「ん……あれ……」
西園寺栞は目を覚ました。
知らない天井、知らないベッド。いやそもそもなぜ自分は眠っているのだろうか、とこれまでの経緯を思い返す。
──あの鋼線使いの騒ぎの後、自分のキャパシティの限界ギリギリの魔術をそれなりに長い間発動させ続けたことで、気絶してしまったのだ。
「私もまだまだですね……」
たかだか限界寸前で気絶してしまうなんて。幾度も幾度も限界を超えてきた紫苑に比べて、自分はなんて情けないのだろうか。
身体を起こす。着ているのは水着ではなく、破軍学園の制服だ。きっと誰かが着替えさせてくれたのだろう。
時間を見てみれば夜の八時過ぎ。随分と眠っていたものだ、と溜め息を吐く。
その時だ。ガチャリ、とドアが開く音がして誰かが入ってくる。武芸者特有の歩き方、そして栞レベルの騎士が辛うじて感じられるほどのか弱い魔力。
「あぁ、良かった。目ェ覚めたか」
「紫苑さん」
百鬼紫苑だ。
自分の姿を見ると、ほんの僅かに安堵の表情を浮かべる。手には丸い皿と真っ赤な林檎がふたつ握られていた。
「食えるか?」
「はい、ありがとうございます。……あの、ここは?」
「海水浴場近くのホテルだ」
端的に答え、彼はベッドの近くにあった椅子にどっかりと座る。林檎を切ろうとする様子はない。まさか丸齧りしろということだろうか──そう栞が思っていると、刃物を抜いていないにも関わらず、皿に乗せた林檎が綺麗に切断される。
《魔人》の引力──林檎を切るという彼の意思が、強力に因果と結び付いた結果、刃物を用いずとも林檎が切断されたのだ。
ちなみにではあるが、紫苑が《魔人》であること、そして栞が《魔人》に至れたにも関わらず扉の前で引き返した人間であるというのはお互いに知っていることである。
だからと言って、たかだか林檎を切るのに《引力》を用いるとは思わなかったが。しかも芯の部分まで綺麗に切られている。
「俺も一個貰っていいか?」
「勿論」
元々彼が持ってきてくれたものなのだ。
彼は林檎を口に放り込みながら、栞が気絶した後の顛末を語る。
「あの後、糸の支配を逃れていた御祓が警察と魔導騎士を引き連れて戻ってきて、事態は完全に集束した。ただ糸に絡まれた奴らは近くの病院に搬送され検査。今日一日はずっと病院らしい。
それで海水浴場はまぁ当然のように閉鎖。騎士と警察が協力して犯人の足取りを負ったが結果は空振り。今は厳重警戒ってことで、騎士と警察があそこに留まることになった。
以上の事を理事長に報告した結果、俺達も一日近くのホテルに宿泊して警戒するようにって言われた。糸に絡まれた砕城と兎丸の事もあるしな」
「そうですか……」
「ただ警戒と言っても警察と騎士で事足りる。……要するに『よくやった。帰る前に遊んでいいぞ』って事だ」
実際に理事長と一緒にいた寧々から言われたしな、と彼は苦笑する。
「じゃあ黒鉄さん達は……」
「海水浴場で来るかもしれない敵襲に備える……という建前で遊んでるだろうよ」
「……行かなくて良かったんですか?」
自分が起こしたのは脳のオーバーヒート。それもそこまで深刻ではない。その時は頭を金槌で叩かれているような酷い鈍痛があったが、適当に休ませておけば勝手に収まる。
それに彼からしてみれば友人達と一緒に出掛けるなんて、今までにない経験だ。バーベキューも楽しんでいたようだし、彼も一緒に行きたかったのではないかと思ったが……、
「誘われはしたが断った。疲れてたしな」
そう言う紫苑の顔には確かな疲労の色が見える。
──彼が中継点たる傀儡を切断……否、消し飛ばした技である《散華》は文字通り彼の全身全霊。一振に己のすべてを込める技であるが故、体力・魔力のすべてを使い尽くしたのだ。
そんな状態でステラ達のような体力馬鹿と遊ぶなど御免被る。
「それにお前も心配だった。貴徳原が看てくれるとは言ってくれたが、折角友人達と来てるんだ。こういう時くらい羽目を外して遊んだ方がいいだろう」
「……そうですか」
「あ、全部食えたな。それだけでいいか? なんなら持ってくるが」
