

 

「ツカサはあたしの事を拾ってくれた。だからあたしも恩を返したい」

 

 司は顎に手を添えてしばし無言になり考えた。玲子の心情と端末に表示された情報が脳内を駆け巡り、一瞬目的意識を見失いそうになったが、司は頭を大きく横に振って雑念を振り払い、再度玲子に質問した。

 

「そうか...そのお父さんの知り合いって人は、今どうしてるの?」

 

「二年前に病気で死んじゃった。そのあと仕方なく家を出て、一人で京都の街をあちこち転々としてたんだ」

 

「...そうだったのか。大変だったね玲子ちゃん」

 

「ううん、ツカサと会えたからいい」

 

 玲子は足をパタパタと揺らしながら、穏やかに微笑んだ。昨日見せた虚ろな表情が嘘のように、大人びた微笑みだった。それを見た司は、国際テロリストを両親に持ち、行き場を失った玲子のために全力を尽くそうと、改めて決心するのだった。

 

 その後司と玲子は派出所を出て、近くの駐車場に止めてあった司のセダンに乗り、上京区にある京都府警察署本部に向かった。司の仕事場である。

 

 玲子の手を引いて入り口の自動ドアを潜ったが、すれ違う同僚達が目を丸くして司を見返した。

 

「警部補、おはようございます!」

 

「おはよう」

 

「あ、あの...警部補、その子は?」

 

「かわいー!...まさか、隠し子とか?」

 

「キャー!嘘でしょー私狙ってたのにー」

 

 受付に立っていた婦人警官から黄色い声が上がっていたが、司はそれを聞いて一喝する。

 

「バカモン!昨日祇園で発見した身元不明の女の子だ。児相(児童相談所)に登録するために連れてきただけだ」

 

「何だ、そうだったんですね」

 

「あーびっくりしたー」

 

「警部補が子連れとか、あり得ないもんねー」

 

 司はそれを聞いて、大きく溜息をつく。

 

「...冗談も休み休み言え。児相は確か二階だったな?」

 

「ええ、二階の一番奥を進んだ先です」

 

「分かった。行こうか玲子ちゃん」

 

「う、うん...」

 

 周りが皆警察署員な事を受けて、玲子は司の手を強く握りしめて緊張している様子だった。

 

 エレベーターで二階に上がり、広い通路の先を進んで児童相談所の受付にたどり着いた。司と玲子が椅子に腰掛けると、受付に座っていた女性署員が顔を上げ、司の姿を見て仰天した。

 

「え?!く、黒瀬警部補、おはようございます!」

 

「おはよう。...どうかしたか?」

 

「いっ、いえ、捜査一課の方が児相に来られるなんて、滅多にない事ですので...その子は?」

 

「ああ。昨日祇園で見つけた身元不明の女の子だ。本署で一時保護の申請に来た。少々特殊な事情のある子でな、昨日まで俺が身柄を預かっていた」

 

「そうでしたか、分かりました。...お嬢ちゃん、名前は何て言うのかな?」

 

「...巻島 玲子」

 

「玲子ちゃんね。良かったねー、このおじさんに見つけてもらったからには、もう安心だよー」

 

「......」

 

 玲子は不安そうに俯き加減になり、隣に座る司のレインコートを握った。その様子を見た女性署員は玲子の顔を覗き込み、努めて優しく声をかける。

 

「玲子ちゃん、年はいくつ?」

 

「9才」

 

「誕生日は?」

 

「平成21年6月11日」

 

「明日誕生日じゃなーい!おめでとう!」

 

「ありがとう」

 

「じゃあ今ちょっと玲子ちゃんの事調べるから、少し待ってね」

 

 その情報を元に、受付の女性署員は端末にデータを入力した。液晶モニターに個人データが表示されるが、それを読み進めていった女性署員の顔が見る見る青ざめていく。

 

「く、黒瀬警部補、これは?!」

 

「...だから特殊だと言っただろう?」

 

「巻島 浩史に巻島 加奈子...特A級の国際指名手配犯じゃないですか!」

 

「いちいち名前を口に出すな。この子は十二分にその事を承知している。な、玲子ちゃん?」

 

