「──何を呆けておるか!」
酒焼けした怒鳴り声と共に、顔面に査問員用の飲料水をぶちまけられ、一輝は目を覚ました。
「査問中に居眠りなど不真面目にもほどがあるわ!」
自分の耳元で怒鳴るのは、眼鏡をかけた小太りの中年。彼のがなり声は非常に大きく、お世辞にも広いとは言えない部屋によく響いた。
だがそんな彼の声さえ、今の一輝には遠かった。
二週間にも渡る長期の監禁。何十回も繰り返される問答に一度として聞き入れられない主張。いずれも人間の精神を削り取るには十分すぎるほどの苦痛だ。
──けれど、か細いながらも確かな心の支えが彼にはあった。
あれは確か拘留されてから四日が経過した頃だっただろうか。
それまで彼の食事は、カロリーバー二本というあまりに少ない物だった。水分の摂取も制限され、何故か毎食支給されるはずの飲料水がどこかに紛失してしまうそうだ。そして一輝が閉じ込められている部屋は数週間前から断水中で、お手洗いも水が流れない。
そんな地味な嫌がらせを受けていたのだが……ある日、長時間の査問を終え、部屋にあるパイプ椅子に座っていたところ
それから毎日0時になると、食料と飲料水が転送されてくるようになった。食べ終わったゴミはベッドの下に置いておけ、と一緒に送られてきたメモに従っておけば、翌日の早朝にはゴミなどが一切消えている。
おそらくは《
そもそも自分をここまでして助けようとしてくれている人間に心当たりがなかった。まず自分を助けようとするという行動自体が、極めてリスクのある物だったから。
(誰かはわからないけど、ここから出たらお礼を言わないといけないな……)
目の前の男達が何かを言っている。上述したように、何十回も繰り返した問答だ。それに対しての返答すらも最早テンプレートが仕上がっている。
彼はどうせ聞く耳を立てないのだから、必要最低限──ステラとの交際を不祥事だったと取られるような発言をしないようにだけ注意し、残りの思考は最近あった事へと向いた。
一番印象的だった……というよりも、心に大きなダメージを負ったのは一週間前の、実父・黒鉄厳との面会だろう。
『何も出来ないお前は何もするな』『私に認めて欲しいといったな。ならば──今すぐ騎士をやめろ。一輝』
何も出来ない者には何も出来ないなりの役目がある。その範疇を超え、中途半端に成果を出すお前は組織という肉体に蔓延る癌なのだと言う厳の言葉。
ショックだった。
こんな事を言われるくらいなら『Fランクの息子など、黒鉄家の面汚しだ』と口汚く罵ってくれた方がありがたかった。そこにあるのが失望であるならば、自分は少なくとも、本当に僅かながら期待されていたという事なのだから。
そこには好意も悪意もない。当たり前だ。誰が路傍の石に感情など向けようか。
詰まるところ一輝は実の父親にとって──どうでもいい存在だったのだ。
その事を知ってから一輝の調子は目に見えて悪くなった。
心は勿論だが、何よりも身体が悲鳴を上げ始めた。今は微熱と頭痛、そして咳程度で済んでいるが……このまま病院に行かなければ症状は更に悪化するだろう。
問題は、目の前の男達がそんなことを絶対に許しはしないだろうということだが。
「げほっ、ごほっ!」
「何を咳き込んどるかこの軟弱ものがァ!!」
「ぐっ……!」
咳を耐えきれなかった一輝の腹部へ、中年の男の拳が突き刺さる。普段ならば堪えもしなかったのだろうが慢性的なエネルギー不足と体調不良が重なり、膝から崩れ落ちる。
そして中年は彼の胸ぐらを掴み、顔面に拳を叩き込もうとして……。
「まぁまぁ。その辺りで勘弁してあげてくださいな」
席を立った赤座が、一輝を殴ろうとした男の腕に手を添えて制止する。
そして彼は一輝に視線をやり、特徴的な笑い声を漏らす。
「んっふっふ、随分とお辛そうですねぇ」
「…………」