「いえ、ご飯はもう大丈夫です。それよりも……一緒に散歩とか行きたいです。構いませんか?」
皿などをホテルの方に返却してから、二人は並んで夜の浜辺を歩いていた。
後ろには泡沫達に食事を振る舞う魔導騎士や警官達、そして彼らの中心で一輝・ステラペアとカナタ・刀華ペアがバレーボールで戦っていた。
紫苑達が通ったときには彼ら(主に刀華)に非常に心配されたが、気晴らしの散歩だと伝えれば特に留められる事なく見送られた。……ステラだけはリベンジが出来なくて悔しそうだったが。
夜風が紫苑と栞を撫でる。真夏の太陽とは対極的な優しい月の光が、彼らを照らしていた。聞こえるのは波の音くらいのもので、まるで世界に二人だけしかいないように思える。
「……月が綺麗だな」
「──ッ!? え、えぇ。そうですね……この辺りは人工光も少ないですし、東京よりもずっと星が見えますから」
「……? 俺、何か変なこと言ったか?」
「いえ、そんな事ないですよ……あはは……」
そんな事を考えていた矢先に紫苑からそんな事を言われ、心臓が高鳴った。愛を囁く隠喩として、月が綺麗だなんて言葉が用いられているだなんて彼は知らないのだろう。彼は本当に空を見上げて、月が綺麗だと思ったからそう言っただけだ。
わかってはいる。夜の浜辺でふたりきりで歩いている事に浮かれていることも。彼がたとえ自分の体力がなくて、休憩ついでに自分が目を覚ますまで待っていてくれたことに筆舌尽くしがたい嬉しさが込み上げてきたことも。
(本当にどうしたんでしょう……私……)
こんな事彼に出会うまでは思いもしなかった。二ヶ月前の自分からしてみれば、何をやっているんだと叱責したがるに違いない。
でも仕方がないのだ。理屈でもないのだ。
──恋に落ちるのに、劇的な出来事もきっかけも何もないのだ。ただ日々の、小さいことの積み重ね。一日一日の些細な思い出。それがきっと──人を恋に落とす。
今の栞には、それがわかった。
沈黙が再び流れる。心地よい沈黙だ。
自然の音が周囲を彩り、ふたりの散歩をより良いものにしていた。だが、紫苑はそう思っていなかったようで。
「……退屈じゃないか?」
「いえ、そんな事ないですよ。どうしてです?」
「ずっと黙ってるから。……こういう時に話題のひとつでも振れたら良いんだが、こういうのは経験がなくてな」
「良いんですよ、別に気にしなくて」
こういう時にぽんぽんと話題を振ってくる紫苑なんて、想像もできない。突如としてそうなったら驚くどころでは済まない自信がある。
「……じゃあひとつ伺いたいことがあったんですけど」
「なんだ?」
「綾辻さんの事。《剣士殺し》に勝つことが宿題だって言ったでしょう? どうしてあんなこと言ったのかと思って」
「あぁ」
思い出すのは数週間前の話。
彼は一時期弟子となっていた(と言っても具体的な指導は、全て一輝に任せていたので自分の弟子と言って良いのかは微妙なところではあるのだが)綾辻綾瀬と選抜戦内で戦った。
結果は紫苑が初撃で綾瀬を斬るという、あまりにも一方的なものだったが……その内容はここでは省略する。
「……後悔してほしくなかったからだ」
「後悔……?」
「よくわからんって顔だな」
彼は苦笑し、続ける。
「もし仮にだが……綾辻が俺に負けた後、アイツの境遇を何らかの理由で知った一輝辺りがアイツの代わりに《剣士殺し》に道場破りを仕掛け、勝利したら……綾辻はどう感じると思う?」
「え? それは……喜ぶんじゃないですか? 自分の望んでいたものが手元に帰ってくるでしょうし」
綾辻綾瀬は《剣士殺し》──倉敷蔵人という伐刀者に実家の道場が道場破りを受け、彼に道場を奪われた過去を持つ。その過程で彼女の父親である《最後の侍》綾辻海斗は昏睡状態に陥り、二年間眠り続けている。
そんな彼女だからこそ、自分の道場が戻ってくることは喜ぶべき事のはず。
──そんな栞の結論を、紫苑は。
「いや、絶対に後悔する」
真っ向から否定した。
「え、いや、でも……」
「確かにその時は喜ぶだろう。奪われた場所が戻ってきたんだからな。……だが、その後は?」