「うん」

 

「...分かりました。じゃあ玲子ちゃん、色々聞きたいことがあるから、お姉さんと一緒に来てもらえるかな?」

 

「やだ!!ツカサと一緒なら行く!」

 

 玲子は司の左腰に抱きつき、レインコートに顔を埋めた。その明確な拒絶を受けて女性署員は一瞬焦り司を見るが、すぐに玲子に目を落とし、腰を上げて小さな背中に手を添えた。

 

「ツカサおじちゃんは、別の仕事で忙しいんだよー。何も怖いことはないから、お姉さんに色々話を聞かせてくれない?」

 

「やだ!ツカサが一緒なら話す!」

 

 女性署員は作り笑顔ながら説得を続けるが、玲子は一切聞こうとしない。その頑なな姿勢を見て諦めた彼女は、玲子の背中から手を離し、司を見て立ち尽くしていた。

 

「...困ったわね。玲子ちゃんはこう言っていますが、黒瀬警部補、どうなさいますか?」

 

 司は自分のレインコートに顔を埋める玲子の肩を抱き、女性署員に向かって小さく頷いた。

 

「問題ない、俺も付き添おう。その責任がある」

 

「分かりました。ではミーティングルームへ行きましょう」

 

 司同伴の元、女性署員は玲子に様々なことを質問したが、以前司に話した以上の内容は聞き出せなかった。署員が机の上に置いた一時保護申請の用紙は司が全て書き、身元引受人の欄も司がサインした。それを見て女性署員は真剣な表情で司の目を見る。

 

「黒瀬警部補、本当によろしいのですね?玲子ちゃんは一時保護の資格を得るに十分な要件を満たしています。本来であれば保護施設に移送されるのが常ですが、身元引受人の欄にサインされた今、玲子ちゃんは警部補の保護観察下に置かれます」

 

「ああ、それで構わない。...玲子ちゃん、俺の家ではなく、専用の施設に入るという手段もある。どうする?玲子ちゃんの好きに決めてくれていいよ」

 

「いや!!ツカサと一緒に居たい!」

 

「...決まりだな、その書類を通してくれ。今から玲子ちゃんは俺が預かる」

 

「了解しました。審査期間は一ヶ月程を要しますが、一時保護の間、警察管理者特権で玲子ちゃんの身柄は黒瀬警部補に一任されます」

 

「それでいい、頼む」

 

「...ツカサ!」

 

 玲子は椅子に座ったまま、笑顔で右隣に座る司の手を握りしめた。司もその小さな手を握り返す。女性署員は司の書いた書類を整え、席を立った。

 

「畏まりました。何か問題があれば私まで報告をください」

 

「了解した、ありがとう」

 

 玲子と司も席を立ち、ミーティングルームを後にした。玲子は密室から開放された気分からか、手をつなぎスキップしながら司を見上げた。

 

「ツカサ、この後はどこに行くの?」

 

「俺の仕事場だよ。五階に上がろう」

 

 階段を上がり、エレベーターでは行けない階となっている捜査一課の事務所に着いた。自分のデスクに座り、ノートPCの電源をオンにする。玲子を膝の上に乗せて、司はPCの起動が完了するのを待った。玲子が振り向いて問いかける。

 

「ねーツカサー、いつもここにいるの?」

 

「殆どは外にいるんだけどね。今日は玲子ちゃんがいるから特別だ」

 

「そうなんだー」

 

 司はアカウントのパスワードを素早く入力し、PCにログインした。すると背後のデスクでそれを待ち構えていた若い女性がツカツカと近寄ってきた。

 

「黒瀬さん、随分と遅い出勤ですね?」

 

「真知子、俺の膝下を見ろ。この子を児相に連れて行って登録してたんだ。勘弁しろ」

 

 司の部下である武田 真知子は、膝にちょこんと乗る玲子を怪訝そうな目で見た。

 

「警部補...まさか隠し子ですか?」

 

「そんな訳あるか!昨日祇園で見つけた子だ、俺が身元引受人になった。」

 

「どういう事です?」

 

「名は巻島 玲子。知りたかったら自分の端末で調べてみろ」 

 