「これだけ査問が長引けば仕方がありません。ですが……これは全て君のためなのですよ? 君が立派な騎士だということを世間に示すために、我々は査問を開いているのですから。……しかし、このままでは埒があきません。
そこで私は考えたのですよ。君の適性について疑問を持っている者達全てを黙らせることが出来る素敵な方法を。知りたいですかぁ? 知りたいですよねぇ?」
豚のように醜悪に笑う赤座。
どうせろくな事ではないが、その方法とやらを聞かなければ話しは進まないのだろう。
「なんなんですか、その方法は……」
「──『決闘』ですよ」
「……!」
『決闘』
それは古来からの騎士の風習であり、
どれほど道理を外れた無茶であれ無理であれ、決闘によって決められた事には従うのが騎士の不文律だ。
それは日本だけではなく、連盟に所属する国でも同じ事。
決闘において一輝が勝利することが出来れば、最早誰も一輝の騎士の適性に対して文句を言うことは許されない。
「明日の選抜戦最終戦。そこにこの事態の全てを委ねましょう。
しかし……君の相手は三年とは言え無名の騎士。君の力を証明するにはあまりにも弱すぎると言わざるを得ません。それではこの騒ぎに関心を持つ者達が納得しない。この決闘には相応の役者を用意する必要があります」
「げほっ……誰なんですか、その相手は……」
聞くと、赤座はこれ以上ないほどに笑みを深くし──その相手の名を告げた。
「我々『倫理委員会』から指名する相手は──《
それは一輝の好敵手である《紅蓮の皇女》ステラ・ヴァーミリオンを掌で転がし、圧勝してみせた魔女。
自らの能力である《模写》を鍛えに鍛え抜いた結果、技の技量だけでオリジナルを上回る出力を出せるようになった、破軍学園随一の騎士。
……一輝が万全の状態であろうと鎬を削るだろう相手だ。
「私が、黒鉄さんと……」
そして同時刻。破軍学園理事長室において、栞もまた対戦相手の変更を新宮寺から告げられた。
「……随分と直接的な手を打ってきましたね。シリウス・ヴァーミリオン陛下が来日されるまでに決着をつけるつもりですか」
「……! 知っていたのか」
「えぇ。ある程度は」
ヴァーミリオン皇国国王であるシリウス・ヴァーミリオンは……こう言ってはなんだが親バカである。あの国は国民全員が大なり小なりそういう気質だが、彼のそれは一線を画している。
故にこの騒ぎで彼が大人しくしている筈がなかった。彼は政務を片付け、日本に乗り込むと言ってから二週間ほど。ステラ曰く、来日できるのはおそらく来週だろうとの事なので、そこまで粘りきれば良いと新宮寺とステラ、そして一輝も考えていたが……連中はそれを許さなかった。
「私との決闘……彼は、受けたんですよね?」
「あぁ」
「でしょうね」
というよりは受けざるを得ない状況を作り上げていた、と言う方が正しいか。大方、既に決闘の事をシリウスに決定事項として通達していたんだろう。
汚いやり口だ。
「ないとは思いますけど、私が何かを賭けさせられると言ったことは?」
「ない。そも、私がそんなことはさせない。……本当ならば、黒鉄の奴も守ってやらなければならなかったのに……!」
新宮寺は乱雑に吸っていた煙草を灰皿に押し付ける。その仕草からは彼女の怒りがこれでもかと伝わってくる。
「……西園寺。お前にとって黒鉄との戦いは選抜戦最終戦でしかない。私が言っても説得力は欠片もないかもしれんが……全力で勝ちに行け。それが誠意になるだろう」
「えぇ。無論ですよ。……もう退室しても?」
新宮寺が頷くのを見、栞は「失礼します」と言って退出する。
そして、小さく溜め息を吐いた。
「……やはり、良い気はしませんね」
呟き、彼女は紫苑が待つ自分の部屋に帰っていった。
「……して、彼の様子はどうですかねぇ?」
深夜。