一日後、一週間後、一ヶ月後、一年後。あるいはもっと先かもしれない。それでも彼女は絶対に後悔すると、紫苑は断言する。
「それでも大切な物が戻ってきたんですよ? なのに後悔なんて……」
「アイツは……いや、違うな。
アイツではなく、俺達と。
そう言い換えた紫苑の意図を、栞は察する。
──彼と綾瀬の境遇は極めて似ている。十一年と二年という年月の差はあれど、ある日理不尽に大切な物が奪われた。そしてそれを今でも許せず、必死に足掻き続けていること。
だから彼は、綾瀬を己に置き換えて考えたのだろう。
そうやって彼が出した結論、想いを栞は黙って聞いている。
「『自分にとって一番大切な物を、自分の手で掴み取ること』
それが何より重要なんだよ。他人じゃ駄目なんだ。認められないんだよ。なんで一番大切なものを奪い返したのが、俺じゃないんだよ……。そう、後悔する」
「……」
「あと一日頑張れていれば勝てたんじゃないか。あと一週間頑張れていれば倒せたんじゃないか。あと一ヶ月頑張れていれば奪い返せたんじゃないか。あと一年頑張れていれば、自分にとって一番大切なものを他人任せにせずに済んだんじゃないか……そんな凝りに似た後悔が、ずっと心の中に残り続ける」
あともう少し頑張れていれば。そんな努力の余地が、まるで病魔のように身体を蝕み続けるだろう、と紫苑は語る。
同時に、そんなものを抱えて欲しくはなかったとも。
「……ピンと来ないか」
「分からなくはない、って感じですかね」
「お前はそうだろうな。結局のところこの話は、『過程』を重視するか、『結果』を重視するかという話でしかない」
どちらが正しくて、どちらが間違っているという話ではない。
所詮個人個人の考え方の差。紫苑は『自分自身の手で大切な物を取り戻す』という『過程』を重視し、栞は『大切な物がそこにあればいい』と『結果』に重きを置く。
ただそれだけ事なのだから。
「これで良かったか?」
「えぇ。……結局また紫苑さんの事ばかりですね」
「……そういえばお前の事は一切知らないな。俺の事は結構知られているのに」
そも紫苑も栞も自分の過去を語りたがる性格ではない。
それでも紫苑の過去を栞が知っているのは、《眠り》の時に彼の夢を覗き込んだからだ。彼の痛みも苦しみも怒りも慟哭も。すべてをその身で体験し、味わったからである。
「そこまで面白いものでもありませんよ?」
「それを言うのなら俺の物だって大して変わらん。勿論、これは俺の興味本意だから別に答えなくても良いが」
「いえ、別に隠している訳じゃないですから。……座りましょうか」
そう言い、彼女は近くにあった岩場に背を預けた。紫苑もそれに倣って座る。
とはいえ何から話したものか……こういう経験がないので、どうやって話して良いものか悩む。
「──私、孤児だったんですよ」
なので、生まれから話すようにした。恐らくだが、ここが一番言うことが多そうだったから。
「……!」
「児童養護施設の門の前に、段ボールに入れられた状態で捨てられてたらしいです。捨て猫かって感じですよね」
そう言ってくすくすと笑う栞とは裏腹に、紫苑の顔は暗かった。本人は軽く話しているが、笑い話に出来るまでどんな事を乗り越えたのか。
「……親の顔は」
「知らないです。今どこで何をしているのかもわかりません。探そうともしていないから当然なんですけど」
「会いたいとは思わないのか?」
「昔は会いたいと思ってましたけど……年を重ねるにつれて、別に良いかなと思うようになりました。私にとって私を産んだ人は赤の他人としか思えないですし、私を捨てて人生を新しくやり直そうって思ってるときに『
「……お前、よく俺にあんなこと言えたな」
思い返すのは心が限界を迎えた紫苑を、彼女が抱き締めて泣かせてくれた夜。客観的に見れば、栞の生まれの方がよっぽど悲惨ではないか。
そう言えば栞は苦笑して、
「今は幸せですから」
「……今」
「えぇ。あそこに捨てられていたおかげで、私は今の養父に出会えました。そして──貴方にも。そうやって自分が納得できてさえいれば、きっとそれで良いんですよ」