「...いえ、結構です。ここにこうして連れていると言う事は、黒瀬さんが調べ尽くした後でしょうから」

 

「理解が早くてよろしい。昨日の事件について新たな情報は?」

 

「これと言って無し。今回も完全に証拠無しです。プロの犯行と見て間違いありません」

 

「そうか...科捜研からは何か出なかったか?」

 

「指紋の一つも上がりません。鋭利な刃物で喉笛を切断。一撃です」

 

「そうか。引き続き、これまでの被害者との相関図を洗ってくれ。最優先事項だ」

 

「分かりました。...玲子ちゃん、またね」

 

「またね、マチコ!」

 

「まあ!フフ、覚えてくれたのね。嬉しいわ」

 

 真知子は自分のデスクに戻っていった。司はその間、メールに添付された捜査員と科捜研の報告書に目を通す。全ての事件で共通しているのは、これ以上なく鋭利な刃物で殺傷されていると言う事のみ。その事から、凶器は刃の厚いアーミーナイフ、若しくはジャックナイフでの切断と推察される。

 

 殺された被害者はどれも全国有数の資産家ばかり。この京都市内で厳重なセキュリティーを掻い潜り、凶行に至っている。

 

 司は頭を掻いた。手がかりを残さないばかりか、犯人像もまるで浮かび上がってこないのである。首を左右に振り(ゴキリ)と首の骨を鳴らすと、玲子が振り返り司の頬に両手を添えた。

 

「ツカサ、リラックスリラックス!」

 

「ハハ、言ったなこいつ!」

 

 司は膝に乗る玲子の腰に手を回し、頭をクシャッと撫でた。すると部署の奥から、低く威圧的な声で司を呼ぶ声がした。

 

「黒瀬警部補!ちょっと来たまえ」

 

その声を聞いて司は眉間に皺を寄せた。

 

「何です?」

 

 司は玲子の両脇を掴んで立ち上がり、椅子の上にそっと乗せて顔を近づけた。

 

「ちょっと待っててね」

 

「うん」

 

 司は最奥部のデスクに歩み寄り、そこに座る男を見下ろした。年は50半ばを過ぎたといった顔で、髪をポマードでオールバックに固めている、いかにもと言った上司だった。

 

「黒瀬くん、何だねあの子は?」

 

「昨日祇園で発見した身元不明の子供です。先程下の児相で登録を済ませて来ました。不審な点があればそこの端末でお調べくださって結構ですよ、高橋警部。俺が身元引受人になりましたから」

 

「...そこまでする理由があるんだろうな?」

 

「あります。ですからお調べいただいて結構と申し上げております」

 

「分かった。君がそこまで言うのなら信じよう。...あの子の名前は何というのかね?」

 

「巻島 玲子です」

 

「ふむ。お前が面倒を見るのか?」

 

「そのつもりですが?」

 

 司の確信に満ちた目を見て、高橋警部は眉間を指でつまみ首を大きく横に降った。

 

「...黒瀬くん、君は良くやっている。出しゃばったことを言うようだが、そろそろ世帯を持つことを気にしてはどうかね?それともあんな見ず知らずの子を引き取るとでもいうのかね?」

 

「心配はご無用です。俺の人生は俺が決めます。必ずあの子を幸せにしてみせます」

 

「そうか...そこまで言うのなら、余程の覚悟なんだな?」

 

「はい」

 

「...分かった。但しここは捜査一課だ。どこから機密が漏れるとも限らん。これ以後、部外者を連れてくることのないように。いいな?」

 

「分かりました。ご安心ください」

 

「ならばいい。捜査に集中したまえ」

 

「ハッ」

 

 司は敬礼し自分のデスクに戻ると、椅子に座っていた玲子が微笑みながら待ち構えていた。

 

「やーいツカサ、怒られてたでしょ?」

 

「...こら!聞いてたの玲子ちゃん?」

 

「玲子は地獄耳なのでーす」

 

「そうか。玲子ちゃんをここに置いておくとまた怒られちゃうから、一旦家に帰ろうか」

 

「いいよー」

 

「よし、行こう」

 