粗方の職員が帰宅した頃、赤座は部下の年若い男に問いかける。彼とは言わずもがなだろう。あの名家の面汚しであるFランク──黒鉄一輝の事だ。
「正直……あまり芳しくはありません。自白剤を使ってはいますが、我々の予想以上に奴は耐えています。症状も本来であれば肺炎、もしくはそれ以上になっても不思議ではありませんが、現状では少し重めの風邪の域を出ていません」
「チッ……無駄に頑強ですねぇ、あのガキは」
赤座は豚のように肥えた顔に、明確な不快感を滲ませる。彼が意固地になっているせいで、自分の手間が更に増やされているのだから当然と言えば当然だが。
雑魚は雑魚なりに素直に私の踏み台になれば良いものを、と赤座は毒づく。
「……赤座委員長。奴の事はともかくとして……よろしかったのですか?」
「何がですかねぇ」
「《黒鬼》百鬼紫苑の事です。あのまま手を退いても……」
「……私とて奴の事は不愉快ですがねぇ。仕方がないでしょう、ご当主様から注意を受けてしまいましたから」
《黒鬼》百鬼紫苑。奴には昨年、煮え湯を飲まされた。
黒鉄一輝を授業から閉め出すために行われた、破軍学園内における規則──実技授業を受けるための最低基準の設定。
この基準を設けるための工作に赤座も協力していたのだが……その時、厳から厳重注意を受けたのだ。
『授業から閉め出すのは一輝だけ。百鬼紫苑は巻き込むな』と。
正直、訳がわからなかった。
奴は世界最弱の騎士。厳が嫌う『相応を弁えず、組織全体を狂わせる歯車』だろうに、彼はそれを容認し、あろうことか彼に直接、謝罪まで行ったのだから。
何が黒鉄厳をそうさせるのか。百鬼紫苑とは一体何なのか。
事情を聴こうにも、『お前達は知らなくて良いことだ』の一点張り。納得など出来る筈がなかったが、彼の心証をこれ以上悪くするわけにも行かずあの時は退いた。
しかし……紫苑に味わわされた屈辱を赤座は決して忘れてなどいなかった。
だからこそ、赤座は一輝を貶める時に、紫苑の社会的地位もまた地に落とすことを画策した。
『倫理委員会委員長』を敵に回すとどうなるかを思い知らせてやるために。しかし……その結果は実を結ばなかった。
はじめは『百鬼紫苑からは手を退きましょう』という部下からの悲鳴だった。お願いします、私も命が惜しいんですなどと懇願してきたときは耳を疑ったが……部下がひとりふたり死んだところで赤座にはどうでも良かった。そんなものよりも自身の出世の方が大事だった。部下ひとりふたりいなくなったところで、十分に採算は合う──いや、それ以上だと確信していたからだ。
しかし……再び黒鉄厳に注意された事でその計画は頓挫した。
厳とて百鬼紫苑に良い印象は抱いていない事は確信していた。だからこそ、あれやこれやと彼を説得しようとしたのだが……彼はこの騒動を上手く収めた暁には、最初に約束されていたポスト以上の地位を用意すると約束してくれた。
ならばわざわざ彼に固執する必要はない。
「元より百鬼紫苑は、一輝クンを潰すついででしたからねぇ。広報長の次の足掛かりに出来れば良いと考えていたのですが……その手間は省けましたし、手出しは無用です。二兎を追って、一兎も仕留められぬようでは本末転倒ですから。んっふっふ……」
「……赤座さん。この件が終わった暁には……」
「わかっていますよぅ。私の口添えで、昇進を打診します。君は優秀ですからねぇ」
「あ、ありがとうございます!」
部下が頭を下げるのを見、赤座は笑う。自分に頭を下げる人間を見るのは気分が良いと。そしてその機会は、自分が出世すればするほど多くなるだろうと。
(精々私の出世の役に立ってくださいねぇ。一輝クン。んっふっふ……)
こんな薄暗い場所などとはあと一日でおさらばだ。
光の当たる場所で、自分が多いに活躍する様子を頭に思い浮かべ、赤座は再び笑った。
──厳の言葉など、今の彼からは完全に抜けてしまっていた。