「……前向きだな」
「えぇ。前向きな考え方が出来るように、努力しましたから」
「そうか」
努力した。それなら出来るようになって当然だろう。彼女は非常に多才だから。
「はい。……そこからはまぁその施設で普通に勉強したりして育ったんですけど、十年前くらいに養父に引き取られました。
養父はそこそこに裕福な人で、そして非常に多くのツテを持っていました。だから頼んだんですよ。『私に投資してくれ』って」
「投資……?」
「えぇ。……私は自分で言うのもなんですけど、伐刀者としてはそこそこに優秀な方です。養父もどこで私の事を聞いたのかは不明ですが、私に伐刀者として活躍して欲しかったから引き取ったと言われました。
けれど当時私は六歳の子供。伐刀者としては赤子も良いところだったんです。ですから少しずつ強くさせる予定だったらしいです。ですけど……私はそれが我慢できなくて、最初から物凄くハードな訓練をさせるように要求しました」
「どうしてだ?」
「私の育った施設って……まぁ、明け透けに言ってしまえばお金がなかったんですよね。老朽化もしていましたし、設備もボロボロ。経営するのが精一杯といった感じで。
そんな感じだったからなんとかしたくて。でもそれなりのお金が必要でしょう? でもたかが六歳の子供の我が儘にそんな大金は注ぎ込めない。
だったらどうすればいいか。子供ながらに考えたんですよ。私の我が儘に答えることで使った金以上の利益を見込めるくらい、強くなれば良いんだって。……そこからはずっと頑張りました。そして、今に至るって感じですね」
「……お前は凄いな」
「私なんて大したことないですよ。私は恵まれただけですから。それに頑張る理由が傍目から見て高尚だったとしても、イコール強いかと言ったらそうではないと思います」
こんなことを言ったら一部の人から反感を買いそうですけど、と栞は続ける。
「負けられない理由があるから強い? 多くの人の想いを背負ってるから強い? 頑張る理由が高尚だから強い? 確かにそれも一側面ではあるのでしょう。けれど決定的な理由であるとは思いません。……何故強いのか。それはきっとシンプルな事です。
──努力しているから強いんです。毎日を懸命に、一生懸命努力して、経験を毎日コツコツ積み上げてきたから強いんです。だから私は世界最高の才能を持ち、そして『自分が生まれた国を守りたい』という気高い理想を持ったステラさんに勝てたんです」
自分は積み重ねた。自分に許されるものすべてを使って強くなろうとした。自分の隣に座る彼と同等であると認められるほどに。
そしてそれは──あなただって同じことだと、彼女は彼に微笑み、彼の白髪に手櫛を通す。
「あなたの努力を、頑張ってきたことを私は知っています。だから《雷切》や《深海の魔女》に勝てたんです。……あなたはもっと、自分を誇って良いんですよ」
「……ありがとな」
「どういたしまして」
結局こうなるのか、と紫苑は苦笑する。
いざ戦いとなればわからないが、人としての在り方という面では彼女に勝てる気がしなかった。
──自分の剣は軽い、とそう思ってしまった。
心優しい姉は、自分の今の状況に決して喜びはしないだろう。だから自分の勝利で喜んでくれる他人なんてどこにもいない。
誰の想いも乗っていない、軽いがらんどうの剣。
こんなことを考えるなんて馬鹿らしいと思っていたのに。それでも彼女の話を聞いて、思ってしまった。それでも彼女は、それが一番大事だとは言わなかった。
努力しているから、頑張れているから強いのだ、と。
その言葉は、彼を救う言葉だった。
──ここで、彼の優れた聴覚が異変を感じ取った。
「……ん?」
「どうしました?」
「いや、黒鉄達がいる方が騒がしいと思って。……戻ってみて良いか?」
「はい。……また鋼線使いが仕掛けてきた、とかじゃないと良いんですけど……」
言いながら戻ると、一輝の姿はそこにはなかった。
そして、その場にいた刀華が事の顛末を説明した。
『倫理委員会委員長と名乗った赤座が、黒鉄一輝を連れていった』
と。