 司は玲子の手を取り、五階を後にした。そして駐車場に止めてあるセダンに乗り、車で15分程の八坂神社前までたどり着いた。アパートの前で車を止め、部屋の中に入ると司は財布から一万円札を取り出した。

 

「玲子ちゃん、これを渡しておくから、お腹が空いたら近くにコンビニとスーパーもあるし、好きに使っていいからね。夜の七時には戻るよ」

 

「分かった、留守番してる!」

 

「頼むよ。じゃあ行くからね」

 

「頑張ってね、ツカサ!」

 

 笑顔の玲子に見送られ、司は再度セダンに乗り込み、京都府警本部へと戻った。その日は幸い事件が起こることもなく、事務手続きを終えて司は定時で上がり、祇園へと車を走らせた。

 

 駐車場に車を止めて、アパートの階段をヨタヨタと上がる。すると、換気扇の回る音が聞こえてきた。階段を上り切ると、自分の部屋の換気扇が回っているのだと気づいた。そこから暴力的に食欲をそそる、スパイシーなカレーの匂いが漂ってきていた。

 

 司が鍵を開けて中に入ると、キッチンで折りたたみ椅子に乗りながら調理する玲子が笑顔で迎えてきた。

 

「ツカサ、お帰りー!ご飯もうちょっとで炊けるから、少し待ってね!」

 

「れ、玲子ちゃん、カレー作ってるの?」

 

司はその姿を見て、玄関で立ち往生していた。

 

「そうだよー。もうすぐできるから、部屋の中で座って待ってて!」

 

「あ、ああ、分かった」

 

 司は靴を脱ぎ、レインコートをハンガーにかけて居間に腰を下ろした。部屋中に美味そうなカレーの香りが充満している。首のネクタイを緩めて、ベッドの上に放り投げた。すると炊飯器のブザーが鳴り、米が炊けたという合図が鳴り響いた。

 

 司はキッチンの方を気にしていたが、玲子は食器棚から皿を取り出し、しゃもじでご飯を盛り付けた。その上に、鍋で煮込んだカレールーをたっぷりと乗せ、嬉々とした顔で居間に運んできた。テーブルの上に二つの皿を乗せ、最後にスプーンを添えて準備は完了である。

 

「はい、お待たせ!食べよ、ツカサ!」

 

「これはすごい。レトルトでも良かったのに」

 

「そんなの勿体無いよ。ゼロから作るカレーの方が、美味しいに決まってるんだから!食べてみて、ツカサ!」

 

「お、おう。それじゃ、いただきます!」

 

「どうぞ!」

 

 司はカレーを口に運んだ。柔らかい鶏肉と豆・ほうれん草の食感の後に、痺れるような辛さが追い打ちをかける。クミンシード、ニンニク、オレガノ、シナモン、マスタード、パセリと、様々な辛味が浮かんでは消える。しかしその辛さは一瞬にして消え、マイルドかつ深いコクと喉越しを与えた。食通である司もかつて味わったことのないほど、絶品と呼ぶに相応しいカレーだった。玲子が司の顔を覗き込んでくる。

 

「...どう?ツカサ」

 

「...どうもクソもない。最高だよ玲子ちゃん!こんな美味いカレー、俺は食べたことがない」

 

「ほんと?やったー!」

 

 玲子はスプーン片手にガッツポーズした。

 

「これ店に並べてもおかしくない程美味しいよ!すごいね玲子ちゃん!」

 

「お母さんに習ったんだ、嬉しい!」

 

 司はそれを聞いて幾分気持ちが沈んだ。特A級国際指名手配犯、巻島 加奈子。あのテロリストが、このような美味いカレーを玲子に伝授したのかと思うと、素直に喜べなかった。しかし玲子に罪はない。司はそれを言葉にしなかった。

 

「そうか、お母さんも玲子ちゃんも天才だな!」

 

「ありごとう!へへ、あたしも食べようっと!」

 

 カレーを頬張る玲子の顔は幸せ一杯だった。それを見て司も幸せを感じる。「この子と一緒に生きていこう」、そう感じた瞬間でもあった。

 

 その後は玲子と風呂に入り、体中の疲れを払い落とした。きれいになった二人はスポーツドリンクを飲み、深夜のニュース番組を食い入るように見つめる。

 

 司は特に見るまでもなかったが、玲子が見ているのに釣られて司も見るに至っていた。京都市を襲う連続殺人。まるで見当違いの犯人像、凶器の種類に、司は半ば呆れながらスポーツドリンクの入ったグラスに口を付けた。

 

 時間が夜十二時を過ぎたことで、司は玲子に声をかけた。

 

「玲子ちゃん、もう寝ようか。明日はお留守番だからね?」

 

「いや!!まだ寝ない。ツカサ、一緒に寝て?」

 

「どうして?俺は隣の部屋にいるよ?」

 

「どうしても!...お願い」

 

「OK、分かったよ。今日はベッドで寝ような」

 

「うん!」

 

 司はホルスターから拳銃を取り出し、枕の下に置いた。続いて押し入れから枕を一つ取り出し、玲子のための枕を自分の隣に添えた。

 

 二人はテレビを付けたまま、電気を消してベッドに横になった。玲子は司の胸元に潜り込んでくる。思えば、自分がこんな子供に好かれる等とは思いもしなかった。

 

 それを思い、司は玲子の背中を支え、自分の胸元に抱き寄せた。「この子は俺が守る」、その一心に集約されていた。 

 

 次の日の朝、司は再び焦げるような匂いに勘付き、飛び起きた。しかしその香りは香ばしく、食欲をそそる匂いだった。布団をどけてキッチンに行くと、玲子がオーブンの前でパンの焼き加減を見ていた。

 

「ツカサ、おはよう。もうすぐ焼けるから、少し待っててね」

 

「あ、ああ。分かった」

 

 司はもはや疑わなかった。この少女が作る食事は、確実に美味い。そう信じて疑わなかった。

 

(チーーン!)オーブンのタイマーが焼けたことを伝えていた。香ばしい香りが司の鼻孔を突く。玲子はそれを素早く取り出し、皿に乗せて居間へと運んできた。

 

「はい、お待たせー」

 

 玲子が運んできたのは、カレーとチーズを乗せたトーストだった。昨日食べたスパイシーカレーだ、美味くないはずがない。司は喜んでそれを迎えた。

 

「ありがとう、玲子ちゃん!いただくよ」

 

「どうぞ召し上がれ」

 

 司は早速一口頬張った。サクッとした食感、とろりと溶けたチーズに、カレーのスパイシーなテイストがアクセントを加えていた。正に完璧な味である。

 

「...美味い!」

 

「やったー!!点数で言ったら、何点?」

 

「百点!」

 

「よおーし、今日も頑張っちゃお!」

 

 二人で朝食を食べ終わり、司はスーツを着て腰のホルスターに拳銃を携えた。

 

「じゃあ行ってくる。留守番任せたよ?」

 

「うん!行ってらっしゃいツカサ!」

 

「行ってきます」

 

 司は部屋を出て車に乗り込み、京都府警本部へと向かった。そこで四時間ばかり、有り体の会議と状況報告を終えて、外に調査に出ることもなく七時には家路に着いた。アパートの扉を開けると玲子が笑顔で出迎える。

 

「おかえりー!」

 

「ただいま。いい匂いがするね」

 

「今日はミートソース作ってみたの!ツカサの口に合えばいいけど.. .」

 

「玲子ちゃんの味覚は信じてるよ」

 

「ホント?!じゃあ今パスタ茹でるから、少し待っててね!」

 

「ああ。テレビ見ながら待ってるよ」

 

 司は居間に入りテレビの入力チャンネルを切り替え、外部入力に設定した。そしてお気に入りのブルーレイをデッキに差し込むと、その再生ボタンを押した。何ということはないただのロードムービーだったが、司はこの笑いあり・泣きありの起伏に富んだ映画を愛していた。

 

 その映画の名は、ミッドナイト・ラン。元刑事だった男が、バウンティハンターとして生計を立てていく話である。司は自分もいずれ、この主人公のように生きていくのではないかと夢を膨らませながら何十回とこの映画を見ていた。

 

 そうしてオープニングが始まるうちに、玲子が皿を持って居間に入ってきた。

 

「ツカサー、出来たよー」

 

「おお、ありがとう。美味そうだね!」

 

「前にツカサと行ったお店の味を真似しただけだから、美味しいかどうかは分からないけど...」

 

「こうして毎晩温かい手料理を食べられるだけで、俺は幸せだよ。冷めないうちに食べよう?」

 

「うん!」

 

 司と玲子はパスタをフォークに巻きつけて、一口頬張った。

 

「...これは、美味い。美味しいよ玲子ちゃん!この麺の硬さといいミートソースのコクといい、あのマスターにも引けを取らないほど美味しいよ!」

 

「ほんと?!」

 

「ああ、俺は食に関しては嘘は言わない。本当の事さ」

 

「やった!」

 

「玲子ちゃんは、食の才能があるのかも知れないね。こんなに美味しい料理を作れるんだから」

 

「えへへ、そうかなあ?」

 

「俺ができることは限られてるけど、応援するよ。行く行くは玲子ちゃんの食堂が開けたらいいね?」

 

「そしたらツカサ、毎日来てくれる?」

 

「ああ、もちろんさ」

 

「じゃああたし料理好きだし、頑張ってみる!」

 

「その意気だ!」

 

 パスタを食べ終わると、二人はキッチンに並び食器を洗い流していた。それも済むと、二人はベッドに横になった。部屋の明かりを落とし、液晶モニターの光だけが室内を照らす。玲子は横になったままテレビを見ながら、司に質問した。

 

「ねえ、ツカサ?」

 

「ん?」

 

「あたし、ここに居ていいんだよね?」

 

「何を分かりきった事を聞くの?いいに決まってるじゃないか」 

 

 司は玲子の前髪を耳の後ろに引っ掛けた。

 

「そっか。なら良かった」

 

「馬鹿なことを考えてないで、君は安心していればいいんだ。あとの事は、俺が責任を持つ」

 

「...分かった。あたしもツカサを信じるよ」

 

「それでいい。もう寝るよ」

 

「うん......ねえ、ツカサ?

 

「何?」

 

「本当に、全部責任を持ってくれる?」

 

 その言葉に妙な圧力を感じた司は、寝返りを打った玲子の顔を見た。その瞳は真っ直ぐに、司の目を見返していた。司はそれを見て問い返す。

 

「そのつもりだけど...何か問題があるの?」

 

「ううん、ないよ。お休みツカサ」

 

 玲子は司の懐に顔を埋めてきた。司も玲子の背中を支え、深く眠りに落ちる。

 

 そうして三ヶ月が過ぎた、司が申請した身元引受人の書類が通り、その他にも数々の書類審査を経て、巻島 玲子は晴れて黒瀬 玲子となり、司の養子縁組となった。それが決まった日に、司と玲子は初めて出会ったバーに行き、ミートソースを食べながら二人で乾杯した。マスターもその話を聞き、喜んで受け入れてくれた。

 

 しかし司本人にしてみれば、ここ最近不可解な点もあった。あれだけ続いていた連続殺人事件が、はたと止まってしまったのである。シリアルキラーという路線も潰えて、そのおかげもあり司率いる捜査一課の仕事も激務から開放されつつあった。

 

 玲子を学校に通わせるための書類も整い、手狭になったアパートを引っ越そうと考えていた司だったが、それを聞いた玲子が口を挟んできた。

 

「ツカサ、ここ引っ越すの?」

 

「ああ。玲子も学校に近いほうがいいだろう?」

 

「...じゃあ、ツカサに渡すものがある」

 

「渡すもの?何?」

 

「外に行こう。準備して」

 

「わざわざ外に行くのかい?」

 

「いいから早く」

 

「...分かった、少し待ってね」

 

 司は念の為、ベレッタ92Fを胸のホルスターに収め、傘を手に玲子と一緒にアパートを出た。

 

 うざったい梅雨が降り注ぐ中、玲子に手を引かれた先に待っていたものは、司が赤いレインコートを着た玲子を初めて見つけた、ゴミ集積場だった。祇園の脇道に入り、司の脳はクエスチョンマークで埋め尽くされていた。

 

「ツカサ、ここ覚えてる?」

 

「ああ、俺達が初めて会った場所だ」

 

「...ここに、あたしの宝物を埋めてあるんだ」

 

「宝物?」

 

 そう言うと玲子は、ゴミ集積所の脇にある排水口の鉄格子に手をかけて、上に引っ張り上げた。その穴の中に手を突っ込み、何かを手探りで探している。そうして引っ張り上げた末に出てきたのは、ジェラルミン製の銀色に光る大型のアタッシュケース二箱だった。

 

 玲子はアタッシュケースのロックを外し、その中身を司に見せた。そこには見たこともないような大量の現金がしまわれており、その最上段にはスマートフォンと電池式の予備バッテリー、革製の鞘に収まったアーミーナイフが乗せられていた。司は驚き、傘を放り投げて玲子に問いかけた。

 

「れ、玲子!これは一体...」

 

「いいよ、調べても」

 

 司はまず分厚い現金の札束を調べた。全て本物である。そして現金の上に乗せられたアーミーナイフを手に取り、革製の鞘から刀身を抜いた。その刃は血に染まっており、血液が凝固して刃にこびり付いている。それを見て司は慌てた。

 

「玲子...これはどういう事だ、説明しろ!」

 

「どうもこうもない。ツカサが追っていた連続猟奇殺人犯の正体は、あたしなんだよ」

 

「は?...嘘だ。嘘だよな、玲子?」

 

 司はナイフを手にしたまま、混乱の局地に至っていた。

 

「本当だよ。そこにあるスマートフォンで依頼を受けて、あたしが実行に移す。支払いは全てキャッシュオンリー。そう言うルールで殺しを請け負ってた」

 

「ば、バカな...一切の証拠も残さずに、どうやって?」

 

「そこは親が教えてくれた。手と足にビニールキャップを装着するだけ。ついでに言うと、あたしが常に裸足でいたのは余計な物音を立てないため。分かるでしょ?」

 

「じゃあ、毎回殺しの手口が違っていたのも...」

 

「捜査を撹乱し、犯人像を一つに絞らせないため。不特定多数の集団と思わせておけば、その分時間が稼げる」

 

 司はその話を聞いて呆けたまま、身動きが取れずにいた。そしてふと疑問が湧き、玲子に問い正す。

 

「...まさか俺にも、そのことが理由で近づいたのか?」

 

 それを聞いて玲子は大きく首を振った。

 

「違うよ!...それは全くの偶然。ツカサはあたしを拾い上げ、真っ当な生活をさせてくれた。だから、これがツカサに送るあたしの恩返し」

 

「な、何が...これが、恩返し?」

 

「ここに三億円ある。このお金で、幸せに暮らそう?あたし、頑張るから。ツカサのために、人生をやり直すから。あんなろくでなしの親のようには、あたしもなりたくない」

 

 その言葉を聞き司はナイフを鞘にしまい、アタッシュケースの上に乗せた。そして何の意図もなく、突如込み上げた涙が司の頬を伝った。

 

「...玲子。その言葉、本当に信じてもいいんだな?」

 

「ツカサの事だけは、裏切ったりしない。約束するよ」

 

 どん底に叩き落とされたような衝撃だった。二年に渡り追ってきた殺人犯が、今目の前にいるのである。それも、年端もいかない少女がだ。何という皮肉だろうか。しかしもはや、司に選択肢は残されていなかった。司は声を振り絞るようにして玲子に言った。

 

「......そのナイフとスマホをよこせ」

 

「...え?」

 

「他に証拠となりそうなものも全部出せ。俺が処分する」

 

「ツカサ...」

 

「その代わり約束しろ玲子。お前はもう俺の娘だ。そうなったからには、必ず幸せになれ。いいな?」

 

「あたしは今が一番幸せだよ、ツカサ」

 

「...ならいい。そのアタッシュケースを持って家に帰るぞ。怪しまれないように俺が2つとも持つ」

 

「分かった」

 

 (果たしてこれでいいのだろうか、果たして...)そう自問自答を繰り返し、司は自分の中の正義が大きく揺らいでいく事に動揺しつつも、それとは逆に体が率先して動いていた。子猫を守る親猫の如く、司の心は強烈な防衛本能に支配されていく。

 

 自ら追っていた事件を、自らの手で証拠隠滅し、幕を引く。何とも滑稽な最後だと嘲笑しながら、これでいいのだと自分を納得させた。その数日後、司と玲子は祇園のオンボロアパートを引き払い、玲子の通う学校に程近い上京区のマンションへと移り住んだ。

 

 そして10年の歳月が流れる。

 

「ツカサー、朝ご飯出来たよー」

 

「おー、今行くー」

 

 美しく成長した玲子は成人し、今では市内の大学に通う二年生だ。玲子のためにと司は昇進試験に合格し、今では捜査一課を取り仕切る警部となっている。かつて京都中を震撼させた連続猟奇殺人事件は、何の解決も見ぬまま迷宮入りとなった。...いや、司がそうなるよう仕向けたと言った方が正しい。

 

 罪の意識に苛まれ、退職を考えた時期もあった。しかし唐突に退職して怪しまれるよりも、事件の進捗をコントロール出来る今の立場でいた方が利口だと、考え方を改めた。そう、全ては玲子の新しい人生のために。

 

「焼き方変えてみたんだ。美味しい?」

 

「ああ、美味いよ。ますます料理が上達したな玲子」

 

「へへー、練習してますからー」

 

「大学の調子はどうだ。友達とかは出来たのか?」

 

「出来たよ、冴子って可愛い子なんだ。今度家に連れてきてもいい?」

 

「もちろんだ、いつでも呼ぶといい。それとその...何だ、男友達とかはどうなんだ?」

 

「気になるのツカサー?」

 

 玲子は食事の手を止めて、ニンマリしながら司の顔を覗き込んだ。司はそれを見て顔を赤くする。

 

「そ、そりゃまあ、こう見えても親ですから」

 

「フフーン、居ないよ。変に言いよってくる男ばっかりだから、全部ガン無視してる」

 

「その選択眼を大切にするように」

 

「はーい。あーあ、どっかにツカサみたいな男居ないかなー?」

 

「こんなズボラなオッサンのどこが良いんだか」

 

 司は焼いた魚と白米を口に含みながら答えた。

 

「そんなことないよ、ツカサ狼みたいでかっこいいよ?」

 

「ハハ、そいつは嬉しいね」

 

 朝食が終わり、二人でキッチンに立ち食器を洗い流す。平凡な日々、健やかな毎日。この幸せを享受できる事を、司は誰にともなく感謝した。この状況下に置いては、むしろ自分が刑事である事が非日常とさえ思える。

 

「ねえ、ツカサ」

 

「何?」

 

「...ありがとう」

 

「フフ、どうした急に」

 

「初めて会った日からもう、十年が経つんだよね」

 

「その話か。...忘れろ、あれは悪い夢だった。そう思えばいい」

 

「ツカサは、私を助けてくれた白馬の王子様だよ」

 

「...そんな大層なもんじゃないさ。お前はこんな俺に、温かい家庭を与えてくれた。お互い様だ、そうだろ?」

 

 食器を片し終わり、手を拭うと玲子は司の胸元に飛び込み、抱きしめた。

 

「...大好き、パパ」

 

 司はそれを両手で受け止め、玲子の頭を優しく撫でた。

 

「ああ、俺も大好きだ玲子。...さあ、早く準備しないと学校遅刻するぞ?」

 

「うん!じゃあ行ってくるね」

 

「行ってらっしゃい。気をつけてな」

 

「はーい!」

 

 玲子を玄関まで見送り、司は自室に戻ると革製のホルスターを両脇に装着し、そこに愛銃のベレッタM92Fを収めた。そしてその上からスーツとネクタイを着用し、準備は整った。

 

 (玲子を守る。それが親たる俺の務めだ) そう司は心の中で唱え、自分も一端の父になった姿を嘲笑した。今日という一日が始まる。それを胸に司はマンションを出て車に乗り込み、エンジンをかけて京都府警察署本部へと向かった。

 

 

━━━Fin━━━

 

 

 

 



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